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世界的な博物学者、南方熊楠と植物の関係性に関する専門的考察:分類学、環境思想、そして曼荼羅的世界観

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    JBC
  • 12 分前
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田辺市 本宮町の田園風景
田辺市 本宮町の田園風景


序章:グローバル博物学者・南方熊楠と「植物」概念の再定義



0.1. 熊楠の学術的背景と研究領域の多層性


南方熊楠(1867-1941年)は、近代日本において極めて特異な知の巨人として位置づけられる博物学者です。熊楠は、日本の初期における隠花植物(菌類、変形菌類など)の研究者であると同時に、傑出した民俗学者、宗教学者として知られています。熊楠の知的好奇心は、自然史研究を基軸としつつも、民俗学、宗教学、文学、哲学といった広範な分野に及び、森羅万象すべてを研究対象とするものでした。  

熊楠の学術的営為の基礎には、幼少期から培われた自然への深い関わりがあります。熊楠という名前は、海南市にある藤白神社から「熊」と「楠」の文字を借りて名付けられたという事実が残されており、この命名の背景自体が、熊楠と地域社会の自然(特に植物)との象徴的な結びつきを幼い頃から示唆していたのです 。熊楠の生涯における活動は、この広範な領域を横断し、それぞれの分野での知見を有機的に結合させる試みであったといえます。  



0.2. 報告書における「植物」の範囲設定:広義のクリプトガム(隠花植物)


本稿において南方熊楠が関わった「植物」とは、一般的に連想される顕花植物(Botany)の領域に限定されるものではありません。熊楠の主要な専門分野は、種子を作らず胞子で繁殖する生物群の総称である「隠花植物」(Cryptogams)でした。これには、具体的に菌類、変形菌類(粘菌)、地衣類、蘚苔類、藻類が含まれます。  

特に粘菌(Myxomycetes、 Mycetozoa)の研究は、熊楠が国際的に最も顕著な貢献を果たした分野です。粘菌は、分類学上、植物、菌類、原生動物のいずれにも分類され得る動的な生命形態であり、その非中央集権的な生態は、後に熊楠が提唱することになる「南方マンダラ」思想、すなわち生命と環境の流動的で相互作用的な世界観の着想源の一つとなった可能性が高いと考えられます 。熊楠の自然科学研究の核心は、静的な「植物学」ではなく、むしろ動的で非線形な「生態学」や「自然史」にあったと解釈されます。  


エダナシツノホコリ
参考画像:エダナシツノホコリ


第1部:分類学者としての厳密な貢献:粘菌・菌類学



1.1. 西洋科学との交流と変形菌(粘菌)研究の開始


南方熊楠の研究活動は、その国際的な広がりにおいて世界的に稀有なものでした。熊楠は、生涯を通じてアメリカ(フロリダ、ニューヨーク)やイギリス(ロンドン)に滞在し、そこで本格的な自然史研究を開始しています。  

特に熊楠の菌類・地衣類研究の専門性を確立させたのは、渡米中に訪れた西インド諸島での経験です。1892年1月、熊楠はハバナに滞在した後、巡業団と共にポートープランス、カラカス、バレンシア、ジャマイカを旅し、象使いの助手として働きながら、この地域の貴重な菌類や地衣類を採集する機会を得ました。熱帯の豊かな生物多様性に触れたこの時期の活動が、熊楠を隠花植物の第一級の研究者へと押し上げたのです。  



1.2. 標本収集のグローバルな展開と国際的ネットワークの構築


イギリス・ロンドン滞在中の大英博物館での研究活動は、熊楠を国際的な学術ネットワークの中心に位置づけました。熊楠は、英国の権威ある学術誌『Nature』や『Notes and Queries』に論文を寄稿し続け、生涯で『Nature』誌に51報ものモノグラフを掲載したという事実は、熊楠が専門的な知見において西洋の学界と対等に渡り合っていたことを示しています。  

