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江戸の粋を映す幻影の華:『三都一朝』に秘められた変化朝顔の美学と日本人の心

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 1月1日
  • 読了時間: 9分




1. 朝顔に映る、はかなき日本の美


夏の朝、露を宿し、一瞬の輝きを放ち、昼にはその姿を閉じる朝顔。このはかなくも美しい花に、古くから日本人は特別な感情を抱いてきました。それは単なる季節の風物詩を超え、人生の機微、そして移ろいゆくものの中に真の美を見出す日本独自の感性が宿るからです。朝顔の短い命は、仏教的な「無常観」や、移ろいゆくものへの深い愛着を表現する「もののあわれ」といった、日本文化の根底に流れる思想と深く共鳴してきました。   


特に江戸時代、人々はこの朝顔に熱狂し、驚くべき多様な「変化朝顔」を生み出しました。突然変異によって生まれる予測不能な姿は、当時の人々の心を捉え、その美しさを後世に伝えようとする情熱が、数々の植物図譜として結実しました。その熱狂の結晶とも言える一冊が、今回ご紹介する『三都一朝』です。この図譜は、単なる植物の記録に留まらず、当時の人々の美意識、精神性、そして文化的な営みの結晶として、現代に多くの示唆を与えています。   



2. 『三都一朝』とは:江戸を彩った変化朝顔の図譜


『三都一朝』(さんといっちょう)は、嘉永7年(安政元年/1854)に刊行された、江戸時代に流行した「変化朝顔」を専門に集めた図譜です。これは特定の施設を指すものではなく、多色刷りの木版画で描かれた朝顔の品種カタログのような書籍であり、当時の園芸文化の貴重な記録となっています。   


「三都」とは、当時の日本の主要都市であった京都、大坂、江戸を指し、これらの地で愛好された変化朝顔の名品が多数収録されています。図譜には、それぞれの朝顔の「名」が記されており、その命名規則は「葉の色+葉の形+花の色+花の形(咲き方)」という詳細なものでした。例えば、豪華な牡丹咲きのものや、茶色や鼠色といった渋い色の花が特に珍重されたことが記録されています 。この詳細な記録は、当時の朝顔愛好家たちが、いかに品種の個性を細やかに観察し、その美を言語化しようと努めていたかを示しています。   



3. 『三都一朝』誕生の背景:作者たちの情熱と時代の息吹



3.1. 作者「成田屋留次郎」の生涯と朝顔への情熱


『三都一朝』の著者である成田屋留次郎は、本名を山崎留次郎といい、江戸入谷で植木屋を営んでいました。彼は弘化4年(1847)、37歳で入谷に独立し、朝顔栽培に本格的に取り組み始めました。自ら「朝顔師」と名乗るほどの深い造詣と情熱を持ち、変化朝顔の品種改良に没頭した人物です。   


『三都一朝』の出版は、彼の長年の経験と情熱の結晶と言えます。彼は江戸、大阪、京都の朝顔愛好家から名品を収集し、一流の画家である田崎草雲に図譜の制作を依頼しました。さらに、図譜に付随する解説文を執筆し、自らの費用で出版を手掛けるなど、その情熱は多岐にわたっていました。彼は『両地秋』(安政2年/1855)や『都鄙秋興』(安政4年/1857)といった他の朝顔図譜も刊行し、また「花合わせ会」という品評会を主催することで、江戸の変化朝顔文化の発展に大きく貢献しました。明治24年(1891)に81歳で死去するまで、その生涯を朝顔に捧げた人物でした。   



3.2. 絵師「田崎草雲」の筆致が宿す生命感


『三都一朝』に収められた美しい木版画は、南画家の田崎草雲(たざき そううん、文化12年/1815 - 明治31年/1898)によって描かれました。田崎草雲は、幼少期から絵の才能に恵まれ、谷文晁の門下で学びました。放浪の時期を経て、嘉永6年(1853)には足利藩の画師として登用され、幕末期には勤王の志士としても活動するなど、波乱に富んだ生涯を送りました。   


