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花開く百の麗姿:永斎筆『花菖蒲図譜』が誘う、江戸園芸文化の深奥

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 2024年5月12日
  • 読了時間: 12分

更新日:6月13日


初夏の水辺に、凛として咲き誇る花菖蒲。その優美な姿は、古くから多くの日本人を魅了し、詩歌や絵画の題材となってきました。しかし、この花の背後には、単なる美しさだけではない、日本の豊かな文化と精神性が息づいていることをご存知でしょうか。

本記事では、永斎筆『花菖蒲図譜』を紐解きながら、日本の花卉/園芸文化が育んできた美意識と、花菖蒲に込められた深い意味を探求します。この図譜は、作者や制作時期に多くの謎を秘めながらも、その作者が江戸時代後期の著名な本草学者・画家である坂本浩雪(永斎)である可能性が指摘されており、私たちに江戸時代の園芸文化の熱気と、花を愛する人々の情熱を鮮やかに伝えてくれます。



1. 『花菖蒲図譜』とは:百花繚乱の記録


国立国会図書館デジタルコレクションに収蔵されている永斎//写『花菖蒲図譜』は、およそ100種類もの花菖蒲が精緻に描かれた、極めて美しい植物図譜です 。この図譜は、白、青、紫、ピンク、黄色など多様な花色、そして三英花、六英花、八重咲きといった様々な花形を持つ花菖蒲の姿を、繊細な筆致で克明に記録しています。花弁の筋や色の濃淡、葉の湾曲や質感に至るまで、細部にわたる丁寧な描写は、作者の高い画力を示しています。   


また、背景に多くの余白を取ることで、花菖蒲そのものの美しさが際立つ構図は、観賞用としても高い価値を有しています。多色刷りの木版画で表現された、淡いグレーの背景に映える白い花や、唇弁のフリル、黄色のグラデーションのぼかし表現などは、見る者を惹きつけます。   


この『花菖蒲図譜』には「永斎」の印が確認できますが、その正確な作成時期や作者に関する詳細は、現在のところ不明とされています。しかし、この「永斎」が紀州藩医・坂本順庵の長男で、本草学者、画家としても活躍した坂本浩雪(さかもと・こうせつ、寛政12年(1800年)- 嘉永6年(1853年))の号である可能性が指摘されています。もし坂本浩雪が作者であれば、本草学者としての正確な知識と画家としての高い技術が融合した作品である可能性が高まります。明治38年(1905年)には帝国図書館の蔵書であったことが確認されていますが、それ以前の来歴には多くの謎が残されています。   



2. 歴史と背景:江戸園芸の隆盛と図譜の誕生



2.1. 江戸園芸の隆盛:草花への傾倒


江戸時代、特に中期以降(18世紀中頃から)、日本の園芸文化は目覚ましい発展を遂げました。それまでツバキ、サクラ、ウメといった樹木が中心だった園芸の主役は、オモト、アサガオ、マツバラン、そして花菖蒲などの草類へと移り変わっていきます。この時期、花菖蒲はカキツバタの人気を凌駕し、多くの品種が作られ、その品種改良は飛躍的に増加しました。幕臣の松平定朝(菖翁)は、父の跡を継いで花菖蒲の改良に情熱を注ぎ、その多様性を広めることに大きく貢献しました。   


江戸の町人文化の隆盛とともに、限られた空間でも楽しめる草花への関心が高まり、品種の多様性や珍奇さを追求する「園芸ブーム」が巻き起こったのです 。樹木中心の園芸は広大な庭園を持つ富裕層や武士階級に限定されがちでしたが、草花は鉢植えでも楽しめ、限られた都市空間でも栽培が可能でした。この変化は、園芸がより広範な庶民層にも普及し、「園芸文化の民主化」が進んだことを示唆しています。松平定朝のような幕臣が品種改良に携わりつつも、その成果が広く共有された背景には、庶民の旺盛な需要があったと考えられます。図譜は、この多様な品種を記録し、情報を共有するメディアとして、この「民主化」を後押しする役割を担いました。『花菖蒲図譜』は、単なる植物の記録ではなく、江戸時代における文化の広がりと、人々の生活の中に深く根ざした美意識の表れであると言えます。それは、当時の人々が、身近な自然の中に無限の美を見出し、それを追求し、共有しようとした情熱の証であり、現代の私たちにも、日常の中の美を見つける喜びを教えてくれます。   



2.2. 博物学と植物図譜の発展:美と知の融合


江戸時代は、単なる園芸ブームだけでなく、学術的な探求としての「博物学」が発展した時代でもありました。徳川家康が『本草綱目』を入手して本草研究を始めたのを皮切りに、貝原益軒の『大和本草』、稲生若水の『庶物類纂』など、多くの本草学者が活躍しました。この博物学の発展とともに、動植物の記録を目的とした「図譜」の制作が盛んになります。これらの図譜は、単なる植物の分類や同定のための資料としてだけでなく、その精緻な描写と美しい彩色によって、美術品としても高い評価を受けるようになりました。イギリスの植物学者ロバート・フォーチュンが日本の園芸技術、特に斑入りや矮小、葉変わりといった「異品・奇品」への熱狂を絶賛したことからも、当時の日本の園芸文化の独創性と技術の高さがうかがえます。   


