本居宣長と桜:日本文化の深淵に咲く「もののあはれ」の心
- JBC
- 2月18日
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更新日:6月22日

春の訪れとともに、日本列島を淡いピンクに染め上げる桜。その儚くも壮麗な姿は、古くから日本人の心を捉え、詩歌や物語に彩りを与えてきました。しかし、私たちはこの桜の美しさに、一体何を「感じ」、何を「見て」いるのでしょうか。単なる景色の美しさだけでなく、その奥に秘められた日本独自の精神性、そして「もののあはれ」という美意識の真髄を深く探求した一人の偉大な国学者がいました。それが、江戸時代中期に生きた本居宣長です。彼の生涯と学問、そして桜への深い愛着を通して、日本文化の奥深さに触れる旅へと誘います。桜の美しさから入ることで、幅広い読者の共感を呼び、その表面的な鑑賞を超えた深層への探求を促すことができます。これにより、読者は「自分もその深層を知りたい」という知的好奇心を刺激され、記事全体への関心が高まることでしょう。宣長は「もののあはれ」の提唱者であり、桜はその「もののあはれ」を体現する存在であるため、この二つの要素を早期に結びつけることで、記事の核心テーマを明確にし、読者に「宣長が桜を通して何を語ろうとしたのか」という期待感を抱かせます。これは、単なる人物紹介や植物解説ではなく、思想と文化の融合という、より深いテーマへの導入となります。
1. テーマの概要:本居宣長と桜・植物が織りなす精神世界
本居宣長(享保15年/1730~享和元年/1801)は、江戸時代中期に伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)に生まれた、日本を代表する国学者であり、歌人、そして医師でもありました。宣長の学問的探求は、日本固有の古典に深く根差し、外来思想に染まる前の日本人の心のあり方を明らかにしようとするものでした。その思想の中核をなすのが、日本独自の美意識である「もののあはれ」です。
宣長にとって、桜は単なる美しい花ではありませんでした。満開の華やかさから、はらはらと散りゆく姿まで、その一連の移ろいは、まさに「もののあはれ」の概念を体現する存在であり、日本人の美意識や自然観を深く理解する上で欠かせない要素として捉えられていました。「もののあはれ」は、悲しみや寂しさだけでなく、人生の儚さや人間の感情に対する深い理解を示すものと定義されています。桜の美しさは、やがて散りゆく運命にあるからこそ、より一層心に響くものとなります。この関係性は、桜が「もののあはれ」の単なる一例ではなく、その概念の「体現者」であるという深い意味合いを持ちます。つまり、桜の存在自体が、日本人の美意識の根底にある無常観を視覚的に、そして感情的に呼び起こすきっかけとなっているのです。
宣長は生涯にわたり桜を愛し、多くの和歌を詠み、その思想と生活に深く桜を根付かせました。宣長は町医者として生計を立てながら国学研究に没頭しましたが 、これは単に生計を立てる手段であっただけでなく、市井の人々と接する中で、彼らの日常的な感情や自然への感覚を肌で感じ取り、それが宣長の「もののあはれ」という感性の発見、ひいては日本固有の精神性への探求に影響を与えた可能性を示唆します。医業という実践的な活動が、彼の学問に深みと現実味を与えたと考えることができます。

2. 歴史と背景:国学の巨星、本居宣長の生涯と時代
2.1 誕生から学問への道:京都遊学と医業の両立
本居宣長は、享保15年(1730)に伊勢国松坂の木綿商人の家に生まれました。幼少期から読書を好み、商売には関心が薄かったと自ら述懐しています。十代後半には京都への憧れと和歌への関心を深め、『源氏物語』を読み始めました。
