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朝、鮮やかな珍しい花の朝顔集:朝鮮珍花蕣集

更新日:1月27日


峰岸正吉について


峰岸正吉は、江戸時代後期に活躍した朝顔栽培の重鎮です。大坂難波の神官であり、当時流行していた変化朝顔の栽培に深く関わっていました。 残念ながら、峰岸正吉の正確な生没年は分かっていません。 しかし、彼が1829年(文政12年)に刊行した『朝鮮珍花蕣集』は、現代においても江戸時代の朝顔文化を理解する上で貴重な資料となっています。   


峰岸正吉の人物像を具体的に示す資料は、現在のところ見つかっていません。 しかし、『朝鮮珍花蕣集』の序文や本文からは、彼が朝顔に対して深い愛情と造詣を持っていたことが窺えます。彼は、166種類もの朝顔の花や葉の特徴を詳細に観察し、その変化の多様さに魅了されていました。 また、丹羽桃渓や三木探月斎といった当時の著名な浮世絵師に依頼して朝顔の絵を描かせ、その美しさを記録に残そうとしたことからも、彼の朝顔への情熱が伝わってきます。   




『朝鮮珍花蕣集』の内容


『朝鮮珍花蕣集』は、峰岸正吉が著した朝顔の品種解説書です。 この書には、166種類もの朝顔の花や葉の形状と色を記しており、そのうち40種類は彩色画で描かれています。   


元のタイトルである「朝鮮珍花蕣集」は、一見すると朝鮮半島原産の朝顔の図譜のように思えますが、実際には「朝に咲く鮮やかな花」という意味で、江戸時代に日本で流行した変化朝顔を扱っています。   


本書は1829年2月に初版が刊行されました。 しかし、版元の都合により一度出版が中止され、同年7月に『牽牛品類図考』と改題して再刊行されました。 再刊にあたっては、序文と本文が一部変更され、図表も41枚に増えています。 タイトルが変更された理由としては、元のタイトルが論争を招いたり、誤解を招く可能性があったと考えられます。


『朝鮮珍花蕣集』には、当時の朝顔栽培の流行を反映して、丹羽桃渓、三木探月斎といった著名な浮世絵師による美しい彩色画が多数掲載されています。初版では40枚だった図表が、再版では41枚に増えていることからも、当時の出版事情や、朝顔に対する人々の関心の高さが伺えます。   

 



『朝鮮珍花蕣集』が出版された当時の社会状況


江戸時代後期の社会状況


『朝鮮珍花蕣集』が出版された1829年頃は、江戸時代後期にあたります。この時期の日本は、鎖国政策によって海外との交流が制限され、国内では平和な時代が続いていました。  このような社会状況は、人々の生活に安定と豊かさをもたらし、文化や娯楽に目を向ける余裕を生み出しました。   


園芸ブームと朝顔の魅力


江戸時代後期には、園芸が盛んになりました。  特に、変化朝顔は、その珍奇な姿から武士や町人を問わず人気を集め、高価で取引されることもありました。  人々は、より珍しい品種を求めて、栽培技術を競い合いました。朝顔の栽培は、単なる趣味の域を超え、一種のステータスシンボルとなっていたのです。   


朝顔の人気の背景には、当時の社会状況と朝顔の持つ特性が深く関わっていたと考えられます。平和で豊かな時代を迎えたことで、人々は余暇を楽しむようになり、園芸がブームとなりました。その中で、朝顔は、花の色や形、葉の形など、変化に富んだ姿が人々の好奇心を刺激し、熱狂的な愛好家を生み出す要因となったのでしょう。




峰岸正吉の業績が現代の朝顔栽培に与えている影響


峰岸正吉の最大の業績は、『朝鮮珍花蕣集』を著し、江戸時代の変化朝顔の姿を後世に伝えたことです。 この書は、現代の朝顔研究者にとっても貴重な資料であり、当時の朝顔文化を理解する上で欠かせない存在となっています。   


また、峰岸正吉は、変化朝顔の栽培技術を向上させ、その普及に貢献したと考えられます。 彼は、様々な品種の朝顔を収集し、交配や選抜を繰り返すことで、より美しい花や珍しい葉を持つ朝顔を作り出そうと努力しました。 彼のこうした活動は、現代の朝顔栽培にも受け継がれており、現在でも多くの愛好家が新しい品種の作出に挑戦しています。   




結論


峰岸正吉は、江戸時代後期に活躍した朝顔栽培の重鎮であり、『朝鮮珍花蕣集』を著すことで、当時の変化朝顔の姿を後世に伝えました。彼の活動は、単に過去の朝顔の姿を記録しただけにとどまりません。その探究心と情熱は、現代の朝顔栽培にも大きな影響を与え、今日の多様な朝顔文化の礎を築いたと言えるでしょう。





峰岸正吉 編 ほか『朝鮮珍花蕣集』,浅田清兵衛,文化12 [1815]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2540516

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