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「生写四十八鷹」が誘う、江戸の花鳥世界:写実と象徴が織りなす自然への敬意

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 2024年3月8日
  • 読了時間: 14分

更新日:6月21日



アートが単なる美の表現を超え、文化と自然の深いつながりを映し出す鏡となる世界を想像してみてください。季節の移ろいを繊細に感じ取り、自然との共生を重んじてきた江戸時代の人々は、その豊かな精神性をどのように芸術に昇華させたのでしょうか。本稿では、当時の人々の生活を彩り、美意識を映し出した浮世絵の世界へと皆様を誘います。特に、力強い鷹と四季折々の草花が織りなす「生写四十八鷹」という魅惑的な浮世絵揃物に焦点を当て、その本質と魅力を深く掘り下げていきます。この作品が、日本の花卉/園芸文化の歴史とどのように結びつき、現代に何を語りかけるのか、その発見の旅にご一緒しましょう。



1. 浮世絵揃物「生写四十八鷹」の全貌



1.1. 揃物の概要と「生写」の美学


「生写四十八鷹」は、安政6年(1859)に制作・出版された、江戸時代末期における浮世絵木版画の注目すべき揃物です。この時期は、ペリー来航(嘉永6年(1853))に始まる開国とそれに伴う政治的混乱、そして明治維新へと向かう動乱の幕開けにあたり、日本社会が大きな変革期を迎えていました。このような激動の時代に、自然を主題とした大規模な作品が生まれたことは、当時の人々の精神的な拠り所や文化的な適応力を示すものとして、非常に興味深い点です。   


本揃物は全48図から構成され、春夏秋冬の各季節に12図ずつが配されています。この網羅的な構成は、単なる装飾的な作品群を超え、鷹という主題に対する百科全書的な意欲を示唆しています。この作品の「生写」というタイトルと全48図という網羅的な構成は、単なる美的な追求に留まらず、当時の自然に対する深い観察眼と、それを体系的に記録しようとする博物学的な意図が込められていることを示唆しています。これは、江戸時代後期に高まった本草学や写生の精神と共鳴するものであり、芸術が知の探求と結びついていた時代の潮流を反映していると言えるでしょう。   


本揃物の表題に冠された「生写」という言葉は、その芸術的意図を端的に示しています。「生きているものをそのまま写す」あるいは「生きているように真に迫って写す」という意味合いを持ち、対象の観察に基づく写実的な表現を追求する姿勢がうかがえます。鷹という勇猛な鳥を主題としながら、その姿を単なる様式化された絵ではなく、個々の鷹の生態や特徴に迫ろうとした試みであり、生き生きと捉えようとする「生写」の理念が貫かれています。   


以下に、「生写四十八鷹」の概要をまとめた表を示します。

項目

詳細

日本語表題

生写四十八鷹

英語表題(参考)

Forty-eight Hawks Drawn from Life

署名作者

嵩岳堂

実質作者(推定)

田崎草雲

出版年

安政6年(1859年)

版元

紅英堂 – 蔦屋吉蔵

形式

大判錦絵

図数

48図(及び目録1点か)

主題

鷹と四季の草花・小動物の写実的描写(「生写」)



1.2. 構成と芸術的特徴:鷹と四季の自然の融合


「生写四十八鷹」の各図において、主役である鷹は、その季節を象徴する草花や、時には他の小動物、あるいは背景となる風景と巧みに組み合わされています。これにより、単に鷹の姿を描くだけでなく、鷹が生息する自然環境全体を捉えようとする意図が見て取れます。各図は、特定の季節における自然の一場面を切り取った、いわばミニアチュールのような趣を呈しています。   


具体的な作品例として、「生写四十八鷹 四十四 白すゞめ 枯ばせを 寒ぎく」(冬)では白い鳥と枯れた芭蕉、冬菊が描かれ、冬の情景を伝えています。また、「いんこ 瑞香」(冬~早春)ではインコとジンチョウゲが組み合わされており、季節の移ろいを繊細に表現しています。嵩岳堂(実質的な作者とされる田崎草雲)は、オオタカやハヤブサといった鷹の種類ごとの特徴を捉え、力強く美しい姿で描写していると考えられます。   


力強い鷹と繊細な季節の草花を融合させる構成は、日本の美意識の根底にある「自然との共生」と「調和」の哲学を象徴しています。これは、単に個々の対象を描くのではなく、生命が循環する自然の全体像を捉え、その中に普遍的な美を見出すという、日本文化特有の深い洞察力を示していると言えるでしょう。


