花と知の探求:幕末の博物学者、貴志忠美が描いた「本草寫生」の世界
- JBC
- 2024年4月16日
- 読了時間: 10分
更新日:6月18日
1. 花と知の探求への誘い
日本の花卉/園芸文化は、単なる美の追求に留まらず、深い知的好奇心と精神性が息づいています。その歴史を紐解くと、時に驚くべき発見と、時代を超えた情熱に出会うことがあります。この文化の根底には、自然界の生命に対する繊細な感性と、その本質を深く探求しようとする姿勢が脈々と流れています。本記事では、幕末の激動期に生きた一人の幕臣、貴志忠美(きし ただよし)が遺した貴重な植物図版「本草寫生(ほんぞうしゃせい)」に焦点を当て、その魅力と、日本の花卉/園芸文化が育んできた知の探求の軌跡をご紹介します。この写生帳は、当時の日本が自然とどのように向き合い、知識を蓄積していったかを示す、まさに知と美が織りなす世界への扉を開きます。
2. 「本草寫生」とは:知的好奇心と美の結晶
貴志忠美の「本草寫生」は、安政元年(1854)に駿府(現在の静岡市)で記されたとされる、忠美の個人的な「写生帳」です。この図版は、当時珍しかった植物の観察記録を詳細に含んでおり、日本の植物学史において極めて重要な資料とされています。
「本草寫生」が単なる図鑑ではなく「写生帳」と称されることには、深い意味が込められています。これは、忠美が自らの目で植物を直接観察し、その場で詳細に記録していくという、継続的かつ個人的な実証プロセスを経て制作されたことを示唆しています。書物上の知識に頼るだけでなく、実物と真摯に向き合い、その形態や特徴、名称などを克明に写し取る忠美の姿勢は、近代科学に通じる実証的な態度そのものです。この直接的な観察と記録の手法は、忠美の深い知的好奇心と、対象をありのままに捉えようとする真摯な姿勢が色濃く反映されており、単なる既存情報の集積ではない、一次資料としての価値を際立たせています。
3. 歴史と背景:貴志忠美の時代と情熱
3.1. 貴志忠美の生涯と「希代の好事家」としての側面
「本草寫生」の著者である貴志忠美は、享和元年(1800)に生まれ、安政4年(1857)に没しました。通称を孫太夫、諱を忠美、号を朝暾と称しています。忠美は江戸幕府の直参である旗本という身分にあり、幕府内で小納戸役を務めた後、最終的には徳川家康ゆかりの地である駿府の町奉行にまで昇進したことが確認されています。その家禄は500石とされ、これは旗本の中でも比較的身分の高い層に属し、経済的にもある程度の余裕があったことが窺えます。
貴志忠美のこのような社会的地位と経済的基盤は、植物学への深い傾倒を支えた一因と考えられます。当時の博物学、特に植物学の探求は、時間、資料、そして時には遠征を伴う費用を要するものでした。忠美の安定した地位は、忠美が単なる余技としてではなく、植物学に対して「希代の好事家」と評されるほどの並々ならぬ情熱と深い知識を注ぎ込むことを可能にしました。この「好事家」という呼称は、単なる愛好家を超え、高度な鑑識眼と探求心、そして深い学識と美的センスを兼ね備えた人物に対して用いられるものです。忠美の植物研究におけるアプローチは実践的であり、書物上の知識に頼るだけでなく、自ら植物を詳細に観察し、それを写生するという実証的な手法を採っていました。このような姿勢こそが、「本草寫生」に収録された情報の信頼性を高めていると言えるでしょう。貴志忠美の二重の役割は、江戸時代の博物学の追求が、単なる学術的または医学的な試みにとどまらず、エリート階級によっても支持される文化的に高く評価された営みであったことを示しています。
3.2. 江戸時代の本草学と自然史の隆盛
江戸時代(慶長8年(1603)~慶応3年(1868))の日本は、長期にわたる政治的安定を背景に、西洋の啓蒙運動や科学革命にも比肩する「知識革命」が起こりました。中国から伝来した薬物学「本草学」は、当初は中国の古典に基づいたものでしたが、日本の学者たちは、中国の自然知識がそのまま日本で実用的ではないことに気づき、日本独自の発展を遂げました。貝原益軒の『大和本草』(元禄10年(1697)刊行)は、その象徴であり、日本の風土に合わせた薬物学の必要性から生まれた、日本初のオリジナル薬物学百科事典です。
