赭鞭会(しゃべんかい)は、江戸時代後期(1830年頃から1840年頃)に設立された、本草学と博物学を中心とした研究会です。当時、参勤交代で江戸に滞在していた大名や旗本の中で、本草学に造詣の深い人々が集まり、活発な研究活動を行いました。研究対象は、医療と関連の深い薬物から、物産学や近代博物学的な性格をもつものまで多岐にわたっていました。また、和漢洋の比較検討のなかから生み出されつつあった日本の近世後期の学問の一つとしての側面も併せ持っていました。
富山藩主・前田利保(万香亭)を中心としたこの研究会には、福岡藩主・黒田斉清(楽善堂)、旗本の馬場大助(資性)や武蔵石壽(玩珂停)、飯室楽圃らが参加し、幕臣の太田大州を先生格として迎えました。また、関根雲停が画家として、研究対象の動植物などを記録しました。
「赭鞭」という名称は、中国の伝説に登場する神農が、赤い鞭で草木を払い分け、それを舐めて薬効を確かめたという故事に由来しています。赭鞭会は、この神農の探究心と、本草学への情熱を受け継ぎ、設立されました。
赭鞭会の歴史
赭鞭会は、天保7年(1836年)に設立され、天保年間の終わりまで活動を続けました。その活動期間は約3年間と短いものでしたが、江戸の本草学研究に大きな影響を与えました。
活動内容
赭鞭会は毎月8日に開催され、会員たちが自らの蔵書から珍しい動植物や鉱物などを持ち寄り、それらについて議論したり、鑑定を行いました。会員は自分の意見を書いた紙片を投票箱に入れ、その後、意見交換を行うことで議論を深めました。また、会員同士で情報交換や意見交換を行い、互いの知識を深め合いました。
さらに、赭鞭会は、単なる研究会に留まらず、実地調査や観察も行いました。会員たちは、江戸近郊の山野に出かけて植物を採取したり、海に行って貝を採集したりするなど、積極的に自然と触れ合い、実物を通して本草学を研究しました。
研究成果
赭鞭会の活動から生まれた代表的な成果として、『目八譜』と『蟲譜図説』が挙げられます。
『目八譜』は、会員の一人であった武蔵石壽が編纂した貝類図鑑です。991種もの貝が収録されており、当時の貝類研究において重要な資料となりました。
目八譜(一部抜粋)
『蟲譜図説』は、飯室楽圃が作成した昆虫図鑑です。中国の本草学書である『本草綱目』の分類に従って、600種以上の昆虫を体系的に分類しており、日本における昆虫分類学の先駆けとなりました。
これらの図鑑は、美しい図版とともに詳細な解説が添えられており、学術的な価値だけでなく、芸術的な価値も高い作品として評価されています。
蟲譜図説(一部抜粋)
赭鞭会の組織
主な会員
前田利保(1800~1859)
富山藩の第十代藩主。和歌・能・国学など学芸分野に長け、本草学にも造詣が深かった。藩政においては、財政難の克服に尽力し、陶器製造業や薬草栽培などの産業を奨励した。自ら本草学を学び、「本草通串」「本草徴解」「本草通串澄図」「万香園裡花壇綱目」など、薬草に関連した多くの著作を残している。また、種痘の普及にも尽力した。
黒田斉清(1795~1851)
筑前福岡藩主。蘭学や本草学に精通し、特に鳥類に強い関心を抱いていた。著書に『鵞経』『鴨経』『駿遠信濃卉葉鑑』などがある。小野蘭山の『本草綱目啓蒙』の補訂書である『本草啓蒙補遺』も残した。藩政においては、財政改革に取り組み、眼医者の白水養禎の意見を採用し、藩札の発行による財政再建を図った。
馬場大助(1785~1868)
旗本、本草学者。名は克昌、号は資生圃。美濃国釜戸などに2000石の所領を持つ。西之丸目付、日光奉行、勘定奉行などを歴任した。生涯に百冊を超える図譜類を作成した。
武蔵石壽(1766~1861)
旗本、本草学者。名は吉恵、号は石寿、翫珂亭。250石扶持の旗本として甲府や江戸で勤めた後、還暦後に本草学者・博物学者として活躍した。貝類図鑑『目八譜』の著者として知られる。『目八譜』は991種の貝を収録した図鑑で、日本貝類学史上特筆される。
飯室楽圃(1789~1858?)
