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十二月ノ内 重陽後の月宴


三代目歌川豊国(天明6年(1786)~元治元年(1865))は、江戸時代後期に活躍した画家であり、その絵画は多岐にわたり、その作品数は浮世絵師の中で最も多いとされています(1万点以上)。

豊国は、浮世絵、役者絵、風俗画など、様々なジャンルで優れた作品を描きました。


江戸本所の竪川の五ツ目に渡し船の株を持つ材木問屋の家に生まれ、15、6歳の頃に初代歌川豊国の門下に入り、美人画を描き始めました。歌川を称し、後に国貞と名乗りましたが、五渡亭の号は狂歌師の大田南畝からつけてもらったものといわれ、国貞は他の号を名乗るようになってもこの号を長く愛用しており、天保14年(1843)まで使用しています。また、五渡亭、一雄斎、琴雷舎、北梅戸、富望山人、富望庵、桃樹園、応好、月波楼、喜翁などの数多くの号を称しています。

豊国は画家・英一蝶に私淑しており、文政10年(1827)頃より使用した香蝶楼の号は一蝶の「蝶」と一蝶の名の信香の「香」を取ってつけたもので、その後は英一珪に師事して英一螮という号を用いることもありました。

弘化元年(1844)には二代目歌川豊国、天保15年(1844年)には三代目歌川豊国を称し、晩年には役者絵の大首絵集を出版しました。元治元年(1865)に79歳で亡くなりました。



十二月ノ内 重陽後の月宴
十二月ノ内 重陽後の月宴

豊国『十二月ノ内 重陽後の月宴』,蔦屋吉蔵,安政1.

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1307010


十二月ノ内 重陽後の月宴
十二月ノ内 重陽後の月宴

豊国『十二月ノ内 重陽後の月宴』,蔦屋吉蔵,安政1.

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1307010


十二月ノ内 重陽後の月宴
十二月ノ内 重陽後の月宴

豊国『十二月ノ内 重陽後の月宴』,蔦屋吉蔵,安政1.

国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1307010



『 十二月ノ内 重陽後の月宴の解題・抄録 https://dl.ndl.go.jp/pid/1307010 』

画題:十二月ノ内・重陽・後の月宴 画工名:歌川豊国(3代) 落款:豊國画(年玉枠) 改印:「寅四」「改」(嘉永7年4月改) 判・種類:大判、錦絵、3枚続 種類:美人画、風俗画 版元:(富士山形に蔦に星)(蔦屋吉蔵) 解説:黒の年玉枠内に「十二月ノ内」と題する美人画揃物の一図。「重陽」は陽の極まった「九」が重なる九月九日を指し、この日に行う「重陽の節供」「菊の節供」のことだが、ここでは九月を意味する。「後の月」は、八月の十五夜に対して、九月の十三夜。豊国はぐっと趣向を変えて、人形浄瑠璃、近松半二作「お染久松/新版歌祭文」の「野崎村の段」を描く。野崎村の百姓久作の家では、娘おみつが病母の世話やら義父の膳部やら孝行尽くす。折しも大坂の油屋で丁稚奉公している久松が、屋敷方から受け取った金を悪者に騙り取られ、暇を出されて養父久作の許へ帰ってくる。久作は苦労して貯めた冥加銀を悪者に与えて帰し、久松とおみつに祝言させようとする。おみつがいそいそする所へ、久松と恋仲で添えねば心中と約束した主家の娘お染が、供のおよしを連れて久松の後を追ってくる。久作が久松を連れて現れ、おみつに灸を頼む。久松は頭痛肩凝りを訴える久作の肩を揉み、お染に気づき「覗くな、折りが悪い」と目顔で知らせる。豊国の作品は縁先で灸を据える場面で、中図には線香を持ったまま苦悩するおみつ、右図には三里に灸を据えさせている久作と肩を揉む久松、左図にはお髙僧頭巾を被り下女を連れて門口に訪れたお染。おみつ、久松、お染の人形は、肩衣を着けた三人の美人が、久作の人形は黒衣(くろこ)がそれぞれ一人遣で描かれる。(木村八重子)
所収資料名:『[豊國十二ヶ月]』(請求記号:寄別2-8-1-6) 他に『錦絵帖』(請求記号:寄別2-8-2-7)
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