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植物と人
歴史的な資料や文献に基づいた情報と、写真などを交え、先人たちの知られざる一面を物語のように綴ります。歴史的なエピソードを通して、植物の新たな魅力、先人たちの人間味、そして植物が持つ文化的な背景を深く理解できるでしょう。


世界的な博物学者、南方熊楠と植物の関係性に関する専門的考察:分類学、環境思想、そして曼荼羅的世界観
南方熊楠(1867-1941年)は、近代日本において極めて特異な知の巨人として位置づけられる博物学者です。熊楠は、日本の初期における隠花植物(菌類、変形菌類など)の研究者であると同時に、傑出した民俗学者、宗教学者として知られています。
3 時間前


寂寞の庭園に咲く「東洋の理念」:萩原朔太郎の詩における植物の深層哲学
明治から昭和初期にかけて、日本近代詩に革命をもたらした詩人、萩原朔太郎もまた、この精神世界を色濃く反映した詩作を行いました。朔太郎の孤絶した内面世界や、虚無の感情を表現するために、なぜあえて草花や樹木といった身近な植物のイメージが必要とされたのでしょうか。朔太郎の詩業を深く読み解くと、そこに登場する植物は、単なる背景描写を超え、近代人が抱える根源的な孤独と、朔太郎が追求した東洋的な精神の理想(イデア)を象徴する、不可欠な媒介であったという発見に至ります。
10月31日


万葉の庭師、大伴家持:奈良時代の魂を映す植物の歌
今日、私たちが一輪の花を愛でる時、そこに何を見るでしょうか。鮮やかな色彩でしょうか、それとも心地よい香りでしょうか。もし、それ以上のものが見えるとしたらどうでしょう。もし、一つの花が、ある歌人の愛を、ある政治家の苦悩を、そして一つの時代の魂そのものを語りかけてくるとしたら。
日本最古にして最大の歌集『万葉集』は、まさにそのような世界への扉を開いてくれます 。特に、その編纂が生きた奈良時代の人々にとって、自然は単なる背景ではありませんでした。それは感情を映す鏡であり、精神的な力を宿す器であり、そして言葉では直接語れない想いを伝えるための言語そのものだったのです。古代の人々は、森羅万象の中に自らの営みを重ね合わせ、植物をただ美しいだけの存在としてではなく、生命の本質をかいま見せてくれる存在として捉えていました。
8月20日


国学者・賀茂真淵と植物:古道の探求が育んだ深淵
賀茂真淵(元禄10年 (1697年) - 明和6年 (1769年))は、江戸時代中期の国学において極めて重要な位置を占める学者であり、歌人です。賀茂真淵は、荷田春満(かだのあずままろ)、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)とともに「国学四大人(しうし)」の一人に数えられ、国学の基礎を築いた功績は計り知れません。
6月29日


日本近代植物学の夜明けを拓いた巨人:本草学者・伊藤圭介の生涯と知の探求
伊藤圭介の生涯は、日本の学問が伝統的な本草学から近代的な植物学へと移行する、まさにその変革期と重なります。その業績は、この大きな流れの中で、日本の知のあり方を大きく転換させる触媒となりました。
6月25日


立原道造と植物:詩と建築が織りなす日本の植物文化
立原道造(大正3年 (1914) - 昭和14年 (1939) )は、昭和初期に活躍し、わずか24歳8か月で急逝した日本の詩人であり、将来を嘱望された建築家でもありました 。その短い生涯の中で、道造は文学と建築という二つの分野で早熟な才能を鮮やかに開花させました。
6月24日


『作庭記』に息づく平安の庭:橘俊綱が紡いだ自然の美学
橘俊綱(1028-1094)は、平安時代中期から後期に活躍した重要な人物です。俊綱は官人、歌人としての顔を持つ一方で、日本庭園史において極めて大きな足跡を残しました。『作庭記』は、まとまった作庭書としては世界最古のものとされており、平安時代後期の11世紀後半に成立したと見られています。この書は、寝殿造の庭園に関する意匠と施工法を記しており、絵図を一切用いずすべて文章で記されている点が特徴です。その内容は、後の日本庭園の発展に決定的な影響を与え、日本庭園の根本理念が記されていると評価されています。
5月29日


