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二代目歌川広重「三十六花撰」:激動の時代に咲き誇る、花と美意識の物語

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 6月1日
  • 読了時間: 14分

広重「三十六花撰」
『三十六花撰』. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1307482



1. 二代目広重「三十六花撰」の世界へ


日本の花卉/園芸文化は、単に美しい植物を愛でる行為に留まらず、その歴史、人々の暮らし、そして深い精神性と密接に結びついています。古くから、花は季節の移ろいを告げ、人々の感情を映し出し、時には人生の哲学を語る存在として、日本人の心に寄り添ってきました。

では、幕末から明治へと激動する時代、人々はどのように花と向き合い、その美しさを表現したのでしょうか。本記事では、浮世絵師・二代目歌川広重が慶応2年(1866年)に手掛けた傑作「三十六花撰」を通して、その問いを探ります。この作品は、単なる花鳥画や名所絵に留まらず、変わりゆく時代の空気と、変わらぬ日本人の美意識を映し出す貴重な記録として、現代にその魅力を伝えています。



2. 「三十六花撰」の概要


「三十六花撰」は、二代目歌川広重が慶応2年(1866年)に蔦屋吉蔵を版元として制作した、竪型大判錦絵の揃物です。このシリーズは「東京名所三十六花撰」とも称され、江戸から東京へと変貌を遂げつつあった都市の各名所を背景に、そこに咲く花々を大きくクローズアップして描いている点が特徴です。   


このシリーズは、その名の通り「名所絵」の要素を含みながらも、実際に画面の多くを占めるのは近景に大きく配された花の絵であり、名所絵というよりも「花鳥画」としての性質を強く感じさせる作品群です。従来の浮世絵には「名所絵」と「花鳥画」という明確なジャンルが存在しましたが、この作品は両者を融合させつつ、花鳥画に重きを置くという新しい表現の試みを行いました。これは、単に名所の風景を描くのではなく、その場所の象徴としての花、あるいは花そのものの美しさを主題に据えるという、二代目広重独自の芸術的志向が表れたものと解釈できます。鑑賞者の視線を名所全体から、よりミクロな「花」へと誘導することで、激動の時代において人々が普遍的な美や心の拠り所をどこに求めたかという問いに対する、絵師なりの回答が示されているかのようです。また、花卉文化が庶民の生活に深く根付いていた江戸時代において、花を主役とすることで、より多くの人々の共感を呼ぶことを意図したとも考えられます。   



二代目歌川広重「三十六花撰」代表作品例

作品名

描かれた花

場所

特徴

東都亀井戸天神藤

亀戸天神

紫の藤と葉の緑、空の淡い藍色の対比が美しい。初代広重の同主題作品と比較すると、より装飾的で穏やかな印象を与えます。   

東都小金井さくら

小金井

玉川上水沿いの桜並木。満開の桜の枝が画面を覆うような構図が特徴です。   

東都入谷朝顔

朝顔

入谷

入谷の朝顔市を題材に、色とりどりの朝顔が咲き誇る様子が描かれています。早朝の清々しい空気感が表現されています。   

東京広尾原桔梗

桔梗

広尾原

武蔵野の面影を残す広尾原に自生する桔梗が描かれています。題名に「東京」と記されている点が、時代の移り変わりを静かに示唆しています。   

堀切花菖蒲

花菖蒲

堀切

画面いっぱいに紫や白の花菖蒲が咲き乱れ、水辺の植物らしい瑞々しさと華やかさが特徴です。   



3. 歴史と背景:二代目歌川広重とその時代



3.1. 二代目歌川広重の生涯と画業


二代目歌川広重(文政9年/1826 - 明治2年9月17日/1869)は、江戸時代末期から明治初期にかけて活躍した浮世絵師です。本姓は鈴木、後に森田を名乗り、名は鎮平と伝えられています。彼は弘化年間(1844~1848)頃に、風景画の巨匠として名高い初代歌川広重の門下に入り、はじめは重宣と称しました。美人画や花鳥画、武者絵を手がけ、次第に師の作域である風景画にも接近していきました。   


安政5年(1858)に初代広重が没すると、翌安政6年(1859)、初代の養女お辰の婿となり、二代目広重を襲名します。しかし、慶応元年(1865)頃、お辰との離縁を機に広重の名を返上し、喜斎立祥と改名しました。その後は横浜に移り住み、外国輸出用の茶箱に貼るラベル絵を描いたことから「茶箱広重」とも呼ばれ、特に外国人からは重宝がられたと伝えられています。   


