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江戸の知の探求者たち:「赭鞭会」が育んだ本草学と博物学の精神

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 1月25日
  • 読了時間: 13分

更新日:6月11日



1. 花開く江戸の知的好奇心と自然への眼差し


日本の豊かな花卉・園芸文化は、私たちに季節の移ろいや自然の美しさを教えてくれます。しかし、この奥深い文化が、単なる愛好の対象としてだけでなく、学術的な探求の対象として深く育まれてきた歴史をご存知でしょうか。江戸時代は、長期にわたる平和が社会に安定をもたらし、経済的なゆとりが生まれたことで、人々の知的好奇心が花開いた時代でした。この平和な時代は、単なる政治的安定に留まらず、社会全体が純粋な知の探求や審美的な活動に資源とエネルギーを注ぐことを可能にしました。   


この時代、中国から伝来した薬用植物の研究である「本草学」は、実用的な知識の枠を超え、自然界のあらゆるものを体系的に理解しようとする「博物学」へと発展を遂げました 。これは、単に生存に必要な知識の収集から、世界の真理を解明しようとする科学的探求への意識の転換を示すものであり、後の近代科学の萌芽ともいえる重要な思想的変化でした。このような知の潮流の中で、江戸の地で特別な学術結社が誕生しました。それが、本草学と博物学を中心とした研究会「赭鞭会(しゃべんかい)」です。   



2. 赭鞭会とは:自然の真理を追い求めた江戸の学術結社


赭鞭会は、江戸時代後期、特に天保年間(1830頃から1840頃)に設立された、本草学と博物学を専門とする研究会です。この会は、単なる趣味の集まりではなく、明確な学術的テーマと目的を持った組織として機能していました。当時の学術活動は、現代のような公的な研究機関ではなく、有力者たちの私的な集まり、すなわち「サロン」のような形で発展することが多く、赭鞭会もその典型でした。   


会の参加者層は、当時の最高位の知識人であり権力者でもあった大名や旗本が中心でした。彼らは参勤交代で江戸に滞在する中で、互いの知識を深め、活発な研究活動を展開しました。特に、富山藩の第10代藩主である前田利保が会の中心人物として名を連ね 、旗本であり本草学者・博物学者でもあった武蔵石寿が主要メンバーの一人として活躍しました。これらの事実から、当時の武士階級が政治的・軍事的役割だけでなく、学術的探求のパトロンであり、また自らも研究者であった多面的な知的好奇心を持っていたことが明らかになります。彼らの財力や広範なネットワークが、このような学術的発展に不可欠な基盤を築きました。   


赭鞭会の名称である「赭鞭」には、その哲学が深く込められています。この名は、古代中国の伝説上の帝王である神農が、赤い鞭(赭鞭)で草木を叩き、その薬効や毒性を自ら嘗めて見極めたという故事に由来します。これは、単に古来の知恵を尊ぶだけでなく、文献に頼るだけでなく、直接的な観察と経験を通じて真理を探求するという、実証主義的かつ実践的な姿勢を、古代の知と結びつけることで正当化し、学問に深みを与えようとした精神の表れです。   


赭鞭会の活動から生まれた代表的な学術成果は多岐にわたります。武蔵石寿が編纂した貝類図鑑『目八譜』は、991種もの貝が精緻な図とともに収録され、嘉永2年(1849)に完成しました。また、飯室楽圃は、明の李時珍による『本草綱目』の分類法に倣い、虫類600種を体系的に分類した『蟲譜図説』12巻を著し、日本で初めて虫類の体系的分類を試みました。さらに、『柿品』という柿に関する専門書も、赭鞭会の会員である島花隠、田丸寒泉、飯室薬圃、佐橋節翁の4名によって著されています。これらの成果は、彼らが実物に基づいた詳細な観察と分類、そして図譜による正確な記録を重視していたことを明確に示しています。   


