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浮世絵師・北尾重政の花鳥写真図彙

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 2024年4月5日
  • 読了時間: 11分

更新日:6月9日



花鳥写真図彙
北尾重政 画『花鳥写真図彙 初・2編各3巻』,和泉屋市兵衛[ほか2名],文化2-文政10 [1805-1827]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2533265


1. 緒論:北尾重政と『花鳥写真図彙』



1.1. 北尾重政の重要性概観


北尾重政(1739-1820)は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師であり、紅摺絵から錦絵へと移行する浮世絵版画の変革期において中心的な役割を果たした人物の一人です。その洗練された美意識、緻密な描線、そして特に絵本分野における顕著な業績は高く評価されています。同時代の文化人であった大田南畝は、重政を「近年の名人なり。重政没してより浮世絵の風鄙しくなりたり」と絶賛しており、これは重政が当代においていかに高く評価されていたか、そして彼の死が浮世絵界の一つの質の転換点と見なされたことを示唆しています。この南畝の言葉は、重政が単に多作な絵師であっただけでなく、浮世絵における品格と技術の水準を体現する存在と認識されていたことを物語っています。   



1.2. 『花鳥写真図彙』の紹介


『花鳥写真図彙』は、重政の花鳥画分野における代表的な作例の一つであり、多巻にわたる絵本の形式で出版されました。19世紀初頭に刊行されたこの作品群は、その題名が示す通り「写真」すなわち現実を写し取るような、あるいは真に迫るような動植物の描写を追求した点に最大の特徴があります。この絵本は、芸術的な試みであると同時に、質の高い絵手本、すなわち絵画の模範図集としての役割も担っていた可能性が指摘されています。このような多巻構成の花鳥画絵本が19世紀初頭に制作されたという事実は、単なる一枚摺の版画を超えて、より網羅的で収集価値のある、そして教育的な側面も持つ芸術作品に対する市場の成熟と需要の高まりを物語っています。   



2. 絵師 北尾重政(1739-1820)の横顔



2.1. 略伝


北尾重政は、宝暦9年(1739)に江戸で生まれました。書肆、すなわち書店を営む家に生まれたことは、幼少期から絵入りの書物に親しむ環境を提供し、自然と絵画への関心を育んだと考えられます 。この出自は、一般的な徒弟制度を経て絵師となる多くの者とは異なる、重政独自の芸術的素地を形成する上で重要な意味を持ったと言えるでしょう。家業は弟に譲り、絵師としての道を志した重政は、特定の師につかず独学で画技を磨いたとされています。その画業の初期には、暦の挿絵などを手がけていました。 画号としては、紅翠斎が『花鳥写真図彙』にも記されているほか 、谷素外に俳諧を学び花藍の号も用いました。また、師承は不明ながら書道にも通じ、特に三体篆書隷書を得意としたといいます。これらの多岐にわたる素養は、重政の作品に格調と深みを与える一因となったでしょう。寛政12年(1820年)に没しました。   



2.2. 画風と様式の変遷


重政の初期の作品は、宝暦末頃(1760年代初頭)に見られ、西川祐信や鳥居清満風の紅摺絵による役者絵などを描いていました。明和2年(1765)頃からは錦絵の創製に主要な絵師として参加し、多色摺版画の発展に貢献しました。 安永(1772-1781)、天明(1781-1789)の頃には独自の画風を確立するに至ります。その様式の特徴としては、繊細かつ緻密な描線 、落ち着きのある調和のとれた色彩感覚 、そして人物の表情や仕草を生き生きと捉える優れた観察眼と描写力が挙げられます。特に美人画においては、当初は鈴木春信風の細身で可憐な女性像を描いていましたが、次第により写実的な作風へと移行していきました 。この変化には、美人画界を先導した磯田湖龍斎や、役者似顔絵の先駆者である勝川春章といった同時代の絵師たちの影響も考えられます。このように、重政の画業は、既存の様式を学びつつ、同時代の革新的な動向にも敏感に反応し、自身のスタイルを築き上げていった過程を示しています。   



2.3. 多才な浮世絵の巨匠として


北尾重政の活動範囲は極めて広く、多様なジャンルの浮世絵を手がけました。 美人画は、無款の作品も多く、8頭身の理想化された美人像から、より現実感のある女性像へと作風を進化させました。また、透視図法を用いた浮絵にも優れた作品を残しています。 版本における活躍は特に目覚ましく、手がけた絵本は60点以上、黄表紙と呼ばれる草双紙の挿絵は100点以上にのぼるとされています。この絵本や黄表紙といった分野での多作ぶりと質の高さは、書肆の家に生まれ、書物という媒体への深い理解があったことと無縁ではないでしょう。 その他、役者絵、武者絵、風俗画、風刺画など、幅広い主題に取り組んだことは、重政の柔軟な対応力と、各主題に対する独自の解釈能力を示しています。 肉筆浮世絵も手がけており、「蛍狩り図」などが代表作として知られています。   