二代目広重の画業は、偉大な師である初代広重の存在と、その名跡を継ぐという重圧の中で、自身の芸術的個性を模索し続けた道のりであったと解釈できます。初代広重という巨匠の存在は、二代目にとって計り知れない重圧であったはずであり、実際、初代に比べると二代目広重の作品は「ほとんど評価されていない」という見方も存在しました。しかし、二代目広重は単なる模倣者ではなく、自身の芸術性を追求しようと試みました。特に、襲名後の離縁と改名、そして「三十六花撰」のような独自のシリーズ制作は、師の「広重」の看板から離れ、自己の表現を確立しようとする彼の苦悩と探求の証と見ることができます。慶応2年(1866)に制作された「三十六花撰」が「二代広重」名義であることは、商業的な理由で旧名を使用した可能性や、シリーズ名としての「広重」が定着していた可能性を示唆しつつも、この作品が彼の個性を反映しているという指摘は、彼の模索の過程で生まれた独自の画風、すなわち師とは異なる「装飾的で穏やかな印象」  を生み出したことを裏付けています。   



3.2. 幕末から明治初期の社会と文化


「三十六花撰」が制作された慶応2年(1866)は、まさに江戸時代が終焉を迎え、明治維新へと向かう激動の時代でした 。天保年間(1830~)から続く飢饉や社会不安が広がり、民衆の不満が高まる中で、浮世絵は大衆の娯楽兼情報メディアとして大きな役割を担っていました。   


この時期、日本は開国を迫られ、西洋文化が流入し始めるなど、社会全体が大きな変革期にありました。江戸という都市そのものも「東京」へと名称を変え、近代化の波が押し寄せていました。   


しかし、そのような不安定な時代にあっても、庶民の間では園芸が盛んであり、古くから続く花卉文化は人々の生活に深く根付いていました。特に朝顔は、品種改良が進み数千種に及ぶほど人気を博し、「朝顔市」のような庶民の園芸活動が盛んに行われていました。西洋から新しい植物(ヒマワリ、カーネーション、ヒヤシンスなど)も渡来し、花卉/園芸文化はさらに多様化していました。幕末の不安定な社会情勢と、それにもかかわらず脈々と続く庶民の花卉/園芸文化の隆盛は、激動の時代における人々の精神的な拠り所としての「花」の重要性を示唆しています。政治的・社会的な混乱が続く中で、人々は日々の生活の中に安らぎや普遍的な美を求めました。花を愛で、園芸に勤しむことは、そうした不安を和らげ、精神的なバランスを保つための重要な行為であったと考えられます。花は単なる鑑賞物ではなく、心の拠り所、あるいは現実からの逃避と癒しの対象であったと言えるでしょう。この時代に「三十六花撰」が制作されたことは、変わりゆく世の中(「流行」)の中で、変わらない自然の美しさや人々の自然への愛着(「不易」)を捉えようとする、当時の人々の意識を反映しており、後の月岡芳年の作品  にも見られる「不易流行」の思想の萌芽が、二代目広重の時代にも既に存在していたことを示唆しています。   



3.3. 「三十六花撰」制作の経緯と意図


「三十六花撰」は、二代目広重が「喜斎立祥」と改名した慶応元年(1865)頃の翌年、慶応2年(1866)に「二代広重」の名で制作されました。この時期は、彼が師の重圧から解放され、自身の芸術的個性を模索していた時期と重なります。   


本シリーズの制作意図は、単に美しい花や名所を描くことに留まりません。この作品は、まさに江戸から東京へと移行しつつあった時代の空気感を映し出すものであり、単なる花鳥名所絵を超えた、歴史的資料としての価値をも示唆しています。二代目広重は、変わりゆく都市の姿と、そこに息づく人々の変わらぬ自然への愛着を伝える貴重な記録として、このシリーズを手がけたと考えられます。彼は、花が咲く場所の歴史や文化、そしてそこに集う人々の記憶をも描き込もうとしたのかもしれません。それは、急速な近代化の中で「失われゆく江戸の風情を留めようとする試み」であったとも解釈できます。   


