毛利梅園:梅園画譜に息づく生命、江戸本草学の光芒
- JBC
- 2 日前
- 読了時間: 12分
毛利梅園(1798-1851)は、江戸時代後期に幕府の直参である旗本として職務に励む傍ら、本草学者 して卓越した業績を残した人物です。本名は元寿(もとひさ)。その生涯を通じて多岐にわたる動植物の精密な写生図譜を制作し、「梅園画譜」と総称される膨大な作品群を残しました。
生涯と経歴
生誕と出自:旗本毛利家の一員として
毛利梅園は寛政10年(1798)、江戸の築地において、江戸幕府旗本である毛利兵橘元苗(もとひで)の長男として生を受けました。梅園の家系は、戦国時代に中国地方を支配した大江毛利氏とは異なり、毛利重政を祖とする藤姓毛利氏に属しています。この出自は、梅園が特定の有力大名家の子弟ではなく、幕府直属の旗本としての地位にあったことを明確に示しています。
幼少期から青年期:本草学への関心の芽生え
梅園は享和3年(1803)に、木挽町築地の拝領屋敷から白山鶏声ヶ窪の古河藩土井家屋敷内へと転居いたしました 。本草学への情熱が本格的に芽生えたのは、文政3年(1820)頃、梅園が22歳になる頃からでした。この時期に植物に深い興味を抱き、写生に熱中するようになったと伝えられています。
当初、梅園は「梅樹園」と号していましたが、後に阿部正精から「欑華園」の号を賜りました。さらに「楳園」「写生斎」「写真斎」といった複数の号も用いています。これらの号、特に「写生斎」や「写真斎」といった「写生」を冠するものが多く見られることは、梅園が単なる動植物の収集家や分類学者に留まらず、実物に基づいた精密な描写そのものを学術的探求の中心に据えていたことを強く示唆しています。これは、梅園の学問が後の「実証主義」的アプローチの萌芽を内包していたと解釈できます。天保2年(1831)には動物、天保6年(1835)には菌類へと関心の対象を広げ、その写生活動を継続しました。
幕臣としての職務:書院番の役割と日常
梅園は文政5年(1822)に書院番諏訪備前守組に加入し、文政13年(1830)には父の遺領を相続いたしました。書院番は江戸幕府の職名の一つであり、若年寄に属する旗本の役職でした。その職務は、江戸城内の警護、将軍外出時の護衛、諸儀式の事務など多岐にわたるもので、平時には江戸城本丸御殿の虎之間に勤番し、玄関前中雀門や上埋門などの諸門の警備も担当いたしました。書院番は旗本の中でも身分の高い者が任命されるエリート職であり、幕府の中核を支える存在でした。
このような幕府の要職にありながら、梅園が本草学に深く傾倒し、膨大な写生図譜を制作できた背景には、書院番という職務の性質が関係していると考えられます。平時の職務は一定の拘束時間があったものの、戦時の軍務とは異なり、学術的探求に充てる時間的余裕があった可能性があります。また、旗本としての俸禄は、彼が研究に必要な道具や資料、あるいは珍しい動植物の標本を入手するための経済的基盤を提供したであろうと推測されます。
転居と号の変化:学問と生活の変遷
梅園の生涯においては、住居の転居も何度か記録されています。天保13年(1842)3月7日、牛込からの大火により梅園の屋敷が類焼いたしました。この火災の後、3月15日に麻布龍土町にあった長州藩毛利家の下屋敷に移り住み、この地で「梅竜園」と号しました。
弘化元年(1844)には写生活動を再開し、当初はツバキの諸品種の模写に注力いたしました 。その後、江戸近郊への採集活動を積極的に行い、嘉永元年(1848)9月には高尾山へ、嘉永2年(1849)3月には箱根へと足を運びました。さらに、小仏峠、大山、江ノ島、鎌倉、金沢など、広範囲にわたる地域を巡り、自ら動植物の採集を行ったとされています 。この事実は、梅園が単に持ち込まれた標本を写生するだけでなく、自ら野外に出て実物を探索する積極的な姿勢を持っていたことを示しています。これは、梅園が研究対象を直接観察することに重きを置いていたことを裏付けるものです。
晩年と逝去
嘉永2年(1849)を最後に梅園の写生活動は途絶え、その2年後の嘉永4年(1851)8月7日にこの世を去りました。梅園の墓は三田の正覚院に建立されました。53歳という生涯でしたが、その間に残された膨大な写生図譜は、梅園がいかに本草学の研究に情熱を注ぎ、時間を費やしたかを物語っています。
本草学者としての実績と著作
「梅園画譜」総覧:実証主義的写生図譜の集大成
毛利梅園の学術的功績は、彼が生涯で数多く残した精密な写生図譜群に集約されており、これらは総称して「梅園画譜」と呼ばれています。
梅園の写生手法の最大の特徴は、実物の観察に基づいた「真写」を重視した点にあります。当時の多くの絵師や学者が既存の図譜を模写することが一般的であった中で、梅園が実物観察にこだわった姿勢は特筆すべき点であり、日本の本草学における実証主義的な研究の先駆けと評価されます。写生年月日、産地、そして入手元をしばしば詳細に記録しており、これは当時の学術資料としては非常に先進的な試みでした。このような詳細な記録は、後世の研究者が梅園の作品を検証し、当時の生態系を理解する上で貴重な情報源となっています。一方で、梅園の作品は分類学的な意識が薄く、縮尺が示されていない点が欠点として指摘されることもあります。しかし、その精密で美しい描写は、学術資料としてだけでなく芸術作品としても高い評価を得ています。