草雲の写実的な描写は、朝顔の繊細な美しさを余すところなく表現しており、当時の最高水準の多色刷り木版技術と相まって、花の色や模様が鮮やかに再現されています。成田屋留次郎が植木屋でありながら、このような一流の画家を起用して図譜を制作したことは、単なる趣味の記録を超えた、学術的かつ芸術的な価値を追求したことを示唆しています。変化朝顔の多様な形態を精緻に記録するためには、高い写実性と多色刷りの技術が不可欠であり、これは当時の日本における博物学的な探求心と、それを美的に表現しようとする芸術的衝動が結びついていた証拠と言えるでしょう。   



3.3. 幕末の動乱と園芸ブーム:癒しと探求の時代


『三都一朝』が刊行された嘉永7年(安政元年/1854)は、日本が大きな変革期にあった幕末の動乱期にあたります。ペリーの浦賀来航(嘉永7年/1854)による開国要求や、安政の大獄といった政治的な混乱、さらには安政南海地震(嘉永7年/1854)のような大規模な自然災害も発生し、人々は先の見えない不安の中にありました。   


このような激動の時代において、江戸時代には変化朝顔のブームが二度到来しており、嘉永・安政期はその第二次のピークでした。このブームは、武士や裕福な町人、僧侶、そして植木屋といった多様な層を巻き込み、時には奇品・珍品が高値で取引されるほどの熱狂を見せました。朝顔は裏長屋の狭いスペースでも育てやすく、毎朝花を咲かせることから、専門家だけでなく庶民にも広く人気がありました。   


動乱の幕末期に園芸、特に変化朝顔の栽培がこれほど熱狂的なブームとなったことは、単なる流行以上の深い意味を持っていたと考えられます。人々は不確実で不安定な社会情勢の中で、予測不能な変化を遂げる朝顔の栽培に、ある種の「心の安らぎ」や「現実からの逃避」、あるいは「生命の神秘への探求」を見出していた可能性があります。朝顔栽培は、その成長を予期し、開花を待ち望む過程で、人々に「楽しみ」や「心の潤い」を与え、また水やりや手入れといった日々の作業は、責任感を育み、忍耐力や持続力を高める効果も認められています。これは、コントロールできない外界への不安に対し、身近な自然の中で創造的な活動に没頭することで心の安定を保とうとする、当時の人々の精神的な営みを反映していると言えるでしょう。   



4. 『三都一朝』が伝える文化的意義と哲学



4.1. 刹那の美を永遠に:無常観と「もののあわれ」


朝顔は、早朝に咲き誇り、昼にはしぼんでしまう一日限りの命を持つ「一日花」です。この「儚さ」は、古くから日本人の美意識に深く響き、愛されてきました。鴨長明の『方丈記』にも「人と住いと、どちらが先に滅びるかは、朝顔と露の関係と同じである」と記されており、朝顔の儚さは、世の無常を象徴するものとして捉えられていました。   


『三都一朝』のような図譜は、この刹那の美を精緻な筆致で永遠に留めようとした、まさにその精神の表れです。図譜としてその姿を「永遠に留める」という行為は、単に時間を止めることではなく、むしろ移ろいゆくものだからこそ、その輝きをより一層尊ぶという、日本独自の「無常観」や「もののあわれ」といった哲学的な意味合いを持っています。これは、有限な命の中に無限の美を見出す、日本文化に深く根ざした価値観の具現化と言えるでしょう。   



4.2. 予測不能な多様性の受容:「粋」の精神と自然への敬意


変化朝顔は、突然変異によって生まれる予測不能な花や葉の形、色、模様の多様性が最大の魅力でした。当時の人々は、画一的な美しさや完璧な形を追求するのではなく、個々の違いや偶然から生まれる独特の造形に価値を見出しました。これは、自然の摂理の中で生まれる多様性を積極的に受け入れ、それを「美」として享受する、江戸時代ならではの寛容な精神性を物語っています。   


