万葉の庭師、大伴家持:奈良時代の魂を映す植物の歌
- JBC
- 8月20日
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1. 花の言葉、時代の声
今日、私たちが一輪の花を愛でる時、そこに何を見るでしょうか。鮮やかな色彩でしょうか、それとも心地よい香りでしょうか。もし、それ以上のものが見えるとしたらどうでしょう。もし、一つの花が、ある歌人の愛を、ある政治家の苦悩を、そして一つの時代の魂そのものを語りかけてくるとしたら。
日本最古にして最大の歌集『万葉集』は、まさにそのような世界への扉を開いてくれます 。特に、その編纂が生きた奈良時代の人々にとって、自然は単なる背景ではありませんでした。それは感情を映す鏡であり、精神的な力を宿す器であり、そして言葉では直接語れない想いを伝えるための言語そのものだったのです。古代の人々は、森羅万象の中に自らの営みを重ね合わせ、植物をただ美しいだけの存在としてではなく、生命の本質をかいま見せてくれる存在として捉えていました。
この深遠なる世界へと私たちを導いてくれるのが、大伴家持という一人の歌人です。家持は『万葉集』において最多の歌を残し、その最終的な編纂者と目される人物です。家持の膨大な歌、とりわけ植物に心を寄せた作品群は、8世紀日本の精神世界を覗くための、比類なき窓となります。これから、家持が言葉で紡いだ歌の庭園を散策し、植物と和歌、そして人の魂との間に結ばれた深い絆を解き明かしていくことにしましょう。
2. 時代と人物:大伴家持の肖像
2.1. 没落する名門の御曹司
大伴家持の人生を理解するには、まず家持が背負った「大伴氏」という名の重みを知らねばなりません。大伴氏は、神話の時代にまで遡る由緒正しい武門の一族でした。しかし家持が生きた奈良時代は、新興氏族である藤原氏が急速に権力を拡大し、大伴氏のような古来の名門がその勢力に押され、衰退の一途を辿っていた激動の時代でした。家持の生涯は、常に政争の渦中にあり、一族の浮沈をその双肩に担う、 不安定なものでした。
このような環境にあって、家持の感性を育んだのは、非常に文化的な家庭環境でした。父は同じく優れた歌人であり政治家でもあった大伴旅人、そして叔母には坂上郎女という当代きっての女流歌人がおり、家持は幼い頃から最高水準の和歌と教養に触れて育ったのです。

2.2. 歌人官僚という生き方
家持のキャリアは、波乱に満ちたものでした。都である平城京での要職と、地方の国守としての赴任を繰り返す生涯でした。越中(現在の富山県)や因幡(現在の鳥取県)などでの勤務は、しばしば政争に敗れた結果としての左遷という側面も持っていました。
ここに、家持の人生を貫く一つの葛藤が浮かび上がります。それは、一族の長として、また官僚として公務に励む「公人」としての顔と、自らの内面と深く向き合う「詩人」としての顔の間の緊張関係です。家持はまず奈良朝の官僚であり、その厳しい現実の中で生きるために、和歌は不可欠な精神的支柱でした。
家持の人生は、政治的な不安定さに常に晒されていました。一族は衰退し、自身も数々の政争に関与、あるいは巻き込まれ、死後には官位を剥奪されるという不名誉さえ経験します。このような状況下で詠まれる家持の歌は、単なる風雅な趣味の産物ではありませんでした。例えば、「橘」や「藤」といった植物を、自らの後援者である橘氏や、政敵である藤原氏の暗喩として歌に詠み込んでいます。これは、家持の詩作が政治的現実と分かちがたく結びついていたことを示しています。
つまり、家持にとって植物を詠むことは、厳しい公人としての生活からの逃避ではなく、むしろその中で生き抜くための洗練された手段でした。それは、公然と口にすれば危険な忠誠心や不安、時局に対する批評を表現するための、一種の暗号化された言語だったのです。私たちが現代的な感覚で区別しがちな「公的な政治生活」と「私的な芸術活動」は、家持のような奈良時代の貴族にとっては融合していました。家持の植物の歌は、自身の内面世界の記録であると同時に、その内面世界を絶えず揺さぶる外部の政治世界への応答でもあったのです。自身が記したように、歌作とは心の鬱屈を解き放つ(「締緒を展ぶ」)ための営みであり、激動の人生において精神の平衡を保つための、最も重要な行為でした。
2.3. 『万葉集』の編纂者
