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江戸の自然を彩った知の結晶:岩崎灌園と『本草図譜』

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 3月1日
  • 読了時間: 15分

更新日:6月20日


日本の四季を彩る花々、そしてそれを慈しみ、生活に取り入れてきた私たちの文化は、古くから豊かな歴史を紡いできました。春の桜に始まり、夏の朝顔、秋の菊、冬の椿と、季節の移ろいを花に重ね、その生命の輝きに心を癒し、感動を覚えてきたことでしょう。花見の賑わいから茶室の一輪まで、花は単なる植物を超え、私たちの精神性や美意識を映し出す鏡であり、自然との対話の象徴でもありました。

この豊かな花卉/園芸文化の歴史の中で、江戸時代に生み出された一冊の書物が、現代にまでその輝きを放っています。それが、本草学者・岩崎灌園(いわさき かんえん)が半生をかけて編纂した『本草図譜(ほんぞうずふ)』です。この書物は、単に植物を記録した図鑑という枠を超え、当時の日本人が自然とどのように向き合い、いかに深く理解しようとしたかを示す、知の結晶と言えます。本稿では、『本草図譜』がどのような書物であり、いかにして生まれ、そして日本の花卉文化にどのような深い意味と哲学をもたらしたのかを探求します。



1. 『本草図譜』とは:江戸の知が生んだ植物の百科全書


『本草図譜』は、江戸時代後期の本草学者、岩崎灌園が約20年の歳月をかけて準備・完成させた、全96巻(現存92冊)からなる空前の大作です。約2000種もの植物が収録されており、これは当時の日本で編纂された植物図譜としては最大規模を誇ります。   


灌園は、既存の本草書が内容的に優れていても、図が簡略であることに不満を抱いていました。そこで、自ら精密な植物図を描き、詳細な解説を添えることで、より分かりやすく実用的な本草書を目指しました。本書の最大の特徴は、日本で初めて出版された本格的な「カラーの植物図鑑」である点にあります。すべての図に手描きで彩色が施されており、植物の細部まで鮮やかに表現されています。これは当時の日本の高い版画技術を示すものであり、科学的な正確さだけでなく、芸術的価値も高く評価されています。   


『本草図譜』に込められた「科学的な正確さ」と「芸術的な美しさ」の融合は、江戸時代の知的・芸術的追求における深い潮流を示しています。この時代は、本草学に代表される実証的な科学的探求と、浮世絵や円山派の写生画に象徴される洗練された芸術表現が同時に発展しました。本書が両者の高水準を達成した事実は、当時の文化がこれら二つの領域を対立するものとしてではなく、相互に補完し合うものとして捉えていたことを物語っています。科学的観察が芸術的な表現に深みを与え、芸術的な技巧が科学的記録の精度を高めるという、知識への包括的なアプローチがそこにはありました。これは、単なる目録作成に留まらず、自然の持つ本質的な美しさを精密な描写を通して理解し、鑑賞しようとする、当時の日本独自の感性を反映しています。

分類体系としては、中国明代の李時珍による『本草綱目』を参考に、山草、芳草、湿草、毒草、蔓草、水草、石草、苔類、麦稲、葷菜、柔滑、鋪菜、水菜、五果、山果、夷果、水果、香木、喬木、潅木、苞木といったカテゴリーに分類されています。これに加えて、服帛類(生活物産)にも言及しており、当時の植物利用の多様性を示しています。   


『本草図譜』の基本情報は以下の通りです。

項目

内容

著者

岩崎灌園(常正)

完成年

文政11年(1828年)

収録植物数

約2000種

巻数/冊数

全96巻(現存92冊)