変化朝顔の栽培と鑑賞には、「粋」の精神が宿っていました。「粋」とは、高価な道具や派手な装飾に頼らず、限られた空間や資源の中で自然の美を最大限に引き出し、静かに楽しむ姿勢を指します。これは、効率や利益を追求するビジネスとは一線を画し、純粋な情熱と手間暇を惜しまない精神で、独自の美を追求した江戸の人々の生き様を映し出しています。変化朝顔の「予測不能な多様性」を愛でる文化は、単なる珍奇さへの興味を超え、自然の「不完全さの美学」を受け入れ、その中に「粋」を見出すという、日本独自の美的・哲学的な深層を示しているのです。これは、コントロールできない自然の摂理に対する畏敬の念と、その中で生まれる個性を尊重する精神性の表れと言えるでしょう。   



4.3. 園芸に宿る精神性:心の豊かさと癒し


江戸時代、園芸は武士から町人、庶民に至るまで広く普及した趣味であり、人々の生活に潤いとやすらぎをもたらしました。特に変化朝顔の栽培は、その成長を予期し、開花を待ち望む過程で、人々に「楽しみ」「心の潤い」「喜び」「安堵感」「やりがい」といった精神的な充足感を与えました。   


水やりや手入れといった日々の作業は、責任感を育み、忍耐力や持続力を高める効果も認められています。幕末の動乱期という社会的な不安が高まる中で、朝顔栽培がもたらした精神的な安らぎや充実感は、当時の人々にとって重要な心の拠り所となったと考えられます。これは、外的要因によるストレスに対し、内面的な平和と創造的な活動を通じて対処しようとする、普遍的な人間の心理を映し出しています。園芸が単なる趣味ではなく、一種の「精神療法」のような役割を果たしていた可能性を示唆しているのです。   



5. 現代に息づく『三都一朝』の価値


『三都一朝』は、単なる植物図鑑ではなく、江戸時代の園芸文化、美意識、社会的な価値観を反映した重要な文化遺産です。この図譜は、メンデルの法則が発見される以前から、日本人が経験則によって遺伝上の性質を利用した品種改良を行っていたという、当時の園芸技術の高さと人々の情熱を現代に伝えています。科学的知識が未発達な時代に、経験と観察によって高度な品種改良を成し遂げた先人たちの知恵と情熱は、現代の持続可能な社会における自然との共生や、伝統技術の再評価に繋がる示唆を与えています。   


現在も、『三都一朝』は国立国会図書館デジタルコレクションや大学図書館などで閲覧可能であり、当時の文化や技術を研究するための貴重な資料となっています。変化朝顔は、明治時代以降一時衰退しましたが、昭和初期に愛好家たちによって復活し、現在もその美しさと栽培の面白さから多くの人々に愛されています。さらに、遺伝子研究の進展とともに新たな可能性も広がっており、過去の文化遺産が現代科学にも貢献しうることを示しています。   



結び


『三都一朝』は、幕末の動乱期に花開いた変化朝顔の文化を象徴する一冊であり、その背後には、はかなき美を愛し、予測不能な変化の中に「粋」を見出した江戸の人々の深い精神性がありました。この図譜は、単なる植物の記録を超え、自然との共生、生命の多様性への敬意、そして困難な時代を生き抜く人々の心の豊かさを伝える、貴重な文化遺産として、現代に語りかけています。

『三都一朝』を通して、日本の花卉文化の奥深さに触れ、私たち自身の暮らしの中に、ささやかながらも豊かな「美」と「癒し」を見出すきっかけとなることを願います。




三都一朝



成田屋留次郎 著 ほか『三都一朝』,嘉永7 [1854]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2609169





成田屋留次郎 著 ほか『三都一朝』,嘉永7 [1854]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2609169






参考/引用












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