赭鞭会の主要メンバーとその代表的な業績は以下の通りです。

氏名

身分/役職

赭鞭会での役割/関わり

代表的な著書/成果物

学術的貢献の概要

前田利保

富山藩主

会の中心人物、学術研究の支援者

『本草通串証図』

藩主として本草学研究を推進、図譜編纂を命じる

武蔵石寿

旗本・本草学者

主要メンバー

『目八譜』

991種の貝類を収録した精緻な図鑑を編纂、日本貝類学史上特筆される

飯室薬圃

赭鞭会会員

主要メンバー

『蟲譜図説』

日本で初めて虫類600種を体系的に分類

島花隠、田丸寒泉、佐橋節翁

赭鞭会会員

『柿品』の共著者

『柿品』

柿に関する専門書を共同で編纂

   

これらの著作は、赭鞭会の「実物に基づく探求」の精神が結実したものであり、伝統と革新が融合した江戸の知のあり方を体現しています。



3. 歴史と背景:本草学から博物学へ、知の潮流と赭鞭会の誕生


日本の自然科学の源流の一つである本草学は、奈良時代以来、中国の書物から大きな影響を受けて発展しました。特に、紀元前の伝説的な薬物書『神農本草経』や、17世紀初めに日本に輸入された明代の『本草綱目』は、当時の日本の本草学研究に決定的な影響を与えました。徳川家康も『本草綱目』を入手後、本格的な本草研究を始めたとされ、時の権力者もその価値を認めていました。   


しかし、江戸時代に入ると、日本の本草学は単なる中国の模倣に留まらない、独自の進化を遂げます。それまでの文献的考証中心のアプローチから、「実物観察」を重視する方向へと大きく舵を切り、日本の風土や植生に合致する、より実用的な学問へと変遷していきました 。この転換を象徴するのが、貝原益軒が元禄21年(1708)に著した『大和本草』です。この書は、国産の自然物を体系的に扱った画期的なものであり、日本の本草学が独自の一歩を踏み出す先駆けとなりました。小野蘭山による『重訂本草綱目啓蒙』も、この国産化の潮流をさらに加速させました。このように、日本の本草学は、当初は外来の知識に依存しながらも、やがて自国の環境と結びつけて知識を再構築するという、能動的な知の探求へと向かっていったのです。   


18世紀以降、日本の知の潮流はさらに大きな変革期を迎えます。長崎を通じて西洋の自然物や博物学関連の書籍が日本に入ってくるようになると、本草学は「有用・無用を超え広く自然一般を対象とした博物学」へとその領域を広げていきました。19世紀には、スウェーデンの植物学者リンネの植物分類法が紹介され、これに基づく科学的な動植物図譜が多数制作されるなど、近代科学的なアプローチが積極的に取り入れられるようになりました 。ドイツ人医師のケンペル、スウェーデン人植物学者のツンベリー、そしてドイツ人医師・博物学者のシーボルトといった、いわゆる「出島の三学者」が西洋の博物学の手法を日本に紹介したことも、この知の発展に大きな転機をもたらしました。   


赭鞭会は、このような本草学から博物学への知の広がりと深化の時代背景の中で誕生しました。天保年間(1830年代から1840年代)に、富山藩主前田利保を中心とする本草学に深い造詣を持つ大名や旗本たちが結成したこの研究会は 、参勤交代で江戸に滞在する限られた期間の中で、互いの知識や標本を持ち寄り、活発な学術交流を展開しました。前田利保自身も、藩主としての立場から『本草通串証図』などの編纂を命じるなど、学術研究を積極的に支援していました。彼らは、中国由来の伝統的な本草学の知見と、西洋由来の体系的な分類法、そして日本の風土に根ざした実用的な探求を融合させようと試みたのです。これは、異なる学問体系や文化が交差する中で、新たな知がどのように形成されていったかという、学際的な発展の様相を鮮やかに示しています。   



4. 文化的意義と哲学:自然との対話が生み出した精神性


赭鞭会の活動は、単なる学術的な探求に留まらず、当時の日本の文化や自然観に深く根ざした多層的な意義を持っていました。その根底には、「赭鞭」という名称に象徴される、実践的かつ経験主義的な哲学が流れています。神農の伝説に由来するこの名は、自らの身体と感覚を用いて自然と直接対話し、真理を探求するという姿勢を示しています 。神農が農耕と医薬の神として、また商人からも信仰を集めたように 、赭鞭会の探求は、知的な満足だけでなく、人々の生活に役立つ実用的な側面を強く意識していました。   


