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江戸の知と美の結晶:本草書『花彙』が織りなす日本の花卉/園芸文化

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 2024年5月5日
  • 読了時間: 17分

更新日:6月13日



1. 時を超えて息づく、花へのまなざし


日本の四季を彩る花々。私たちは古くから、その美しさに心を寄せ、生活の中に花を取り入れてきました。春の桜に始まり、夏の朝顔、秋の菊、冬の椿と、季節の移ろいを花に重ね、その生命の輝きに心を癒し、感動を覚えてきました。花見に興じ、茶室に一輪を飾る。華道や茶の湯といった伝統文化に触れるたび、私たちは自然への深い敬意と、繊細な美意識を感じ取ります。花は単なる植物ではなく、私たちの精神性や美意識を映し出す鏡であり、自然との対話の象徴でもあります。

この深い花卉/園芸文化の歴史の中で、江戸時代に生み出された一冊の書物が、現代にまでその輝きを放っています。それが、本草家・島田充房と本草学者・小野蘭山が共同で編纂した植物図譜『花彙』(かい)です。この書物は、当時の日本の植物学の到達点を示すだけでなく、花卉文化の精神性や哲学を深く理解するための貴重な鍵となります。

本記事では、『花彙』がどのような書物であり、いかにして生まれ、そして日本の花卉文化にどのような深い意味と哲学をもたらしたのかを探求します。ページをめくるごとに、江戸の人々が植物に向けた情熱と、知の探求の軌跡が浮かび上がることでしょう。



2. 『花彙』の概要:精緻な描写が織りなす植物の世界


『花彙』は、宝暦9年(1759)から明和2年(1765)にかけて京都の文昌閣から刊行された、全8巻からなる大規模な植物図集です。草編4巻、木編4巻で構成され、当時の日本で知られていた多種多様な植物が網羅されています。   


この書物の最大の特徴は、その「精緻な植物画」と「簡潔な解説文」の組み合わせにあります。白と黒を巧みに使い分けた木版画は、植物の細部まで克明に描写されており、その写実性だけでなく、植物の生育環境や特徴を捉えた構図も魅力的で、現代においても高く評価されています。掲載されている植物は、ウコン、ベニバナ、ハクモクレン、アマドコロ、アミガサユリ、フジバカマなど、薬用植物から観賞用植物まで多岐にわたり、それぞれの名称、形態、効能などが簡潔な解説文とともに記されています。   


『花彙』は、単なる絵画集ではなく、優れた植物図鑑として高い評価を得ました。その影響は大きく、江戸時代末期に発行された飯沼慾斎の『草木図説』など、後世の植物図譜にもその技法が見られます。さらに、フランス人のサヴァティエによってフランス語に翻訳され、『Livers Kwawi』としてパリで出版されるなど、海外にもその価値が認められました。また、自然物の方言を収録している点から、国語学研究においても重要な資料となっています。   


この卓越した植物画と簡潔な解説文の組み合わせは、『花彙』が単なる科学的記録に留まらず、芸術的な美しさをも追求した、科学と芸術の融合点にあることを示しています。当時の本草学が、対象への深い観察眼とそれを美的に表現する技術が一体となっていたことがわかります。これは、現代の科学図鑑が持つ機能性だけでなく、当時の人々が自然に対して抱いていた美意識や敬意が反映された結果と言えるでしょう。

また、江戸時代が一般的に「鎖国」という対外閉鎖的な時代であったことを考えると、この書物がフランス語に翻訳され、パリで出版されたという事実は極めて重要です。海外の学者が日本の本草書を翻訳し、自国で出版するというのは、その内容が国際的に通用する、あるいは先進的であると評価された証拠に他なりません。これは、『花彙』の海外での評価が、江戸時代の日本の本草学が、西洋の科学とは異なる独自の発展を遂げながらも、その観察眼や記録の精緻さにおいて、世界水準に達していたことを示唆しています。日本の知の蓄積が、閉鎖的な環境下でも質的に高められていたという、より広範な歴史的文脈における重要な示唆となります。


以下に、『花彙』の基本情報をまとめます。


項目

内容

書名

花彙 (かい)

著者

島田充房、小野蘭山 (共著)