主な特徴

日本初の本格的彩色植物図鑑、精密な手描き彩色、中国の分類体系と日本の植物相の融合

現代の主な所蔵先

国立公文書館、東京大学大学院理学系研究科附属植物園など    



2. 岩崎灌園の生涯と『本草図譜』誕生の背景



2.1. 幼少期の情熱と師との出会い


岩崎灌園、本名を常正といい、天明6年(1786)に江戸下谷三枚橋で、幕府の軽輩である御徒の子として生を受けました。幼い頃から植物に強い興味を示し、友人たちと植物採集旅行を催すなど、その情熱は幼少期から芽生えていました。   


灌園の幼少期からの植物への強い関心は、当時の江戸社会における知的好奇心の広がりを象徴しています。身分の低い武士の子でありながら、自らの興味を追求し、仲間とともに野外での実地調査を行う姿勢は、専門家だけでなく、大名から町人に至るまで、幅広い層に博物学的な関心(博物趣味)が浸透していた江戸時代の文化的土壌を背景にしています。このような環境が、岩崎灌園のような人物が専門的な学問へと進むことを可能にしました。   


文化6年(1809)、23歳の時に当時きっての大本草学者である小野蘭山の門を叩きます。しかし、わずか3ヶ月後に蘭山は逝去してしまい、師から直接学べる期間は短かったものの、蘭山の学問的姿勢は灌園に大きな影響を与えたと考えられます。蘭山は、ドイツ人医師シーボルトから「日本のリンネ」と称されるほどの碩学であり、その門下からは『解体新書』の杉田玄白をはじめ、飯沼慾斎や伊藤圭介といった日本の近代植物学の基礎を築いた著名な本草学者・植物学者が多数輩出されました。灌園が蘭山の門を叩いたこと、そして蘭山が西洋の学者からも高く評価されていた事実は、当時の日本の学術界が孤立していたわけではなく、世界的な知の潮流と無意識のうちに繋がりを持っていたことを示唆しています。   



2.2. 幕府からの支援と大作への挑戦


灌園の才能は、若年寄であった堀田正敦に見出されることで、大きな転機を迎えます 。正敦は学問を奨励し、私財を投じて学者を支援する好学の人物でした。   


文化11年(1814)、28歳の灌園は、正敦の推挙により、屋代弘賢が幕府の命で編纂していた百科事典『古今要覧稿』の編集、特に草木部の執筆と図版製作を手伝うことになります。この機会に、灌園は幕府の膨大な蔵書に接することができ、本草学研究を飛躍的に深めることができました。正敦は『本草図譜』の作成を支援しただけでなく、蘭山を医学館に招聘するなど、灌園の研究環境を整える上で重要な役割を果たしました。   


このような高位の幕臣による支援は、江戸時代の学術研究において極めて重要でした。灌園のような個人が、自力ではアクセス困難な膨大な文献資料や、研究に集中できる環境を得るためには、堀田正敦のような理解あるパトロンの存在が不可欠でした。これは、当時の学術成果が個人の才覚だけでなく、時の権力者や機関の支援によって大きく左右されたことを示しています。幕府が『古今要覧稿』のような大規模な知識集積事業を推進したことは、実用的な知識の蓄積に対する国家的な関心が存在したことを意味し、灌園の『本草図譜』のような実証的な研究が、そうした国家的な知の探求と密接に結びついていたことを物語っています。灌園の個人的な情熱と、公的な支援が相まって、空前の大作が構想され、実現へと向かう土台が築かれたのです。



2.3. 半世紀にわたる苦難と完成


『本草図譜』は、灌園が20歳代から準備を始め、文政11年(1828)、42歳または43歳の時に草稿が完成したとされています。この大作は、約20年の歳月をかけて編纂されました。


制作は、日本の動植物約2000種を自ら写生するという、膨大な労力を要する作業でした。灌園は、採薬調査に積極的に参加し、実地経験に基づいた知識を深めました。   


完成後も、その出版には大きな困難が伴いました。全96巻(92冊)が完成したものの、文政13年(1830)に出版されたのはわずか5巻から10巻程度、あるいは6巻のみでした。残りの大部分は未出版のまま、原本の模写を希望者に有料で配布するという形式が取られました 。この出版の困難さが、完成までの大きな苦労であったと推測されます。灌園が没した天保13年(1842)には巻56まで刊行され、子息の信正が弘化元年(1844)に配布を完了したと記録されています。   


