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身辺で見かける植物を写実的に描いた多色刷りの木版本:草木花実写真図譜

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 1月1日
  • 読了時間: 14分

更新日:6月20日



1. 序論:川原慶賀と『草木花実写真図譜』



1.1. 川原慶賀:江戸時代後期の長崎美術における重要人物


川原慶賀(1786~1860頃)は、江戸時代後期、海外との唯一の窓口であった長崎において活躍した卓越した画家です。特に、オランダ商館が置かれた出島への出入りを許された数少ない絵師の一人として、西洋の文化や学術に触れる特異な立場にありました。その精密な描写力から「カメラなき時代のカメラマン」とも称され、対象を忠実に捉える写実的な画風は、当時の日本の絵画において際立った存在でした。



1.2. 『草木花実写真図譜』:概要


『草木花実写真図譜』は、川原慶賀の手になるとされる、日本の植物図譜の中でも特筆すべき作品です。この図譜は、天保7年(1836)に刊行された『慶賀写真草本』を改題し、明治初期に再刊されたものであることが明らかにされています。



1.3. 『草木花実写真図譜』の複合文化的産物としての側面と改題の意義


『草木花実写真図譜』は、単に日本の絵師による作品というだけでなく、出島という特殊な場で展開された文化・学術交流の産物としての側面を持ちます。慶賀は長崎の伝統的な絵画技法を習得した絵師でしたが 、オランダ商館医として来日したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの依頼を受け、その学術研究のために多くの図譜を制作しました 。シーボルトは日本の有用植物の調査を目的の一つとしており 、慶賀はその下で西洋的な植物画の描法を学んだとされています 。図譜に和名と共に洋名が併記されている点も 、こうした東西文化の融合を象徴しています。したがって、この図譜は、日本の伝統的画技と西洋の科学的観察眼が結実した、複合的な文化的所産と評価できます。   


さらに、明治期における『慶賀写真草本』から『草木花実写真図譜』への改題は、作品の受容や出版意図の変化を示唆する可能性があります。「慶賀写真草本」という原題が、絵師の名と「真実の写し」を強調しているのに対し、「草木花実写真図譜」という題名は、より網羅的で体系的な図譜であることを示唆する「図譜」という語を用いています。明治時代は、日本が近代化を推し進め、西洋の科学技術や学術体系を積極的に導入した時期です。この改題は、作品を明治期の新たな学術的枠組みや教育的ニーズに適合させ、より広範な読者層に訴求しようとする出版社の意図を反映していたのかもしれません。



2. 川原慶賀の生涯と芸術的道程



2.1. 長崎における初期の人生と画業の形成


川原慶賀は、通称を登与助、幼名を慶太郎といい、聴月楼や田口卓美とも号しました 。長崎の今魚町に生まれたとされ、父の川原香山もまた絵師であり、『長崎港図』などを描いていることから、慶賀は父から絵画の手ほどきを受けたと推測されます。慶賀は「町絵師」として活動し、鎖国体制下で唯一西洋に開かれた都市であった長崎の地で、独特の発展を遂げた長崎派絵画の潮流の中で育まれました。この環境は、彼が後に西洋画法に触れ、それを自身の作品に取り入れる素地となりました。   



2.2. フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトとの重要な関係


慶賀の画業において転機となったのは、文政6年(1823)に出島オランダ商館の医師として着任したドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトとの出会いでした。シーボルトは日本の自然や文化に関する広範な調査を行い、そのための博物図や風俗図の制作を慶賀に依頼しました。慶賀はシーボルトのお抱え絵師として、植物、動物、風景、人物、風俗習慣に至るまで、あらゆる日本の事物を描き、シーボルトの日本研究に不可欠な視覚資料を提供しました。文政9年(1826)には、シーボルトの江戸参府に随行し、道中の風景や江戸での見聞を記録しています。   



