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シーボルトが日本滞在中に多数の植物標本を収集し日本の植物誌を編纂:『日本植物誌』“Flora Japonica”

更新日:1月27日


フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトについて


フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、1796年ドイツのヴュルツブルクに生まれました。彼は、未知の国である日本の自然や文化に強い興味を抱き、オランダ陸軍軍医となり、1823年から1829年、そして1859年から1862年にかけて長崎・出島のオランダ商館付医師として日本に滞在しました。日本滞在中は、医師、博物学者としてだけでなく、様々な活動を行いました。   


シーボルトは、長崎郊外に鳴滝塾を開設し、多くの日本人医師に西洋医学を伝えました。鳴滝塾は、日本の近代医学の礎を築いただけでなく、シーボルトの情報収集の拠点としても重要な役割を果たしました。また、1826年にはオランダ商館長の江戸参府に同行し、日本の地理や文化、政治などを調査しました。この江戸参府は、シーボルトの日本研究にとって貴重な経験となりました。   


シーボルトは多くの日本人と交流し、日本の文化や風習を学びました。特に、楠本滝との結婚は、シーボルトの人生に大きな影響を与えました。しかし、シーボルトは同時に、オランダ政府から日本の政治・軍事情報を収集する任務を負っていました。帰国時に日本地図などの禁制品を持ち出そうとしたことが発覚し、シーボルト事件が起こり、国外追放となりました。   


その後、シーボルトは1859年に再来日し、日本研究を続けました。彼は、日本を愛し、日本の発展を願っていたと言われています。   




シーボルトの『日本植物誌』


シーボルトは、日本滞在中に数多くの植物標本を収集し、帰国後に『日本植物誌』を編纂しました。


出版までの経緯


シーボルトは、日本滞在前から相当な数の日本植物の図譜を計画しており、来日中に川原慶賀をはじめとする多くの日本人絵師に植物図を描かせていました。彼は、日本の植物をヨーロッパの庭園や林業に導入することで、ヨーロッパの園芸をより豊かにしたいと考えていました。帰国後、シーボルトは慶賀らの絵を土台にヨーロッパの画家たちに植物図を描かせ、1835年に『日本植物誌』の第一分冊を出版しました。   


『日本植物誌』の内容


『日本植物誌』は、正式名称を"FloraJaponica"といい、1835年から分冊の形で刊行が始まり、シーボルトの死後、1870年に完結しました。これは、日本の植物をヨーロッパに紹介した最初の本格的な植物誌であり、ツンベルクやケンペルの業績の上に成り立つものでした。   


『日本植物誌』は2巻構成で、各巻に100枚の図版が含まれる予定でした。本文は、ミュンヘンの植物学者ヨーゼフ・ゲアハルト・ツッカリーニが植物の分類学的所見をラテン語で記述し、シーボルトはフランス語で植物の自生地、分布、栽培状況、日本名、利用法などを記述しました。   


第1巻は1835年から1841年にかけて刊行され、観賞植物と有用植物が中心に扱われました。特にアジサイ属の記述は有名です。第2巻は1842年から刊行が始まりましたが、ツッカリーニの死去により中断し、シーボルトの死後、ミクエルによって編集、増補され1870年に完結しました。第2巻では、花木や常緑樹・針葉樹が中心に扱われ、草本は少なく、野菜や穀物の図は含まれていません。   


シーボルトの当初の予定では、各分冊は図版10枚、本文3~4ページ、25分冊で完結する予定でしたが、結局は43分冊となってしまい、合計して313種が新種として記載されました。   


『日本植物誌』は、手彩色による色つき図版を含む豪華版と、色なしの廉価版の2種類が出版されました。当時の平均的な労働者の年収を考えると、かなり高価な本であったことがわかります。   


挿絵画家


『日本植物誌』の図版の多くは、川原慶賀をはじめとする日本人絵師が描いたものを元にしています。川原慶賀は長崎の出島出入絵師として、風俗画や肖像画に加え、動植物の詳細な写生図を数多く残しました。シーボルトは慶賀の絵画の正確さと精密さを高く評価し、彼に多くの植物図の作成を依頼しました。   


慶賀は、西洋画法と日本画法を融合させた独自の画風で知られており、シーボルトの指導を受けながら、西洋植物学の知識にもとづいた精緻な植物画を描き上げました。   


シーボルトは、これらの植物画をさらにドイツ人画家に渡し、西洋の植物図鑑の様式に合うように描き直させています。例えば、実や種子の部分の拡大図を添えるなど、当時の西洋植物学の最先端の表現方法が取り入れられました。しかし、その土台となったのは、慶賀をはじめとする日本人絵師たちが描いた正確で精密な植物画でした。   


『日本植物誌』の意義


『日本植物誌』は、単なる植物図鑑ではありません。それは、ヨーロッパと日本の学者、そして画家たちの協力によって生まれた、学術的、芸術的にも価値の高い作品です。このような国際的な共同作業によって生まれた植物誌は、当時としては非常に画期的なものでした。   




シーボルトが日本で収集した植物標本


シーボルトは日本滞在中、2000種、約12000点の植物標本を収集しました。これらの標本は、日本の植物相をヨーロッパに紹介する上で重要な役割を果たしました。   


標本の種類


シーボルトは、アジサイ、ツバキ、サザンカ、ユリなど、日本の代表的な植物を多数収集しました。また、園芸的価値の高い植物にも注目し、ヨーロッパの庭園に導入しようと試みました。特に、緯度がオランダやドイツに近い本州東北部や北海道の植物に関心を寄せていました。実際、シーボルトが持ち帰った植物は、ヨーロッパの園芸に大きな影響を与え、現在でも多くの庭園で愛されています。   