1.3. 技術的側面:錦絵と大判形式の魅力


本揃物は、大判錦絵と呼ばれる形式で制作されました。大判(約38 x 26 cm)は浮世絵版画の標準的なサイズの一つであり、鑑賞に堪えうる十分な画面を提供します。錦絵とは、明和年間(1764~1772)以降に広まった多色摺りの木版画のことであり、複数の版木を精密に摺り重ねることで豊かな色彩表現を可能にする技法です。本揃物においても、鷹の羽毛の質感、草花の色彩、季節の空気感などを表現するために、この高度な技術が駆使されたと考えられます。   


全48図をこの大判で揃えることは、版元にとっても相当な投資であったはずであり、一定の購買力を持つ層を対象としていたことが推測されます。保存状態の良い作品では「鮮やかな細部と強い色彩、そして空摺(エンボス加工)」が特徴として挙げられており、原画の意図を汲んだ精緻な摺りが求められたことがわかります。   


「生写四十八鷹」の制作は、単なる芸術的挑戦に留まらず、当時の浮世絵市場の成熟度と商業的活力を示すものです。版元がこれほど大規模で専門性の高い作品に投資できたという事実は、当時の江戸に、高い品質と特定のテーマ性を持つ芸術作品を求める、多様な購買層が存在していたことを物語っています。これは、浮世絵が単なる庶民の娯楽を超え、文化的な深みと経済的な基盤を確立していた証と言えるでしょう。



2. 「生写四十八鷹」の歴史と背景



2.1. 作者の謎と実質的作者:嵩岳堂と田崎草雲


「生写四十八鷹」の各図には「嵩岳堂」の署名が見られます。嵩岳堂は姓を中山、名を明直といい、安政(1854~1860)から文久(1861~1864)頃に活動した浮世絵師とされます。しかし、今日広く受け入れられている見解では、本揃物の実質的な作者は、幕末から明治にかけて活躍した高名な画家、田崎草雲(文化12年(1815)~明治31年(1898))であるという説が有力です。   


草雲は幼少期より親戚の金井烏洲に絵の手ほどきを受け、後には谷文晁や渡辺崋山といった、浮世絵とは異なる系譜の、写実表現に長けた大家の画風を学びました。これらの画風には西洋画の影響も含まれており、その技量が「生写」の理念の実現に貢献したと考えられます。彼は嘉永6年(1853)に足利藩の絵師となり、明治23年(1890)には帝室技芸員を拝命するほどの高い実力を持っていました。   


嵩岳堂は田崎草雲の門人であったとされており、草雲の図案が弟子である嵩岳堂の名で出版された可能性が示唆されています。嵩岳堂自身の作として、本揃物以外に特筆すべき大作があまり伝えられていないことも、草雲が実質的な作者であったとする説を補強します。   


草雲が自身の作品を門人の名で出版した理由としては、いくつかの可能性が考えられます。第一に、ジャンルの区別です。足利藩御用絵師であり、後に帝室技芸員となる草雲にとって、より格式の高い画壇での評価を意識し、大衆的なメディアである浮世絵とは一定の距離を置こうとした可能性があります。第二に、門人の育成や支援です。優れた作品群に嵩岳堂の名を冠することで、その名を高め、画業を助ける意図があったかもしれません。第三に、版元である紅英堂の販売戦略も考えられます。   


この複雑な作者の帰属は、江戸時代末期の美術界が持つ多層的な構造を浮き彫りにします。伝統的な画壇と大衆的な浮世絵界の間には、明確なヒエラルキーと、それを意識した戦略が存在していたことが伺えます。一流の画家が自身の評価を損なうことなく、新たな表現や市場に参入する方法として、弟子の名義を使うという慣習は、当時の芸術家と版元の間の柔軟な関係性、そして商業的成功と芸術的地位のバランスを追求する姿勢を示しています。葛飾北斎が生涯に30回も号を改めた例も、当時の画号の慣習と商業的戦略の複雑さを示す一例です 。   



2.2. 制作された時代:幕末期の社会と文化


「生写四十八鷹」が制作・出版された安政6年(1859)は、日本社会が大きな変革期を迎えていた幕末期にあたります。この時代は、嘉永6年(1853)のペリー来航に始まる開国とそれに伴う不平等条約の締結、安政の大獄などの政治的混乱、そして明治維新へと向かう動乱の幕開けの時期でした。   