また、江戸時代の博物学の思想的核心には、朱子学の「格物致知(かくぶつちち)」という哲学がありました。これは「森羅万象いかなるささいなものにも根本法則がある」という考え方で、目の前の自然物を徹底的に観察し、その本質を究明することで、宇宙の真理に到達しようとする精神性を表しています。赭鞭会のメンバーが精緻な図譜を作成し、体系的な分類を試みた実証的な研究姿勢は、まさにこの「格物致知」の実践そのものでした。彼らは、自然物を詳細に観察し分類するという実証的な手法を取りながらも、その行為自体を宇宙の真理に迫る精神的な修養と捉えていたのです。これは、自然科学と哲学・精神性が密接に結びついていた当時の知のあり方を示しており、現代の学問分野の分化とは異なる、より包括的な自然観を提示しています。   


赭鞭会の学術的成果は、その実証主義的な態度によって特筆されます。武蔵石寿の『目八譜』や飯室楽圃の『蟲譜図説』といった著作は、単なる記録ではなく、当時の日本の本草学が「単なる薬用植物の知識から、より広範な博物学へと発展していく過程において、重要な先駆け的役割を果たした」ことを示すものです。これらの成果は、綿密な観察に基づいた精緻な図譜と、体系的な分類への試みを特徴としており、後の日本の科学的発展に大きな影響を与えました。   


赭鞭会の活動は、学術的な領域に留まらず、当時の文化や芸術にも深い影響を与えました。本草学を通じて培われた自然への深い洞察と精緻な描写力は、喜多川歌麿や伊藤若冲といった同時代の偉大な絵師たちによる「本草画」にも強い影響を与えています 。これらの絵画は、単なる美的な表現に留まらず、動植物の生き生きとした姿を科学的な正確さで描くことで、記録としての役割も果たしました。これは、科学的観察が芸術的表現の源泉となり、また芸術が科学的知識の普及に貢献したという、両者の相互作用を示すものです。当時の知識人たちが、自然の美しさとその構造を一体として捉え、多様な形で表現しようとした結果であり、現代のボタニカルアートにも通じる日本の花卉/園芸文化の根底にある美意識の源流を理解する上で不可欠な視点です。   


さらに、赭鞭会の学術活動は、具体的な園芸技術の発展にも貢献しました。岩崎灌園が文化15年(1818)に著した園芸書『草木育種』のように、本草学の知識が具体的な栽培法や品種改良に活かされ、江戸時代の「園芸熱」を支えました。   


赭鞭会の学術的成果が示す本草学・博物学の発展は以下の通りです。

成果物名

主な研究対象

学術的特徴

文化的・学術的意義

『目八譜』

貝類

991種の貝を収録した精緻な図譜

日本貝類学の画期的な成果、実証主義的態度の象徴

『蟲譜図説』

昆虫

600種の虫類を体系的に分類

日本における虫類分類の先駆的試み

『柿品』

柿に関する専門的な記述と探求

特定植物への深い探求を示す、本草学の広がり

   

興味深いことに、大名や旗本といったエリート層が中心となった赭鞭会が、その会則「赭鞭会業規則」において、「民間の人々の生活やさまざまな活動を援助すること」を会の運営目的として明記していたことは 、彼らの学術活動が単なる個人的な趣味や自己満足に留まらず、社会全体への貢献意識を持っていたことを示唆しています。具体的な成果物である図譜や研究が、農耕技術の改良(例えば、平賀源内による朝鮮人参や甘薯の栽培法の考案 )や薬学の発展に間接的に寄与し、ひいては人々の生活の質向上につながった可能性は高く、エリート層の知的な探求が社会全体に及ぼした広範な影響という、見過ごされがちな側面を浮き彫りにします。   



5. 結び:現代に息づく江戸の探求心と花卉文化の未来


赭鞭会が江戸時代に築き上げた本草学と博物学の探求は、単なる過去の学問として歴史に埋もれることなく、現代の日本の科学、文化、そして特に花卉・園芸文化に「生きた文化遺産」として深く息づいています。彼らが推進した実証的な研究は、明治時代以降の西洋科学に基づいた「博物学」の体系化、さらには小学校教育における自然科学の基礎を築く上で重要な土壌となりました。彼らが培った綿密な観察、記録、分類の技術と精神は、西洋科学の導入を円滑にし、日本独自の科学的発展を可能にしたと言えるでしょう。   


