筆に宿る生命:幸野楳嶺の花鳥画の世界
- JBC
- 2024年4月17日
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更新日:6月8日
1. 緒論:幸野楳嶺 – 明治日本の美術、教育、そして画譜の隆盛
1.1. 幸野楳嶺(1844-1895):その芸術家像
1.1.1. 生い立ちと画業の研鑽
幸野楳嶺は、弘化元年(1844)、京都において金穀貸付業を営む安田四郎兵衛の第四子として誕生し、幼名を角三郎と称しました。後に父の本姓である幸野家を継ぐこととなります。その画業の第一歩は、嘉永5年(1852)、円山派の中島来章の門下に入ったことに始まります。来章より雅号を梅嶺、名を直豊、字を思順と授けられました。この円山派における修練は、後に楳嶺の画風の根幹を成す「写生」(実物写生)の重視という姿勢を育みました。
明治4年(1871)、師である来章の許しを得て、四条派の塩川文麟に師事します。これにより、円山派の写実性に加え、四条派特有の詩情豊かな表現や装飾的な要素も吸収しました。雅号を「楳嶺」と改めたのは明治5年(1872)頃のことです。さらに、神山鳳陽について漢籍を学び、文人画家たちとも親交を深めたことは、楳嶺の芸術に知的な深みと幅広い視野を与える上で重要でした。
楳嶺の多岐にわたる教育背景、すなわち円山派の写実主義、四条派の詩的な感性、そして漢学の素養という組み合わせは、彼独自の芸術的基盤を形成しました。この統合は、本稿で詳述する画譜群において顕著に見て取れます。これらの画譜は、単に正確な描写に留まらず、知的な構成と洗練された美的特質を兼ね備えています。円山派の祖である円山応挙が実物写生を旨としたように、楳嶺もまた自然の直接観察を重視しました。それに加え、四条派の師文麟から学んだであろう、より柔和で情趣に富んだ表現、そして漢籍や文人画との交流から培われた学識と哲学的思考が、楳嶺の作品に表面的な描写を超えた奥行きを与えたのです。従って、楳嶺の画譜は、自然への忠実さと芸術的表現の高みを目指したものであり、鑑賞と研究の両面において価値を持つものとなりました。
1.1.2. 京都画壇における業績と貢献
楳嶺は、明治11年(1878)、望月玉泉らと連署し、京都府知事に画学校の設立を建議するなど、京都の美術教育制度の確立に情熱を注ぎました。その結果、明治13年(1880)に京都府画学校(現・京都市立芸術大学)が設立されると、北宗担当として出仕しました(ただし、翌明治14年には依願退職しています)。また、京都美術協会を組織するなど、日本画の発展と後進の指導・育成に尽力しました。
その門下からは、竹内栖鳳、菊池芳文をはじめ、川合玉堂、上村松園など、近代京都画壇を代表する多くの画家が輩出されたことは、教育者としての楳嶺の卓越した手腕を物語っています。
京都における美術教育および組織形成への楳嶺の積極的な関与は、画譜制作とその普及を促進した可能性が高いです。これらの画譜は、彼の芸術的技量を示すものであると同時に、楳嶺の弟子たちや広範な画学生にとって貴重な「絵手本」としての役割を果たしました。これにより、楳嶺が推進した教育的目標に直接的に貢献したのです。京都府画学校の設立に尽力した事実 、そして絵手本が日本の伝統的な美術教育の手段であったことを踏まえると、この関連性は明らかです。明治時代は美術を含む諸分野で体系的な教育が推進された時期であり、楳嶺の画譜は、鳥や花といった主題を明瞭かつ詳細に、体系的に提示しており、まさに教育資料として最適でした。『楳嶺花鳥画譜』が「教育的」で「基礎に忠実」と評されていること も、この点を裏付けています。したがって、彼の画譜制作は、彼自身の教育活動の延長線上にあり、彼がその設立に関わった美術教育の制度化と軌を一にするものであったと言えるでしょう。
1.1.3. 画風 – 伝統と観察の融合
幸野楳嶺の画風は、円山応挙が興した実物写生を旨とする円山・四条派の伝統に深く根差していました。その作品は、情感豊かでありながら、知性的な構想性を加えたものであったと評されます 。対象を緻密に観察し、その特徴を的確に捉える写実的な描写を基礎としつつ、そこに独自の装飾性とデザイン性を加味した点が特徴です。