この時期は西洋文化との接触が増えつつあった時期であり、このような時代背景の中で、「生写」という写実性を重んじる表題が掲げられたことは注目に値します。既に天保年間(1830代)には、西洋から伝わった「ベロ藍」(プルシアンブルー)が浮世絵に導入され、「藍摺絵」が流行するなど、西洋の技術や表現が取り入れられる土壌がありました。また、奢侈禁止令により庶民の服装が制限される中、藍色などの限られた色で多様な表現を生み出すなど、制約の中での創造性が高まっていた時代でもありました。   


「生写四十八鷹」は、単なる時代の産物ではなく、激動の幕末期における人々の精神的な拠り所、そして文化的な抵抗と適応の象徴として捉えることができます。社会が大きく揺れ動く中で、普遍的な自然の美しさや生命の循環を描くことは、人々に安らぎと不変の価値を提供したと考えられます。同時に、西洋画の影響を受けた「生写」の概念の導入は、伝統的な浮世絵が新しい表現を取り入れ、変化に対応しようとする柔軟性、すなわち「不易流行」の精神を示しており、日本の文化が外来の要素を巧みに取り込みながら自己を再構築していく過程を映し出しています。   



2.3. 版元の役割:紅英堂(蔦屋吉蔵)と浮世絵市場


「生写四十八鷹」の版元は、紅英堂です。紅英堂は蔦屋吉蔵の堂号であり、江戸時代を代表する浮世絵版元の一人である蔦屋重三郎の分家にあたります。この系譜は、紅英堂が浮世絵出版界において一定の基盤と信用を有していたことを物語ります。   


紅英堂は、「東都名所」シリーズや「東海道五十三次名所図絵」など、風景画の巨匠である歌川広重の作品を多く手がけていたことで知られています。広重のような当代一流の絵師の作品を出版していたという事実は、紅英堂が浮世絵市場において確固たる地位を築いていたことを示しています。そのような版元が、全48図にも及ぶ「生写四十八鷹」という専門性の高い大作を手がけたことは、紅英堂の企画力と経済力を物語ります。   


紅英堂の出版戦略は、江戸時代の浮世絵市場が単一の流行に流されるだけでなく、非常に細分化され、多様な需要に応える能力を持っていたことを示しています。広重の風景画のような広範な層にアピールする作品と並行して、本揃物のような特定の主題を深く掘り下げたシリーズを出版したことは、紅英堂が多様な市場の需要に応えようとしていたことの現れかもしれません。特に、鷹という主題と「生写」という写実性の追求は、花鳥画の愛好家や、鳥類学、あるいは鷹狩りに関心を持つ、より専門的な知識を持つ層をターゲットにしていた可能性が考えられます。これは、当時の出版業界が持つ高度な商業的洞察力と、芸術作品を通じて文化的な多様性を育む役割を担っていたことを物語っています。   



3. 「生写四十八鷹」が伝える文化的意義と哲学



3.1. 鷹の象徴性:武士の精神と縁起


鷹は古来より「空の王者」と称され、その優雅さ、美しさ、強さから、日本文化において特別な象徴的意味合いを持ってきました。武家社会では「強さの象徴」「権威の象徴」として重用され、鷹狩りは平安時代から江戸時代にかけて盛んに行われ、特に武士の間で好まれました。徳川家康が1000回以上鷹狩に出かけるほど熱心だったことは有名です。   


鷹の羽紋は家紋のデザインにも用いられ、武士の尚武の精神や権威を象徴する家紋として多くの人々に愛されてきました。また、初夢の吉夢として知られる「一富士二鷹三茄子」にも登場し、「鷹=高い=出世」という縁起の良い意味が込められています。鷹の優れた視力は「先を見通す力」、狙った獲物を確実に掴む力は「幸運を確実に掴む力」、空高く飛ぶ姿は「運気上昇」を表すとされ、出世栄達の象徴とされました。さらに、「鷹揚(おうよう)」という言葉にも、鷹が空を悠然と飛ぶ姿から、ゆったりと落ち着いている様子が込められています。   


「生写四十八鷹」は、単なる鷹の姿を描いた写実画に留まらず、鷹が持つ多層的な文化的象徴性(武士の精神、出世、幸運など)を作品全体に深く織り込んでいます。これにより、鑑賞者は単に鷹の美しさや生態を鑑賞するだけでなく、作品に込められた縁起や精神的なメッセージをも受け取ることができます。これは、芸術が単なる視覚的表現を超え、文化的な価値観や哲学を伝える媒体として機能していたことを示しており、当時の人々の鷹に対する深い敬意と期待を映し出しています。