国際的な連携の具体例として、1905年秋には、熊楠が46点の粘菌標本を大英博物館に寄贈したことが挙げられます 。この標本は、当時の英国菌類学会会長であったアーサー・リスター(Arthur Lister)によって精査され、『Journal of Botany』に「日本産菌類第二報」として紹介されました。リスターとの往復書簡の存在は、熊楠の粘菌研究が、国際的な学術交流の核心にあったことを示しているのです。  

熊楠は、西欧の科学手法とネットワーク(大英博物館、リスター、Nature)を習得することで、国際的な専門性を確立しました。そして、熊楠はその高度な知識を基盤に、帰国後、紀伊山地のローカルな環境(田辺での採集)に適用し続けたのです。このローカルな生物多様性がグローバルな科学的対話に結実した好例は、日本の植民地主義時代において、周縁的な地域の自然史研究を西洋科学の最前線に位置づけることに成功したという点で、重要な意味を持ちます。熊楠の研究は、地方の固有性が世界的な普遍性を持つことを実証する手段となったのです。  



1.3. 著名な科学的業績:新属新種の発見と謙遜の哲学


南方熊楠の変形菌研究における最も著名な科学的成果の一つは、新属新種のミナカテラ・ロンギフィラ(Minakatella longifila)の発見と命名です。この種は和名をミナカタホコリといい、1921年に発表されました。属名には熊楠の姓にちなんでMinakatellaが冠されています。  

この標本は1919年頃にリスターへ発送されており、熊楠が帰国後、地元である紀伊山地での現地採集活動を通じて、地道かつ世界的な分類学に貢献し続けたことを示しています。  

しかしながら、熊楠自身は、こうした新種の発見を、熊楠自身の生物研究の主要な目標として特に重視する姿勢を示さなかったとされています。熊楠の関心は、単なる分類や命名といった狭い科学的業績を超え、生命体とその周辺環境、習慣、生活様式との関係性、すなわち生態学的な視点を深く追求することにありました。熊楠は、粘菌という植物とも動物ともつかない境界の曖昧な生命体の研究を通じて、固定された分類学的実体ではなく、流動的な相互作用の理解に重きを置いていました。これは、後に熊楠が提唱する曼荼羅的世界観の科学的な裏付けとして機能しているのです。  


南方熊楠の主要な隠花植物研究と国際交流

分類群

主な業績/貢献

国際的連携先

関連資料(時期)

変形菌 (Slime Molds)

新属新種 Minakatella longifila の発見と命名、詳細な形態研究

A. リスター、英国菌類学会

1905年の大英博物館への標本寄贈

菌類・地衣類

欧米の学術誌 Nature への多数の論文掲載 (51報)、広範囲な採集活動

複数の西欧学者、『Nature』編集部

滞英期および帰国後の執筆活動

採集活動

フロリダ、キューバ、ジャマイカ、紀伊山地における膨大な標本収集

植民地時代の西インド諸島

1892年頃の西インド諸島巡業

 




第2部:環境保全運動の核心:鎮守の森とエコロジー思想



2.1. 明治後期の神社合祀政策の背景と近代化批判


南方熊楠と植物との関係性は、単なる科学的な探求に留まらず、社会的な行動、すなわち環境保全運動へと昇華されました。明治後期、政府は国家神道体制を確立し、中央集権化を推し進める目的で神社合祀政策を実施しました。この政策は、近代化論を軸とする「外発的な発展」の路線に位置づけられ、地方の伝統的・文化的基盤を統合しようとするものでした。  

熊楠は、この政策がもたらす影響を深く憂慮し、「エコロジー」の立場から激しい反対運動を展開しました。熊楠の反対運動は、近代国家が地方共同体に対して行う強権的な統治のあり方、特に環境倫理と地域性に深く関わる問題として捉えられています。  



2.2. 「鎮守の森」の生態学的・文化的価値の主張


日本の神社は、古くから鎮守の森と呼ばれる樹木に覆われた社叢(しゃそう)を伴っており、この森が神聖な空間として保護されてきました。神社合祀政策は、これらの社叢をとり壊すことに直結し、広範な「自然破壊」を伴うものでした 。  