刊行年

宝暦9年-明和2年 (1759年-1765年)

構成

全8巻 (草編4巻、木編4巻)

特徴

精緻な白黒木版画、簡潔な解説文、薬用・観賞用植物を網羅

特筆事項

後世の植物図譜への影響、フランス語訳出版、方言収録



3. 歴史と背景:本草学の潮流と二人の巨匠の出会い



3.1. 江戸時代の本草学と物産会の隆盛


江戸時代、中国から伝来した『本草綱目』を基盤としつつ、日本独自の「本草学」が隆盛を極めました。これは、単に書物上の知識を覚えるだけでなく、日本国内に産する動植物や鉱物を実際に調査し、その形態、効能、方言名などを体系的に記録しようとする実学的な動きでした。   


この本草学の発展を大きく後押ししたのが、全国各地で開催された「物産会」(薬品会、本草会とも呼ばれる)です。宝暦7年(1757)に医師・本草学者の田村藍水が江戸湯島で開いた薬草会がその始まりとされ、その後、薬種だけでなく、動植物、鉱物、さらには「無名の異物」まで、あらゆる自然物を持ち寄り、鑑定し、知識を交換する場となりました。   


物産会は、単なる展示会に留まらず、本草学者たちが実物を観察し、議論を深めることで、知の探求と普及を促進する重要な役割を担いました。平賀源内が『物類品隲』を刊行した第5回薬品会(宝暦13年、1763)のように、学術的な充実も図られ、出品物には産地や方言名などの詳細な情報提供が求められました。本草学は、こうした物産会を通して、様々な分野で一般庶民にも浸透していきました。   


本草学が単なる学問的探求に留まらず、当時の社会経済的な要請に応える形で発展したことが、この物産会の隆盛から見て取れます。例えば、幕府や諸藩は財政悪化の一因となっていた中国からの薬種輸入を減らすため、国内での薬種調達を推進し、本草学者たちは薬園の設立や薬草栽培に動員されました。物産会は、こうした知識を社会全体に広める「メディア」としての役割を果たし、学問が実生活に根ざし、一般の人々の好奇心をも刺激する文化現象となっていたのです。これは、『花彙』が単なる専門書ではなく、当時の社会の知的好奇心と実用性の両方に応える形で生まれた背景を補強するものです。   


『花彙』の出版は、こうした物産会の流行と、それに伴う本草学者のネットワークの広がりが背景にあったと考えられています。物産会が、個々の本草学者の知見を集約し、検証し、共有する「知の共同体」として機能していたことが重要です。出品者には産地や方言名などの詳細な情報提供が求められ、持ち寄られた品物の鑑定や同定が行われました。物産会で収集された実物の情報が、『花彙』のような精緻な植物図譜の制作に直接的に貢献したのです。この共同体が生み出した集合知の結晶が『花彙』であり、当時の学術交流の活発さを示す証左と言えるでしょう。これは、現代のオープンサイエンスや共同研究の萌芽とも言える、先駆的な知の創造プロセスが江戸時代に存在したことを示唆しています。   



3.2. 島田充房と小野蘭山の足跡


『花彙』を編纂した二人の巨匠、島田充房と小野蘭山は、当時の本草学界を牽引する存在でした。


島田充房: 江戸時代中期の本草家であり、宝暦から明和年間(1751-1772)頃に活動したとされています。生没年は不明ですが、京都で松岡恕庵に本草学を学びました。『花彙』の草編2巻の執筆・作画を担当し、その精緻な描写力は高く評価されています。号は雍山 。   


小野蘭山: 享保14年(1729)に京都で生まれ、文化7年(1810)に江戸で82歳で死去した、江戸時代中期から後期にかけての本草学者です。13歳で松岡恕庵に入門し本草学を学びました。   


京都で「衆芳軒」という私塾を開き、46年間にわたり本草学・博物学を教え、多くの門人を育成しました 。蘭山は「実物をよく観察すること」の重要性を説き、門人たちを率いて京の山野で積極的に採薬(植物採取)を行うなど、実証的な研究を重視しました 。蘭山は身体虚弱であったものの、本草学の研究成果を食養生法などの健康管理術として活用し、60歳頃には健康になったと伝えられています。   


