飢饉を乗り越えた知恵の結晶:建部清庵と『備荒草木図』
- JBC
- 2024年4月5日
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更新日:6月11日
自然との共生が生んだ、知られざる日本の叡智
日本の文化に深く根ざす花卉や園芸は、単なる美の追求に留まりません。そこには、自然への敬意、生命への慈しみ、そして困難を乗り越えるための知恵が息づいています。この奥深い精神性は、日本の花卉・園芸文化の核心を成すものです。今回は、江戸時代に一関藩の藩医であった建部清庵が編纂した『備荒草木図』という一冊の書物を通して、その知られざる叡智に触れていきます。飢饉という極限状況下で、人々がいかに植物と向き合い、生き抜く知恵を見出したのか。この古書が現代に伝えるメッセージとは何か、その魅力を探る旅に出かけましょう。
『備荒草木図』は、直接的に観賞用の花卉や園芸技術を解説するものではありませんが、その根底には、自然の恵みを最大限に活かし、生命を尊び、困難を乗り越えようとする、日本文化に共通する普遍的な価値観が流れています。この書物が示すのは、単なる歴史的事実を超え、現代の私たちにも通じる、自然との共生と持続可能な暮らしへの示唆です。
1. 『備荒草木図』とは:飢えを救った実践的植物図鑑
『備荒草木図』は、江戸時代中期に一関藩(現在の岩手県一関市)の藩医であった建部清庵(たてべ せいあん)によって編纂された、食用となる山野の植物をまとめた画期的な書物です。飢饉に苦しむ人々を救うことを目的としており、単なる植物図鑑の枠を超えた「救荒植物の図鑑」としてその価値を確立しました。
本書は上下2冊から成り、スミレ、キキョウ、ヘチマ、クヌギなど、104種に及ぶ食用可能な草木が詳細な図とともに紹介されています。各植物には漢名と和名が併記され、その特徴、食用としての調理法、さらには解毒法や注意点まで具体的に解説されています。例えば、「接続草(すぎな)」の項目では、つくしと共にすぎなも食用として、「茎と葉、ともによくゆでて、水に浸し、米や麦に混ぜてかて飯にするとよい」と具体的な調理法が記されています。このような具体的な記述は、当時の人々が飢饉の際に安全に植物を食用できるようにという清庵の深い配慮の表れであり、本書が持つ極めて高い実用性を示しています。
清庵が医師であったことから、各植物の薬効についても解説が加えられており、医学的な知見に基づいた、より安全で有益な情報提供が目指されました。これは、当時の科学的探求が、人々の生活改善という明確な目的と結びついていたことを示唆しています。現代の「研究のための研究」とは異なり、当時の知識人、特に医師である清庵にとって、学問が直接的に社会問題の解決に貢献すべきものであるという強い倫理観があったことがうかがえます。
また、文字の読めない人々でも理解できるよう、多くの植物図が用いられ、本文には振り仮名が振られるなど、当時の社会状況を考慮した「わかりやすさ」が徹底されています。このアクセシビリティへの配慮は、清庵が知識を一部の識者だけでなく、広く民衆に届け、飢饉の際に誰もが活用できるようにという強い願いを持っていたことを物語っています。
2. 歴史と背景:飢饉の時代に咲いた人道主義の光
2.1. 建部清庵の生涯と時代背景:蘭学との交流と名医の足跡
建部清庵(由正)は、正徳2年(1712)に生まれ、天明2年(1782)に71歳で生涯を閉じた江戸時代中期の医者です。彼は一関藩の藩医として、その医術が非常に優れていたため、「一関に過ぎたるものは二つあり、時の太鼓に建部清庵」という俗謡が歌われるほど、領民から深く尊敬されていました。
清庵は19歳で仙台に遊学し、その後江戸に出てオランダ医学を学びました。当時、蘭学は日本に導入され始めたばかりの最先端の学問であり、彼はその基礎が不明確であることに不満を抱き、より深い知識を求めていました。明和7年(1770)、清庵は日頃の医学的疑問を書簡にまとめ、弟子の衣関甫軒に託して江戸の蘭方医に送りました。この書簡は、後に『解体新書』の翻訳作業を進めていた杉田玄白の手に渡ります。玄白は清庵の書簡に感動し、その見識を高く評価。以来、二人は遠隔地から書簡を交わし、固い絆で結ばれることになります。この書簡のやり取りは、後に『和蘭医事問答』として出版され、蘭学の初学者にとっての重要な教材となりました。この交流は、清庵が単なる地方の医師ではなく、当時の最先端の学問である蘭学に積極的に関与し、その発展に貢献した「知のパイオニア」であったことを示しています。彼の蘭学への情熱と、飢饉対策への人道的な精神は、当時の知識人がいかに社会課題と向き合っていたかを示す好例と言えるでしょう。