宝暦2年(1752、23歳)には、母の勧めで医者となるため京都へ遊学します。この5年半の京都での日々は、宣長の学問形成に決定的な影響を与えました。儒学を堀景山に学び、儒学だけでなく歴史書や日本古典にも造詣の深い景山の影響を受けました。宣長が京都で儒学(堀景山)、医学(堀元厚、武川幸順)を学んだことは 、単なる知識習得以上の意味を持ちます。景山が儒学だけでなく日本古典にも造詣が深かったこと、そして契沖(1640~1701)の著作に触れる機会があったことは 、宣長が儒学という外来思想を学びながらも、同時に日本固有の古典への関心を深めるという、ある種の対比的・統合的な学問形成を促したと考えられます。この多角的な視点が、後に彼が「漢意(からごころ)」を批判しつつも、儒学を深く理解した上で国学を確立する基盤となったのです。
特に、契沖の著作に触れたことは、宣長に「さっそくに目が覚め」るほどの衝撃を与え、『百人一首改観抄』を読んで古典研究への道を確信しました。その後、針灸や小児科医術を学び、宝暦7年(1757、28歳)に松坂に戻り、町医者として開業しました。宣長は享和元年(1801)に72歳で没するまで医業を続け、日々の生活を重視し、患者がいれば元旦でも診察し、往診にも出かけるなど、勤勉な医師としての一面も持ち合わせていました。宣長が生涯にわたり町医者として働き続けたという事実は、宣長の学問が単なる机上の空論ではなく、現実の生活や人々の感情に根ざしていたことを示唆します。患者との日々の交流は、彼が「もののあはれ」という人間普遍の感情を深く洞察する上で、実践的な経験を提供した可能性があります。また、医業で生計を立てることで、特定の権力やパトロンに依存せず、自身の学問的真理を追求する独立性を保てたことも、当時の学者としては珍しい、自立した学問姿勢を形成する要因となったと考えられます。
2.2 国学研究の深化と主要著作の誕生
医業に携わる傍ら、宣長は国学研究に没頭し、自宅「鈴屋」で『源氏物語』や『万葉集』などの古典を講義しました。宝暦13年(1763)には、松坂で国学の師である賀茂真淵と面会し、入門します。真淵の教えを受け、宣長は『古事記』研究に生涯を捧げることを決意し、35年もの歳月をかけて大著『古事記伝』全44巻を著しました。
『古事記伝』は、『古事記』の文法的解釈にとどまらず、歴史、著述事情、文体などあらゆる角度から言語に密着して古道を説くもので、日本固有の古代精神の中に真理を探求し、儒学的・仏教的理解を極度に排した彼の思想の集大成です。
その他の主要著作としては、『源氏物語玉の小櫛』があり、宣長は『源氏物語』を「もののあはれ」によって成り立つ世界と捉え、その本質を解き明かしました。また、学問への指針を示した『うい山ぶみ』では、「志」こそが最も重要であり、方法は二の次であると主張し、学問が自発的なものであることを説きました。随筆集『玉勝間』では、読書への愛や「漢意」への批判など、多岐にわたる考察が記されており、宣長の思想や日常生活を垣間見ることができます。
宣長は、著作の出版を積極的に行い、批判を歓迎し、質疑応答を通じて読者層を開拓し、論争を通じて国学の立場を鮮明にするなど、学問普及のための優れた戦略家でもありました。宣長が著書を積極的に出版し、批判を歓迎し、質疑応答を通じて読者層を開拓したという行動は 、彼が単なる研究者ではなく、国学という新しい学問体系を社会に普及させ、その正当性を確立しようとする「戦略家」であったことを示します。契沖や真淵の著作が写本で普及したのに対し、宣長が出版に力を入れたことは、学問の伝播方法における大きな転換点であり、国学が一部の知識層だけでなく、より広範な層に浸透する上で重要な役割を果たしたのです。また、紀州徳川家との関わりを保ち、旧勢力の批判をかわしたことも 、学問の保護と発展のための巧妙な戦略であったと言えるでしょう。

3. 文化的意義・哲学:「もののあはれ」と「大和心」に宿る桜の精神