寛政11年(1799)、71歳という高齢ながら幕府の命により江戸の医学館に医官として招かれ、本草学を教授しました。この江戸での講義は、後に日本の本草学の集大成とされる『本草綱目啓蒙』(全48巻、文化2年/1805刊行)としてまとめられました。蘭山の門人は全国にわたり1000人に達したとも言われ、木村蒹葭堂、飯沼慾斎、岩崎灌園、伊藤圭介など、日本の博物研究を大きく発展させた優れた本草学者を多数輩出しました。シーボルトからは「日本のリンネ」と称されるほど、その功績は国際的にも認められています。   


島田充房と小野蘭山という二人の共著者が同じ師(松岡恕庵)から学んだという事実は、彼らが共通の学問的基盤と本草学に対する思想的アプローチを持っていたことを示唆しています。これは、『花彙』の統一された品質と学術的厳密さの背景にある、江戸時代の本草学における師弟関係を通じた知識の継承と発展の重要性を示していると言えるでしょう。共通の学統が、後の共同作業を円滑にし、質の高い成果を生み出す土壌となったと考えられます。   


特に小野蘭山の徹底した実物観察と実地調査の姿勢は、『花彙』全体の精緻な植物画の質を保証する基盤となったと考えられます。彼は自ら野外で植物を採集し、その情報を詳細に記録しました。これは、当時の本草学が、書物上の知識だけでなく、フィールドワークに基づく経験知を重視する、近代科学に通じる実証主義的な精神を持っていたことを示しています。蘭山の指導理念が、共同制作である『花彙』の「写実性」と「生命感」に深く寄与した可能性が高いでしょう。   



3.3. 『花彙』誕生の経緯


『花彙』は、島田充房が草編2巻の執筆・作画を担当し、残りの絵と解説を小野蘭山が手掛けるという分担で制作されました。これは、当時の本草学界における二人の巨匠の知識と技術が結集された共同作業でした。   


刊行は京都の文昌閣と大路儀右衛門によって行われ、宝暦9年(1759)から明和2年(1765)にかけて出版されました。この多年にわたる出版は、当時の木版印刷技術の高度さと、これほど大規模な植物図譜を制作・流通させるための経済的・人的資源の大きさを物語っています。特に、島田家の財力も出版の背景にあったとされており、当時の富裕層が文化・学術振興に貢献していた側面を浮き彫りにします。これは、現代の学術研究における資金調達や出版インフラの重要性にも通じる普遍的なテーマであると言えるでしょう。   


前述の通り、この書物が作られた背景には、江戸時代中期に全国的に流行した物産会の存在が大きく関わっています。物産会で収集された膨大な植物の情報や、本草学者たちの交流が、『花彙』の制作に必要な知見とネットワークを提供したと考えられます。当時の「時代の要請」  に応える形で、体系的な植物図譜が求められていたことも、制作を後押ししました。   


二人の専門家がそれぞれの強み(島田の描写力、蘭山の広範な知識と実証性)を活かして共同制作を行ったことで、単独ではなし得ない、より網羅的かつ精緻な作品が生まれたと考えられます。これは、現代の学際研究やチーム研究の重要性にも通じる、専門性の結集による相乗効果の好例です。彼らの共同作業が、当時の本草学の最先端の知見と技術を結集した「時代の集大成」を生み出したと言えるでしょう。   



4. 文化的意義と哲学:自然への深い敬意と知の探求



4.1. 精緻な植物画が伝える美意識


『花彙』の精緻な植物画は、単なる植物の記録に留まらず、当時の日本人が自然に対して抱いていた独特の美意識を色濃く反映しています。白黒の木版画でありながら、植物の生命感や生育環境、特徴を捉えた構図は、写実性だけでなく、芸術的な魅力に満ちています。   


江戸時代の絵画、特に「本草画」は、本草学の影響を強く受けて発展しました。喜多川歌麿や伊藤若冲といった偉大な絵師たちも、動植物の生き生きとした姿を精緻に描くことで、本草学の精神を表現しました。『花彙』の植物画も、この「写生」の精神、すなわち単なる忠実な模写ではなく、対象の「気」や「生気」を捉えようとする姿勢に通じています。   