徳川幕府の第八代将軍、徳川吉宗の時代(享保元年(1716年)~寛延4年(1751年))、幕府は日本の動植物の物種について全国的な調査を命じ、各藩が「産物帳」を提出する形で協力しました 。本草学者はこの調査を主導し、得られた新知識は農業改革や薬園の設立にも活用されました。18世紀後半には、本草学は医学研究との関連を保ちつつも、古典の権威や医療実践への依存を減らし、農学、美食、美学、娯楽、自然史といった多様な分野へと広がりを見せました。
この時期、本草学の専門家は社会的な認知と自律性を獲得し、幕府や藩、私塾、大衆の好奇心、そして活発な出版業に支えられました。特に、経済の貨幣化や商業化の進展は、徳川時代の社会秩序に大きな影響を与え、学問のある中下級武士が貧困に陥る一方で、知識や文化の分野での就職を通じて生活を改善する機会を生み出しました。また、富裕な平民も新たに得た経済的繁栄を教育や芸術的・知的訓練に投資し、社会的存在感を高めるようになりました。このような社会経済的な変化とそれに伴う大衆文化の発展が、本草学の隆盛を後押しし、自然史は徳川時代後半には「流行時尚」となるほどの熱狂を享受しました。
日本の本草学は、中国の薬物学の翻訳や解釈にとどまらず、日本に野生する動植物の博物学的な研究へと発展しました。この過程で、和歌や漢詩で自然を詠む日本の伝統文化と、西洋の「蘭学」が混ざり合い、西洋の博物学に近い、日本独自の学問が形成されました。この「日本化」は、東洋の観察伝統と西洋の科学的手法の洗練された統合への深い転換を意味し、学問が単なる薬用目的を超え、知的な探求と美的鑑賞の対象となったことを示しています。
3.3. 「本草寫生」制作の経緯と時代背景
貴志忠美の「本草寫生」は、自身が野外で植物を採集し、その情報を詳細に記録し、写生するという実証的な手法を採る中で制作されました。これは、当時の本草学が、書物上の知識だけでなく、フィールドワークに基づく経験知を重視する、近代科学に通じる実証主義的な精神を持っていたことを示しています。この「フィールドワーク革命」は、純粋な文献研究から、自然と直接対峙し、自らの目で確かめるという、より実践的で厳密なアプローチへの重要な転換を意味します。
「本草寫生」が作成された安政元年(1854)は、日本が長い鎖国政策を終え、開国へと向かう転換期にあたりました。この時期、海外から新しい植物が導入され、それらが日本の植物学や農業の発展に大きな影響を与えました。この写生帳に、当時珍しかった「魯西亜豆(おろしやまめ)」、すなわちオクラの栽培記録が含まれていることは、この時代の文化交流の一端を垣間見せるものです。具体的には、安政元年(1854)に江戸から贈られた種子を忠美が駿府で蒔き、翌安政2年(1855)には開花し、細長い実を結んだことが克明に記録されています。
このオクラの記録は、「本草寫生」を単なる植物図版以上の、重要な文化財として位置づけます。それは、日本が劇的な近代化へと舵を切る中で、新しい知識、技術、文化が流入し、それらを積極的に受け入れ、自国の文脈で理解しようとした時代の精神を象徴しています。忠美のような高位の幕臣が、異国の植物の導入とその成長をこれほどまでに詳細に記録した事実は、当時の社会が未知なるものに対し旺盛な好奇心と科学的探求心を抱いていたことを物語っています。
4. 「本草寫生」の文化的意義と哲学:科学と美、そして精神性
4.1. オクラ日本初栽培の記録:歴史的・植物学的発見
「本草寫生」の最も特筆すべき歴史的意義の一つは、日本で最初にオクラが栽培されたことを示す貴重な証拠である点です。安政元年(1854)に江戸から「魯西亜豆」の種子が贈られ、忠美が駿府でこれを蒔き、翌安政2年(1855)には開花・結実したという記録は、日本の植物導入史における重要な一ページを記しています。