幕末・明治期の博物学者・田中芳男の植物学への貢献:近代日本の農業と博物学の礎を築いた生涯
田中芳男(1838-1916)は、幕末から明治、大正という激動の時代に活躍した傑出した博物学者であり、日本の近代化に多方面から貢献した人物である。信濃国(現在の長野県)飯田に生まれ、79歳でその生涯を閉じた。広く「日本の博物館の父」として知られる田中であるが、本稿では田中芳男の多岐にわたる功績の中でも、特に植物学への貢献に焦点を当て、その詳細を深く掘り下げる。
5月26日


「植物文学」の提唱者、松田修:古典に息づく草木の物語
松田修は1903年6月28日に山形県で生を受けました。氏の学術的基盤は、1928年に卒業した東京帝国大学農学部で築かれました。この農学部での学びは、彼が後に文学と植物学を融合させた「植物文学」という分野を開拓する上で、不可欠な専門知識と科学的視点を提供しました。
5月25日


臥して見つめし草木:正岡子規
正岡子規(1867-1902)は、俳句と短歌の近代化に多大な功績を残した、明治時代を代表する文学者の一人です。子規は俳誌「ホトトギス」を指導し、高浜虚子や河東碧梧桐、伊藤左千夫といった多くの優れた門下生を輩出し、その後の近代文学に計り知れない影響を与えました 。本稿の目的は、この文学の巨匠、正岡子規の生涯における植物や園芸との多角的かつ深遠な関係性を包括的に分析することにあります。この関係性は、単なる個人的な嗜好に留まらず、彼の文学理念「写生」の形成、病床での創作活動、そして死生観の表出に不可欠な要素であったことが明らかになります。特に、彼子規が脊椎カリエスという重篤な病に苦しみながらも、外界との接点が制限される中で、いかに植物への視点を研ぎ澄ませ、独自の文学世界を築き上げたかを詳細に探求します。
5月25日


毛利梅園:梅園画譜に息づく生命、江戸本草学の光芒
毛利梅園は、寛政10年(1798)に江戸幕府旗本・毛利兵橘元苗の長男として生まれ、嘉永4年(1851)に54歳でその生涯を閉じました。諱は元寿(もとひさ)です。彼は幕府の直参である旗本として職務に励む傍ら、本草学者としての卓越した業績を残しました。
5月23日


寛政の園丁、美しき庭の創り手:松平定信、その生涯と遺産
築地市場跡地に存在した「浴恩園」は、定信の作庭思想を最も顕著に表した庭園です。この庭園は元々寛永年間に稲葉侯が築いた軍池を改修したもので、三段の地形を活かした六区画構成(集古園・贊勝園・竹園・春園・秋園・百菓園)を特徴としていました。
3月1日


緑蔭の彫刻家:朝倉文夫と植物たちの対話
日本近代彫刻の巨匠・朝倉文夫(1883-1964)は、写実的な人体表現で知られる一方、「東洋のロダン」 とも呼ばれ、自然への深い洞察に基づいた作品を数多く残しました。朝倉文夫の芸術を語る上で、植物との関係性は欠かせない要素です。
2月21日


飛梅伝説に秘められた心:菅原道真と日本文化の深淵
菅原道真公(845-903年)は、平安時代前期に活躍した学者、詩人、そして政治家です。幼い頃から学問に秀でた才能を発揮し、若くして文章博士に任命されました。その後、宇多天皇の信任を得て政治の中枢を担い、遣唐使の停止を提言するなど、日本の文化の独自性を育む礎を築きました。
2月20日


本居宣長と桜:日本文化の深淵に咲く「もののあはれ」の心
本居宣長(享保15年/1730~享和元年/1801)は、江戸時代中期に伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)に生まれた、日本を代表する国学者であり、歌人、そして医師でもありました。宣長の学問的探求は、日本固有の古典に深く根差し、外来思想に染まる前の日本人の心のあり方を明らかにしようとするものでした。その思想の中核をなすのが、日本独自の美意識である「もののあはれ」です。
2月18日


厳冬に息づく希望の芽:内村鑑三「寒中の木の芽」に学ぶ日本の精神性
内村鑑三の「寒中の木の芽」は、わずか四節からなる短い詩ながら、その中に生命の循環と尽きることのない希望のメッセージを凝縮しています。詩は、四季の移ろいを植物の姿に重ね合わせ、特に冬の厳しさの中にこそ宿る「慰め」と「希望」を描き出します。
2月17日
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