本草学が、単に植物を分類・記録する科学的活動に留まらず、当時の芸術表現、特に絵画における「写生」の概念を深化させたことは注目に値します。写生は単なる即物写生や粉本模写から、画家自身の個性を引き出すものへと変化し、円山応挙は対象の真なる姿と「気」(生命感)を捉えることの重要性を主張しました。顕微鏡の導入も、小さな虫を拡大して正確に描写するなど、視覚的正確さを追求する動きを加速させました。このような絵画表現は、自然を客観的に捉えるだけでなく、観察者の主観的な感性や、対象に宿る生命力を表現しようとする、江戸時代の独特な自然観を反映しています 。『花彙』は、この相互作用の具体的な成果であり、当時の知的好奇心と美的追求が分かちがたく結びついていたことを象徴しています。   


また、本草学の普及が、日本の伝統的な自然観、特に俳諧や和歌における「季語」に象徴される季節との一体感を相対化し、植物をそのものとして、より客観的に、そして網羅的に捉える視点をもたらしたことも重要です。浮世絵花鳥画、特に歌川広重の作品には、伝統的な「季語性」が失われているものが見られますが、これは本草学の浸透により、自然界のあらゆる存在が一切の付随する言語から解放され、独立した対象となっていたためと説明されています。『花彙』が薬用植物だけでなく観賞用植物まで幅広い植物を網羅し、その形態を精緻に描いたことは 、この「脱季語性」の萌芽、すなわち自然をより普遍的な「モノ」として認識しようとする動きの一端を担っていたと言えるでしょう。これは、伝統的な美意識と近代的な科学的視点が交錯する、江戸時代の知のダイナミズムを示しています。   



4.2. 自然との調和、そして知の探求


日本の花卉文化は、古くから「自然との調和」を重んじる精神に根ざしています。花見や華道は、花を通じて自然と深く関わる日本人の生活様式を象徴しています。華道では、花をただ飾るのではなく、自然の姿を尊重し、空間に命を吹き込むことで、自然との対話や自己との調和を図る芸術とされています。華道が、四季の移ろいや自然の無常を表現し、花材の選定から配置まで、慈しむ気持ちで行われることは、花を通して内面の充足感を育むという思想に通じています。   


『花彙』は、こうした花と日本文化の深い関わりの中で生まれた貴重な植物図譜です。本草学者たちは、植物の効能や分類を追求するだけでなく、その生命の営みそのものに深い敬意を払っていました。彼らの知の探求は、単なる知識の収集に留まらず、自然の秩序を理解し、その中に人間が存在する意味を見出す哲学的な営みでもあったと言えるでしょう。   


特に、多くの本草学者が儒学を修めた「儒医」であったことは重要です。彼らにとって、物産会での「モノを究理する」  行為は、儒教の教え、特に「仁」(仁愛、慈愛)の探求と一体でした。植物を深く知ることは、すなわち天地自然の摂理を学び、人間としての「仁」を深めることでもあったのです。これは、『花彙』に代表される本草学の知の探求が、単なる客観的な知識収集に留まらず、儒教的な「仁」の思想に裏打ちされた倫理的・哲学的な営みであったことを示唆しています。植物を深く観察し、分類し、記録することは、自然の生命に対する敬意と慈愛、そして人間が自然の一部であるという認識を深める行為であったと言えるでしょう。これは、当時の博物学が持つ、現代の環境倫理や生命尊重の思想にも通じる、普遍的な価値観を内包していたことを示しています。   


中国の文化において「一花一世界」という思想があるように 、花は単なる美の象徴ではなく、宇宙の縮図であり、人間倫理や精神性の表現媒体でした。花が人生を美化し、心を浄化し、精神的な空虚を埋めるという考えは、中国文化に深く根ざしています。このような思想的背景は、日本の本草学にも影響を与え、『花彙』に込められた知の探求が、単なる実用性を超えた、より深い精神的な意味合いを持っていたことを示唆しています。『花彙』における植物の精緻な描写は、単なる写実主義ではなく、一輪の花の中に宇宙の真理や生命の循環を見出すという東洋的な自然観が投影されていたことを示唆しているのです。これは、科学的観察が哲学的な洞察と一体化していた当時の知のあり方を示しており、現代の「科学」と「精神性」が分離されがちな状況とは異なる、より統合された世界観を提示しています。   