3.1 「もののあはれ」の深層:儚さの中に宿る美
本居宣長が提唱した「もののあはれ」は、日本の国学者が見出した日本独自の美意識であり、自然の美しさや人の感情の儚さをしみじみと感じ取る感性を指します。宣長は、感情を理屈で整理せず、ありのままに感じ取ることが、日本人の持つ独特の美意識であると考えました。これは、悲しみや寂しさだけでなく、人生の儚さや人間の感情に対する深い理解を示すものであり、「もの」(物事、現象)に触れたときに「あはれ」(感動、しみじみとした感情)を感じる心です。
桜の花は、まさにこの「もののあはれ」を体現する存在です。満開の桜の美しさは、やがて散りゆく運命にあるからこそ、より一層心に響くものとなります。美しいものが永遠に続くわけではないという無常観は、日本人の美意識の根底に流れるものであり、桜はその象徴的な存在として、日本人の心に深く刻まれています。宣長は『源氏物語』の主人公・光源氏が自然の移ろいに心を寄せる姿を「もののあはれ」の体現と捉え、桜が散る様子を見て感じる「しみじみとした感動」や「胸にしみる思い」こそが、この美意識の本質であると説きました 。桜の美しさが「やがて散りゆく運命にあるからこそ、より一層心に響く」と記述されていることは 、桜が単なる美の対象ではなく、その「儚さ」や「無常」という側面が「もののあはれ」の感動を深くする要因となっていることを明確に示します。つまり、無常観こそが「もののあはれ」の核心であり、桜はその視覚的な教えと言えるでしょう。
3.2 山桜に託された「大和心」:日本精神の象徴
宣長は、山桜を日本の精神性の象徴と捉えていました。当時の社会は儒学の影響が強く、中国思想中心の学問が主流でしたが、宣長はこれに警鐘を鳴らし、日本独自の思想に立ち返るべきだと主張しました 。その象徴として彼が選んだのが山桜でした。山桜は、素朴ながらも力強く、日本の風土に根ざした美しさを持ち合わせており、宣長は山桜の清楚な美しさの中に、日本人の心の本質を見出していたと言えるでしょう。宣長は、外来の文化ではなく、日本古来の文化の中にこそ、真の美しさがあると信じていました。
宣長が自画像に添えた歌「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」は、彼の思想を象徴するものとして広く知られています。この歌は、「大和心とは何かと問われたら、朝日に匂う山桜花のようなものだと答える」という意味であり、宣長自身は「朝日に照り輝く山桜の美しさに感動する心」と定義しています。これは、日本古来の感性である「もののあはれ」と深く結びついています。しかし、この歌は明治時代以降、国家主義的な思想と結びつけられ、「大和魂」を鼓舞する歌として利用され、特に戦時中には桜の散り際を「潔い死」と重ね合わせ、特攻隊員を鼓舞する歌として用いられるという、宣長が意図しなかった誤解と利用の歴史を辿りました。宣長の歌の本来の意味が「山桜の美しさに感動する心」であるのに対し、明治以降に「国家主義的な思想と結びつけられ」「大和魂を鼓舞する歌として利用された」という事実は 、思想の「誤用」と「変質」という重要な側面を浮き彫りにします。これは、学者の意図と、その後の時代における解釈・利用が乖離する典型的な例であり、文化や思想が政治的・社会的な文脈によっていかに再解釈され得るかを示しています。宣長が表現したかった「大和心」は、決して軍国主義的な思想とは無縁であり、日本人の心の奥底にある繊細な感性を、山桜の美しさを通して伝えたかったのです。
3.3 桜にまつわるエピソードと文学活動への影響
宣長は若い頃から桜を愛し、生涯にわたって桜を題材とした和歌を数多く詠んでいます。宣長の桜への愛着は、単なる美的感覚を超えた、深い精神的な結びつきを感じさせます。宣長は桜の花の色や形を注意深く観察し、随筆集『玉勝間』で山桜の繊細な美しさを詳細に描写しています。