楳嶺の作品全体、特に本報告で取り上げる三つの画譜における詳細な自然主義的描写に見られる写生への一貫した強いこだわりは、楳嶺の円山・四条派の系譜の中核を成す教義を反映しています。これは、経験的観察、科学的探求、そして詳細な記録を重視した明治時代全般の知的風潮とも共鳴するものでした。円山・四条派の基盤が写生であることは既に述べた通りであり 、三つの画譜すべてが、その写実性と動植物の正確な描写で称賛されています。明治維新は西洋の学問や科学的手法の導入をもたらし、それには自然界の注意深い観察と記録が含まれていました。楳嶺の画譜は、形式的には伝統的でありながら、この同時代的な経験的研究の精神と合致しており、単なる美術的価値を超えて、当時の社会において今日的な意義を持っていたのです。それらは自然の主題に関する視覚的な百科事典として機能しました。
1.2. 明治時代における画譜の意義
画譜とは、図解されたアルバムや絵画の手引書であり、美術品としてだけでなく、教育的な道具としての役割も果たしました。特に明治時代においては、様式、モチーフ、技法を、志ある画家を含む広範な層に普及させる上で重要な媒体でした。『楳嶺花鳥画譜』は明確に「絵手本集」として言及されています。
また、画譜は、目録作成、自然主義への関心、そして近代化しつつある社会における伝統的芸術形式の保存と適応といった明治時代の価値観を反映していました。幸野楳嶺の画譜は、これらの文脈の中で理解されるべき重要な作品群です。
2. 詳細分析:『楳嶺花鳥画譜』
『あづまにしきゑ』. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1312947
2.1. 出版詳細と形式
『楳嶺花鳥画譜』の出版に関しては、複数の情報が存在します。主要な出版としては、明治16年(1883)に大倉孫兵衛によって刊行されたものが挙げられます。この資料は「初版分売」として個別の図譜をリストアップしています。
その後の版としては、明治32年(1899)に同じく大倉孫兵衛から出版された版も記録されており 、これは再版または後のシリーズであった可能性を示唆しています。国立国会図書館のNDLイメージバンクには『楳嶺花鳥画譜』の画像が収録されており 、そのうち一つの情報源は、本作が「春夏」および「秋冬」の2冊から構成されると述べています。
形式と構成については、通常、1図につき1種の鳥と1種の花が対で描かれています。前述の通り、33図の作品集であるとの記述が見られます。
これらの出版情報の差異は、『楳嶺花鳥画譜』の出版史が複雑であったことを示唆しています。当初は個別の図として、あるいは小さな分冊として発行され、後に主題別の巻にまとめられたり、人気に応じて再版が重ねられたりした可能性があります。明治16年(1883年)の「初版」が個別のシートであったという記述 、そして同じ版元である大倉孫兵衛による明治32年(1899年)の出版記録 は、後者がより完全な集成版または再版であった可能性を示しています。33図から成るという記述 と、「春夏」「秋冬」の巻立て という記述は、この33図が中核的なセットを形成し、それが後に季節ごとに編纂された、より大規模な形式で出版されたという推測を可能にします。当時の版画市場では、このような柔軟な頒布形態は一般的でした。
表1:『楳嶺花鳥画譜』の出版と内容概要
確認されている出版年 | 版元 | 確認されている形式 | 内容概略 |
明治16年(1883年) | 大倉孫兵衛 | 個別図譜(初版分売) | 鳥と花の組み合わせ |
明治32年(1899年) | 大倉孫兵衛 | 33図からなる作品集、または「春夏」「秋冬」の2巻構成 | 四季折々の鳥と花の組み合わせ |
2.2. 内容と主題
『楳嶺花鳥画譜』は、鳥と花を調和的に組み合わせ、楳嶺の自然史に対する深い造詣を示す作品群です。各図は、自然界における鳥と植物の生態的な関連性や美的調和を捉えようとしています。これらの組み合わせは、季節感や色彩の対比、あるいは描かれる動植物の持つ象徴的な意味合いなどを考慮して選ばれたものと考えられます。
2.3. 画風と技法