2.3. 画風:日本の伝統と西洋的写実の融合


川原慶賀の作品は、その極めて精密な描写と写実性によって特徴づけられます。しばしば「写真のよう」と形容されるその画風は、対象の細部に至るまで忠実に捉えようとする観察眼の鋭さを示しています。シーボルトや、文政8年(1825年)に来日したオランダ人画家カール・フーベルト・デ・フィレニューフェなどから西洋画法を学んだと考えられており、陰影法や遠近法といった技法を日本の伝統的な描画法と融合させました。特に植物画においては、西洋の博物学的な精密さと、日本的な美意識が調和した独自のスタイルを確立しました。単なる正確な模写を超えて、植物の生命感をも捉えようとする姿勢がうかがえます。ある研究では、植物画に見られる「ねちっこく入っている」ハイライトはシーボルトが招聘した画家による影響と指摘されており、時には花や実、茎などを別の画家が分担して描いた可能性も示唆されています。これにより、慶賀独自の個性がより明確に浮かび上がるとされています 。   



2.4. 困難と後年の活動


輝かしい画業の一方で、慶賀は困難にも直面しました。文政11年(1828)に発覚したシーボルト事件では、シーボルトが禁制品である日本地図などを国外に持ち出そうとした疑いがかけられ、慶賀もこれに関与したとして処罰された可能性があります。さらに天保13年(1842)には、長崎港を描いた絵図の中に、警備を担当する鍋島藩と細川藩の家紋を描き入れたことが問題視され、長崎から追放されるという厳しい処罰を受けました 。しかし、この追放後も画業を完全に断ったわけではなく、弘化3年(1846)に完成した長崎近郊の脇岬観音寺本堂の天井絵には慶賀の筆になる花卉図が4点含まれているとされ、彼の制作活動が続いていたことを示しています 。以前の処罰の後、御用絵師であった石崎融思の取りなしによって比較的早く長崎での仕事に復帰できたという記録もあり 、彼の画才が周囲に認められていたことが窺えます。没年については1860年頃とされますが、正確な日付や墓所は不明であり、その生涯には謎に包まれた部分も多いです。   



2.5. 文化の仲介者としての慶賀と記録の逆説


川原慶賀の生涯を考察すると、彼は単なる絵師ではなく、異なる文化間の仲介者としての役割を担っていたことがわかります。日本の伝統的な絵画技法を身につけた町絵師でありながら、出島という特殊な空間で外国人のために働き、西洋の画法を積極的に取り入れ 、日本の事物を西洋の視点から記録するという仕事に従事しました。しかし、その活動は常に日本の法規制との緊張関係にあり、地図持ち出し事件への関与や藩の家紋描写といった禁令違反によって厳しい処罰を受けています。これは、慶賀が二つの文化の狭間に立ち、芸術的、科学的、そして政治的な要求の間で常に綱渡りを強いられていたことを示しています。   


また、慶賀は膨大な量の詳細な記録画を残し、それらは今日、歴史的・科学的に貴重な資料となっているにもかかわらず 、彼自身の生涯に関する一次資料は乏しく、「一部謎に包まれた」存在です。これは、士農工商という身分制度が厳格であった江戸時代において、慶賀が「一介の町絵師」に過ぎなかったため、武士や学者に比べて公式な記録や同時代の伝記が残されにくかったことに起因すると考えられます。結果として、多産な記録者であった慶賀自身が、歴史の記録からはやや曖昧な存在として残るという逆説的な状況が生まれています。   



3. 『草木花実写真図譜』の詳細分析



3.1. 成立と出版:『慶賀写真草本』から『草木花実写真図譜』へ


現在『草木花実写真図譜』として知られるこの植物図譜は、もともと『慶賀写真草本』という題名で刊行された作品の改題再刊本です。原著である『慶賀写真草本』は、天保7年(1836)に出版されました。その後、明治初期に大阪の書肆、前川善兵衛によって『草木花実写真図譜』と改題され、再刊されました 。この図譜は2巻4冊から構成され、多色刷りの木版画で制作されています。



表1:『草木花実写真図譜』の出版詳細

項目

詳細

原題

慶賀写真草本

改題後の題名

草木花実写真図譜

画工

川原慶賀

校訂者

川原廬谷

原著出版年

天保7年 (1836)

