江戸 花鳥と鷹
- JBC
- 2024年3月8日
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更新日:6月9日
1. 序論:浮世絵揃物「生写四十八鷹」の全貌
1.1. 揃物の概要
「生写四十八鷹」は、江戸時代末期における浮世絵木版画の注目すべき揃物です。本揃物は、安政6年(1859)に制作・出版されまました。この年代は幕末期にあたり、日本社会が大きな変革期を迎え、西洋文化との接触も増えつつあった時期です。このような時代背景の中で、「生写」という写実性を重んじる表題が掲げられたことは注目に値します。
揃物は全48図から成り、それぞれの図において鷹が四季折々の草花や小動物と共に描かれ、伝統的な花鳥画の構成を踏襲しています。全48図という規模、そして春夏秋冬の各季節に12図ずつを配するという構成は 、単なる装飾的な作品群を超え、鷹という主題に対する網羅的、あるいは百科全書的な意欲を示しているとも解釈できます。
1.2. 作者の謎と芸術的意図
本揃物における最大の謎の一つは、その作者の帰属です。各図には「嵩岳堂」の署名が見られるものの、実際にはより高名な絵師である田崎草雲の作であるとする説が有力視されています。
表題に用いられた「生写」という言葉は、「実物を見て写すこと」あるいは「生きているように真に迫って写すこと」を意味し 、対象の忠実な観察と写実的な表現への強い意志を示しています。
表1:揃物「生写四十八鷹」概要
項目 | 詳細 |
署名作者 | 嵩岳堂 |
実質作者(推定) | 田崎草雲 |
日本語表題 | 生写四十八鷹 |
英語表題(参考) | Forty-eight Hawks Drawn from Life |
出版年 | 安政6年(1859年) |
版元 | 紅英堂 – 蔦屋吉蔵 |
形式 | 大判錦絵 |
図数 | 48図(及び目録1点か) |
主題 | 鷹と四季の草花・小動物の写実的描写(「生写」) |
2. 作者の署名:嵩岳堂と田崎草雲の影
2.1. 嵩岳堂(中山明直)の経歴
「生写四十八鷹」の各図に名を記す嵩岳堂は、姓を中山、名を明直といい、俗称を浪江といいました。画号としては嵩岳、嵩岳堂、三丘堂などを用いたとされます 。江戸の浅草広小路火の見下に住み、作画期は安政(1854-1860)から文久(1861-1864)頃とされ、これは「生写四十八鷹」の出版年(1859)と完全に一致します。浮世絵師として活動していたとされます。
2.2. 真の作者としての田崎草雲:有力な説
しかしながら、本揃物の実質的な作者は、幕末から明治にかけて活躍した高名な画家、田崎草雲(1815-1898)であるというのが、今日広く受け入れられている見解です。草雲は文化12年(1815)に生まれ、明治31年(1898)に没しました。幼少期より親戚の金井烏洲に絵の手ほどきを受け、後には谷文晁や渡辺崋山といった、浮世絵とは異なる系譜の、写実表現にも長けた大家の画風を学びました。嘉永6年(1853)には足利藩の絵師となり、幕末期には勤王の志士としても活動しました。明治維新後は画業に専念し、その実力は高く評価され、明治23年(1890)には帝室技芸員を拝命しています。山水、花鳥、人物など幅広い画題を手がけ、特に花鳥画における優れた技量はこの「生写四十八鷹」の主題と直接的に関連します。
嵩岳堂は田崎草雲の門人であったとされています。この師弟関係は、草雲の図案が弟子である嵩岳堂の名で出版された可能性を示唆します。草雲の画力、特に谷文晁や渡辺崋山に学んだ写実的な描写能力は、「生写」を謳う本揃物の制作に不可欠であったと考えられます。
2.3. 画号の慣習と帰属の理由に関する考察
絵師が複数の画号を使い分けることは珍しくありません。葛飾北斎が生涯に30回も号を改めた例は有名です。画号の変更や使い分けの理由としては、作風の変化を示すため、特定の流派に属することを示すため、あるいは画号を弟子に譲渡して収入を得るためなど、様々なものが考えられます。春画など特定のジャンルの作品を制作する際に、幕府の取締りを逃れるために「隠号」を用いた例もあります。
「生写四十八鷹」において、草雲が自身の作品を門人である嵩岳堂の名で出版した理由としては、いくつかの可能性が考えられます。第一に、ジャンルの区別です。足利藩御用絵師であり、後に帝室技芸員となる草雲にとって、より格式の高い画壇での評価を意識し、大衆的なメディアである浮世絵とは一定の距離を置こうとした可能性があります。 第二に、門人の育成や支援です。優れた作品群に嵩岳堂の名を冠することで、その名を高め、画業を助ける意図があったかもしれません。第三に、版元である紅英堂の戦略も考えられます。浮世絵市場においては、既に名の通った浮世絵師である嵩岳堂の名を用いる方が販売上有利と判断した可能性もあります。 嵩岳堂自身の作として、本揃物以外に特筆すべき大作があまり伝えられていないことも、草雲が実質的な作者であったとする説を補強する一因となっています。
