朝、鮮やかな珍しい花の朝顔集:朝鮮珍花蕣集
- JBC
- 2024年9月22日
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更新日:4 日前
1. 朝顔が織りなす、江戸の夢と情熱
一輪の朝顔に、どれほどの歴史と情熱が込められているか、想像したことはあるでしょうか。朝に咲き、昼にはその姿を閉じる朝顔の儚い美しさは、古くから日本人の心を捉えてきました。しかし、その刹那の輝きの中に、人々は不朽の遺産を見出し、それを形として残そうとする強い衝動を抱いていたのです。これは、無常の中に美を見出す日本の伝統的な美意識、すなわち「もののあわれ」に通じるものでありながら、同時にその美を永遠に留めようとする創造的な営みでもありました。
江戸時代は、単なる平和な時代として語られるだけでなく、文化、特に園芸が驚くべき発展を遂げた特異な時代でした。身分を問わず多くの人々が花卉栽培に熱中し、その情熱は現代の私たちからは想像もつかないほどの深さを持っていました。本記事では、この時代の園芸文化の粋を集めた貴重な資料、峰岸正吉の『朝鮮珍花蕣集』の世界を探求します。この図譜は、当時の人々の芸術性、科学性、そして植物への飽くなき情熱が凝縮されたものであり、私たちに新たな発見と感動をもたらしてくれることでしょう。
2. 『朝鮮珍花蕣集』とは:幻の図譜が語る朝顔の美
2.1 稀代の朝顔図譜、その全貌
『朝鮮珍花蕣集』(ちょうせんちんかあさがおしゅう)は、江戸時代後期、文化12年(1815)に刊行された朝顔の品種解説書です。この図譜は、単なる植物の記録に留まらず、当時の朝顔栽培における驚くべき多様性と、それを視覚的に捉えようとした人々の情熱を現代に伝えています。本書には、166種類もの朝顔の花や葉の形状と色が詳細に記述されており、そのうち40種類は精緻な彩色画で描かれています。文字情報と絵画が一体となり、当時の朝顔の姿を鮮やかに再現している点が特筆されます。この貴重な資料は、現在、国立国会図書館デジタルコレクションを通じて閲覧することが可能であり、現代においてもその価値は高く評価されています。
2.2 峰岸正吉と絵師たちの息吹
『朝鮮珍花蕣集』の著者である峰岸正吉(生没年未詳)は、大坂難波の神官でありながら、当時の朝顔栽培における「重鎮」として知られていました。現代の感覚からすると、神職という精神的な役割を担う人物が、一方で世俗的な園芸文化の最先端を担っていたという事実は、当時の社会の複合的なあり方を示唆しています。江戸文化は特定の専門分野に閉じこもることなく、多様な知識や技術、情熱が交錯し、新たな価値を生み出していたのです。
この図譜の絵を担当したのは、大坂の浮世絵師である丹羽桃渓と三木探月斎でした。彼らの筆致は、単に植物の形態を正確に描写するだけでなく、その「生き生きとした命」や「瑞々しさ」をも捉えようとするものでした。峰岸正吉が持つ栽培に関する専門知識と、浮世絵師たちの芸術的表現力が融合することで、この図譜は単なる植物の記録を超え、当時の「本草学」の発展と「写生画」の芸術性が一体となった作品となりました。これは、江戸時代において「知」の探求と「美」の追求が密接に結びつき、互いに高め合う関係にあったことを示すものであり、現代のサイエンスアートにも通じる、当時の先進的な文化創造のあり方を物語っています。
3. 歴史と背景:江戸を席巻した朝顔ブームの光と影
3.1 朝顔、薬用から観賞用へ
朝顔は、奈良時代に中国から薬用植物として日本に伝来しました。当初は「牽牛子(けんごし)」と呼ばれ、下剤や利尿剤として利用されていたと伝えられています。しかし、平安時代や鎌倉時代には既に観賞用としても親しまれるようになり、室町時代には白い朝顔が描かれるなど、品種改良の萌芽が見られ始めました。
3.2 江戸園芸文化の隆盛と二度の朝顔ブーム
江戸時代に入ると、日本の園芸文化は飛躍的な発展を遂げます。徳川家康、秀忠、家光といった歴代将軍が花をこよなく愛したことが、このブームの火付け役となりました。将軍家の影響は諸大名へと波及し、彼らの広大な屋敷の庭は花卉栽培の場となりました。やがて、この園芸趣味は中級武士から富裕な町人層、さらには裏長屋に住む庶民へと広がり、江戸の町は「園芸都市」としての様相を呈するに至ります。安定した社会情勢と、都市に人々が密集して暮らす構造が、植物に関する情報交換を活発化させ、園芸ブームを後押しする重要な要因となりました。
