江戸時代後期に刊行された、鉢植え・盆栽などの園芸指南書:金生樹譜
- JBC
- 2024年10月20日
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更新日:6月15日
1. 一輪の花に宿る、無限の宇宙
庭園に宿る、無限の宇宙を感じたことはありますか。あるいは、一輪の花に、移ろいゆく季節の詩を読み解くことができるでしょうか。日本人が古くから育んできた、そんな繊細な感性の源流に触れる旅は、単なる植物の知識を超え、自然との共生、そして移ろいゆく美を慈しむ日本の精神性に触れるものです。日本の花卉・園芸文化は、単なる美の追求に留まらず、自然への敬意、生命への慈しみ、そして困難を乗り越えるための知恵が息づいており、この奥深い精神性がその核心を成しています。
本稿では、江戸時代後期に刊行された稀代の園芸指南書、『金生樹譜(きんせいじゅふ)』に焦点を当てます。長生舎主人、すなわち栗原信充(くりはらのぶみつ)によって著されたこの図譜は、当時の園芸文化の精髄と、そこに込められた深遠な哲学を現代に伝える貴重な遺産であり、日本の花卉・園芸文化を深く理解するための道標となるでしょう。この古き書物が、いかにして江戸の人々の心を捉え、現代に生きる私たちに何を語りかけるのか、その魅力を探求いたします。
2. 『金生樹譜』とはどのような図譜か:江戸の「カネのなる木」を巡る物語
『金生樹譜』は、江戸時代後期に長生舎主人(栗原信充)によって刊行された、鉢植えや盆栽などの園芸指南書です。この図譜の特長は、栽培における留意点が、様々な資料や詳しい挿絵を添えて、詳細に解説されている点にあります。本書は元来、「万年譜」や「松葉蘭譜」を含む七冊のシリーズとして構想されたものの、そのうち実際に刊行されたのは二冊に留まったとされています。
書名に冠された「金生樹」という言葉は、文字通り「カネのなる木」を意味します。これは、当時の園芸市場において、特定の植物が想像を絶するような高額で取引されていた経済的側面を如実に示しています。具体的に「金生樹」と呼ばれた植物には、万年青、福寿草、橘、蘇鉄、南天、松葉蘭、石斛などが挙げられます。特に松葉蘭は、その奇妙な形状が特徴であり、「生きた化石」とも称され、高額で取引された「奇品」の一つでした。
「金生樹」に名を連ねる植物たち
植物名(和名) | 特筆すべき特徴 | 「金生樹」として珍重された理由 |
万年青(おもと) | 葉の斑入りや形状の多様性 | 縁起物としての人気、葉芸の美しさ、品種改良の難しさ |
福寿草(ふくじゅそう) | 早春に咲く鮮やかな黄色い花 | 縁起物としての価値、栽培の難易度、希少性 |
橘(たちばな) | 常緑で美しい実をつける | 縁起物、古典的な美意識、栽培技術の奥深さ |
蘇鉄(そてつ) | 独特の樹形と生命力 | 異国情緒、長寿の象徴、珍しさ |
南天(なんてん) | 赤い実と美しい葉 | 縁起物、品種の多様性、栽培技術の進歩 |
松葉蘭(まつばらん) | 奇妙な形状、生きた化石 | 唯一無二の姿、希少性、高額取引の対象 |
石斛(せっこく) | 繊細な花と着生植物としての特性 | 雅な趣、栽培技術の挑戦、品種の多様性 |
『金生樹譜』に「金生樹」という名が冠されている事実は、江戸時代の園芸が単なる美的趣味に留まらず、経済活動、特に投機の対象であったことを明確に示唆しています。当時の人々は、朝顔、菊、椿、蓮などの品種改良を競って行い、次々に生まれる珍しい品種を、現代では考えられないような高額な値段で売り買いしていたという熱狂的な状況でした。斑入りや矮小などの変種は特に高額で取引され、「金生樹」とまで呼ばれるほどでした。これは、当時の園芸が一種のバブル経済を形成していたことを示唆しています。さらに、「昨日の百両金、今日の万年青、明日は定めて、松葉蘭、石斛などゝ、うつりゆく人情」という記述は 、植物の流行が目まぐるしく変化し、それによって価値が変動する投機的な側面を鮮やかに描写しています。このことは、江戸の園芸文化が、純粋な美の追求と、世俗的な富や流行への関心が複雑に絡み合った、多層的な文化であったことを物語っています。
3. 歴史と背景:長生舎主人(栗原信充)の生涯と『金生樹譜』の誕生
3.1. 著者:栗原信充の多才な生涯
『金生樹譜』の著者である栗原信充(くりはらのぶみつ)は、寛政6年(1794)に生まれ、明治3年(1870)に77歳でその生涯を閉じました。江戸時代後期の有職故実家です。長生舎主人、柳菴(りゅうあん)などの号を用いていました。