3. 「生写四十八鷹」の芸術的価値と特徴
3.1. 主題的焦点:「生写」の美学 – 鷹の写実的描写
本揃物の表題に冠された「生写」という言葉は、その芸術的意図を端的に示しています。「生きているものをそのまま写す」という意味合いを持ち、対象の観察に基づく写実的な表現を追求する姿勢がうかがえます。鷹という勇猛な鳥を主題としながら、その姿を「生き生きと」捉えようとしたことは 、単なる様式化された鳥の絵ではなく、個々の鷹の生態や特徴に迫ろうとした試みであったと言えます。田崎草雲が学んだ谷文晁や渡辺崋山の画風には、西洋画の影響も含む写実的な要素があり、その技量がこの「生写」の理念の実現に貢献したと考えられます。このような写実性は、鷹狩りに関心を持つ武家階級や、博物学的な興味を持つ知識層の眼をも満足させるものであったでしょう。
3.2. 構成要素:鷹と四季の草花、動物、風景の融合
「生写四十八鷹」は、春夏秋冬の四季に分けられ、各季節に12図ずつ、合計48図で構成されています。各図において、主役である鷹は、その季節を象徴する草花や、時には他の小動物、あるいは背景となる風景と巧みに組み合わされています。これにより、単に鷹の姿を描くだけでなく、鷹が生息する自然環境全体を捉えようとする意図が見て取れます。各図は、特定の季節における自然の一場面を切り取った、いわばミニアチュールのような趣を呈しています。
具体的な作品例としては、以下のようなものが挙げられます。
「生写四十八鷹 四十四 白すゞめ 枯ばせを 寒ぎく」(冬):白い鳥(鷹の一種か、あるいは対比的な小鳥か)、枯れた芭蕉、冬菊が描かれ、冬の情景を伝えます。
「生写四十八鷹 いんこ 瑞香」(冬~早春):インコとジンチョウゲ(瑞香)の組み合わせ。ジンチョウゲは冬の終わりから早春にかけて芳香を放ちます。
これらの例からも、鷹と周囲の自然要素との調和を重視した構成が窺えます。
3.3. 技術的実行:錦絵、大判形式、色彩
本揃物は、大判錦絵と呼ばれる形式で制作されました 。大判(約38 x 26 cm )は浮世絵版画の標準的なサイズの一つであり、鑑賞に堪えうる十分な画面を提供します。全48図をこの大判で揃えることは、版元にとっても相当な投資であったはずであり、一定の購買力を持つ層を対象としていたことが推測されます。
錦絵とは、多色摺りの木版画のことであり、複数の版木を精密に摺り重ねることで豊かな色彩表現を可能にする技法です。本揃物においても、鷹の羽毛の質感、草花の色彩、季節の空気感などを表現するために、この高度な技術が駆使されたと考えられます。ある資料では、一点の保存状態について「刷り良」との記述があり、制作における技術的な配慮がなされていたことを示唆しています。また、後年の版とされるものでは「鮮やかな細部と強い色彩、そして空摺(エンボス加工)」が特徴として挙げられており 、原画の意図を汲んだ精緻な摺りが求められたことがわかります。
4. 版元:紅英堂(蔦屋吉蔵)と浮世絵の普及
4.1. 出版社の概要
「生写四十八鷹」の版元は、紅英堂です 。紅英堂は蔦屋吉蔵の堂号であり 、この蔦屋吉蔵は、江戸時代を代表する浮世絵版元の一人である蔦屋重三郎の分家にあたります 。この系譜は、紅英堂が浮世絵出版界において一定の基盤と信用を有していたことを物語ります。紅英堂の版元印は、蔦屋重三郎と同じ「富士山形に蔦の葉」の意匠に黒丸を加えたものであったとされ、本家との関係性を示しつつ区別を図っていました。
4.2. 安政期浮世絵市場における紅英堂の役割
紅英堂は、「生写四十八鷹」が出版された安政年間においても活発な出版活動を行っており、特に風景画の巨匠である歌川広重の作品を多く手がけていたことで知られます。広重が紅英堂(蔦屋吉蔵)から出版した作品には、「東都名所」シリーズ(天保10年頃)、同じく「江戸名所」シリーズ、そして安政2年(1855)の「東海道五十三次名所図絵」(通称「竪絵東海道」)などがあります。また、「冨士三十六景 さがみ川」も紅英堂による広重作品の一つです。