主要著作の紹介と内容
毛利梅園の代表的な著作群は以下の通りです。これらの図譜は、江戸時代の博物学や自然観察の発展に大きく寄与いたしました。
毛利梅園 主要著作一覧
『梅園魚譜』:魚類研究の精華
『梅園魚譜』は3帖からなる魚類の写生図譜であり、その序文は天保6年(1835年)に記されています。この図譜は、日本で最初の魚介図説の一つとされており、85品目の魚介類が収載されています。
その描写は非常に精緻であり、魚のきらめきを表現するために雲母や金粉のような画材が用いられていると指摘されており、芸術作品としても高い評価を受けています。
『梅園草木花譜』:四季を彩る植物の記録
『梅園草木花譜』は、梅園が30年という長い歳月を費やして描き上げた17帖にも及ぶ壮大な植物図譜です。この図譜には、江戸時代に暮らしていた人々が見た草花や木々が、当時の姿のまま鮮やかに記録されています。
内容は「春之部」(4帖)、「夏之部」(8帖)、「秋之部」(4帖)、「冬之部」(1帖)に分かれており、梅、桃、桜、椿、牡丹、モクレン、アヤメ、ユリ、キクなど、多種多様な植物が季節ごとに分類されています。また、薬草類や野菜類、さらには輸入された植物に関する記録も含まれており、当時の植物相や文化交流を知る上で重要な手がかりとなっています。
『梅園禽譜』:鳥類観察の軌跡
『梅園禽譜』は鳥類の写生図譜であり、131点の鳥類が収録されています。序文は天保10年(1839年)に書かれていますが、実際の写生は文政12年(1829年)から弘化2年(1845年)にかけて行われました。トキやアホウドリなど、現在では稀少となった鳥類も含まれており、当時の日本の鳥類相を理解する上で貴重な資料となっています。
『梅園介譜』:貝類図譜の貢献
『梅園介譜』は貝類の写生図譜です。この図譜には、アカガイのような具体的な貝類が精密に描写されています 。江戸時代の旗本兼本草学者である武蔵石壽が著した『目八譜』(1845年)や『甲介群分品彙』(1836年)にワスレガイやベニワスレが記載されていますが 、梅園の『梅園介譜』もまた、当時の貝類研究の一端を担う重要な作品です。
『梅園菌譜』:菌類研究の先駆
『梅園菌譜』は菌類の写生図譜であり 、天保7年(1836年)頃に描かれたものです 。この図譜には、胡孫眼、萬年蕈、黄芝、欅茸、木耳、香蕈(しいたけ)、松蕈(まつたけ)、天狗蕈など、多種多様な菌類が収録されており 、当時の菌類に関する知識や観察の深度を示す貴重な資料となっています。
その他の著作:『梅園竒賞』『皇代系譜』
『梅園竒賞』は1828年に出版された書物で、動植物などを扱っています。また、『皇代系譜』も梅園の主著の一つとして挙げられています。
写生手法の特徴:実物観察と詳細な記録の重視
毛利梅園の写生手法の根幹は、実物観察に基づく「真写」の徹底にありました。これは、当時の本草学界において、既存の図譜の模写や伝聞に基づく描写が主流であった状況とは一線を画すものでした。梅園は、描かれた対象について、写生年月日、産地、そして入手元を正確に記すことを重視いたしました。この詳細な記録は、単なる絵画としての価値を超え、科学的な資料としての信頼性を高めるものでした。
例えば、『梅園魚譜』における魚のきらめきを表現するための雲母や金粉の使用 、あるいは『梅園草木花譜』が30年もの歳月をかけて描かれた事実は、梅園の観察眼の鋭さと、それを忠実に再現しようとする飽くなき探求心を示しています。このような実証主義的な態度は、日本の本草学が単なる薬用植物の知識から、より広範な博物学へと発展していく過程において、重要な先駆け的役割を果たしたと言えるでしょう。
本草学界における位置づけと影響
江戸時代後期の博物学・本草学の潮流:実証主義の発展
江戸時代後期は、本草学が薬用植物の研究という枠を超え、動植物、鉱物など自然界のあらゆる事物を対象とする博物学へと発展した時代でした。この時期の学問は、儒学や仏教といった従来の思想的枠組みから独立し、実証的・合理的な研究方法が重視されるようになりました。これは、貝原益軒が「自分の経験にもとづき」書物を著したことに見られるように、書物や先人の知識を絶対視せず、自らの目で見て、手で触れ、検証するという実証主義的なアプローチが広まったことを意味しています。
西洋の自然科学、特にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトらの影響も受け、本草学は形態や生態、地方名など、より客観的な情報を記録する博物学へと変化していきました 。このような潮流の中で、殖産興業政策とも結びつき、薬草の栽培や物産調査が盛んに行われるようになりました。前田利保が編纂を命じた『本草通串証図』のように、実物との照合を容易にするための精密な図版が求められるようになったことも、この実証主義の発展を象徴しています。