家持の功績は、一個の歌人としてに留まりません。家持は、日本文学の金字塔である『万葉集』の最終的な編纂者であった可能性が極めて高いと考えられています。全4,500首を超える歌の中で、彼の作品は約480首と最も多く 、特に巻十七から巻二十までの4巻は、さながら家持個人の歌日記のような体裁をなしています。
この事実は、家持が単なる歌人ではなく、日本の文学的基盤を形作った偉大な文化の編纂者であったことを意味します。家持は貴族の洗練された歌だけでなく、名もなき防人たちが詠んだ素朴で力強い「防人歌」や、東国地方の方言がそのまま残る「東歌」をも収集し、その真正さを尊重して歌集に収めました。
3. 天平の世:奈良時代の自然・文化・精神性
3.1. 華開く都の文化
家持が生きた8世紀は、年号から「天平文化」と称される、華やかな時代でした。唐の長安を模した壮大な都・平城京が営まれ 、遣唐使を通じて大陸の先進的な文化が洪水のように流れ込みました。聖武天皇の治世下では仏教が国家鎮護の要とされ、東大寺の大仏建立や、全国に国分寺が建てられるなど、仏教文化が花開きました。また、『古事記』や『日本書紀』といった国家の正史が編纂され、日本のアイデンティティが形作られ始めた時代でもあります。正倉院の宝物は、この時代の国際色豊かな文化の精華を今に伝えています。
3.2. 魂の宿る世界
しかし、この華やかな文化の根底には、より古層から受け継がれてきた、自然に対する独特の世界観がありました。古代の日本人にとって、自然界は研究対象となる客体ではなく、神々(カミ)や精霊が宿る、生命に満ちた主体でした 。人間と自然は明確に分離されておらず、互いに影響を与え合う、一つの大きな生命体の網目の中に存在していたのです。
この世界観において、植物は多岐にわたる役割を担っていました。食料、薬、建材、染料として生活に不可欠な資源であったと同時に 、深い象徴的・精神的な意味を持つ存在でもありました。特定の植物は神聖視され、特別な力を持つと信じられていたのです。植物について歌を詠むという行為は、その植物の持つ生命力や霊性と交感し、自らの感情をより大きな宇宙のリズムに重ね合わせる試みでした。『万葉集』に咲く花々は、単なる風景描写ではなく、人の心を映し出す鏡なのです。
奈良時代は、こうした二つの潮流が交錯する特異な時代でした。一方で、遣唐使がもたらした大陸文化への強い憧れがあり、それは特に漢詩文で称揚された「梅」への貴族的な愛好に表れています。梅を詠むことは、洗練された教養の証でした。他方で、『万葉集』には、日本古来の植物である「萩」が最も多く詠まれており、その根底には自然の万物に霊性を見るアニミズム的な感性が息づいています。
家持の歌は、まさにこの二つの流れの合流点に咲いた花と言えます。家持は大陸の文人のような優雅さで梅を讃える一方で、萩や撫子といった日本の風土に根差した植物に対しては、古来の土着的な感性に根差した、親密な眼差しを注いでいます。これは、奈良時代の文化が、単に外来文化によって固有文化が置き換えられたのではなく、洗練された外来の概念を、深く根付いた土着の精神的枠組みを通して濾過し、融合させることで、新しい日本的な美意識を創造していた過程を物語っています。家持の植物の歌は、この文化のるつぼを完璧に映し出す縮図なのです。
4. 歌の庭園:家持の植物歌、テーマ別分析
家持が詠んだ植物は多岐にわたりますが、その中でも特に彼の心の世界を色濃く反映している象徴的な植物が存在します。以下の表は、彼の歌を深く味わうための道しるべとなるでしょう。
表1:大伴家持の和歌における主要な植物とその象徴
植物名 | 象徴・意味 | 代表的な歌 | 考察 |
萩 | 秋、哀愁、儚い美、無常、愛しい人 | 秋の野に 咲ける秋萩 秋風に 靡ける上に 秋の露置けり (巻8-1597) | 秋を代表する花。風に優しく揺れる姿は、歌人の心の揺れ動きや無常観、そして愛の繊細な美しさを映し出す 。 |
梅 | 忍耐、学問的気品、春の先駆け、大陸文化の影響 | 我が園の 李の花か 庭に散る はだれのいまだ 残りたるかも (巻19-4140) | 寒中に咲くその香りと気高さが、奈良の宮廷における大陸趣味を反映した貴族的な花。雪や月と結びつけられ、後の「雪月花」の美意識を予感させる 。 |
なでしこ | 愛しい女性、妻、純粋な愛情、家庭的な愛 | 撫子が 花見る毎に をとめらが 笑まひのにほひ 思ほゆるかも (巻18-4114) | 極めて個人的な象徴。家持が妻への優しい愛情を表現するために多用し、花と特定の人間関係を直結させた。これが「大和撫子」の理想像の源流となる 。 |