熊楠が合祀に反対した核心的な理由は、神社を潰すことで鎮守の森がなくなり、そこに存在する貴重な生態系(植物、菌類、昆虫類など)が失われるという点にありました 。熊楠は、合祀は天然風景と天然記念物を亡滅させると具体的に指摘し 、熊楠の運動は、今日の「自然保護」「環境保護運動」の先駆的な主張として高く評価されています。  

熊楠が研究対象とした微細な生命(菌類や粘菌)は、鎮守の森という植物群落の存在があって初めて成り立っていました。森という具体的な生命体が破壊されることは、熊楠にとって、自らの研究対象の基盤が失われると同時に、万物の相互関係(曼荼羅)が物理的に断ち切られることを意味しました。



2.3. 多層的な反対論の展開:エコロジーと社会倫理の結合


熊楠の神社合祀反対論は、単に生物学的な保護に留まらず、社会、文化、倫理の多角的な側面から展開されました。熊楠は合祀がもたらす八つの弊害を挙げましたが 、その論理構造は、環境保全と社会保全の不可分性を強調しています。  


  1. 生態学的論点: 合祀は天然風景と天然記念物を亡滅させます 。これは、地方固有の植物群落や生態系の保全という、今日的なエコロジー的観点を最も直接的に示しています。  


  2. 文化的論点: 合祀は史蹟と古伝を滅却し、地域固有の知識(民俗学の素材)を失わせます。  


  3. 社会倫理論点: 合祀は国民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害し、地方を衰微させ、治安に大害をもたらします。  


これらの多角的な批判は、鎮守の森(植物群落)という具体的な自然環境の破壊が、地域共同体の信仰、歴史、生態系という「内発的」な中心を奪い去る行為であるという認識から生まれました。熊楠は、森の保護を主張することで、中央政府による強権的な発展モデルを批判し、地域固有の文化と生態系の保全を求める、近代化への根本的なアンチテーゼを突きつけたのです。  

熊楠の時代には科学としての生態学は確立途上にあり、環境問題が市民的常識となるのは熊楠の没後相当の時間が経過してからでした。しかし、熊楠の反対運動の思想は、後の20世紀後半に確立される「ディープ・エコロジー」(深層エコロジー)や、内発的発展論といった環境倫理学的視点と強い共通性を持っています。熊楠の思想は、単なる「自然保護の先駆者」という範疇を超え、自然環境への配慮と地域性の重視を統合する、根本的な文明論の批判に達していたといえます。  


南方熊楠による神社合祀反対の主要論点(エコロジー的視点を含む)

論点分類

具体的内容(植物・自然環境との関連)

引用資料の核心

生態学的保護

鎮守の森の樹木群落と貴重な生態系の破壊を防ぐ (天然記念物、天然風景の亡滅)

自然破壊への直結、貴重な生態系の喪失、環境保護運動の先駆

文化的・歴史的保護

史跡と古伝承の滅却、地域の文化的アイデンティティ喪失

国民の慰安を奪い、風俗を害する

社会・倫理的批判

中央集権化(外発的発展)への反対、地域性の重視

近代化論へのアンチテーゼ、内発的発展の必要性

 

鎮守の森
鎮守の森


第3部:深層エコロジーへの先駆:曼荼羅的世界観と植物



3.1. 西洋科学と東洋思想の壮大な融合


南方熊楠の思想的特異性は、西洋科学が要求する緻密な観察眼と、東洋思想、特に真言密教の宇宙観および神智学を壮大に融合させた独自の哲学にありました。熊楠は、森羅万象、すなわちすべての存在が相互に関係し、影響し合って成立している状態を「小さな宇宙」として捉え、これを「南方マンダラ」と表現しました。この曼荼羅的世界観の存在こそが、熊楠の神社合祀反対運動を「たんなる自然保護活動」を超えた、文明論的な抵抗たらしめた根拠なのです。  