栗原信充の本業は、幕府に仕える故実家、すなわち古代から中世にかけての公家や武家の儀式、制度、風俗などを研究し、考証する専門家でした。信充は柴野栗山から儒学を、平田篤胤から国学を、そして屋代弘賢から有職故実を学ぶという、多岐にわたる学問的背景を持っていました。特に屋代弘賢の『古今要覧』編集にも参加し、その学識を深めました。信充の著作は多岐にわたり、『武器袖鏡』『弓箭図式』『甲冑図式』『鞍鐙図式』など、武家故実に関する多くの書物を残し、これらは幕末の武士の教養書として重用されました。信充の学術的厳密性と広範な知識は、その後の著作活動にも大きな影響を与えました。
3.2. 江戸時代の園芸ブームの背景
江戸時代は、将軍から一般庶民に至るまで、人々が草花に想像を絶するほど高い関心を抱いた時代でした。この時代には、朝顔、菊、椿、蓮などの品種改良が盛んに行われ、次々に生まれる珍しい品種は、信じられないような高額な値段で売買されたという熱狂的な状況が生まれました。
園芸文化の発展には、八代将軍徳川吉宗による政策も深く関わっています。吉宗の時代には、海外から様々な天然物を使用した薬や砂糖などが輸入されるようになり、自国での自給を目指して採薬使(さいやくし)が派遣されました。これをきっかけとして、人々がお金儲けのため、あるいは純粋な好奇心から、天然物、すなわち植物や鉱物に興味を示すようになり、これが園芸文化の発展に繋がったとする見解も存在します。学術的探求と経済的動機が融合した、まさに時代の特徴を示す動きでした。
3.3. 『金生樹譜』誕生の経緯:学者の実践的探求
このような時代背景の中で、植物の生態や様子を記録した図鑑や学術書が数多く刊行され、広く読まれるようになりました。『金生樹譜』もまた、その流れの中で誕生した一冊です。栗原信充の故実家としての緻密な研究姿勢は、園芸という分野にも向けられました。彼の著書には、接木、取り木、挿し木、実生といった植物の繁殖方法から、土ごしらえ、道具、肥料、害虫対策に至るまで、驚くほど詳細かつ実践的な栽培技術が記されています。これは、信充自身が深く園芸の実践に関わり、試行錯誤を重ねた証拠に他なりません。
例えば、接木に使う藁の準備方法(綿俵の縄をほぐし、霧を吹き、土間に一夜置く)や、挿し芽床の土の層の作り方(下から固まった赤土、その上に黒土五六寸、さらに細かい赤土二寸、一番上に黒土一寸) 、さらには特定の植物に適した土の配合(川砂二升、真土三升、山手の赤み土五升を合わせると下谷の土と同じようになるといった具体的な配合)など、非常に細かな指示が記されています。これらの記述は、当時の園芸技術の高さと、信充の深い知識と実践的な経験を示しています。また、「万年青の接ぎ方は秘中の秘にして、今まで何の書にも記したることなしといえども、或人の求めによりて記す」と記している点から、貴重な知識を独占せず、広く共有しようとする彼の学術的、あるいは文化的な貢献意欲がうかがえます。
栗原信充が有職故実という、歴史的慣習や儀礼を緻密に考証する学問の専門家であったことと、『金生樹譜』において非常に詳細かつ実践的な園芸技術を記述していることは、一見異なる分野に見えながら、実は共通の「探求と体系化」という精神性で結びついています。故実家として、過去の事象を深く掘り下げ、その法則性や意味を解き明かそうとしました。同様に、園芸においても、彼は単なる植物の愛好家ではなく、植物の生命現象や栽培技術の法則性を深く観察し、それを実践的な知識として体系化しようとしたと考えられます。「素人は土は細かい方が良いと思うが、大きな間違いである」と述べたり、「枝を折って挿すのは正理にあらず」と断言したりする箇所からは 、信充の経験に基づいた批判的思考と、真理を追求する学者の姿勢が示されています。これは、江戸時代において、学問が机上の空論に終わらず、実生活や文化の発展に深く貢献していたことを示す重要な側面です。
さらに、江戸時代は識字率の高い都市であったことが、園芸文化の広範な浸透に大きく貢献しました。専門的な園芸書や指南書が一部の学者だけでなく、広く一般庶民にまで読まれ、栽培技術や知識が普及する土台となったのです。これにより、単なる口伝や限られた層の趣味に留まらず、より多くの人々が植物の品種改良や栽培技術に挑戦し、その成果を共有できる環境が整いました。これは、園芸ブームの広がりと、技術革新の加速に直接的に貢献した、見過ごされがちな要因と言えるでしょう。
4. 文化的意義と哲学:『金生樹譜』に息づく日本の美意識と精神性
4.1. 園芸の「芸道的存在」としての確立
江戸時代の園芸は、単なる農業や造園とは一線を画し、独立した「芸道的存在」として確立されていました。それは「精神修養、芸術、娯楽、投機」といった多様な側面を持ち合わせていたのです。『金生樹譜』は、単なる植物図鑑を超え、当時の園芸文化の精髄と、そこに込められた深遠な哲学を現代に伝える貴重な遺産として位置づけられます。
4.2. 自然への敬意と生命への慈しみ