「三十六花撰」は、単なる芸術作品ではなく、幕末から明治への大転換期における社会と人々の精神状態を映し出す「時代の証言者」としての役割を担っていたと深く理解することができます。二代目広重は、単に美しい風景や花を描くのではなく、その背景にある「時代の変化」そのものを作品に織り込もうとしたのです。特に、地名の表記が「東都」から「東京」へと変化する様子を作品中に取り入れたことは、彼がこの過渡期を意識し、その変容を記録しようとした明確な意思の表れです。これは、単なる写実を超えた、社会的なメッセージ性を持つ作品であることを示唆します。騒然とした時代にあって、花という普遍的な美を通じて、失われゆくものへの郷愁と、それでも変わらずに存在する自然の生命力への愛着を描くことで、当時の人々の心に深く響いた可能性が高いでしょう。この作品は、変化の波に直面しながらも、心の平穏や美意識を保とうとする人間の普遍的な営みを表現していると言えます。   



4. 「三十六花撰」が伝える文化的意義と哲学



4.1. 花卉文化と浮世絵の融合


日本の花卉/園芸文化は、古くから人々の生活に深く根ざし、単なる植物の栽培に留まらず、精神性や美意識と密接に結びついてきました。江戸時代には、園芸が古董収集、釣りと並ぶ「三大道楽」の一つとされ、将軍から長屋の住民まで、幅広い階層で花を愛でる文化が花開きました。   


浮世絵においても、花は重要なモチーフであり、風景画や美人画など様々なジャンルに彩りを添えてきました。葛飾北斎も晩年に傑出した花鳥画シリーズを残しており、その鋭い観察眼と写実的な描写力は特筆すべきものです。また、初代歌川広重も「当盛六花撰」のような役者絵で、花をクローズアップする斬新な表現を試みています。   


「三十六花撰」は、これらの流れを汲みつつ、名所絵と花鳥画を融合させた独自のスタイルを確立しました。花を前景に大きく配し、背景に名所を描く構図は、花そのものの美しさを際立たせながら、その花が咲く場所の歴史や文化、そしてそこに集う人々の記憶をも描き込もうとする試みです。この作品における花と名所の融合は、単なる構図の工夫ではなく、日本の伝統的な花卉文化と浮世絵の表現が、時代の変化の中でどのように継承され、革新されていったかを示す象徴であると解釈できます。二代目広重は、江戸時代に培われた深い花卉愛という文化的基盤と、浮世絵における花鳥画や風景画の表現技法(北斎の写実性、初代広重のクローズアップ表現)を深く理解し、それを自身の作品に昇華させました。彼の「三十六花撰」は、単なる模倣ではなく、花を主題として前景に大きく描くことで、鑑賞者の視線を花そのものに集中させ、名所を「花のための舞台」として再定義した点で革新的です。この融合は、日本人が自然を単なる背景としてではなく、精神的な意味を持つ存在として捉える美意識の表れであり、花を通して名所の本質や季節感を表現するこの手法は、自然と人間、そして芸術が一体となる日本文化の深層を映し出していると言えるでしょう。   



4.2. 移ろいゆく時代と変わらぬ美意識


幕末から明治初期という激動の時代は、社会構造、都市景観、人々の価値観が大きく変化した時期でした。この「三十六花撰」は、この変革期にあった都市の姿と、そこに息づく人々の変わらぬ自然への愛着を伝える、貴重な記録と言えます。   


特に、月岡芳年の「東京自慢十二ヶ月」が「不易流行」(流行は移り変わるが、根本にある美意識や自然への敬意は変わらないという哲学)を表現しているように、二代目広重の「三十六花撰」もまた、この思想を内包していると解釈できます。花は、変化の激しい世の中における「不易流行」の象徴であり、時代の変遷を見守る静かなる証人、そして人々の心の拠り所であったことを示唆しています。騒然とした時代であったからこそ、日常の中にある美、自然の移ろいの中に普遍的な価値を見出そうとする本作の姿勢は、より一層人々の心に響いたのかもしれません。それは、近代都市へと変貌を遂げる直前の江戸=東京の、儚くも美しい花の風景を巡る、詩的な旅へと私たちを誘う不朽の魅力をたたえています。   