橘 | 永遠、懐旧、記憶、政治的忠誠 | 吾が園の 花橘は 散り過ぎて 玉に貫くべく 実になりにけり (巻8-1489) | 常緑であることとその香りが過去の記憶を呼び覚ます。また、後援者であった橘諸兄への忠誠の象徴としても機能した 。 |
卯の花 | 初夏、時の移ろい、季節の指標 | 卯の花の 過ぎば惜しみか 霍公鳥 雨間も置かず こゆ鳴き渡る (巻8-1491) | 春から夏への移ろいを告げる花。時鳥(ほととぎす)と共に詠まれることで、過ぎゆく時への切ない感覚を鮮烈に描き出す 。 |
4.1. 萩: 秋の憂愁と儚さの詩学
萩は『万葉集』で最も多く詠まれた花であり、秋という季節の象徴そのものです。家持の代表的な一首、「秋の野に 咲ける秋萩 秋風に 靡ける上に 秋の露置けり」(巻八・一五九七)は、その詩学を見事に体現しています。「秋」という言葉を三度も重ねることで、聴く者を深く秋の世界へと誘います。風に揺れる萩の上に置かれた露は、壊れやすく、束の間しか存在しない美の、力強いイメージです。そこには、仏教思想の影響も受けた、万物は常に移り変わるという「無常」の感覚が色濃く反映されています。また、萩はしばしば鹿の鳴き声と共に詠まれ、妻(萩)を求めて鳴くという当時の観念から、恋や思慕の情とも結びつけられました。

4.2. 梅: 大陸の気品と不屈の象徴
梅は、大陸から渡来した文化的な花であり、学問的な洗練と、冬の寒さの中で凛として咲く不屈の精神の象徴でした。梅を愛でることは、奈良の貴族にとって高い教養の証だったのです。有名な「梅花の宴」で父・旅人が詠んだ「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」(巻五・八二二)という歌は、散る梅を天から舞い落ちる雪に見立てた、非常に洗練された一首です。家持もまた、「我が園の 李の花か 庭に散る はだれのいまだ 残りたるかも」(巻十九・四一四〇)と詠み、李(すもも)の花を消え残る雪に喩えています。これは、父から、そして唐の詩文から受け継いだ、高度な文学的伝統に彼が連なっていることを示しています。

4.3. なでしこ: 愛しき妻への賛歌
家持の歌の中で、撫子は他に類を見ないほど個人的で、深い愛情のこもった花です。『万葉集』に収められた撫子の歌のかなりの部分が、家持によって詠まれています。特に、越中での単身赴任中に詠まれた「撫子が 花見る毎に をとめらが 笑まひのにほひ 思ほゆるかも」(巻十八・四一一四)は、家持の心情をよく表しています。詞書によれば、都に残してきた妻を想い、任地の庭に撫子の種を蒔いて育てていました。家持にとって撫子の花は、単なる美しい植物ではなく、愛する妻の面影そのものであり、記憶と愛情を育むための生きた象徴だったのです。この、花に理想の女性像を重ねる感性は、後の「大和撫子」という美徳の原型を築いたと言えるでしょう。

4.4. 橘と卯の花: 香り、記憶、そして忠誠
橘は、その強い芳香が過去の記憶を鮮やかに呼び覚ますことから、懐旧の花として詠まれます。また、常緑樹であることから永遠性の象徴でもありました。家持にとって橘は、個人的な感傷を超え、自らの政治的後援者であった橘諸兄への忠誠を示すための、巧みなシンボルでもありました。一方、卯の花は初夏の到来を告げる季節の指標です。しばしば時鳥(ほととぎす)と共に詠まれ、「卯の花の 過ぎば惜しみか 霍公鳥 雨間も置かず こゆ鳴き渡る」(巻八・一四九一)のように、その組み合わせは過ぎゆく時への切ない感覚を呼び起こします。
5. 詩人の魂:家持の作風の深化と内なる世界
5.1. 越中という揺り籠
天平18年(746年)から約5年間、家持は越中の国守として赴任します。この時期は、家持の創作活動において最も実り豊かな黄金期であり、全作品の半分近くがこの地で生み出されました。都の熾烈な政争から物理的に距離を置いたこと、そして立山連峰に夏でも雪が残る雄大な自然や、荒々しい日本海といった、奈良盆地の風景とは全く異なる風土に触れたことが、彼の詩的才能を大きく開花させたのです。