特に朝顔は、江戸時代に二度の大きなブームを巻き起こしました。
第一次ブーム(文化・文政期:文化元年/1804年~文政13年/1830年): このブームの発端は、文化3年(1806)に発生した江戸大火(丙寅の大火)でした。火災によって下谷(現在の東京都台東区)に広大な空き地が生まれたことが、朝顔栽培の新たな拠点となります。ここで植木職人たちが品種改良した朝顔、特に「変化朝顔」と呼ばれる奇妙な姿の品種が人々の注目を集め、爆発的な人気を博しました。その熱狂ぶりは、下級武士が内職として朝顔栽培を行い、高値で取引されるほどでした。この時期には、多くの図譜や番付表が刊行され、朝顔の優劣を競う「闘花会」も盛んに開催されました。
第二次ブーム(嘉永・安政期:嘉永元年/1848年~安政7年/1860年): 第一次ブームの熱が冷めた後、嘉永・安政期に再び朝顔熱が高まり、約1200もの系統が生み出されるなど、より複雑で多様な品種が登場しました。この第二次ブームを牽引したのは、自ら「朝顔師」と名乗った植木屋の成田屋留次郎や、北町奉行を務めた旗本の鍋島直孝といった著名な栽培家たちでした。彼らの尽力により、品評会(花合わせ会)はさらに盛んになり、朝顔は江戸の人々の生活に深く根ざした文化となりました。明治期に入ってからも、大輪咲きが主流となる第三次ブームが到来し、朝顔の人気は継続しました。
これらの朝顔ブームは、単なる流行ではなく、江戸時代の社会経済的安定と深く結びついていました。江戸大火後の空き地の活用は、災禍を転じて新たな文化活動の場を生み出した好例です。また、下級武士が朝顔栽培を内職としたことは、当時の社会階層を超えた園芸への広がりと、経済的な側面が文化活動に影響を与えていたことを示唆しています。これは、文化現象が単独で発生するのではなく、社会の安定、経済的なゆとり、都市の構造変化といった複合的な要因によって育まれるという、より深い因果関係を示しています。
3.3 「朝鮮」の名の真実:異国への憧れと「珍花」の追求
『朝鮮珍花蕣集』という書名に冠された「朝鮮」という言葉は、現代の読者には誤解を与えやすいかもしれません。しかし、江戸時代の植物名における「朝鮮」は、必ずしも地理的な朝鮮半島原産を意味するものではありませんでした。むしろ、「異国風の」「珍しい」「風変わりな」といった「エキゾチックさ」や「珍奇性」を表現するために用いられることが多かったのです。例えば、「チョウセンアサガオ」(ダチュラ)は、その名の通り「朝鮮」を冠していますが、原産地は熱帯アメリカであり、その印象が日本的でなかったためにこの名が付けられました。
この命名の背景には、鎖国下でありながらも、江戸時代の人々が「珍花」や「奇品」に抱いた強い好奇心と「異国趣味」がありました。彼らは舶来品や異国の文化に強い憧れを抱き、それを自らの美意識や生活に積極的に取り入れていました。『朝鮮珍花蕣集』は、朝鮮通信使のような外交的交流があった時代に刊行されましたが、この図譜の朝顔が直接朝鮮半島から伝来したことを示すものではなく、むしろ当時の日本人が「珍しいもの」に与えた美的価値観を反映していると解釈できます。この命名法は、単に植物を分類するだけでなく、その植物が持つ「異質性」や「珍しさ」を積極的に評価し、愛でるという、当時の日本人の美的感受性と好奇心の表れであり、江戸時代の多様な文化交流の側面を示唆しています。
4. 文化的意義と哲学:変化朝顔に宿る日本人の精神性
4.1 遺伝の神秘と「出物」への情熱
「変化朝顔」とは、遺伝子の突然変異によって、花や葉の形、色などが通常とは大きく異なる姿に変化した朝顔の総称です。変化朝顔には、「正木(まさき)」と「出物(でもの)」という二つのタイプが存在します。「正木」は種子ができ、その種子から親と同じ形の花が咲く安定した系統である一方、「出物」は種子ができにくく、朝顔とは思えないほど奇抜な形をしており、その維持には多大な労力と知識が必要でした。