この長期にわたる制作期間と出版の困難さは、江戸時代の科学出版が直面した現実を浮き彫りにします。現代のような大量印刷技術がない時代において、手描き彩色が施された2000種もの植物図譜を制作し、さらにそれを複製・頒布することは、途方もない時間と費用を要する事業でした。初期の限定的な木版印刷と、その後の予約制による手書き写本の頒布という形式は、当時の出版技術の限界と、それでもなおこの種の専門知識に対する熱烈な需要が存在したことを示しています。高価な写本を求める読者層が存在したことは、本草学が一部の富裕層や学者だけでなく、広く知識を求める人々に支えられていたことを物語ります。また、写本による頒布は、熟練した写字生や絵師の存在が不可欠であり、彼らが当時の知の伝播において重要な役割を担っていたことも示唆しています。灌園の『本草図譜』は、単なる個人の業績に留まらず、当時の社会経済的、技術的な制約の中で、いかにして大規模な学術成果が共有されていったかを示す貴重な事例と言えるでしょう。



3. 『本草図譜』が示す文化的意義と哲学



3.1. 精緻な植物画が伝える美意識と科学性


『本草図譜』の精緻な植物画は、単なる植物の記録に留まらず、当時の日本人が自然に対して抱いていた独特の美意識を色濃く反映しています。その描写は、科学的な正確さ(写実性)と芸術的な美しさ(芸術性)を兼ね備えており、植物の生命感や生育環境、特徴を捉えた構図は、現代においても高く評価されています。   


江戸時代の絵画、特に「本草画」は、本草学の影響を強く受けて発展しました。円山応挙に代表される「写生」の精神は、単なる忠実な模写ではなく、対象の「気」(生命感)や「生気」を捉えようとする姿勢に通じています。顕微鏡の導入も、小さな虫の正確な描写を可能にし、視覚的正確さを追求する動きを加速させました。   


『本草図譜』は、この科学的探求と芸術的表現の融合の具体的な成果であり、当時の知的好奇心と美的追求が分かちがたく結びついていたことを象徴しています。さらに、本草学の普及は、俳諧や和歌における「季語」に象徴される伝統的な季節との一体感を相対化し、植物をそのものとして、より客観的に、そして網羅的に捉える視点をもたらしました。これは、自然を普遍的な「モノ」として認識しようとする、近代的な科学的視点の萌芽を示しています。   


この「脱季語性」という植物の捉え方の変化は、日本の自然観における深い転換点を示唆しています。伝統的に、日本の文化では花や植物は季節の象徴や詩的な連想と深く結びついていました。しかし、本草学の発展は、植物をその生物学的実体として、より客観的に、そして体系的に観察することを促しました。これにより、植物は単なる季節の風物詩ではなく、それ自体が持つ形態や生態、多様性において美を見出す対象となりました。この変化は、科学的な実証主義が日本の伝統的な美意識と融合し、新たな美の価値観を生み出したことを意味します。つまり、『本草図譜』は、単に植物を記録するだけでなく、自然を理解し、美を創造する新たな方法を提示した、文化的な革新の象徴でもあったのです。



3.2. 「格物致知」の精神と自然観


江戸時代の博物学の思想的核心には、朱子学の「格物致知(かくぶつちち)」という哲学がありました。これは「森羅万象いかなるささいなものにも根本法則がある」という考え方で、目の前の自然物を徹底的に観察し、その本質を究明することで、宇宙の真理に到達しようとする精神性を表しています。   


『本草図譜』における精緻な図譜作成と体系的な分類を試みる実証的な研究姿勢は、まさにこの「格物致知」の実践そのものでした。灌園をはじめとする本草学者たちは、自然物を詳細に観察し分類するという実証的な手法を取りながらも、その行為自体を宇宙の真理に迫る精神的な修養と捉えていました。   