この記述は、当時の日本が積極的に海外の新しい植物を取り入れ、その特性を観察・記録しようとしていた姿勢を示すものです。単なる外来種の導入に留まらず、その生育状況を詳細に記録することで、植物学的な知見を深め、将来的な農業利用への可能性を探っていたことが窺えます。この記録は、「本草寫生」が単なる絵画集ではなく、新しい作物の導入と農業革新に直接貢献する、実用的な科学文書としての価値を持っていたことを証明しています。
4.2. 科学的探求と芸術的表現の融合
貴志忠美の植物画は、その「写実性」と「彩色による鮮やかな表現」において高く評価されています。植物の細部まで忠実に再現しようとする姿勢は、科学的な正確さを追求する博物画としての価値を示しています。同時に、その優美な構図と色彩は、純粋な芸術作品としても鑑賞に堪えるものです。
江戸時代の日本の画家たちは、中国画、浮世絵、そして西洋画の技法を融合させ、動植物の精緻な描写を追求しました。この時代には、「写生」「写実」「写真」といった語彙の変遷が見られ、写意的な表現から写実的な描写へと、イラストが進化していったことが示唆されています。この変化は、西洋の写実的な描写方法が日本の芸術と科学に影響を与え、精緻な描写が日本の図鑑文化に深く根付いていったことを物語っています。
「本草寫生」もまた、この時代の博物画が持つ、科学的探求と芸術的表現が高度に融合した特性を体現しています。それは単なる記録ではなく、対象への深い敬意と美意識が、その一筆一筆に込められていることを示します。この科学と芸術の調和は、江戸時代の博物学が知識の追求と美的鑑賞を不可分なものとして捉えていたことを示しており、複雑な科学情報をより広範な人々に魅力的かつ理解しやすい形で伝える役割を果たしました。
4.3. 「本草寫生」が示す日本の自然観と精神性
「本草寫生」は、単なる植物図鑑を超え、当時の日本人が自然とどのように向き合い、理解しようとしていたかという「自然観」を色濃く反映しています。それは、自然界のあらゆる生命に対する深い「尊敬の念」と、その本質を徹底的に探求しようとする「実証主義的な精神性」の表れです。
江戸時代の本草学は、中国の伝統的な薬物学から発展し、日本の風土に根ざした博物学へと進化しました。この過程で、和歌や漢詩で自然を詠む日本の伝統文化と、西洋の「蘭学」が融合し、西洋の博物学に近い、日本独自の学問が形成されました。貴志忠美の「本草寫生」は、この日本独自の博物学の成果の一つであり、自然をありのままに捉えようとする科学的視点と、その中に美を見出す日本文化特有の感性が融合したものです。
特に、開国へと向かう幕末の時代に、海外からもたらされた新しい植物を積極的に記録したことは 、未知なるものへの旺盛な好奇心と、科学的探求心、そして変化を恐れずに新しい知識を取り入れようとする精神性を示しています。これは、日本の近代化の黎明期における科学的観察の萌芽であり、現代の科学技術大国としての日本のルーツの一つとも言えるでしょう。この時代の博物学は、単に知識を収集するだけでなく、それを体系化し、未来へと繋ぐという強い意志に支えられていました。
5. 結び:未来へ繋ぐ花卉文化の遺産
貴志忠美の「本草寫生」は、単なる過去の植物図版ではありません。それは、幕末という激動の時代に、一人の幕臣が花と植物に注いだ深い愛情と、科学的真理を追求した情熱の結晶です。この貴重な写生帳は、日本の花卉/園芸文化の奥深さ、そして自然に対する日本人の繊細な感性と探求心を現代に伝えています。
「本草寫生」を通して、私たちは、植物が持つ生命の神秘に触れ、歴史の息吹を感じ、そして知の探求がもたらす喜びを再認識することができます。この写生帳が示す精神性は、過去の遺産としてだけでなく、現代そして未来へと繋がる日本の豊かな花卉/園芸文化の根幹をなすものです。
[貴志]忠美 [著]『本草寫生』,[江戸後期] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2537041






























































