『楳嶺花鳥画譜』における芸術的特徴は、何よりもまず写生に基づく正確な描写にあります。色彩に関しては、「花びらや鳥の羽根が色鮮やかさがとても印象的」と称賛されており 、当時の多色木版画技術の高さを活かした鮮明な発色が特徴です。
構図や筆致については、「基礎に忠実でとてもスマートな知性あふれる作風」と評され 、教育的な配慮と洗練された感覚が共存していることを示しています。例えば、「牽牛花に雀」では「繊細な筆致」が、「甘藍に鵲」では装飾効果を高めるための「大胆な構図と鮮やかな色彩」が用いられていると指摘されています。
本作が絵手本として認識されていたことは、図様の明瞭さや模写のしやすさといった教訓的な特質を備えていたことを示唆します。全体として、写実性を基調としながらも、装飾性やデザイン感覚を加味した、楳嶺独自の様式が確立されています。
3. 詳細分析:『楳嶺百鳥画譜』
天
幸野楳嶺 画『楳嶺百鳥画譜』[正編]天,錦栄堂,明治14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13113939
地
幸野楳嶺 画『楳嶺百鳥画譜』[正編]地,錦栄堂,明治14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13113940
人
幸野楳嶺 画『楳嶺百鳥画譜』[正編]人,錦栄堂,明治14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13113941
3.1. 出版詳細と形式
『楳嶺百鳥画譜』は、明治14年(1881)に3巻構成で刊行されました。版元については、フリーア美術館/アーサー・M・サックラー・ギャラリー所蔵の明治14年版「天地人之巻」は大倉孫兵衛刊とされています。一方、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能な明治14年版(天・地・人)は錦栄堂刊とされています。
形式は、「天」「地」「人」の3巻から成るのが基本です。しかし、国立国会図書館には、錦栄堂から明治14年から17年(1881-1884)にかけて刊行された「正・続各3冊」(計6冊)のセットも所蔵されており、これは初期のシリーズが拡張、あるいは続編として展開されたことを示しています。
特筆すべきは、幸野楳嶺が明治15年(1882)に『百鳥画譜』の「著述」により、「絵事著述褒状ならびに絵事功労賞」を受賞している点です。この受賞は、『楳嶺百鳥画譜』が単なる鳥の図を集めたもの以上の価値を持つと認められたことを意味します。明治15年のこの褒賞 は、本作を単なる鳥類図譜を超えた存在へと高めています。これは、その芸術的価値と、おそらくはその網羅性や教育的価値から、美術出版分野への貢献が公式に認められたことを示しています。「著述」という言葉が用いられていることから、この作品が単なる絵の集成ではなく、鳥類に関する体系的な、あるいは百科事典的な貢献として評価されたことがうかがえます。明治政府は美術産業の振興に熱心であり、このような褒賞はその一環でした。したがって、『百鳥画譜』は、多種多様な鳥類を体系的に描写するその手法が、美術的および記録・教育的目的の両面において、明治時代の目録作成や知識普及への関心と合致し、高く評価されたものと考えられます。
表2:『楳嶺百鳥画譜』の出版と内容概要
確認されている出版年 | 版元 | 確認されている形式 | 主要な受賞歴 |
明治14年(1881) | 大倉孫兵衛、錦栄堂 | 3巻構成(天・地・人) | 明治15年(1882)絵事功労賞等 |
明治14-17年(1881-1884) | 錦栄堂 | 6巻構成(正編3巻、続編3巻) |
3.2. 内容と主題
『楳嶺百鳥画譜』は、多種多様な鳥類を、しばしばそれらが生息する自然環境、すなわち関連する植物や風景と共に、生き生きとした正確さで描いています。作品からは、楳嶺の「鳥に対する深い愛情」が感じられると評されています。
3.3. 画風と技法
『楳嶺百鳥画譜』の鳥たちは、その生態を生き生きと描写されており、写実性と生命感に溢れています。背景に草花や風景を描き込むことで、鳥と自然との調和が表現されており 、単なる鳥の図譜ではなく、生態的な文脈をも捉えようとする意図がうかがえます。