日本の花卉・園芸文化の核心は、単なる美の追求に留まりません。そこには、「自然への敬意、生命への慈しみ、そして困難を乗り越えるための知恵」が深く根ざしています。『金生樹譜』に記された、接木や挿し木、土ごしらえといった緻密な栽培技術は 、植物の生命を深く理解し、それを育むための惜しみない努力と愛情の表れであり、この精神性を具現化していると言えます。植物の生命力に対する深い洞察と、それを最大限に引き出すための実践的な知恵が、この書物には凝縮されています。
4.3. 「金生樹」が示す、美と価値、そして無常の哲学
「金生樹」という呼称は、高額な取引が行われたという経済的側面だけでなく、江戸の人々が植物の希少性や特異な美にどれほどの価値を見出していたかを示しています。しかし、同時に「昨日の百両金、今日の万年青、明日は定めて、松葉蘭、石斛などゝ、うつりゆく人情」という記述は 、植物の流行や価値が移ろいやすいものであることを示唆しています。これは、永遠に変わらない美ではなく、変化し続ける自然の姿や、流行の無常さをも慈しむという、日本独自の美意識、すなわち「無常の美」が園芸文化にも反映されていたことを示唆しています。人々は、一時の輝きを追い求め、その儚さの中にこそ美を見出していたのです。
4.4. 栗原信充の精神性:考証学と園芸観の融合
栗原信充が故実家として培った、物事を深く探求し、体系化する精神は、園芸観にも色濃く影響を与えています。信充にとって園芸は、単なる趣味や娯楽に留まらず、自然の法則を解き明かし、生命の営みを深く理解する学問的な探求であったと考えられます。「秘中の秘」とされた技術をも共有しようとした姿勢は 、知識の独占ではなく、文化の継承と発展に貢献しようとする、学問人としての高潔な精神性を反映していると解釈できます。信充の著作は、単なる栽培技術の羅列ではなく、その背後にある深い観察眼と、知識を後世に伝えようとする強い意志が感じられます。
江戸時代の園芸文化が「精神修養、芸術、娯楽、投機」という多面的な「芸道的存在」として定義されることは、単なる美学を超えた深い洞察を与えます。「金生樹」という言葉が示す経済的価値と投機熱は、江戸の都市文化が持つ活気と世俗的な側面を反映しています。一方で、自然への敬意や生命への慈しみという側面は、精神的な深みを示しています。この二つの側面、すなわち「金」という物質的価値と「生命」という精神的価値が、園芸という一つの活動の中で共存し、時には矛盾し、時には補完し合っていたことは、江戸社会が持つ複雑で多層的な価値観を映し出しています。流行の移ろいやすさもまた 、変化を許容し、その中に美を見出す日本の「無常の美」の概念にも通じています。このように、『金生樹譜』は、単なる植物の図譜ではなく、江戸時代の人々が自然とどのように向き合い、美と経済、そして生と死の哲学をいかに融合させていたかを読み解くための重要な鍵となっています。
5. 現代への継承:『金生樹譜』が語りかけるもの
5.1. 現代における『金生樹譜』の価値
『金生樹譜』は、江戸時代の園芸文化、特に草花や樹木の品種改良や栽培技術を知る上で、現代においても「貴重な資料」であり続けています。本書に記された接木技術(切接、割接、そぎ接など)は、当時の園芸技術の高さを示すだけでなく、現代の園芸家にとっても伝統的な技術を学ぶ上で参考になる情報源です。その詳細な記述は、失われつつある古の知恵を現代に伝える重要な役割を担っています。
5.2. 未来への道標
『金生樹譜』は、単なる過去の記録ではありません。それは、日本の花卉・園芸文化の「真髄」と「深遠な哲学」を現代に伝える生きた遺産です。この図譜が示す「自然への敬意、生命への慈しみ、そして困難を乗り越えるための知恵」といった精神性は、環境問題や持続可能性が問われる現代社会においても普遍的な価値を持ち、私たちに多くの示唆を与えてくれます。
江戸時代の人々が植物に注いだ情熱と、そこに見出した奥深い精神性は、現代を生きる私たちにとっても、日々の暮らしの中で植物との新たな対話を見出し、豊かな感性を育むきっかけとなるでしょう。古の知恵に学び、未来へと繋がる日本の花卉文化の真髄を、今一度見つめ直す時が来ています。
上 巻
長生舎主人 編『金生樹譜別録 3巻』[1],[天保中頃]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2556746
中 巻
長生舎主人 編『金生樹譜別録 3巻』[2],[天保中頃]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2556747
下 巻
長生舎主人 編『金生樹譜別録 3巻』[3],[天保中頃]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2556748