多くの本草学者が儒学を修めた「儒医」であったことも重要です。彼らにとって、植物を深く知ることは、すなわち天地自然の摂理を学び、人間としての「仁」(仁愛、慈愛)を深めることでもありました。これは、知の探求が単なる客観的な知識収集に留まらず、儒教的な「仁」の思想に裏打ちされた倫理的・哲学的な営みであったことを示唆しています。中国の文化において「一花一世界」という思想があるように、花は単なる美の象徴ではなく、宇宙の縮図であり、人間倫理や精神性の表現媒体でもあったのです。   


この「格物致知」と「仁」の思想が本草学に統合されていたことは、江戸時代の科学的探求が、現代の科学とは異なる、より包括的な目的を持っていたことを示しています。西洋の科学が客観性と対象からの分離を重視する傾向があったのに対し、江戸の本草学者たちは、自然の観察を通じて自己を修め、宇宙の秩序と人間の倫理的あり方を理解しようとしました。彼らにとって、植物の細部を観察し、その本質を究明する行為は、単なる知識の蓄積ではなく、天地万物への深い敬意と慈愛を育む精神的な実践でした。これは、自然科学が倫理的・哲学的探求と不可分であった時代の知のあり方を示し、現代の環境倫理や生命尊重の思想にも通じる普遍的な価値観を内包しています。



3.3. 園芸文化の隆盛と『本草図譜』の役割


江戸時代は、海外との交易や参勤交代によって多くの植物が日本に持ち込まれ、人々の間に「空前の園芸ブーム」が到来しました。美しく珍しい植物に魅了された人々は、様々な品種の栽培や鑑賞に熱中しました。   


『本草図譜』は、このような園芸熱の高まりを背景に、人々の関心を集めた作品といえます。灌園自身も観賞用植物に強い関心を寄せており、ケシ、ユリ、センノウ、ハス、キク、ウメ、ツバキ、ムクゲ、モモ、マツ、タケなど、多くの品種を詳細に記載しています。   


この園芸ブームと『本草図譜』の密接な関係は、学術的な著作がどのようにして大衆文化や経済活動と結びついていたかを示しています。新しい植物種が導入され、多様な品種が生まれる中で、正確な植物の同定と詳細な情報が求められました。灌園の『本草図譜』は、その精密な図と解説によって、愛好家や栽培者にとって貴重な手引きとなり、彼らが植物をより深く理解し、楽しむことを可能にしました。これは、本草学が単なる薬用植物の研究に留まらず、人々の生活を豊かにする園芸文化の発展にも貢献したことを意味します。つまり、本書は当時の社会文化と知のダイナミズムを反映した存在であり、植物学的な知識が、実用的な側面から美的・娯楽的な側面へと広がり、より広い層に浸透していく過程を物語っているのです。   



4. 現代に息づく『本草図譜』の価値


『本草図譜』は、当時の本草学における「金字塔的な作品」として、日本の植物学史、ひいては自然科学の発展において極めて重要な位置を占めています。その出版は、その後の植物図譜の模範となり、現代においても、植物学、薬学、博物学などの分野で、当時の植物の形態や分布、利用方法などを知るための貴重な資料として活用されています。   



現代の評価と活用事例


  • 学術的価値:東京大学大学院理学系研究科附属植物園には、小石川植物園の名の入った非常に出来の良い筆写本が保管されており、個々の植物画が必ずしも精密でなくとも、それぞれの植物の特徴を実によくとらえていると評価されています。多くの研究者によって調査・研究が行われ、その歴史的意義や現代における価値が明らかにされています 。例えば、矢部一郎氏の論文では灌園がシーボルトと交流し、西洋植物学の知識を取り入れていたことが指摘され、佐々木正巳氏の論文ではシーボルトから得たラテン名やオランダ語名を記録した手稿が紹介されています 。これは、当時の日本の学術が、鎖国下にあっても西洋の知見を取り入れようとする柔軟性を持っていたことを示しています。   