2.4. 共作、門弟、影響


重政は他の絵師との共作も行っており、特に勝川春章との合作による絵本『青楼美人合姿鏡』(安永5年、1776)は、吉原の遊女たちを実在の人物に基づいて描いた作品として名高いです。また、山東京伝(北尾政演)とは黄表紙『四季交加』(寛政10年、1798)を合作しています。 教養豊かな重政のもとには多くの優れた門人が集まり、北尾派と呼ばれる一派を形成しました。その中には、戯作者としても名高い山東京伝(北尾政演)、鍬形蕙斎(北尾政美)、そして窪俊満といった、文学的素養も兼ね備えた人物が含まれていました。重政の幅広い教養と洗練された画風が、こうした文化的な弟子たちを惹きつけ、知的な雰囲気を持つ流派を形成する上で重要な役割を果たしたと考えられます。 その影響は同時代および後代の絵師にも及んでおり、喜多川歌麿や葛飾北斎といった巨匠たちにも影響を与えたとされています。   



3. 『花鳥写真図彙』の詳細分析



3.1. 出版および書誌情報


『花鳥写真図彙』は、北尾重政の代表的な花鳥画譜の一つです。 主要な題名は『花鳥写真図彙』であり、「寫眞」の字が用いられることもあります。別訓・別称として『花鳥写真図会』、『写真花鳥図会』なども見られます。 絵師は北尾重政(紅翠斎)です。刊記などには「北尾/重政/紅翠齋 模」といった形で記されており、「模」の一字が付されている点が注目されます。この「模」の字は「模写した」という意味を持ち、ある資料には「頃摸写乎所其楽作一帖名曰花鳥真図彙」とあり、様々な絵手本・画譜を摸写して本書を構成しているとの記述が見られます。この事実は、「写真」という語の解釈において重要な示唆を与えます。 出版年と構成については、少なくとも初編と二編の二期に分けて出版されました。初編は文化2年(1805)刊 、二編は文政10年(1827)刊です。これらの出版年から、文化2年から文政10年にかけて、あるいは1800年代から1830年代にかけて長期にわたる出版、あるいは後摺りが行われたことがわかります。 版元としては、江戸の西村宗七が記録されています 。ただし、版や時期によって他の版元が関与した可能性も考えられます。 形態と巻冊数に関しては、木版色摺の絵本であり、彩色本として制作されました 。初編三巻三冊、二編三巻三冊の計六巻六冊が一般的な構成とされます 。現存するものは、合本されて一冊となっている場合もあります。


3.2. 内容と主題の探求


『花鳥写真図彙』の内容と主題について探求します。 主題としては、主に様々な種類の鳥類と、季節を反映する草花、樹木、あるいは草本植物との組み合わせが描かれています。 典型的なレイアウトは、各見開きには解説文は付されず、一種の草花と一種の鳥が大きく配されるのが基本形式であったことが序文からうかがえます。 図様の典拠については、様々な絵手本・画譜を摸写して本書を構成しているとされています。これは、本作が、個々の図版について全て重政自身が実地写生を行ったというよりは、既存の優れた花鳥画の図様を精選し集成したものであることを示しています。 描かれた対象の例として、初編からは「槙に文鳥」(マキとブンチョウ)、「戎葵」「白頭翁」(アオイとハクトウオウ)、「菫」「碎米菜」「雲雀」(スミレ、サイマイサイ、ヒバリ)、「鴬」「八隔櫻」(ウグイス、ヤエザクラ)、「銀杏」「橿鳥」(イチョウ、カケス)などが挙げられます。   



4. 文脈、受容、後世への影響



4.1. 花鳥画の伝統における『花鳥写真図彙』


花鳥画は東アジア美術における主要なジャンルの一つであり、その源流は中国絵画に遡ります。日本においても、狩野派、琳派、円山四条派、そして浮世絵派など、様々な流派で愛好され制作されてきました。重政の作品は、浮世絵における花鳥画の系譜に位置づけられます。浮世絵の花鳥画は、しばしば装飾的な魅力と、より広範な層への訴求力を兼ね備えていました。 他の花鳥画の伝統と比較すると、例えば、しばしばより象徴的であったり水墨画を中心としたりした狩野派とは異なり、重政を含む浮世絵の花鳥画は、色彩と細密な表現を重視しました。円山応挙に代表される円山四条派の写実主義が、広重などの浮世絵の花鳥画に影響を与えたことは知られていますが 、重政の本作と円山四条派との直接的な関係や影響については、現存資料からは明確な言及が見られないものの、彼の「写真」的アプローチは、より大きな博物学的関心や写実主義への傾倒という時代の潮流と軌を一にするものでした。   