改題再刊版元

前川善兵衛、大阪

改題再刊時期

明治初期

体裁

二巻四冊、多色刷木版本



3.2. 内容と構成:植物の体系的描写


『草木花実写真図譜』は、植物を体系的に分類し、描写しています。図譜は大きく二つの部に分かれています。


  • 草部:第1冊と第2冊にあたり、忍冬など27種の草本植物を収録。   

  • 木部:第3冊と第4冊にあたり、木瓜など29種の木本植物を収録。 


各図版には、植物の図と共に以下の情報が付記されています。


  • 植物の名称:名と、オランダ語などに基づく洋名が併記されていることが多い。   

  • 解説:植物の特徴に関する記述。   

  • 薬効:薬としての効能や用途に関する情報。   


収録されている植物は、主に長崎周辺や九州地方で見られるものが中心であり、一部には「南洋風」と感じられる、おそらく九州の温暖な気候を反映した植物や、当時既に移入されていた可能性のある植物も含まれています。   



3.3. 芸術的・植物学的価値:写実性と影響


この図譜の最大の特色は、その写実的で精密な描写にあります。慶賀は対象を「写真」すなわち「真実を写す」ことを目指し、植物の細部まで忠実に表現しようとしました。単なる形態の正確さだけでなく、植物が持つ「生き生きとした命」や「瑞々しさ」をも捉えようとする姿勢が評価されています。   


西洋の影響も顕著です。シーボルトは日本の有用植物調査を目的としており、慶賀に季節ごとの花や実の変化を観察し、正確に図示することを求めました。慶賀はシーボルトが伴ってきたヨーロッパ人画家から西洋風の植物画法を学んだとされ 、特に陰影表現やハイライトの入れ方などにその影響が見られます。ある植物画では、正面からだけでなく裏側からも花を描写したり、大根の根全体を描き加えたりするなど、西洋の博物学的な観察方法に近いアプローチが取られていることも指摘されています。   


しかし、単なる科学的図版に留まらない芸術性も有しています。慶賀の植物に対する視線は「真摯かつ謙虚」でありながら、対象への「充分な興趣」と「命の息づきへのときめき」が感じられると評され、深い共感がその筆致に込められています。構図は、しばしば白紙の中央に対象となる一枝を配する植物画の典型的な形式を取りながらも 、葉が紙面からはみ出すような大胆な配置や、彩色部分と墨線のみの部分を対比させるなどの工夫も見られます。   



4. 文脈的意義:シーボルト、植物科学、そして芸術



4.1. シーボルトの学術的目標と植物図の役割


シーボルトが慶賀に植物画制作を依頼した主たる目的は、日本の動植物相を網羅的に記録し、ヨーロッパの学界に紹介することでした。特に「日本有用植物の調査」は彼の重要なテーマであり、慶賀の描いた精密な植物図は、後にシーボルトとツッカリーニによって編纂された『日本植物誌』(Flora Japonica)の原図として用いられました。シーボルトはまた、日本の優れた植物をヨーロッパの園芸界に導入することにも強い関心を持っており、慶賀の美しい植物図は、これらの植物の魅力を伝え、その園芸的価値を「宣伝」する上でも効果的であったと考えられます。   



4.2. 日本の植物図譜(本草学)における『草木花実写真図譜』


日本には、薬用植物を中心に研究する本草学の伝統があり、しばしば図譜が伴われました。同時代における代表的な本草図譜としては、岩崎灌園(の『本草図譜』が挙げられます。この大著は文政11年(1828)頃に草稿が完成し、文政13年(1830)から一部が刊行され始めた、約2000種の植物を収録した手彩色の木版図譜です。   


『草木花実写真図譜』と岩崎灌園の『本草図譜』を比較すると、いくつかの点が注目されます。収録種数においては、『本草図譜』が圧倒的に多いのに対し、『草木花実写真図譜』は56種(草部27種、木部29種)と比較的小規模です。画風においては、両者ともに写実性を追求していますが、岩崎の作品が日本の伝統的な本草学の集大成としての性格を持つのに対し 、慶賀の作品、特にシーボルトの指導下で制作されたものは、陰影法や遠近法といった西洋の観察・描写技法をより明示的に取り入れています。目的においても、岩崎の図譜が国内の本草学の発展に寄与したのに対し、慶賀の図譜はシーボルトの国際的な学術プロジェクトと密接に結びつき、日本の植物相を西洋に紹介する役割を担いました。したがって、慶賀の植物図は、日本の伝統的な植物画の流れの中にありながらも、西洋の科学的要請に応えることで独自の位置を占めています。   