熊楠の思想における科学的観察と宗教的思索は対立するものではなく、曼荼羅という統一された認識システムの異なる側面でした。熊楠は、分類学的に境界が曖昧な粘菌のような生命体を研究することで、既存のカテゴリを超越した生命の連続性(相互作用と流動性)を実感し、これを曼荼羅という哲学的枠組みで表現しました。植物(特に隠花植物)の研究は、この普遍的なシステムを実証するための重要な手段であったといえます。



3.2. 曼荼羅における植物の位置づけ:生態学的相互依存の哲学


熊楠が深く関わった菌類や粘菌といった隠花植物は、生態系において分解者や共生者として不可欠な役割を担い、食物連鎖の目に見えない基盤を形成しています。熊楠は、このミクロな生命が、鎮守の森の巨木や山全体、さらには人間の信仰や風俗と、いかにして有機的に結びついているかを科学と哲学の両面から理解しようと試みました。

熊楠が探求した「生命体とその周辺環境、習慣、生活様式との関係」という生態学的な視点 は、生物と環境が相互に関係・影響し合って成立しているという熊楠の世界観 を、物理的な次元で説明しています。曼荼羅思想における万物斉同の視点は、鎮守の森の植物群落一つ一つが、宇宙全体の縮図であり、失うことのできない価値を持つという、深層エコロジー的な倫理へと直結しているのです。  



3.3. 外発的発展論へのアンチテーゼとしての内発的発展論


明治政府が推進した神社合祀政策は、「近代化論を軸とする近代化のあり方や外発的な発展の路線」を体現していました。この外部依存的で画一的な発展モデルに対し、熊楠の思想は、「内発的発展」というオルタナティブな視点を提供しました。  

内発的発展とは、地域固有の文化、知恵、そして自然環境(植物群落を含む)を基盤とし、外部の力に依存せずに持続可能な発展を目指す考え方です。鎮守の森の保護運動は、自然環境への配慮と地域性の重視という、内発的発展の二つの要素を統合するものでした。  

熊楠の環境思想は、後の環境倫理学的な概念を先駆的に含んでいただけでなく、現代のグローバルな開発議論、特に外発的なグローバル資本主義的発展が環境危機を引き起こす現代において、地域性、生態的配慮、そして内発性を重視するオルタナティブな発展モデルとして、依然として重要な潜在性を持っています。  



第4部:研究方法と遺産の継承



4.1. 膨大なアーカイブと採集記録の作成


南方熊楠の学問的業績を支えたのは、熊楠の驚異的な記憶力と、独自の徹底した研究手法でした。熊楠は「読むことは写すことだ。ただ読むだけでは忘れてしまうが、写せば決して忘れない」という信念を実践し、膨大な資料を書き写し、整理しています。この執筆・記録実践の集大成が「田辺抜書(Tanabe Extracts)」であり、61巻にも及びます。  

熊楠の研究論文の特徴は、大量の引用を駆使するスタイルにあり、さらに、第一級のフォークロアの証拠や古代の遺物を組み込んだ点にあるのです。熊楠の植物(菌類)研究は、単なる現地採集に終わらず、常に広範な文献学的、民俗学的資料と並行して進められていました。熊楠は、現代のデジタルアーカイブやデータベースがない時代に、情報収集、分類、相互参照を行う知の有機的なシステムを自ら構築していたといえます。この手法は、熊楠の生涯にわたる、植物を含む森羅万象の相互関係を理解しようとする熊楠の科学者としての厳密さと情報学者としての先見性を示しています。  



4.2. 没後の資料保存と現代研究への影響


熊楠の没後、熊楠の妻である松枝や長女の文枝らによって、旧邸に残された数万点の膨大な蔵書や資料は、当時のまま大切に保存されました。これらの資料は、和歌山、東京、アメリカ、キューバ、ロンドン、そして紀伊山地にいたる熊楠の無限の知的好奇心の軌跡を示すものです。  