3.2. 「生写」と博物学:江戸時代の自然観と知の探求


「生写四十八鷹」の表題に込められた「生写」の美学、すなわち対象の忠実な観察に基づく写実的な表現は、江戸時代に発展した「本草学」や「写生」の精神と深く結びついています。本草学は、単に植物を分類・記録する科学的活動に留まらず、当時の芸術表現、特に絵画における「写生」の概念を深化させました。『花彙』のような精緻な植物画が示すように、江戸時代の絵師たちは、単なる忠実な模写ではなく、対象の「気」や「生気」を捉えようとする姿勢を持っていました。   


このような写実性は、鷹狩りに関心を持つ武家階級だけでなく、「博物学的な興味を持つ知識層の眼をも満足させるものであった」と考えられます。これは、当時の知的好奇心と美的追求が分かちがたく結びついていたことを象徴しています。西洋画の影響を含む写実的な要素を学んだ田崎草雲の技量が、この「生写」の理念の実現に貢献したことは、当時の日本における知の受容と融合の柔軟性を示唆しています。   


「生写四十八鷹」は、江戸時代における芸術と科学(特に本草学や博物学)の境界が曖昧であったことを示す貴重な例です。西洋の写実表現を取り入れつつ、日本の伝統的な「気」や「生気」を捉える写生の精神を融合させたこの作品は、当時の知識層の知的好奇心と美的欲求の両方を満たしました。これは、単に自然を美しく描くだけでなく、その本質を深く理解しようとする「知の探求」が芸術表現の重要な動機となっていた、江戸文化の奥深さを物語っています。



3.3. 花卉・園芸文化との繋がり:自然との共生と季節の美意識


「生写四十八鷹」は、鷹と四季折々の草花を組み合わせることで、日本の花卉/園芸文化が持つ「自然との共生」という深い哲学と「季節の美意識」を視覚的に表現しています。江戸時代の人々は、植物を大切にし、身近に感じており、浮世絵には縁日や盛り場での植木売り、人々が鉢植えを愛でる様子が鮮やかに描かれています。   


花は、生活の喧騒や政治的混乱から一時的に離れ、内省的な時間を持つための媒介であり、日本人の精神的な安定を保つ役割も果たしていました。本揃物における鷹と草花の融合は、日本人が自然を単なる背景としてではなく、精神的な意味を持つ存在として捉える美意識の表れであり、花を通して季節感を表現するこの手法は、自然と人間、そして芸術が一体となる日本文化の深層を映し出しています。   


この作品は、力強い鷹と繊細な花々という対照的な要素を組み合わせることで、日本の花卉/園芸文化の核心にある、自然の循環と生命の輝きを深く表現しています。それは、激動の時代にあっても、人々が普遍的な美と精神的な安定を自然の中に求めていたことを示唆しており、日本の文化が持つ自然への深い敬意と共生の哲学を雄弁に物語っています。



結論


浮世絵揃物「生写四十八鷹」は、単なる江戸時代の絵画作品に留まらない、多層的な文化的意義を持つ傑作です。署名作者である嵩岳堂の背後に、西洋画の写実性をも取り入れた田崎草雲の高度な画技が存在するという複雑な作者の帰属は、当時の美術界の多様性と、伝統的な画壇と大衆文化の間の柔軟な関係性を示しています。

安政6年(1859)という幕末の激動期に制作されたこの作品は、社会が大きく揺れ動く中で、普遍的な自然の美と生命の循環を描くことで、人々に精神的な拠り所を提供しました。また、「生写」という写実性の追求は、当時の日本で高まっていた本草学や博物学といった知の探求と芸術が見事に融合した結果であり、江戸文化の奥深さを物語っています。

さらに、力強い鷹と四季折々の草花を組み合わせる構成は、日本の花卉/園芸文化に深く根ざす「自然との共生」と「調和」の哲学を視覚的に表現しています。この作品は、江戸時代の人々が自然を単なる背景としてではなく、精神的な意味を持つ存在として捉え、その中に美と安らぎを見出していたことを示しています。

「生写四十八八鷹」は、写実と象徴、芸術と科学、そして動乱の時代における精神的な安定という、複数の要素が織りなす壮大なタペストリーであり、日本の花卉/園芸文化の豊かな歴史と、自然への深い敬意を現代に伝える貴重な遺産と言えるでしょう。その魅力は、時を超えて私たちの心に語りかけ、自然とのつながりの大切さを再認識させてくれます。




総目次




春之部




夏之部




秋之部




冬之部









参考










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