本作は鳥類図鑑としての役割だけでなく、装飾的な美しさも兼ね備えてお 、明治期における花鳥画の傑作として知られています 。ここには、科学的な正確さと芸術的な洗練という、明治という時代が求めた二つの価値観が見事に融合しています。
4. 詳細分析:『草花百種』
上
幸野楳嶺, 幸野西湖 画『草花百種』第1編上,山田芸艸堂,明治34. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12984896
下
幸野楳嶺, 幸野西湖 画『草花百種』第1編下,山田芸艸堂,明治34. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12984897
弐編 上
幸野楳嶺, 幸野西湖 画『草花百種』第2編 上,山田芸艸堂,明治37. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12984528
弐編 下
幸野楳嶺, 幸野西湖 画『草花百種』第2編 下,山田芸艸堂,明治37. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12984527
4.1. 出版詳細と形式
『草花百種』は、明治34年から37年(1901-1904)にかけて刊行されました。幸野楳嶺は明治28年(1895)に没しているため 、これは彼の死後の出版となります。版元は京都の山田芸艸堂です。
『草花百種』が楳嶺の死後(1895年没、出版は1901-1904)に出版され、楳嶺の次男・幸野西湖が関与しているという事実は 、楳嶺の芸術的名声と図案の永続的な遺産、そして商業的価値を浮き彫りにしています。
表3:『草花百種』の出版と内容概要
出版年 | 版元 | 画家 | 形式 | 内容概略 |
明治34-37年(1901-1904) | 山田芸艸堂 | 幸野楳嶺、幸野西湖 | 全4冊 | 100種類の草花を集めた彩色木版画 |
4.2. 内容と主題
『草花百種』は、「四季折々の草花を写実的に描いた」作品集です。その名の通り、100種類に及ぶ多様な草花が取り上げられており、植物学的関心と美術的表現が融合しています。
4.3. 画風と技法
『草花百種』の植物は、写実的に描いたものであり、楳嶺は様々な草花を丹念に観察し、その姿を正確に描写しています。これは、彼の芸術の根底にある写生の精神を一貫して示しています。彩色木版画であり、構図や色彩にも工夫を凝らし、それぞれの草花の個性を際立たせています。単なる図鑑的な記録に留まらず、各植物が持つ美しさや特徴を芸術的に引き出すことに成功しています。本作は、植物図鑑としての価値だけでなく、美術作品としても高く評価されており、楳嶺の観察眼と描写力の高さを示す作品と言えるでしょう。ここには、科学的関心と美的探求が分かちがたく結びついていた明治の文化状況が反映されています。
5. 結論
幸野楳嶺による『楳嶺花鳥画譜』、『楳嶺百鳥画譜』、そして『草花百種』は、明治時代の木版画譜における傑作群として位置づけられます。これらの作品は、写生に由来する丹念な写実性、構図の洗練性、そしてしばしば鮮やかで、時に繊細な色彩感覚を融合させています。
これらの画譜は、美的鑑賞の対象であると同時に、貴重な教育資料(絵手本)としての二重の役割を果たしました。この事実は、楳嶺が単なる画家としてだけでなく、次世代の育成に情熱を傾けた教育者であったことを強く示しています。
幸野楳嶺は、京都画壇の中心人物であり、熱心な教育者であり、そして自然界の詳細かつ感受性豊かな描写を通じて日本の花鳥画および植物画の伝統に大きく貢献した巨匠でした。彼の遺産は今日まで高く評価され続けています。彼の作品は、明治時代の文化的変遷を巧みに乗りこなし、伝統的な芸術的価値を維持しつつ、同時代の観察と記録の精神を取り入れたものでした。その結果、彼の画譜は、近代日本画の発展における重要なマイルストーンとして、また、自然の美しさと多様性を捉えた不朽の芸術作品として、その価値を保持しているのです。