4.3. 『花彙』が後世に与えた影響


『花彙』は、江戸時代の本草学と植物画の粋を集めた優れた植物図譜として、後世の日本の植物学、美術史、文化史に多大な影響を与えました。   


植物学への影響:その精緻な描写技法、特に白黒の木版画による表現は、飯沼慾斎の『草木図説』など、江戸時代末期の植物図譜に影響を与えています。小野蘭山の門人からは、日本の近代植物学の基礎を築いた飯沼慾斎や岩崎灌園、伊藤圭介といった著名な本草学者・植物学者が多数輩出されており、『花彙』は彼らの研究の出発点の一つとして重要な役割を果たしました。小野蘭山を祖とする学統は、標本の分類や西洋植物学の紹介、そして江戸時代最大の植物図鑑の編纂に貢献し、明治以降の牧野富太郎へと途切れることなく継承されていきました。これは、『花彙』が、江戸時代の本草学から明治以降の近代植物学へと続く、知の連続性における重要な「橋渡し」の役割を果たしたことを示しています。その精緻な描写と体系的な記述は、単なる伝統の踏襲ではなく、後の科学的分類学や実証研究の基礎を築く上で不可欠なステップであったと言えるでしょう。   


美術への影響:『花彙』が示した写実性と生命感の表現は、絵画における「写生」の発展にも寄与しました。浮世絵の花鳥画などにも、本草学的な観察眼が取り入れられ、伝統的な季語の概念を超えた自由な自然表現が生まれる土壌となりました。これにより、画家たちは自らの目に映るあらゆる花と鳥を自由に扱い、伝統の枠組みから飛躍した新しい花鳥の世界観を創造することが可能になりました。   


国際的な評価:フランスでの翻訳出版は 、日本の植物学の成果が鎖国下においても国際的に通用する水準にあったことを示し、後の日本の科学が世界と接続する上での先駆けとなりました。小野蘭山がシーボルトから「日本のリンネ」と称されたことと合わせ 、鎖国という対外的な障壁があったにもかかわらず、当時の日本の学術水準が国際的に見ても高かったことを示しています。これは、日本の「知」が、限定的ながらも外部に流出し、影響を与えていた「知の輸出」の事例として捉えることができます。   


このように、『花彙』は単なる歴史的書物ではなく、日本の知と美の発展において、現在まで続く重要な流れの源流の一つとして位置づけられるのです。



5. 結び:『花彙』が語りかける、花と人との深い絆


本草家・島田充房と本草学者・小野蘭山が心血を注いで編纂した『花彙』は、単なる過去の植物図鑑ではありません。それは、江戸時代の人々が自然に対して抱いた深い敬意、知を探求する情熱、そしてそれを美しく表現しようとする芸術的感性の結晶です。

物産会という知の交流の場から生まれ、精緻な植物画と簡潔な解説文で構成された『花彙』は、当時の本草学の集大成であると同時に、後の日本の植物学や美術、そして文化全体に多大な影響を与えました。その国際的な評価は、鎖国という時代背景にあっても、日本の学術水準が世界に通用するものであったことを示しています。

『花彙』が今も私たちに語りかけるのは、花が持つ普遍的な美しさだけでなく、一輪の花にも宇宙の真理を見出し、自然と調和して生きようとした日本人の精神性です。この貴重な文化遺産を通じて、私たちは日本の花卉文化の奥深さを再認識し、現代における自然との向き合い方、そして知の探求のあり方を改めて考えるきっかけを得るでしょう。

ぜひ、この『花彙』に込められた、時を超えた花へのまなざしに触れてみてください




草編「草之一~草之四」


島田充房 ほか『花彙 草部4巻木部4巻』[1],大路儀右衛門,明和2 [1765]. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2555607




木編(木之一~木之四)


島田充房 ほか『花彙 草部4巻木部4巻』[2],大路儀右衛門,明和2 [1765]. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2555608






参考/引用
















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