4.3. 慶賀の貢献:芸術と科学、東洋と西洋の架け橋


川原慶賀の植物図、とりわけ『草木花実写真図譜』に結実した作品群は、科学的に価値ある記録であると同時に、美的鑑賞に堪える芸術作品としての側面も併せ持っています。日本の伝統的な画技と、西洋の科学的植物画に求められる精密さを融合させる慶賀の能力は、シーボルトをはじめとする西洋人にとって極めて貴重でした。この図譜は、その内容と様式の両面において、出島を舞台とした異文化交流を象徴しており、複雑な植物学的情報を視覚的に分かりやすく伝え、文化の垣根を越えた知識の伝播に貢献したと言えます。   



4.4. 植物表現の進化とシーボルトの依頼がもたらした副次的遺産


シーボルトの依頼によって制作された慶賀の植物図は、日本の伝統的な本草図の表現方法を拡張、あるいは変容させるものでした。陰影法、遠近法、そして光源を意識したハイライトの使用といった西洋的な技法は、従来の東アジアの植物画の約束事とは異なる種類の「写実性」を目指しており、それはリンネ式分類体系やヨーロッパの科学界の要請に応えるものでした。これにより、日本の植物が、国際的な科学的植物図の標準に沿った形で表現される道が開かれました。   


シーボルトが慶賀に図譜制作を依頼した当初の目的は、あくまで『日本植物誌』の編纂やヨーロッパへの植物紹介といった科学的なものでした。しかし、その過程で生み出された慶賀の作品群は、当初の目的を超えて、独立した芸術的・歴史的価値を獲得するに至りました。今日、これらの作品は長崎絵や洋風画の重要な作例として、また日本美術史の一翼を担うものとして研究・評価されており、美術博物館に収蔵され、展覧会の主要なテーマともなっています。これは、科学的パトロネージと芸術的創造との間に見られる複雑な相互作用を示す好例であり、作品がその本来の機能を超えて文化遺産として認識される過程を物語っています。   



5. 結論



5.1. 『草木花実写真図譜』の多面的な重要性の再確認


『草木花実写真図譜』は、川原慶賀による重要な植物図譜であり、その精密な描写、原著『慶賀写真草本』からの改題再刊という経緯、そして明治期における受容といった点で注目に値します。この図譜は、19世紀初頭の日本における西洋の植物学調査を反映した科学的資料であると同時に、日本の伝統的画技と西洋の技法を融合させた慶賀独自の芸術様式を示す美術作品としても高く評価されます。



5.2. 川原慶賀の不朽の影響


川原慶賀は、江戸時代後期という日本の歴史的転換期において、特にシーボルトを介して西洋世界に日本の姿を伝えた重要な視覚的記録者でした。彼が『草木花実写真図譜』に代表される植物画を通じて示した芸術は、科学的知識の発展に貢献しただけでなく、日本の植物図の伝統をも豊かにしました。慶賀は、時代の複雑な文化的潮流の中で活動し、その正確さ、美しさ、そして歴史的洞察力によって今日なお学者や美術愛好家を魅了し続ける作品群を残した芸術家として、後世に大きな影響を与えています。



5.3. 芸術と観察の永続的な対話


『草木花実写真図譜』、そして川原慶賀の植物画全般は、芸術的表現と科学的観察との間に存在する、永続的かつ生産的な対話を明確に示しています。慶賀の「カメラのような」眼は、単に受動的に自然を記録するのではなく、能動的な解釈者として、自然界を、科学的な正確さへの要求と、形態や細部への美的評価の両方を満たすイメージへと翻訳しました。この対話は、科学的図版からデータ視覚化に至るまで、現代の様々な分野においても今日的な意義を持ち続けています。慶賀の作品が持つこの種の融合性こそが、彼の植物図が時代を超えて価値を保ち、人々を引きつける理由の一つでしょう。   





川原慶賀 ほか『草木花実写真図譜 2巻』,前川善兵衛.国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2606951





川原慶賀 ほか『草木花実写真図譜 2巻』,前川善兵衛.国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2606951





川原慶賀 ほか『草木花実写真図譜 2巻』,前川善兵衛.国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2606951





川原慶賀 ほか『草木花実写真図譜 2巻』,前川善兵衛.国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2606951







参考











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