また、本草学の精神から生まれた精緻な植物画は、現代のボタニカルアートにも多大な影響を与え続けており、その芸術的価値とともに、文化財としての評価も確立しています 。これは、科学的記録と芸術的表現が融合した江戸の知の精神が、現代にも脈々と受け継がれている証です。   


江戸時代に花開いた「園芸熱」は、各地で菊の品評会や新花の展示会が盛んに行われ、各藩が「お留め花」と呼ばれる門外不出の観賞用植物を育成し、将軍への献上品とするなど、日本の花卉文化の多様性と質の向上に大きく寄与しました。赭鞭会が探求した植物への深い知的好奇心と、それを美的に表現しようとする姿勢は、現代の育種技術やボタニカルアート、そして何よりも日本の人々が花を愛でる心に直接的に繋がっています。赭鞭会のような先人たちの探求心は、私たちに自然の奥深さと、それを理解しようとする人間の飽くなき好奇心の尊さを教えてくれます。




  柿品


柿品は、柿の品種、栽培方法、効能など、多岐にわたる情報を網羅した書物です。 当時の柿栽培に関する知識や技術が体系的にまとめられており、江戸時代における柿栽培の状況を知る上で貴重な資料となっています。   


田丸寒泉 ほか『柿品』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2536144





目八譜(一部抜粋)


『目八譜』は、会員の一人であった武蔵石壽が編纂した貝類図鑑です。991種もの貝が収録されており、当時の貝類研究において重要な資料となりました。


武蔵石寿//著,服部雪斎//画『目八譜』第1巻,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1286773




蟲譜図説(一部抜粋)


『蟲譜図説』は、飯室楽圃が作成した昆虫図鑑です。中国の本草学書である『本草綱目』の分類に従って、600種以上の昆虫を体系的に分類しており、日本における昆虫分類学の先駆けとなりました。

これらの図鑑は、美しい図版とともに詳細な解説が添えられており、学術的な価値だけでなく、芸術的な価値も高い作品として評価されています。


飯室庄左衛門『虫譜図説 12巻』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2606122




赭鞭会の組織 


主な会員


前田利保(1800~1859)

富山藩の第十代藩主。和歌・能・国学など学芸分野に長け、本草学にも造詣が深かった。藩政においては、財政難の克服に尽力し、陶器製造業や薬草栽培などの産業を奨励した。自ら本草学を学び、「本草通串」「本草徴解」「本草通串澄図」「万香園裡花壇綱目」など、薬草に関連した多くの著作を残している。また、種痘の普及にも尽力した。   




黒田斉清(1795~1851)

筑前福岡藩主。蘭学や本草学に精通し、特に鳥類に強い関心を抱いていた。著書に『鵞経』『鴨経』『駿遠信濃卉葉鑑』などがある。小野蘭山の『本草綱目啓蒙』の補訂書である『本草啓蒙補遺』も残した。藩政においては、財政改革に取り組み、眼医者の白水養禎の意見を採用し、藩札の発行による財政再建を図った。  



馬場大助(1785~1868)

旗本、本草学者。名は克昌、号は資生圃。美濃国釜戸などに2000石の所領を持つ。西之丸目付、日光奉行、勘定奉行などを歴任した。生涯に百冊を超える図譜類を作成した。   



武蔵石壽(1766~1861)

旗本、本草学者。名は吉恵、号は石寿、翫珂亭。250石扶持の旗本として甲府や江戸で勤めた後、還暦後に本草学者・博物学者として活躍した。貝類図鑑『目八譜』の著者として知られる。『目八譜』は991種の貝を収録した図鑑で、日本貝類学史上特筆される。   




飯室楽圃(1789~1858?)

幕臣、博物学者。名は昌栩、号は楽圃または千草堂。220俵を受ける大番組の旗本飯室富之助昌親の長男として江戸市谷柳町に生まれた。主著の『草花図譜』は没後に四散したが、かなりの部分が伊藤圭介編『植物図説雑纂』に収録されている。他に、『虫譜図説』12巻が著名で、『本草綱目』の分類に沿った体系的虫類図譜の先駆けとなった。   






参考/引用








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