30歳の時に庭に桜の木を植えた際には、「わするなよ わがおいらくの 春迄も わかぎの桜 うへし契を」と詠み、桜が生涯を通して共に生きる存在であり、深い精神的な絆を意味する「契り」を込めていました。また、43歳の時には吉野の満開の桜を鑑賞し、散り始めた花に強い想いを『菅笠日記』に記しています。晩年には、秋の夜長に目覚めて桜を題材とした歌を300首以上も詠み、「枕の山」という歌集にまとめるなど、老いゆく自身の人生を桜に重ね合わせた心情が読み取れます。庭に桜を植え、その成長を愛で、晩年には「枕の山」として300首以上の歌を詠んだというエピソードは 、宣長が単なる抽象的な思想家ではなく、自然と深く共鳴し、自身の人生の移ろいを植物に重ね合わせる、極めて人間的で繊細な感性の持ち主であったことを示します。これは、宣長の学問が単なる論理の構築ではなく、実体験に基づいた深い感情から生まれたものであるという、宣長の哲学の根源を物語っています。桜が宣長の内面世界を映し出す鏡であったという、より深い関係性が読み取れるのです。これらのエピソードは、桜が宣長にとって単なる鑑賞の対象ではなく、日本人の精神性を象徴する存在であり、彼の文学活動や思想形成に多大な影響を与えたことを示しています。
3.4 宣長の遺言と桜:死後も続く精神的な絆
宣長は、享和元年(1801年)に72歳でその生涯を閉じましたが、生前に詳細な遺言書を残し、その中で自身の墓に関する指示も記しています。遺言書には、「墓地七尺四方 計 ばかり 、真中少ㇱ後ㇿへ寄せて、塚を築き候て、其上へ桜の木を植ゑ申すべく候」と記され、さらに「植ゑ候桜は、山桜の随分花の 宜 よろし き木を吟味致し、植ゑ申すべく候」と、桜の種類まで指定しています。この遺言は、宣長が死後も桜と共にありたいと願った、桜への深い精神的な絆と、日本文化の本質を後世に伝えたいという強い意志を表しています。墓に山桜を植えるという宣長の遺言は、単なる個人的な願いを超え、宣長が提唱した「大和心」や「もののあはれ」という思想を、死後も物理的に、そして象徴的に継承しようとする強い意志の表れです。当時の園芸文化の中で「山桜」を特定したことは、宣長が外来の美よりも日本古来の素朴な美を尊んだという思想を、最後の最後まで貫いたことの証であり、彼の思想が単に著作の中だけでなく、彼の存在そのものによって体現されていたことを示唆しています。
また、霊牌を桜の木の笏で作るように指示し、後謚(こうし)を「秋津彦美豆桜根大人(あきつひこみずさくらねのうし)」と定めたことからも、宣長が水と桜の根に深い関心を寄せていたことが分かります。宣長の墓は松阪市山室町にあり、遺言通り山桜が植えられ、毎年春には花を咲かせ、宣長の思想を静かに物語っています。
3.5 現代に息づく宣長の思想と桜文化
宣長の思想は、明治時代以降の国家イデオロギーや桜の象徴性に大きな影響を与えました。特に「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」の歌は、宣長の意図とは異なり、国家主義的な「大和魂」と結びつけられ利用された歴史があります。しかし、現代の日本においても、桜は春の訪れを告げる花として、また日本の美意識を象徴する存在として広く愛され続けています 。花見は家族や友人と過ごす大切な時間であり、入学式や卒業式など人生の節目を彩る花としても親しまれています 。これらの習慣や、現代の文学、映画、音楽における静かで内省的な美学には、宣長が見出した「もののあはれ」の感性が深く息づいており、人生の儚さや感情の豊かさをしみじみと味わう日本人の感性の豊かさを表しています 。宣長の思想は、時代を超えて、日本の花卉/園芸文化、ひいては日本文化全体の精神性を理解するための重要な鍵を提供し続けています。