この地で詠まれた「立山に 降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし」(巻十七・四〇〇一)という歌は、彼の素直な感動を伝えています。真夏に白く輝く神々しい山々の姿は、都育ちの彼にとって驚異であり、その畏敬の念が、この力強い歌を生み出しました。越中の自然は、家持に新たな視野と表現力を与えたのです。
5.2. 叙情の頂点:「春愁三首」
家持の歌の中でも最高傑作と名高いのが、都に帰京した後に詠まれた「春愁三首」と呼ばれる一連の作品です。
春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に うぐひす鳴くも (巻十九・四二九〇)
わが宿の いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕べかも (巻十九・四二九一)
うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば (巻十九・四二九二)
これらの歌は、日本の抒情詩が到達した一つの頂点を示しています。竹林を渡る風のかすかな音、空高く舞い上がる雲雀の姿といった、儚く繊細な感覚的ディテールを捉え、それを「うら悲し」という深く内面的な感情に結びつけています。ここでは、外の情景と内の心情とが完璧に溶け合っているのです。この研ぎ澄まされた感受性は、家持の成熟した作風の証であり、後の平安朝和歌の優美な世界を予感させるものでした。
5.3. 「ますらをぶり」から「たおやめぶり」へ
初期の『万葉集』の歌風は、しばしば「ますらをぶり(益荒男振り)」と評されます。これは、柿本人麻呂に代表されるような、男性的で、力強く、公的で、おおらかな作風を指します。彼らは、天皇の行幸や皇子の死といった公的なテーマを、自然の雄大な描写を通して荘重に歌い上げました。
これに対し、家持の作風は繊細で、優美で、叙情的です。家持の関心は、公的な出来事よりも、自然と個人の感情がかすかに触れ合う瞬間に向けられています。家持は、万葉前期の英雄的な「ますらをぶり」と、後の平安時代の宮廷的な「たおやめぶり(手弱女振り)」とを繋ぐ、決定的な橋渡し役を果たしたのです。もちろん、陸奥国での産金を祝う歌(有名な「海ゆかば」の一節を含む)のように、家持も公的な場では荘重な歌を詠むことができましたが、家持の真骨頂は、個人的で内省的な新しい抒情の世界を切り開いた点にあります。
この「春愁三首」は、単なる作風の変化以上のものを物語っています。生命力に満ちた美しい春の情景(鳥のさえずり、穏やかな日差し)と、個人的な悲しみの感情(「うら悲し」「心悲しも」)が、ここでは意図的に並置されています。なぜ、これほど美しい季節に悲しみを感じるのでしょうか。ある歌の詞書で家持は、歌を作ることで心の深い痛み(「悽惆の意」)を和らげようとしている、と記しています。この悲しみは、春の風景によって引き起こされたのではなく、むしろその美しさによって、自身の孤独や人生の儚さが一層際立たされた結果生じたものです。
移ろいゆく自然の美に触れた時に誘発される、この切ない悲しみの感情構造こそ、後世の日本美学の中核をなす「もののあはれ」の精神そのものです。言葉自体は数世紀後に生まれますが、家持の成熟期の歌は、この美意識が鍛え上げられたるつぼであったと言えるでしょう。家持は、単に詩のスタイルを繋いだだけでなく、日本の感情文化と哲学の核心部分を切り開いた先駆者でした。そして、その深遠な精神性の変化を表現するための主要な媒体こそが、家持の植物の歌だったのです。
6. 結論:家持が遺した、永遠に咲き続ける花
大伴家持が詠んだ植物の歌は、単なる自然描写の枠を遥かに超えています。それらは、奈良の宮廷という複雑な政治世界を生き抜くための洗練された象徴言語であり、家持の愛や喪失、不安を映し出す私的な日記であり、大陸の美意識と日本の土着的な精神性が融合した天平文化の完璧な結晶です。そして何よりも、後の日本文学を何世紀にもわたって規定することになる、深く個人的で内省的な抒情詩の源流なのです。
家持の歌を読むことは、植物を単なるモノとしてではなく、人生の旅路における伴侶として、物語と意味に満ちた存在として見る方法を学ぶことです。家持の作品は、私たちと自然界との間に、より深く、より共感に満ちた関係を育むよう誘いかけます。1300年の時を超えて、彼の言葉は、私たち自身の庭に、単なる美しさだけでなく、自らの魂の反映を見出すよう、静かに語りかけてくるのです。






