移り変わる景観と継承される精神
江戸時代、大名たちは広大な屋敷内に庭園を築き、自然の美を享受することで日々の政務の疲れを癒し、心を豊かにしていました。これらの庭園は、当時の権力者たちのステータスシンボルであると同時に、文化・芸術活動の拠点としても重要な役割を果たしていました。
数多くの庭園の中でも、特に優れた景観と文化的な価値を持つ庭園として知られていたのが、江戸築地に存在した「浴恩園」です。浴恩園は、寛政の改革で知られる老中松平定信によって築造された、回遊式庭園です。園内には、潮入の池や築山、茶室などが巧みに配置され、四季折々の自然美を楽しむことができました。
しかし、浴恩園が造られる以前、この地には「江風山月樓」と呼ばれる別の庭園が存在していました。 本稿では、浴恩園の前身である江風山月樓から浴恩園への変遷を、二つの資料、「浴恩園図記」と「江戸浴恩園全圖」 を参考にしながら考察することで、単なる景観の変遷だけでなく、そこに込められた精神や文化的価値の継承という視点から、浴恩園の魅力を多角的に明らかにすることを目的とします。
江風山月樓:浴恩園の礎
江風山月樓の由来と目的
江風山月樓は、寛文3年(1663年)に、相模国小田原藩主・稲葉正則が築地に拝領した屋敷の添地として築庭されました。 当時、この地は海浜に面しており、江上の清風と山間の名月を望む景勝地であったことから、「江風山月樓」と名付けられたと考えられます。
具体的な記録は乏しいものの、当時の大名庭園の一般的な用途から、江風山月樓は藩主の休息・保養の場、賓客の接待、そして文化・教養活動の場として利用されていたと考えられます。
江風山月樓の構造と規模
江風山月樓には潮を引き入れる3つの池が設けられていたことが分かっています。 これは、後に松平定信が浴恩園に造営した、潮の満ち引きによって景観が変化する「汐入りの庭」の原型となった可能性があります。
当時の大名庭園では、海水を庭園内に引き込み、潮の満ち引きを利用して景観に変化を与える「汐入りの庭」がしばしば造られていました。 これは、自然のダイナミズムを取り入れた、日本庭園ならではの工夫といえます。江風山月樓も、このような潮入りの池を巧みに利用することで、変化に富んだ景観を創り出していたと考えられます。
浴恩園:江風山月樓の継承と発展
浴恩園の成立
延享3年(1746年)、稲葉家屋敷の東半分以上は徳川御三卿の一橋家所有の下屋敷となり、江風山月樓もその一部となりました。 その後、寛政4年(1792年)に、老中首座・将軍補佐役の松平定信に屋敷地の大半が分与され、 定信はこの地を「浴恩園」と名付け、庭園を再整備しました。
浴恩園の庭園構造と植物
浴恩園は、江戸湾に面した広大な敷地に築かれた、回遊式庭園です。 庭園の中心には、海水を引いた二つの池、「春風の池」と「秋風の池」が配置されていました。 これらの池は、潮の満ち引きによって水位が変化し、庭園に変化をもたらしていました。 池の周囲には、築山や橋、茶室などが配置され、変化に富んだ景観を作り出していました。約1万7000坪の園内には50カ所以上の名所が作られ、風光明媚な風景を楽しめる庭園でした。
「江戸浴恩園全圖」からは、庭園の構造をより詳細に把握することができます。 絵図によると、二つの池は、中央の「賜り山」と呼ばれる築山によって隔てられており、それぞれ異なる雰囲気を持っていたことが分かります。「春風の池」の周辺には桜が植えられ、春には華やかな景色が広がっていました。一方、「秋風の池」の周辺には紅葉が植えられ、秋には紅葉を楽しむことができました。また、池には小島が設けられ、橋が架けられており、池の中を散策することもできました。
浴恩園は、海水を庭園の池に引き入れる「潮入式」の庭園という点で、非常にユニークな特徴を持っています。これにより、池の水位は潮の満ち引きによって変化し、庭園にダイナミックな景観の変化をもたらしました。 また、海水が流れ込むことで、庭園の池には多様な海洋生物が生息していた可能性も考えられます。
浴恩園には、桜や紅葉以外にも、様々な植物が植えられていました。定信は植物に深い知識を持ち、自ら珍しい植物を収集していたと伝えられています。 園内には、梅、桃、菊などの花木や、薬草、野菜なども栽培されていました。
浴恩園に関連する植物図譜として、「浴恩春秋両園櫻花譜」、「白川侯蓮譜」、「浴恩春秋両園梅桃雙花譜」などが挙げられます。
浴恩春秋両園櫻花譜