「三十六花撰」は、単に美しい花を描いただけでなく、失われゆく「江戸」への郷愁と、新しく生まれゆく「東京」への希望、そしてその中で変わらずに人々の心を癒し続けた「花」への深い敬意が込められた作品であると解釈できます。幕末の日本は、開国と近代化の波に洗われ、長年親しんできた江戸の文化や風景が急速に失われつつありました。二代目広重が描いた花々は、単なる植物ではなく、そうした失われゆくものへの「郷愁」と、それでも変わらずに咲き続ける自然の生命力への「希望」を象徴していたと考えられます。花を前景に大きく描くことで、その普遍的な美しさを強調し、変化の激しい時代に生きる人々に心の安らぎを提供しました。この作品は、激動の時代にあって、人々がどのように精神的な安定を保ち、美を見出していたかを示す貴重な手がかりとなります。花は、生活の喧騒や政治的混乱から一時的に離れ、内省的な時間を持つための媒介であり、日本人の「自然との共生」という深い哲学が、この作品を通じて静かに語りかけられているのです。



4.3. 自然への敬意と精神性


日本の文化において、花や自然は単なる鑑賞の対象ではなく、深い精神性や哲学と結びついています。中国の伝統文化と同様に、花は天地の「慧黠之気」(聡明な気)が形成したものとされ、文人たちは花草木を通じて胸中の逸気(高潔な精神)を抒発してきました 。蓮が「出汚泥而不染」(泥の中から出ても染まらない)高潔さを、菊が「経霜愈傲」(霜を経てますます誇り高く)志節を象徴するように、花には人々の理想とする「徳」や「志」が込められてきました。松、竹、梅の「歳寒三友」は、逆境に耐える堅忍不抜の精神を表す典型例です。   


儒教思想においては、花形、花色、花香、花徳の四者が兼ね備わることが重んじられ、仏教や道教においても花は「修道」「悟道」の媒介とされました。これは、花が人々の精神生活に「潜移黙化」(知らず知らずのうちに影響を与える)作用を持ち、人生を美化し、心を浄化する力を持つと考えられていたからです。柳宗悦の民藝論に見られる「無心之美」(無意識の美)や「不二之美」(二元性を超えた美)は、無名の職人が自然の力を信仰するかのように「無心」に制作する中で生まれる美であり、「美は発見されるもの」と説かれました。これは、二代目広重が花を描く際にも通じる精神性であり、花そのものが持つ内なる美しさ、あるいは自然の摂理を表現しようとする姿勢に通じます。   


「三十六花撰」は、このような日本文化に深く根ざした自然への敬意と精神性を、浮世絵という形で視覚的に表現したものです。この作品は、単なる視覚的な美しさだけでなく、鑑賞者が花を通じて理想的な人格形成や精神的自由を追求する「遊於藝」(芸術に遊ぶ)という東洋の哲学を体現していると解釈できます。描かれた花が象徴する徳性や精神性を内面化し、自己の精神性を高める行為であったと捉えられるのです。これは、儒教の「遊於藝」の精神に通じ、芸術を通じて自己を修養し、精神的な自由を獲得しようとする東洋的な美学の実践であったと言えるでしょう。激動の時代にあって、二代目広重は、花という普遍的なモチーフを通じて、人々に心の平穏と精神的な豊かさを提供しようとしました。花が持つ「無言の大美」(天地には大いなる美があるが、それは言葉にならない)  を浮世絵という大衆的なメディアで表現することで、深い哲学を広く共有し、人々の心の拠り所となることを目指したのです。これは、現代においても、自然と共生する日本の精神性を理解する上で重要な視点を提供するものです。   



5. 結び


二代目歌川広重の「三十六花撰」は、幕末から明治へと移り変わる日本の激動期に制作された、単なる花鳥画や名所絵を超えた、深い文化的・哲学的な意義を持つ作品群です。師である初代広重の重圧の中で自身の芸術性を模索し、時代の変遷を静かに見つめながら、普遍的な花の美しさを描き出しました。

このシリーズは、変わりゆく都市の風景と、そこに息づく人々の変わらぬ自然への愛着、そして「不易流行」という日本の美意識を鮮やかに映し出しています。花々は、激動の時代に生きる人々の心の拠り所となり、精神的な豊かさを与える存在であったことを教えてくれます。

「三十六花撰」は、今を生きる私たちに、日本の花卉・園芸文化の奥深さ、自然との共生という哲学、そして時代を超えて受け継がれる美意識の重要性を静かに語りかけています。この不朽の魅力をたたえた浮世絵を通して、日本の伝統に触れ、新たな発見と感動に満ちた心豊かな体験をしてみてはいかがでしょうか。それはきっと、現代社会における私たちの暮らしにも、新たな視点と安らぎをもたらしてくれることでしょう。



※国立国会図書館デジタルコレクションから引用していますが、本来は三十六種ですが、三十一種が収蔵されています。


『三十六花撰』. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1307482





参考










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