シーボルトは出島に小さな植物園を作り、そこで日本や中国の有用植物、観賞用植物を1400種以上栽培していました。また、ケンペルとツュンベリーの功績をたたえる記念碑をこの植物園に建立しました。   


標本の保管場所


シーボルトが収集した植物標本は、現在、世界各地に分散しています。これは、シーボルトが標本を交換材料として、ヨーロッパ各地の博物館や研究機関に送っていたためです。   


Location

Description

ライデンのオランダ国立植物標本館ライデン大学分館

シーボルトが収集した植物標本の主要な保管場所

東京大学総合研究博物館

オランダ国立植物学博物館ライデン大学分館から寄贈された重複標本を保管

牧野標本館(東京都立大学)

かつてロシアのコマロフ植物研究所が所有していた標本を保管

ロシア科学アカデミー・コマロフ植物研究所

シーボルトの没後、未亡人によって売却された標本を保管

   



『日本植物誌』が日本の植物学に与えた影響


『日本植物誌』は、日本の植物をヨーロッパに紹介した最初の本格的な植物誌であり、日本の植物学の発展に大きな影響を与えました。


  • 西洋への紹介:『日本植物誌』によって、日本の植物相がヨーロッパに広く知られるようになりました。ヨーロッパの人々は、日本の植物の美しさや多様性に驚き、日本への関心を高めました。

  • 学名の確立:ツッカリーニによる植物の分類と学名の付与は、その後の日本の植物学研究の基礎となりました。彼は、リンネの分類体系に基づき、日本の植物を正確に分類し、学名を付けました。

  • 植物画の発展:川原慶賀ら日本人絵師が描いた精緻な植物画は、日本の植物画の発展にも貢献しました。彼らの植物画は、西洋の植物画の技法と日本の伝統的な絵画技法を融合させたもので、高い芸術性と学術性を兼ね備えています。   

  • 園芸への影響:シーボルトがヨーロッパに導入した日本の植物は、園芸ブームを引き起こし、園芸品種の開発にもつながりました。アジサイ、ツバキ、ユリなど、現在でもヨーロッパの庭園で愛されている植物の多くは、シーボルトによって紹介されたものです。   




シーボルトの日本での活動


シーボルトは、日本滞在中、医師、博物学者としてだけでなく、様々な活動を行いました。   


  • 鳴滝塾の開設:シーボルトは、長崎郊外に鳴滝塾を開設し、多くの日本人医師に西洋医学を伝えました。鳴滝塾では、医学だけでなく、物理学、化学、天文学、地理学など、幅広い分野の講義が行われました。

  • 研究活動:シーボルトは、日本の動植物、地理、歴史、文化など、様々な分野の研究を行いました。彼は、日本各地を旅し、標本を収集したり、現地の人々から話を聞いたりしました。

  • 江戸参府:シーボルトは、1826年にオランダ商館長の江戸参府に同行しました。これは、鎖国下の日本で、外国人にとって貴重な機会でした。シーボルトは、江戸までの道中で、日本の自然や文化を観察し、多くの資料を収集しました。

  • 情報収集活動:シーボルトは、オランダ政府の命を受け、日本の政治や軍事に関する情報も収集していました。彼は、門人たちにも情報収集を依頼し、様々な資料を集めました。




シーボルトと日本との関係性


シーボルトは、日本に近代医学を伝え、日本の植物学の発展に貢献しただけでなく、日本文化をヨーロッパに紹介するなど、日欧の文化交流に大きな役割を果たしました。彼の活動は、日本に対するヨーロッパの関心を高め、その後の日本研究に多大な影響を与えました。

しかし、シーボルトは同時に、オランダ政府から日本の政治・軍事情報を収集する任務を負っていました。帰国時に日本地図などの禁制品を持ち出そうとしたことが発覚し、シーボルト事件が起こり、国外追放となりました。特に、シーボルトが蝦夷(北海道)と樺太(サハリン)の地図を入手しようとしていたことが問題視されました。これは、当時、ロシアなどの外国船が日本の沿岸を侵犯する事件が相次いでおり、幕府が北方領土の防衛に神経をとがらせていたためです。   


シーボルト事件は、シーボルトと日本との関係に暗い影を落としましたが、彼が日本を愛し、日本の発展を願っていたことは間違いありません。彼は、オランダ国王に日本を開国させるよう働きかけたり、1853年にはアメリカ東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供し、日本との交渉を有利に進めるよう助言したりしました。   




おわりに


シーボルトは、日本の近代化に貢献しただけでなく、日本の文化や自然を世界に紹介した重要な人物です。彼の編纂した『日本植物誌』は、日本の植物学の発展に大きな影響を与え、現在でも貴重な資料として高く評価されています。

しかし、シーボルトはまた、スパイとして日本に潜入し、情報を収集していたことも事実です。彼の行動は、当時の日本の状況を考えると、許されるものではありませんでした。

シーボルトの功績と罪過をどのように評価するかは、難しい問題です。しかし、彼が日本に大きな影響を与えた人物であることは間違いありません。私たちは、シーボルトの功績と罪過の両面を理解した上で、彼の遺産を未来に伝えていく必要があるでしょう。

シーボルトの主な著作

著作名

出版年

内容

日本

1832年~

日本の地理、歴史、文化など多岐にわたる分野を網羅したシーボルトの日本研究の集大成

日本植物誌

1835年~1870年

日本の植物を網羅的に紹介した植物誌

日本動物誌

1833年~1850年

日本の動物を網羅的に紹介した動物誌



画像、文章引用:福岡県立図書館郷土資料室http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/kyoudo/page/Siebold/

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