作者:狩野良信(写)
制作年:明治17年(1884)
概要:松平定信の庭園である浴恩園と春秋園の桜を描いた図譜。定信が収集した様々な種類の桜が記録されており、当時の園芸技術の高さを示す資料と言えるでしょう。
[松平定信] [編]『浴恩春秋両園櫻花譜』,狩野良信 写,明治17 [1884]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2542399
白川侯蓮譜
作者:不明
制作年:不明
概要:松平定信の庭園・浴恩園の蓮を描いた図譜。「浴恩園蓮譜」とも呼ばれる。定信が特に愛した蓮の花が、様々な種類とともに描かれています。
『白川侯蓮譜』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1286941
浴恩春秋両園梅桃雙花譜
作者:不明
制作年:不明
概要:松平定信の庭園である浴恩園と春秋園の梅と桃を描いた図譜。美しい花々が咲き乱れる様子が描かれており、当時の庭園の華やかさを偲ばせることができます。
『浴恩春秋両園梅桃雙花譜』,朝岡且[キョウ],[1884]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2540805
浴恩園の文化的・歴史的背景
浴恩園は、松平定信が政務の疲れを癒し、心を休めるための場として利用しました。また、浴恩園は文化・芸術活動の拠点としても利用されました。定信は多くの文化人や学者たちを浴恩園に招き、書画会や歌会、茶会などを開催しました。当時の社会規範を打ち破り、身分に関わらず男女ともに浴恩園に入園することを許可していました。 これは、定信の進歩的な思想や、文化・芸術活動を通して人々との交流を重視する姿勢を示すものと言えるでしょう。
浴恩園が築造された江戸時代後期は、幕藩体制が揺らぎ始め、社会不安が高まっていた時期でした。 定信は、寛政の改革を主導し、幕政の立て直しを図りましたが、その改革は保守的な勢力からの反発を受け、最終的には失敗に終わりました。 こうした状況の中で、定信は浴恩園に retreat し、自然と触れ合いながら自らの思想を深めていったと考えられます。
浴恩園図記と江戸浴恩園全圖
浴恩園と江風山月樓の姿を伝える絵図として、「江戸浴恩園全圖」と「浴恩園図記」が挙げられます。
「江戸浴恩園全圖」は、近代日本の造園研究の先覚者・小沢圭次郎(1842-1932)によって明治17年(1884年)に描かれたものです。 この絵図は、浴恩園の全景を俯瞰的に捉えており、池や築山、橋などの配置、そして建物の様子を詳細に描写しています。
一方、「浴恩園図記」は、作者は江戸時代の儒学者・広瀬蒙斎で、画は日本の南画家・谷文晁(1763-1941)が描いた絵巻物です。 こちらは、浴恩園内の名所を巡りながら、それぞれの景観を描写したもので、庭園の雰囲気をより具体的に感じ取ることができます。
これらの絵図は、それぞれ異なる視点から浴恩園の姿を捉えており、当時の庭園の様子を理解する上で貴重な資料となっています。
汐入りの庭に込められた想い
浴恩園は、松平定信によって築造された庭園ですが、その前身である江風山月樓の影響を色濃く受けていることが分かりました。特に、「汐入りの庭」という発想は、江風山月樓から受け継がれたものであり、浴恩園の象徴的な景観として、多くの文人墨客に愛されました。
定信は、江風山月樓の基礎を受け継ぎながらも、自らの思想や美意識を反映させ、浴恩園を「天下の名園」と称されるほどの庭園へと昇華させました。
浴恩園は、単なる庭園ではなく、松平定信の思想や生き様を反映した場所でもありました。定信は、政治家として激動の時代を生き抜き、晩年は浴恩園で静かな日々を過ごしました。庭園の設計には、自然との調和、文化・芸術への造詣の深さ、そして人々との交流を重視する定信の姿勢が表れています。
「潮入式」の庭園というユニークな特徴、多様な植物の配置、そして当時の社会状況との対比など、浴恩園は、江戸時代の庭園デザインの中でも際立った存在でした。
「浴恩園図記」と「江戸浴恩園全圖」は、浴恩園の詳細な記録であると同時に、松平定信という人物、そして江戸時代の文化や思想を理解するための重要な手がかりでもあります。これらの資料を通して、私たちは、失われた庭園の魅力を再発見するとともに、過去の人々の思想や生き方に思いを馳せることができるのです。