特に「出物」の維持には、現代の遺伝学にも通じる驚くべき選抜・維持方法が用いられていました。見た目では区別できない「出物抜けの株」と「出物の遺伝子を持つ親木」を区別するため、栽培家たちはそれらを「親木候補」として育て、できた種子を試験的に蒔き、実際に「出物」が出るかどうかによって親木を特定し、選抜・維持していたのです。これは、メンデルの遺伝法則が発見されるはるか以前に、江戸の栽培家たちが経験的に遺伝の仕組み、特に劣性遺伝子の存在と表現型の発現メカニズムを理解し、実践していたことを示唆しています。彼らは単なる情熱家ではなく、高度な観察力と試行錯誤に基づく科学的なアプローチを用いていた「プロト遺伝学者」であったと位置づけることができます。この事実は、江戸時代の園芸文化が持つ知的な深みを強調しています。
4.2 緻密な命名法と美意識の結晶
変化朝顔には、その多様な形質を的確に表現するために、葉、茎、花の順にそれぞれの特徴を表す言葉を組み合わせた、独特かつ緻密な「花銘」が付けられていました 。この命名規則は、一見複雑に見えますが、一定のルールに基づいています。例えば、「青斑入蜻蛉葉木立桃覆輪丸咲」という花銘は、以下のように解釈できます。
要素 | 花銘の例(「青斑入蜻蛉葉木立桃覆輪丸咲」) | 意味 |
葉 | 青斑入蜻蛉葉 | 青い斑点のあるトンボのような形の葉 |
茎 | 木立 | 木のように直立する茎 |
花 | 桃覆輪丸咲 | 桃色の覆輪があり、丸く咲く花 |
この命名法は、現代の遺伝学から見ても理にかなったものと言えるほど、当時の人々の観察眼と分類能力の高さを示しています。単なる記録に留まらず、当時の日本人が持つ自然への深い洞察力と、微細な変化の中にも美を見出す繊細な美意識の結晶であったと言えるでしょう。
4.3 自然との対話、そして「変化」を愛でる心
変化朝顔の栽培は、単なる趣味を超え、自然の神秘や生命の営みと向き合う哲学的な行為でした。欧米の園芸が「完成された美」や「均一性」を追求する傾向が強いのに対し、江戸の「変化朝顔」は、むしろ「奇形」や「突然変異」といった「変化」そのものを美の対象としました 。これは、不完全さや移ろいゆくものの中に美を見出す日本の伝統的な美意識、例えば「わび・さび」や「もののあわれ」と深く結びついています。
栽培家たちは、種子からどのような花が咲くか分からないという不確実性を受け入れ、その中から稀有な「変化」が生まれることに喜びを見出しました。これは、自然を支配するのではなく、その「変化」を尊重し、対話する姿勢であり、現代にも通じる持続可能な自然観の萌芽とも言えるでしょう。さらに、予測不能な「出物」の栽培は、自然の摂理や宇宙の神秘に対する畏敬の念、そしてその変化を受け入れ、楽しむという、より広範な宇宙観を反映しています。これは、単なる植物の鑑賞を超え、生命の多様性と無常観を内包した、日本独自の哲学的な営みであったと言えます。峰岸正吉の『朝鮮珍花蕣集』は、こうした江戸時代の人々の自然への飽くなき探求心、そして「変化」の中に宿る美を追求する精神性を、図譜という形で現代に伝えています。
5. 結び:現代に息づく『朝鮮珍花蕣集』の遺産
峰岸正吉の『朝鮮珍花蕣集』は、単なる過去の植物図譜ではありません。それは、江戸時代の豊かな園芸文化と、そこにあった人々の知的好奇心、芸術的センス、そして自然への深い敬意を現代に伝える「生きた文化遺産」です。この図譜に記録された緻密な観察と分類、そして「変化」を愛でる精神性は、現代の私たちにも多くの示唆を与えます。
特に、「変化朝顔」のような江戸時代の植物図譜や栽培記録は、単なる歴史資料としてだけでなく、現代の植物科学、特に遺伝子研究においても貴重な情報源となっています。過去の経験的知識が、現代の高度な科学技術と結びつくことで、新たな発見や可能性を生み出すという、学際的な価値を示しているのです。歴史的な文化遺産が、現代社会において予期せぬ形で新たな意義を見出し、未来の発展に貢献するという波及効果は、計り知れません。
日本の花卉・園芸文化は、単に美しい花を育てるだけでなく、生命の神秘と向き合い、その「変化」を愛でるという、普遍的な価値観を内包しています。『朝鮮珍花蕣集』のような歴史的資料は、その奥深さを私たちに再認識させ、日常の中に潜む美と、自然との対話の重要性を教えてくれます。この古き良き文化の遺産に触れることで、現代の私たちもまた、新たな発見と感動に満ちた園芸の世界へと誘われることでしょう。
峰岸正吉 編 ほか『朝鮮珍花蕣集』,浅田清兵衛,文化12 [1815]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2540516