永斎筆『花菖蒲図譜』も、このような江戸時代の園芸と博物学の潮流の中で生まれたと考えられます。それは、花菖蒲の多様な品種を後世に伝える「記録」であると同時に、その繊細な美しさを表現する「芸術作品」でもありました。現代では失われてしまった多くの品種が、この図譜の中に生き生きと描かれていることは、その歴史的・植物学的価値を一層高めています。   


江戸時代の博物図譜は、現代の「科学図鑑」のように純粋な科学的正確性のみを追求するものではなく、対象の美しさを最大限に引き出し、鑑賞に堪えうる芸術性をも兼ね備えていました。これは、当時の日本における「知」のあり方が、西洋的な分析・分類一辺倒ではなく、対象を総合的に捉え、その本質的な美や生命力を表現することをも含んでいたことを示唆します。科学と芸術が未分化であった、あるいは意図的に融合されていた時代の精神性がここには息づいています。『花菖蒲図譜』は、単なる植物の記録を超え、当時の日本人が自然に対して抱いていた「美」と「知」への飽くなき探求心、そしてそれらを融合させる独特の文化的な視点を体現しています。これは、現代においても、科学的な探求と芸術的な感性が互いに高め合う可能性を示唆し、自然を多角的に捉えることの重要性を教えてくれるものです。



2.3. 永斎の時代背景と図譜の制作経緯への考察


永斎筆『花菖蒲図譜』の作者「永斎」については、紀州藩医・坂本順庵の長男で、本草学者・画家として知られる坂本浩雪(さかもと・こうせつ、寛政12年(1800年)- 嘉永6年(1853年))の号である可能性が指摘されています 。坂本浩雪は、父から医学を学びつつ本草学を研究し、余暇には絵画を学んだ人物です。特に天保15年(1844年)には医業を廃して画道に専念し、草木花卉の写生に情熱を注ぎました 。彼は『浩雪櫻譜』や『菌譜』、椿を描いた『山茶椿二品録』など、多くの精緻な植物図譜を著しており、その写生画は博物学史料としてだけでなく、美術史上の花鳥画としても高く評価されています。   


もし『花菖蒲図譜』が坂本浩雪の作品であるならば、その精緻な描写は、彼が本草学者として培った植物への深い知識と、画家としての卓越した技術が融合した結果であると考えられます。彼の活動時期である江戸時代後期は、まさに園芸ブームと博物学の隆盛期と重なります。当時の図譜制作においては、個人の画家の手によるものだけでなく、博物学研究者や園芸愛好家が共同で制作したり、写しとして広めたりすることも珍しくありませんでした 。このことから、「永斎」という号が、坂本浩雪の多岐にわたる活動の一環として使用された可能性は十分に考えられます。いずれにせよ、この図譜が、当時の花菖蒲への熱い情熱と、それを記録し、後世に伝えようとする強い意志の表れであるという点は変わりません。   



3. 文化的意義と哲学:花菖蒲に宿る日本の心



3.1. 花菖蒲が象徴するもの:尚武の精神と邪気払いの願い


花菖蒲は、その名前が「勝負(しょうぶ)」や「尚武(しょうぶ)」と同音であることから、古くから武士の間で縁起の良い植物とされてきました。特に鎌倉時代以降、武士たちは端午の節句に菖蒲湯に浸かって心身を清め、武運長久を祈願したり、兜に菖蒲を挿して「勝負に勝つ」願いを込めたりする風習が広まりました。   


また、菖蒲の葉には強い香りがあり、古くから邪気を払う力があると信じられてきました。この風習は古代中国の端午節に起源を持ち、季節の変わり目に体調を崩しやすい時期に、菖蒲やヨモギを門に飾ったり、菖蒲湯に浸かったりすることで、無病息災や厄除けを願うものでした。江戸時代にはこの菖蒲湯の習慣が庶民の間にも定着し、家族全員で無病息災を願う大切な行事となりました。   


花菖蒲には「優雅」「心意気」「信頼」といった花言葉があります。これは、花菖蒲の凛とした立ち姿や、品のある花の形状に由来すると言われています。特に、色によって異なる花言葉も持ち、紫色の花菖蒲は「優雅」「高貴」「知性」を、白い花菖蒲は「純粋」「清楚」「誠実」を象徴します。これらの花言葉は、日本の文化や伝統と深く結びつき、花菖蒲の高貴なイメージを強調しています。   