  • 芸術的価値とボタニカルアートへの影響:『本草図譜』の精緻な植物画は、現代のボタニカルアートにも多大な影響を与え続けています。その写実性と芸術性を兼ね備えた植物図は、文化財としての価値も高く、美術品としても高く評価されています。過去には、徳川美術館や静嘉堂文庫美術館などで、江戸時代の博物図譜をテーマとした展覧会が開催され、『本草図譜』も展示されました。特に、浮世絵に見られるような大胆な構図やクローズアップ、美しい木版刷りの色彩は、そのデザイン性の高さを示しています。   


  • 文化的象徴としての活用:2023年には、果実や野菜などの図譜がデザインに採用された特殊切手「自然の記録シリーズ 第3集」の元絵として、『本草図譜』が選ばれました 。これは、本書が現代においても日本の自然と文化を象徴する存在として広く認識されている証拠と言えるでしょう。   


『本草図譜』が現代において多岐にわたる分野で評価され、活用されている事実は、それが単なる歴史的な遺物ではなく、「生きた文化遺産」であることを強く示唆しています。その科学的な正確さは、現代の植物研究者にとって過去の植物相や分布を知る上で不可欠な資料であり続けています。同時に、その卓越した芸術性は、ボタニカルアートという分野を通じて現代の創作者たちにインスピレーションを与え、美術展での展示は、時代を超えた美の普遍性を証明しています。さらに、特殊切手のデザインに採用されたことは、学術や芸術の専門分野を超え、一般の人々にも日本の自然と文化の象徴として広く受け入れられていることを意味します。これは、『本草図譜』が持つ多面的な価値が、現代社会において新たな形で再認識され、過去と現在を結びつける重要な役割を果たしていることを物語っています。



結び


岩崎灌園と彼が生み出した『本草図譜』は、単なる植物図鑑の枠を超え、江戸時代の知の探求、美意識、そして自然への深い敬意が凝縮された文化遺産です。彼の幼少期からの植物への情熱、師である小野蘭山との出会い、そして若年寄堀田正敦の支援という幸運に恵まれながらも、半世紀にわたる苦難を乗り越えて完成させたこの大作は、緻密な観察眼とそれを形にする芸術的才能の結晶と言えます。

『本草図譜』は、科学的な正確さと芸術的な美しさを融合させ、従来の「季語性」を超えて植物を普遍的な存在として捉える新たな視点をもたらしました。また、朱子学の「格物致知」の精神に基づき、自然の観察を通じて宇宙の真理と人間としての「仁」を追求するという、科学と哲学、倫理が一体となった当時の知のあり方を体現しています。さらに、江戸時代の空前の園芸ブームの中で、観賞用植物の記録を通じて、学術的な知識が庶民文化と結びつき、その発展に貢献した側面も持ち合わせています。

現代においても、『本草図譜』は植物学、薬学、博物学の貴重な資料として、またボタニカルアートや美術史における傑作として、その価値は色褪せることなく、多くの人々に影響を与え続けています。特殊切手のデザインに採用されるなど、日本の文化を象徴する存在としても広く認識されています。

『本草図譜』は、過去の遺産としてだけでなく、科学と芸術、そして哲学が一体となった、現代にも通じる普遍的な価値を持つ「生きた知識」として、これからも日本の花卉文化の魅力を伝え続けていくことでしょう。この一冊が、皆さんの心に、新たな発見と自然への慈しみの種を蒔くことを願ってやみません。



本草図譜の画像
本草図譜の画像

※ ストレージ関係のためリンク先(GoogleDrive弊社アカウント)にデータを格納してあります。



※ 画像引用

1 山草類 五 ~72 果部水果類 七十六

国立公文書デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/item/4352261


73 香木類 七十七~92 服帛類・器物類 九十六

国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287210






参考/引用










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