
本居宣長は、江戸時代中期の傑出した国学者であり、歌人としても知られています。彼の思想の中核をなす「もののあはれ」は、日本人の美意識や自然観を深く理解する上で欠かせない概念です。そして、宣長の思想と生涯を語る上で、桜は決して欠かすことのできない要素です。本稿では、宣長と桜の関係性を多角的に考察することで、日本文化における桜の意義を深く探求していきます。
本居宣長について
本居宣長は、1730年(享保15年)に伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)で生まれ、1801年(享和元年)に72歳で亡くなりました。
江戸時代中期の国学者であり、歌人、医師としても活躍しました。
宣長は23歳の時に医学を学ぶために京都に遊学し、その際に漢学や古典に触れました。
帰郷後は医師として働きながら国学研究に打ち込み、賀茂真淵に師事して『古事記』研究を深め、35年の歳月をかけて『古事記伝』を完成させたほか、『源氏物語』の研究など、多くの著作を残しました。
宣長の思想と桜
宣長の思想は、日本古来の精神性への回帰を基調としています。外来思想である儒教の影響を排除し、『古事記』や『源氏物語』といった古典に立ち返ることで、日本人の心のあり方を明らかにしようとしました。 宣長は、日本人が本来持つべき感性を「大和心」と呼び、中国文化に傾倒する心を「漢意」と呼んで批判しました。 彼は、日本文化の独自性を認識し、その価値を再発見することに尽力したのです。
「もののあはれ」と桜
宣長が提唱した「もののあはれ」は、単なる美しさや喜びだけでなく、儚さや切なさといった複雑な感情を含んでいます。 桜の花は、まさにこの「もののあはれ」を体現する存在と言えるでしょう。満開の桜の美しさは、やがて散りゆく運命にあるからこそ、より一層心に響くものとなります。 美しいものが永遠に続くわけではないという無常観は、日本人の美意識の根底に流れるものであり、桜はその象徴的な存在として、日本人の心に深く刻まれています。
山桜:日本精神の象徴
宣長は、山桜を日本の精神性の象徴と捉えていました。 当時の社会は儒学の影響が強く、中国思想中心の学問が主流で、宣長は、このような状況に警鐘を鳴らし、日本独自の思想に立ち返るべきだと主張し、 その象徴として彼が選んだのが、山桜でした。山桜は、素朴ながらも力強く、日本の風土に根ざした美しさを持ち合わせています。 宣長は、山桜の清楚な美しさの中に、日本人の心の本質を見出していたと言えるでしょう。また、宣長は山桜と梅を比較し、梅は中国の教えを表現しているようだと述べています。 彼は、外来の文化ではなく、日本古来の文化の中にこそ、真の美しさがあると信じていたのです。

「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」の歌
宣長は、自画像に添える歌として、「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」と詠んでいます。 この歌は、宣長の思想を象徴するものとして広く知られていますが、その解釈には注意が必要です。
この歌は、宣長が還暦を迎えた記念に描かれた自画像に添えられたもので、 「大和心」とは何かと問われたら、「朝日に匂う山桜花」のようなものだと答える、という意味です。 宣長自身は、この歌で「大和心」を「朝日に照り輝く山桜の美しさに感動する心」と定義しています。 これは、日本古来の感性である「もののあはれ」と深く結びついています。
しかし、明治時代以降、この歌は国家主義的な思想と結びつけられ、「大和魂」を鼓舞する歌として利用されるようになりました。 特に戦時中には、桜の散り際を「潔い死」と重ね合わせ、特攻隊員を鼓舞する歌として用いられました。
宣長が意図した「大和心」は、決して軍国主義的な思想とは無縁です。 彼の歌は、日本人の心の奥底にある繊細な感性を表現したものであり、山桜の美しさを通して、日本文化の真髄を伝えようとしたものと言えるでしょう。