毛利梅園の独自性と学術的評価
このような実証主義の潮流の中で、毛利梅園は独自の道を切り開いた本草学者として評価されます。梅園の最大の独自性は、珍しい動植物や奇妙な種をむやみに追い求めるのではなく、普段身の回りに見られる動植物を対象とし、それらを実物に基づいて精密に写生する「真写」を徹底した点にあります 。これは、同時代の多くの本草家が分類への志向が薄かった中で 、梅園が実物の細部にわたる観察と記録に集中した姿勢を示しています。
梅園の作品群「梅園画譜」は、その精密で美しい描写から、学術資料としてだけでなく芸術作品としても高く評価されています。特に『梅園魚譜』における魚のきらめきを表現する画材の工夫 や、『梅園草木花譜』が30年を費やした大作であることは、彼の並々ならぬ情熱と技術の高さを物語っています。磯野直秀氏によって、『梅園画譜』は「江戸時代の動植物誌を通じての最高峰と断じてよいであろう」と評価されている武蔵石壽の『目八譜』に匹敵する、江戸時代屈指の動植物図譜の一つとされています。
同時代の学者との交流:拷鞭会との関連と交友関係の考察
毛利梅園の同時代の学者との交流については、いくつかの見解が存在します。一部の資料では、梅園が当時の本草学同好者との交流が少なかった、あるいはほとんどなかったと指摘されており、梅園の評価が明治以降に高まったとされています。これは、梅園が独学で研究を進めた可能性を示唆するものでした。
しかし、梅園は、大名や旗本を中心とする幕末の本草会である「赭鞭会」の一員であり、妍芳園設楽貞丈(1785—?)と交友があったことが確認されています。赭鞭会は、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと面談した水谷豊文らを通じて、昆虫標本の製作における西洋式の針を使った方法(「虫ハソノ脊(背)ノ正中ヲ布鍼(ぬのばり)ニテ刺」す)といった当時の最新の博物学の知識や技術に触れていました。設楽貞丈が会員であったことは、梅園が当時の最先端の博物学の動向に接する機会を持っていたことを示唆しており、梅園が完全に孤立した環境で研究していたわけではないことを物語っています。
また、小野蘭山や栗本丹洲といった当時の著名な本草学者との師事関係については、直接的な記述は見当たりません。しかし、彼らが江戸時代の本草学の潮流を形成した中心人物であったことを考慮すると、梅園が彼らの学術的影響を間接的に受けていた可能性は高いです。例えば、伊藤圭介が梅園の画帖を所蔵していたという記録があり、伊藤圭介と梅園がほぼ同時代に生きた本草学者、博物学者として何らかの交流があった可能性も示唆されています。
後世への影響と現代における価値
毛利梅園の作品は、江戸時代の博物学や自然観察の発展に大きく貢献し、その図譜は後の世代の学者や画家に多大な影響を与えました 。梅園の作品は、当時の日本の生態系を理解する上で貴重な情報源であり続けています。
現代においても、梅園の功績は再評価され続けています。彼の作品群はデジタル化され、国立国会図書館のデジタルコレクションなどを通じて、多くの人々が容易にアクセスできるようになりました 。これにより、彼の精密な観察眼と描写技術、そして実証主義的な研究姿勢が、現代の自然科学研究者や美術史家、一般の歴史愛好家にも広く知られる機会が増えています。彼の作品は、江戸時代の学問と芸術が融合した貴重な文化遺産として、その価値を未来へと伝え続けています。
おわりに
毛利梅園は、江戸時代後期の激動期に、旗本という公的な身分と本草学者という学術的な探求を両立させた稀有な存在でした。梅園の生涯は、単なる武士の職務に留まらず、自然界への飽くなき好奇心と、それを精密に記録しようとする情熱に満ちていました。特に「真写」を重視した彼の写生手法は、当時の本草学が経験的・実証的なアプローチへと転換していく過程における重要な一歩であり、日本の博物学の近代化に先鞭をつけたものと評価できます。
「梅園画譜」と総称される彼の膨大な著作群は、魚類、植物、鳥類、貝類、菌類といった多岐にわたる生物を網羅し、その一つ一つが当時の生態系や人々の自然観を伝える貴重な資料となっています。その学術的価値はもとより、精緻で美しい描写は芸術作品としても高い評価を確立しています。
梅園の残した遺産は、過去の知の探求が現代の私たちに与える示唆の大きさを物語っており、その学術的・芸術的価値は今後も長く継承されていくでしょう。
梅園草木花譜
春之部

夏之部

秋之部

冬之部

梅園海石榴花譜
毛利元寿梅園<毛利梅園>//模写『梅園海石榴花譜』,写,天保15(1844).国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1286917
草木実譜
毛利梅園『草木実譜』,写.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2537209