花菖蒲が持つこれらの意味は、単一の象徴ではなく、古代の信仰(邪気払い)と、中世以降の武家社会の価値観(尚武)、そして庶民の生活文化(菖蒲湯の普及)が複合的に結びついた結果であると考えられます。これは、日本の文化が、異なる時代や階層の思想を柔軟に取り入れ、一つの対象に多層的な意味を付与していく特性を示しています。花菖蒲は、こうした文化的な「積層」を体現する存在と言えるでしょう。『花菖蒲図譜』は、単に花の外形を記録するだけでなく、その花が社会の中でどのように位置づけられ、どのような願いや思想を託されてきたかという、目に見えない文化的な奥行きをも内包しています。図譜に描かれた一輪一輪の花菖蒲は、当時の人々の生活、信仰、そして精神性の縮図であり、私たちに日本の文化の豊かさと複雑さを伝えています。



3.2. 日本人の美意識と自然観:儚さと共存の美


花菖蒲の美しさは、日本人が古来より育んできた繊細な美意識と深く結びついています。水辺に凛と咲き、風にそよぐその姿は「優雅」そのものであり、貴族や武士階級の間で愛されてきました。   


日本の自然観は、自然を支配するのではなく、共存し、その移ろいを愛でることに重きを置いています。例えば、「やはり野に置け蓮華草」という諺が示すように、人や物が本来あるべき場所や状態でこそ最も価値を発揮するという考え方は、自然のままの姿に美を見出す日本人の精神性を表しています。花菖蒲は、その繊細な美しさの中に、自然の営みと生命の力強さを感じさせ、見る者の心を和ませる魅力を持っています。   


日本庭園のデザインの礎となる「侘び寂び」の哲学も、花菖蒲の美と共鳴します。不完全さ、一時性、簡素さに美を見出す「侘び寂び」は、花菖蒲の咲き誇り、そしてやがて散りゆく儚い姿の中に、人生の真理を見出す日本人の感性と重なります。花菖蒲は、池泉廻遊式庭園など、水辺の環境を好む特性から、日本庭園において重要な要素として配置され、季節の移ろいや自然の調和を表現する役割を担ってきました。その配置は、単なる装飾ではなく、自然の風景を模し、訪れる人々に心の安らぎと瞑想の機会を提供する意匠が凝らされています。   



3.3. 現代に息づく花菖蒲の魅力と『花菖蒲図譜』の貢献


永斎筆『花菖蒲図譜』は、単なる過去の遺物ではありません。その精緻な描写は、江戸時代に生み出された多様な花菖蒲の品種を現代に伝える貴重な資料であり、植物学的な研究においても重要な役割を果たします。江戸時代には多くの「異品・奇品」の園芸植物が創出されましたが、その多くは現代では失われてしまいました。この図譜は、失われた品種の姿を視覚的に提供することで、現代の植物学者や園芸家が過去の品種を研究し、場合によっては復元する手がかりとなる可能性を秘めています。これは、生物多様性の保全という現代的な課題にも間接的に貢献しうるものです。   


『花菖蒲図譜』は、単なる歴史的記録に留まらず、現代において「植物遺産」としての価値を持つと言えるでしょう。伊勢系花菖蒲や肥後系花菖蒲といった伝統的な品種群の研究にも貢献し、日本の園芸植物の品種改良の歴史を解明する上で不可欠な存在です。これは、過去の人々が花を愛し、その多様性を追求した情熱が、時を超えて現代の品種改良や植物保全の取り組みに繋がるという、文化と科学の連続性を示しています。それは、未来に向けて、過去の知恵と美意識を継承していくことの重要性を私たちに教えてくれるものです。   


現代においても、花菖蒲は多くの人々を魅了し続けています。その花言葉が示す「優雅」「信頼」「希望」といったポジティブなメッセージは、贈り物としても選ばれ、人々の心に寄り添います 。日本庭園では、花菖蒲がもたらす穏やかな優雅さと、季節の移ろいを感じさせる存在として、変わらぬ人気を誇っています 。   



結論:時を超えて輝く、花菖蒲の美と文化


永斎筆『花菖蒲図譜』は、作者や制作時期に謎を秘めながらも、江戸時代に花開いた日本の花卉/園芸文化の精華を今に伝える貴重な遺産です。この図譜は、約100種類もの花菖蒲の多様な美しさを精緻な筆致で描き出し、当時の人々の花への深い愛情と、博物学的な探求心、そして芸術的な感性の融合を鮮やかに示しています。

花菖蒲が持つ「尚武」や「邪気払い」といった多層的な象徴性、そして「侘び寂び」に代表される日本人の自然観や美意識は、この図譜を通して私たちに語りかけます。それは、単なる植物の記録を超え、自然と共生し、その中に普遍的な美を見出してきた日本文化の奥深さを映し出す鏡なのです。

『花菖蒲図譜』は、現代の私たちに、失われた品種の姿を伝え、植物学研究に貢献するだけでなく、日常の中に息づく花々の美しさに改めて目を向け、日本の伝統に触れるきっかけを与えてくれます。この一冊の図譜が誘う、時を超えた花菖蒲の物語を、ぜひあなたの目で体験し、日本の花卉/園芸文化の深奥な魅力に触れてみてください。





永斎//写『花菖蒲図譜』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1286969







参考/引用








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