清庵はまた、後進の育成にも尽力し、次男の亮策(後の3代清庵由水)や、秀才の弟子である大槻茂質(後の大槻玄沢)を玄白の天真楼塾に送りました。大槻玄沢は蘭学の発展に大きく貢献し、清庵の五男である由甫も杉田玄白の養子となり、杉田伯元として杉田家を継ぐなど、清庵は日本の蘭学発展に多大な影響を与えました。これらの事実は、彼が単なる個人的な学問的探求に留まらず、次世代の育成と知識の普及にまで視野を広げていたことを意味します。彼の医学的知見が、当時の最先端科学と結びついていたことで、彼の救荒書が単なる経験則の集大成ではなく、科学的根拠に基づいたものであった可能性を高めています。清庵が生きた時代は、東北地方が冷害による飢饉にしばしば見舞われ、多数の餓死者が出るという厳しい社会状況にありました。
2.2. 『備荒草木図』編纂の経緯:大飢饉が育んだ救済への情熱
清庵が『備荒草木図』の編纂を決意したのは、宝暦5年(1755)に東北地方を襲った大飢饉の惨状を目の当たりにしたことが直接的な契機でした。彼は多くの人々が飢えに苦しみ、命を落とす姿を見て、飢饉対策の必要性を痛感します。
この経験から、清庵はまず、飢饉に備えるための知識をまとめた救荒書『民間備荒録』を宝暦5年(1755)に著しました 。この書は一関藩内で広く配布され、後の飢饉対策書にも大きな影響を与えました。しかし、翌年が豊作となり、人々が飢饉の苦しみを忘れ去ろうとしていることに清庵は危機感を覚えました 。彼は、「昨年の飢饉の苦しみを忘れ、記録に残さないならば、再び飢饉が起こったときに同じ苦しみを繰り返すだろう」と憂慮し、将来の飢饉に備え、飢えた人々が食べても害のなかった草木類について調べ、その知識を世間に広めることで、餓死者を出さないようにという強い決意のもとに『備荒草木図』の作成に着手しました。
編纂にあたり、清庵は古老を訪ねて助言を得たり、弟子たちに植物の栽培や採集を命じたり、他国の学者(例えば、江刺郡岩谷堂村の遠藤志峯から『荒歳録』という書物と草木)から資料を集めるなど、広範な情報収集を行いました。そして、一関藩の画工である北郷子明に植物図を描かせ、明和8年(1771)に『備荒草木図』の草稿を完成させました。
しかし、この草稿が実際に世に出版されるまでには、清庵の死後51年、草稿完成から約60年もの歳月を要しました。最終的に出版されたのは、天保4年(1833)の「天保の大飢饉」の最中であり、清庵、大槻玄沢、杉田伯元といった編纂に関わった主要人物が皆亡くなった後、杉田家の塾「天真楼」から世に送り出されました。この事実は、『備荒草木図』がまさに「時代が必要とした書物」であったことを示しています。出版が清庵の死後、しかも別の飢饉の最中に行われたことは、彼の「飢饉の教訓を後世に伝える」という目的が、個人の寿命を超えて達成されたことを示し、その知恵の普遍性と継承の重要性を強調しています。これは、清庵の「人々が飢饉の苦しみを忘れ去ろうとしていることを危惧した」という懸念が、まさに現実のものとなり、その結果として彼の遺志が後世に引き継がれ、最も必要とされる時にその知識が活用されたという、壮大な物語を形成しています。知識の継承が社会のレジリエンスに不可欠であるという、より深いメッセージがここには込められています。
3. 文化的意義と哲学:生命への敬意と未来への遺産
3.1. 実用性を超えた普遍的価値:知識の継承と社会貢献の精神
『備荒草木図』は、江戸時代の飢饉の実態、当時の食文化、植物学、医学を知る上で極めて貴重な歴史的資料です。しかし、その真の価値は、単なる事実の記録に留まりません。この書物には、飢饉に苦しむ人々を救おうとした建部清庵の深い「人道的な精神」が込められています。
清庵は、飢饉の惨状を目の当たりにし、「将来再び飢饉が起こった際に人々が同じ苦しみを味わうことのないよう」という強い願いから、この書を編纂しました。彼の行動は、知識を独占するのではなく、それを広く共有し、社会全体の福祉に役立てようとする「社会貢献の精神」の表れです。これは、知識が単なる学術的探求の対象ではなく、具体的な社会問題(飢饉)を解決し、人々の命を救うための「道具」として活用された稀有な事例と言えます。当時の社会における知識人の役割を再定義するものであり、学術的成果が直接的に公共の利益に資するという思想が色濃く表れています。
また、文字が読めない人々にも情報を届けるための工夫(図の多用、振り仮名)や、医師としての知見に基づいた安全性の配慮(解毒法、薬効の解説)は、彼の民衆への深い配慮と、知識の普及に対する強い責任感を示しています。『備荒草木図』の編纂と出版は、清庵一人の力だけでなく、杉田玄白や大槻玄沢をはじめとする当時の蘭学の第一人者たち、そして多くの画家や本草学者たちの協力によって実現しました。これは、当時の知識人たちが、学問の垣根を越えて社会課題の解決に協力し合った、学術的・人道的なネットワークの存在を浮き彫りにします。