宣長の生涯と桜への愛着
宣長は、若い頃から桜を愛し、生涯にわたって桜を題材とした和歌を数多く詠んでいます。 彼の桜への愛着は、単なる美的感覚を超えた、深い精神的な結びつきを感じさせます。宣長は、桜の花の色や形を注意深く観察し、その美しさを詳細に描写しています。 例えば、彼は山桜について、随筆集「玉勝間」の六の巻に書いています。「花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、またたぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず……」と述べています。 このように、宣長は桜の美しさに魅了され、その繊細な変化を捉えようとしていたのです。
桜にまつわるエピソード
宣長は、43歳の時に吉野を訪れ、満開の桜を鑑賞しています。 しかし、花が散り始めており、『菅笠日記』に「そもそも此山の花は、春立る日より、六十五日にあたるころほひなん、いづれのとしもさかりなると世にはいふめれど、又わが国人の、きて見つるどもに、とひしにはかのあたりのさかりの程見て、こゝにものすれば、よきほどぞと。これもかれもいひしまゝに、其程うかゞひつけて、いで立しもしるく、道すがらとひつゝこしにも、よきほどならんと、おほくはいひつる中に、まだしからんとこそ、いひし人も有しか、かくさかり過たらんとは、かけても思ひよらざりしぞかし」と記しています。 このエピソードからも、宣長の桜への強い想いが伺えます。
また、宣長は自宅の庭に桜の木を植え、日々その成長を愛でていました。 晩年には、秋の夜長に目覚めた時に桜を題材とした歌を300首以上も詠み、「枕の山」という歌集にまとめています。 これらの歌からは、桜に対する宣長の深い愛情と、老いゆく自身の人生を重ね合わせた心情が読み取れます。
宣長は、日記や歌集、書簡など、様々な形で桜への想いを記録しています。 これらの記録は、宣長の生涯と桜の関係を理解する上で貴重な資料となっています。
「わするなよ わがおいらくの 春迄も わかぎの桜 うへし契を」の歌
宣長は、30歳の時に庭に桜の木を植えた際に、「わするなよ わがおいらくの 春迄も わかぎの桜 うへし契を」と詠んでいます。 この歌に込められた「契り」は、単なる約束事ではありません。宣長にとって、桜は生涯を通して共に生きる存在であり、その「契り」は、深い精神的な絆を意味するものだったと考えられます。
桜が文学活動に与えた影響
宣長は、桜の美しさや儚さから多くのインスピレーションを受け、それが彼の文学活動や思想に大きな影響を与えました。桜は、宣長にとって単なる鑑賞の対象ではなく、日本人の精神性を象徴する存在であり、彼の思想を深める上で重要な役割を果たしたと言えるでしょう。
宣長の遺言と墓
宣長は、72歳でその生涯を閉じました。彼は、生前に詳細な遺言書を残し、その中で自身の墓に関する指示も記しています。
遺言書に記された桜に関する指示
宣長の遺言書には、「墓地七尺四方 計 ばかり 、真中少ㇱ後ㇿへ寄せて、塚を築き候て、其上へ桜の木を植ゑ申すべく候」と記されています。 さらに、「植ゑ候桜は、山桜の随分花の 宜 よろし き木を吟味致し、植ゑ申すべく候」と、桜の種類まで指定しています。 宣長は、死後も桜と共にありたいと願い、その想いを遺言書に託したのです。
宣長の意図
宣長が遺言書で山桜を指定した背景には、当時の園芸文化や美意識が影響していると考えられます。江戸時代には、様々な種類の桜が栽培されていましたが、宣長は、素朴で力強い山桜に、日本古来の美しさを見出していたのでしょう。 彼は、桜の美しさを通して、日本人の精神性を後世に伝えようとしたのかもしれません。
霊牌と後謚
宣長は、霊牌を桜の木の笏で作るように指示し、後謚を「秋津彦美豆桜根大人」と定めています。「秋津彦」は水戸や河口の神、「美豆」は水の意味であり、 これらの言葉から、宣長が水と桜の根に深い関心を寄せていたことが分かります。
本居宣長奥墓の様子
宣長の墓は、松阪市山室町にあります。 墓の背後には、遺言通り山桜が植えられており、毎年4月末には満開の花を咲かせます。 しかし、木立が深いため、花を良く見たい場合は双眼鏡が必要となります。 奥墓からは、伊勢湾や愛知県まで見渡すことができ、宣長が愛した故郷の風景を偲ぶことができます。
宣長の業績と桜文化
宣長は、『古事記伝』や『源氏物語玉の小櫛』など、多くの著作を残しています。これらの著作には、桜に関する記述も多く見られ、宣長の桜に対する深い理解と洞察が伺えます。
古典における桜の記述と宣長の解釈
宣長は、『古事記』や『源氏物語』における桜の記述を丁寧に読み解き、その解釈や分析を通して、日本文化における桜の意義を明らかにしようとしました。例えば、『源氏物語』の「若紫」の巻では、若紫の美しさを山桜にたとえていますが、 宣長はこの表現を通して、桜が単なる自然物ではなく、人間の美しさや心情と結びついた存在として描かれていることを指摘しています。
宣長の時代以降の桜文化
宣長の時代以降、桜はますます日本文化に浸透していきました。江戸時代には、各地に桜の名所が作られ、庶民の間でも花見が盛んに行われるようになりました。 明治時代以降は、桜は国家の象徴として位置づけられ、 学校や公園などに広く植えられるようになりました。 また、桜は芸術作品にも多く取り入れられるようになり、浮世絵や歌舞伎など、様々な分野で桜のモチーフが用いられました。
文化的影響
宣長の思想は、明治時代以降の国家イデオロギーや桜の象徴性に大きな影響を与えました。
国家イデオロギーへの影響
宣長の「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」の歌は、国家主義的な思想と結びつけられ、「大和魂」を鼓舞する歌として利用されました。 これは、宣長が意図したものではありませんが、彼の思想が国家イデオロギーに利用されたことは事実です。 明治時代の「大和魂」は、天皇への忠誠心や国家への献身を強調するものであり、 宣長が考えていた「大和心」とは異なるものでした。
現代における桜の文化的意義
現代の日本においても、桜は春の訪れを告げる花として、また日本の美意識を象徴する存在として、広く愛されています。 花見は、家族や友人と過ごす大切な時間であり、日本人の生活に深く根付いています。 桜は、日本文化の様々な場面で重要な役割を果たしており、入学式や卒業式など、人生の節目を彩る花としても親しまれています。
まとめ
本稿では、宣長と桜の関係性を通して、日本文化における桜の意義を多角的に考察しました。宣長は、桜の美しさの中に、日本人の精神性や美意識の本質を見出していました。彼の思想は、現代の日本においても、桜の文化的意義を理解する上で重要な示唆を与えてくれます。
宣長が愛した山桜は、今もなお、日本人の心を惹きつける存在です。桜の開花は、私たちに春の訪れを告げるとともに、生命の尊さや儚さ、そして自然の美しさを改めて認識させてくれます。宣長の思想を通して、私たちは桜の美しさをより深く理解し、日本文化の奥深さを再認識することができるでしょう。

参考
本居宣長記念館