これらの資料は後に田辺市に遺贈され、南方熊楠顕彰館などで整備が進められています。『南方熊楠邸蔵書目録』や『南方熊楠邸資料目録』の完成、および重要資料のデジタル化が進められており、多角的な研究の基礎資料として提供されています。基礎資料が整備されるにつれ、熊楠を粘菌学や生態学史の観点から再評価する研究を含め、より多角的に分析する研究が盛んに行われるようになりました。  




第5部:植物研究の焦点と園芸・花卉文化の領域



5.1. 顕花植物ではなく隠花植物に注がれた科学的焦点


南方熊楠の学術的貢献の大部分は、前述の通り、顕花植物(一般に花や種子を持つ植物)ではなく、隠花植物(菌類、変形菌類、藻類など)の研究に集中していました。特に粘菌類は、熊楠が国際的な分類学者として最も名を馳せた分野です。  

したがって、熊楠の研究活動は、一般に観賞用や産業目的で行われる「園芸」や「花卉栽培」といった分野への直接的な技術的寄与や、特定の品種改良といった活動とは、焦点を異にしていたと考えられます。熊楠の博物学者としての関心は、生命体の分類、分布、そして生態系におけるミクロな相互作用の解明に重きを置いていたためです。  



5.2. 間接的な遺産:鎮守の森を通じた植生と文化の保護


しかしながら、熊楠の活動が園芸や花卉文化に対して間接的な遺産を残した側面は重要です。熊楠が激しく反対運動を展開した神社合祀政策は、地域社会が守り伝えてきた鎮守の森という植物群落の破壊に直結していました。  

この鎮守の森は、単なる学術的な研究対象である隠花植物の基盤であっただけでなく、地域固有の植生、すなわち、地域文化や風俗、そして日本の伝統的な花卉の源流となる植物相を内包していました。熊楠の環境保全運動は、この森の生態系全体を包括的に守ることを目指しており、結果として、地方固有の植物群落と、それに付随する文化的・歴史的価値の保全に大きく貢献したといえます。熊楠の思想は、個々の花(花卉)の美しさを超えて、花が咲き、生態系が成立する「場」そのものの永続的な価値を守るという、より根源的な環境倫理に基づいていました。  



結論:南方熊楠が植物に託した科学的、倫理的遺産


南方熊楠と植物との関係は、狭義の植物学に留まらない、連続的で統合された知の軌跡として総括されます。熊楠の活動は、以下の三つの次元で極めて重要な遺産を確立しました。


第一に、分類学者としてのグローバルな貢献です。熊楠は、粘菌という生命の基層をミクロレベルで探求し、新属新種ミナカテラ・ロンギフィラを発見するなど、西洋科学の最前線で普遍的な知見を提供しました。熊楠の粘菌研究は、科学と哲学の双方において、万物の相互依存性(曼荼羅)の原理を実証する手段となったのです。


第二に、先駆的な環境倫理の実践です。熊楠の神社合祀反対運動は、植物群落である鎮守の森の保護を、単なる天然記念物の保護ではなく、近代国家による中央集権的、外発的発展モデルに対する根本的な異議申し立てとして位置づけました 。熊楠は、植物を文化的、生態的、そして精神的な価値を持つ「小さな宇宙」の構成要素として捉え直し、深層エコロジーの先駆的な実践者としての地位を確立しました。  


第三に、科学と人文学の統合です。熊楠の膨大なアーカイブ作成と研究手法は、科学的厳密さと文献学的・民俗学的探求を融合させたものであり、現代の生物多様性保護やサステナビリティ学において、地域固有の知恵と普遍的な科学的知見を統合するアプローチの重要性を示唆しています。


南方熊楠の遺産は、現代社会が直面する生物多様性保護や、地域主権的な発展モデルの構築において、依然として重要な示唆を与え続けています。熊楠の思想は、外発的発展の弊害を乗り越え、地域性、生態的配慮、そして内発性を重視する持続可能な発展の方向性を追求する上で、欠かせない知的資源となっているのです。  







参考/引用












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