3.2. 自然との対話:日本の花卉・園芸文化に通じる生命観
『備荒草木図』は、飢饉という極限状況において、人間が自然界の植物にいかに命を繋いできたかを示す記録です。この書物が伝えるのは、単なる植物の利用法に留まらず、自然の恵みを最大限に活かし、生命を尊び、困難を乗り越えようとする、日本人の根源的な「自然観」と「生命観」です。
植物は、古来より日本の文化において、美の象徴としてだけでなく、生活を支える重要な存在として認識されてきました。飢饉という非常時において、人々は山野の草木を「救荒植物」として見出し、その生命力に希望を見出しました。これは、日本の花卉・園芸文化が単なる観賞にとどまらず、自然との深い共生関係の中で育まれてきたことを示唆します。
特に注目すべきは、当時の識者の中に、植物を単なる「非情(感情を持たないもの)」と捉える見方があったことに対し、清庵あるいはその思想を支持する人々が、植物には「生界・仏界の徳(生命や仏の教えに通じる徳性)」がある、あるいは「有情(感情を持つもの、生命あるもの)」であると反論していた可能性を示唆する記述です。「他人の意の云く、草木はただ、草木にして、生界・仏界の徳なしと。 一 向ただ非情にして、有情にあらずと。 故にこれを破す。」。もしこの解釈が正しければ、『備荒草木図』は、単に実用的な知識を提供するだけでなく、植物の生命力や存在そのものに深い価値を見出し、それを尊ぶという、より高次の「生命哲学」を内包していたと言えます。飢饉という極限状況で、人々が植物に命を託すという行為は、植物が単なる資源ではなく、生命の源であり、希望の象徴であるという認識を生み出しました。この認識は、日本の伝統的な花卉・園芸文化における、植物に対する畏敬の念や、その生命を慈しむ心と深く通じるものです。
3.3. 現代へのメッセージ:持続可能性と共生の知恵
『備荒草木図』は、江戸時代の遺産でありながら、現代社会においても極めて重要なメッセージを私たちに投げかけています。食料安全保障、生物多様性の保全、そして伝統文化の継承といった観点から、その意義は今日ますます高まっています。
地球規模での気候変動や自然災害が頻発する現代において、食料供給の不安定性は深刻な課題です。清庵が飢饉に備えて植物の知識を体系化したように、私たちは多様な食料源の確保や、地域の植物資源の活用について再考する必要があるでしょう。これは、過去の遺産であるだけでなく、現代社会が直面する食料問題や環境問題に対する「示唆」と「解決策」を提供する可能性を秘めていることを意味します。
また、本書に掲載された104種の植物は、日本や東アジアに広く分布する在来種が多く含まれており、その中には生薬や民間薬として使われるものも少なくありません。これは、地域の生物多様性の重要性、そしてその知識を次世代に継承することの価値を改めて教えてくれます。
『備荒草木図』は、自然と人間との繋がり、そして生命の力強さを私たちに教えてくれる、時代を超えたメッセージでもあります。それは、単に生き残るための知恵だけでなく、自然の循環の中で生かされているという謙虚な姿勢、そして未来を見据えて知識を蓄え、分かち合うという、持続可能な社会を築く上での普遍的な知恵を内包しています。
結論
建部清庵によって編纂された『備荒草木図』は、単なる江戸時代の救荒植物図鑑ではありませんでした。それは、飢饉という極限状況下で、人々の命を救おうとした一人の医者の深い人道主義と、知識を広く共有し、未来に繋げようとする社会貢献の精神が結晶化したものです。蘭学の最先端を学び、杉田玄白との交流を通じて日本の学術発展にも貢献した清庵の生涯は、学問が社会課題の解決に直結するという、普遍的な「知のあり方」を示しています。
特に、植物の生命そのものに「生界・仏界の徳」を見出すという哲学的な側面は、日本の花卉・園芸文化の根底にある、自然への深い敬意と生命の慈しみの精神と深く通じています。この書物は、過去の知恵としてだけでなく、食料安全保障、生物多様性の保全、そして持続可能な社会の構築という現代の課題に対する重要な示唆を与えてくれます。
『備荒草木図』が伝える、自然の恵みを活かし、生命を尊び、困難を乗り越える知恵は、現代の私たちにとっても示唆に富むものです。この古書が語りかけるメッセージに耳を傾けることは、自然との共生という普遍的なテーマを深く体験するきっかけとなるでしょう。
備荒草木図 乾
建部由正『備荒草木図 2巻』,天保4 [1833]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2606693
備荒草木図 坤
建部由正『備荒草木図 2巻』,天保4 [1833]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2606693