幕臣、博物学者。名は昌栩、号は楽圃または千草堂。220俵を受ける大番組の旗本飯室富之助昌親の長男として江戸市谷柳町に生まれた。主著の『草花図譜』は没後に四散したが、かなりの部分が伊藤圭介編『植物図説雑纂』に収録されている。他に、『虫譜図説』12巻が著名で、『本草綱目』の分類に沿った体系的虫類図譜の先駆けとなった。
赭鞭会が社会に与えた影響
赭鞭会は、江戸時代後期の日本の本草学や博物学の発展に大きく貢献しました。その活動は、当時の学問水準の向上に寄与しただけでなく、自然科学に対する関心を高める役割も果たしました。
研究成果の普及
赭鞭会は、研究成果を広く普及させるために、図鑑や書籍を出版しました。これらの出版物は、当時の学者や研究者だけでなく、一般の人々にも広く読まれ、本草学や博物学の知識を広めることに貢献しました。
後世への影響
赭鞭会の活動は、明治時代以降の日本の博物学研究にも影響を与えました。特に、実物に基づいた観察や研究を重視する姿勢は、後の日本の博物学研究に受け継がれていきました。
赭鞭会に関する資料
赭鞭会に関する資料は、現在も様々な形で残されています。
主な書籍・論文
『赭鞭会品物論定纂』
『目八譜』
『蟲譜図説』
『お殿さまの博物図鑑-富山藩主前田利保と本草学-』
平野満「前田利保と本草学-赭鞭会を中心に-」
天保期の本草研究会「赭鞭会」-前史と成立事情および 活動の実態- - 明治大学学術成果リポジトリ
meiji.repo.nii.ac.jp/record/4214/files/sundaishigaku_98_1.pd
これらの資料は、諸鞭会の活動や研究内容を知る上で貴重な手がかりとなります。
赭鞭会の特徴
赭鞭会の特徴をまとめると、以下の点が挙げられます。
大名や旗本が中心となって設立された
和漢洋の学問を融合させた独自の研究スタイル
実物に基づいた観察や研究を重視
研究成果を広く普及させるための活動
赭鞭会は、西洋の博物学の影響を受けつつも、日本の伝統的な本草学の知識も重視していました。例えば、『蟲譜図説』では、中国の『本草綱目』の分類を参考にしながら、日本の昆虫を独自に分類しています。これは、西洋の学問を取り入れながらも、日本の文化や伝統を尊重する、当時の学問の姿勢を示すものと言えるでしょう。
また、赭鞭会は、鎖国下の日本で、西洋の学問に触れる貴重な機会を提供していました。大名や旗本といった、社会的な地位の高い人々が中心となって活動していたため、西洋の学問を国内に広める上で、大きな役割を果たしたと考えられます。
結論
赭鞭会は、江戸時代後期に設立された、本草学と博物学を中心とした研究会です。大名や旗本などの社会的地位の高い人々が中心となって設立され、和漢洋の学問を融合させた独自の研究スタイルで、活発な研究活動を行いました。その活動は、当時の日本の学問水準の向上に大きく貢献し、現代の私たちにとっても多くの示唆を与えてくれます。
赭鞭会は、日本の伝統的な本草学と西洋から伝わった博物学を融合させることで、新たな学問の地平を切り開こうとしていました。その活動は、当時の学問界に大きな刺激を与え、後世の博物学研究にも影響を与えたと言えるでしょう。
赭鞭会の活動から、私たちは、学問への情熱、探究心、そして知的好奇心の大切さを学ぶことができます。これらの精神は、時代を超えて、私たちを新たな発見やイノベーションへと導いてくれるでしょう。
現代社会においても、赭鞭会のように、異なる分野の人々が集まり、知的な交流を行うことの重要性は増しています。市民科学や学際的な研究など、専門家だけでなく、一般の人々が積極的に学問に参加することで、社会に新たな活力と創造性が生まれる可能性があります。
参考
天保期の本草研究会「赭鞭会」-前史と成立事情および 活動の実態- - 明治大学学術成果リポジトリ