広重のような当代一流の絵師の作品を出版していたという事実は、紅英堂が浮世絵市場において確固たる地位を築いていたことを示しています。そのような版元が、全48図にも及ぶ「生写四十八鷹」という専門性の高い大作を手がけたことは、紅英堂の企画力と経済力を物語ります。広重の風景画のような広範な層にアピールする作品と並行して、本揃物のような特定の主題を深く掘り下げたシリーズを出版したことは、紅英堂が多様な市場の需要に応えようとしていたことの現れかもしれません。特に、鷹という主題と「生写」という写実性の追求は、花鳥画の愛好家や、鳥類学、あるいは鷹狩りに関心を持つ、より専門的な知識を持つ層をターゲットにしていた可能性が考えられます。
蔦屋本家との繋がりは、紅英堂にとって、熟練した彫師や摺師といった職人へのアクセス、確立された流通網、そしてある程度のブランド認知度といった点で有利に働いたでしょう。これらは、「生写四十八鷹」のような質の高い大作を世に送り出す上で不可欠な要素でした。
5. 文化的共鳴:江戸時代の鷹狩りと鳥類図像
5.1. 武家社会と大衆文化における鷹と鷹狩りの意義
鷹狩りは、徳川家康や徳川吉宗といった将軍をはじめとする武家階級にとって、重要な娯楽であり、また尚武の精神を象徴する行為でした。単なる遊興に留まらず、軍事訓練や領内の状況視察といった実用的な目的も兼ねていたとされます。
鷹狩りを行う場所は鷹場として厳格に管理され、関東では葛西筋など江戸六筋と呼ばれる広大な鷹場が設定されていました。鷹狩りの実施は将軍や御三家、一部の有力大名に限られていました。しかし、五代将軍徳川綱吉の時代に発令された「生類憐みの令」により、元禄9年(1696)に鷹狩りは一時的に禁止され、飼育されていた鷹は放たれたと伝えられます。その後、八代将軍吉宗によって鷹場制度は再興され、幕末まで続くこととなります。
鷹は、その勇猛さ、鋭い眼光、空を支配する姿から、武勇、高貴さ、先見性などの象徴とされ、武具の意匠や絵画の主題として好んで描かれました。
5.2. 「生写四十八鷹」が同時代的関心を反映する方法
「生写四十八鷹」は、このような文化的背景の中で制作されました。直接鷹狩りに参加できないまでも、鷹の持つ象徴性や勇壮な姿に憧憬を抱く武士や富裕な町人層にとって、本揃物は魅力的なものであったでしょう。特に「生写」を謳う写実的な描写は、鷹をよく知る人々にとっては、その正確さや迫真性において高く評価された可能性があります。河鍋暁斎が後に制作した『絵本鷹かゝみ』が鷹匠たちからも信頼を得ていたという事実は 、鳥類の正確な図像に対する需要が存在したことを示しています。「生写四十八鷹」もまた、同様の関心に応えるものであったと考えられます。
浮世絵はしばしば同時代の風俗や流行、人々の関心事を映し出す鏡でした。鷹狩りが浮世絵の画題として描かれることもあり 、本揃物もまた、鷹に対する広範な文化的関心の一端を捉えたものと言えます。1859年という幕末期、武士階級の権威が揺らぎつつあった時代に、かつてはエリート層の象徴であった鷹を主題とする質の高い浮世絵が大衆的な市場で流通したことは、文化的な象徴の享受層が拡大していた可能性を示唆します。写真がまだ普及していなかった時代において、精緻な版画は、これらの鳥を間近に観察し、その美しさを収集する「視覚的なコレクション」あるいは「仮想の鷹狩り」としての役割も果たしたかもしれません。
6. 結論:「生写四十八鷹」の不朽の意義
本稿で考察した通り、「生写四十八鷹」は、安政6年(1859)に版元紅英堂から出版された、全48図(及び目録)から成る大判錦絵の揃物です。署名は嵩岳堂ですが、その師である高名な画家、田崎草雲が実質的な作者であったとする説が有力です。芸術的には、「生写」の理念に基づき、鷹を四季折々の自然環境の中に写実的かつ生き生きと描写した点に特徴があり、江戸時代末期の花鳥画における高い達成を示しています。
「生写四十八鷹」は、その規模の大きさ、主題の統一性、そして写実表現への意欲において、幕末期の浮世絵花鳥画の中で特筆すべき位置を占めます。鷹という特定の鳥類に焦点を当て、これほど体系的かつ詳細に描写した揃物は稀であり、同時代の類品と比較してもその質の高さは際立っています。
嵩岳堂と田崎草雲の帰属問題は、日本の美術、特に浮世絵の制作システムにおける作者性の複雑さを象徴する事例と言えます。師弟関係、ジャンルによる名義の使い分け、版元の意向など、様々な要因が絡み合い、署名だけでは作品の成立背景を完全に理解できない場合があることを示しています。このような謎は、作品の価値を損なうものではなく、むしろ浮世絵制作の協業的、あるいは多層的な側面への理解を深めるきっかけとなり、学術的な探求心を刺激します。