4.2. 花鳥画における象徴性


東アジア美術において、特定の鳥と花の組み合わせは、吉祥的な意味合い、季節の表現、あるいは文学的な典故を持つことが多いです。 例えば、松竹梅は「歳寒三友」として厳寒に耐える強靭さを象徴し 、鶴亀は長寿を 、鴛鴦は夫婦和合を、牡丹は富貴を 、蓮は清浄を象徴します。 『花鳥写真図彙』に描かれた「白頭翁」と牡丹の組み合わせは、「白頭富貴」、すなわち白髪になるまで富み栄えるという吉祥的な意味を持つことがあります。「戎葵、白頭翁」の図も、同様の寓意を込めて解釈できる可能性があります。『花鳥写真図彙』は「写真」、すなわち生き生きとした描写を重視していますが、描かれた主題の選択には、こうした伝統的な象徴的連想が江戸時代の鑑賞者にとって暗黙の前提として共有されていた可能性は否定できません。本作における「写真」の追求は、前近代の写実概念に根差しており、それは図らずも後の科学的図解や写真術に見られるような詳細な観察を先取りするものでした。このため、重政の意図や手法が現代の科学的図解とは異なっていたとしても、その精密さと自然主義は現代の鑑賞者にも訴えかけるものがあります。   



4.3. 影響と評価


重政が山東京伝、鍬形蕙斎、窪俊満といった門人を育成したことは既に述べた通りです。彼自身の花鳥画を含む作品群は、歌麿や北斎といった大家にも影響を与えたとされます。『花鳥写真図彙』のような質の高い絵本は、他の絵師やデザイナーにとって絵手本として機能し、花鳥画のモチーフや重政の様式を広めるのに貢献したと考えられます。本作は写実性と装飾性を兼ね備えた、優れた花鳥画集であり、浮世絵版画の技法を用いて花鳥画に挑戦した点で、日本美術史に新たな可能性を示した作品と評価されています。大田南畝による、重政没後の浮世絵の質の低下を嘆く言葉は、同時代における重政の高い評価を裏付けています。 重政の作品群が、後の明治時代の今尾景年や小原古邨といった、同じく細密な写実的花鳥画を得意とした絵師たちに直接的な影響を与えたかどうかは、現存資料からは断定できないものの、詳細な花鳥画絵本の伝統は受け継がれていきました。重政のような高い評価を得た作品は、しばしば他の芸術家に影響を与えます。例えば、広範な花鳥画シリーズを制作した北斎のような絵師は、重政の作品を、後の芸術家が参照する模範的な花鳥画のコーパスの一部として認識し、構図や細部の様式的要素やアプローチを吸収した可能性があります。   



5. 結論

   

本作は、19世紀初頭の日本の花鳥画に関する豊かな視覚資料として、また花鳥画の伝統におけるその役割、そして同時代の鑑賞者と現代の鑑賞者・収集家の双方に訴えかける魅力において、高い価値を持ちます。『花鳥写真図彙』は、浮世絵における重要な達成であり、木版印刷絵本という媒体で可能な高度な芸術性を示しています。『花鳥写真図彙』は、重政の長い画業、家業と多作な活動からくる絵本という媒体への深い理解、そして江戸時代の博物学的表現への関心の高まりが、「模写」という確立された芸術的実践を通じて結実したものと見なすことができます。このような詳細で多巻にわたる自然主題の作品の存在と享受は、芸術的美しさだけでなく、美的に媒介された形での知識や自然界への関与をも重んじる、江戸の洗練された都市文化を反映しています。これは単に美しいだけでなく、鑑賞者がその正確さや種の多様性を評価し、おそらくは学習や芸術的着想の源として利用したことを示唆しており、浮世絵絵本の消費者層におけるある程度の文化的・知的な関与を示しています。   





花鳥写真図彙 初・2編 各3巻


北尾重政 画『花鳥写真図彙 初・2編各3巻』,和泉屋市兵衛[ほか2名],文化2-文政10 [1805-1827]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2533265







参考







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