現在のクローバーの渡来事情と和名シロツメクサ(白詰草)の由来の記述:竹園草木図譜
- JBC
- 2024年4月16日
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更新日:6月10日
1. 序論:『竹園草木図譜』とその位置づけ
1.1. 『竹園草木図譜』概要
『竹園草木図譜』は、江戸時代後期の幕臣であった貴志忠美によって著された、肉筆による植物図譜です。この図譜には、忠美自身が直接観察し、写生した植物が、その形態、特徴、名称などと共に詳細に記録されています。これは、単に既存の文献を編纂したものではなく、著者自身の経験的知識と観察眼に基づいた一次資料としての性格を強く有していることを示唆しています。
1.2. 江戸時代後期の博物学と本草学の文脈における『竹園草木図譜』の重要性
『竹園草木図譜』は、江戸時代後期の植物学研究、とりわけ当時日本に新たにもたらされた外国産植物の渡来に関する貴重な情報源として位置づけられます。忠美が生きた時代は、中国から伝来した薬物学を基盤とし、日本の動植物を研究する学問である本草学が隆盛を極めた時期であり、『竹園草木図譜』もまた、このような時代の熱気の中で制作された重要な成果物の一つです。
江戸時代の植物図譜は、単に植物の形態を記録するという科学的な目的だけでなく、その描画の美しさ自体も評価される美術品としての側面を併せ持つことが少なくありません。実際に『竹園草木図譜』についても、その詳細な記録と共に、「美しい植物画」としての「美術的な価値も高く、多くの人々に鑑賞されてい」る点が指摘されています。これは、当時の知識人層における「好事家」としての洗練された趣味や審美眼が、学術的な探求と分かちがたく結びついていたことを反映していると言えるでしょう 。従って、『竹園草木図譜』を評価する際には、その科学的データとしての側面と、美術作品としての側面の両方からアプローチする必要があります。
2. 著者:貴志忠美 – 幕臣にして植物愛好家
2.1. 貴志忠美の経歴
『竹園草木図譜』の著者である貴志忠美は、通称を孫太夫、諱を忠美、号は朝暾で活動していました。生年は享和元年(1800)、没年は安政4年(1857)と記録されています。
忠美の身分は江戸幕府の直参である旗本でした。幕府内では小納戸役を務めた後、最終的には徳川家康ゆかりの地である駿府の町奉行にまで昇進したことが確認されています。これは、忠美が幕臣として有能であり、一定の信頼を得ていたことを示唆します。その家禄は500石であったとされ、これは旗本の中でも比較的身分の高い層に属し、経済的にもある程度の余裕があったことが窺えます。このような地位と経済的基盤が、植物学への深い傾倒を支えた一因と考えられます。
2.2. 植物学への情熱 – 「希代の好事家」
貴志忠美は、単なる余技としてではなく、植物学に対して並々ならぬ情熱と深い知識を有していました。資料によれば、忠美は「希代の好事家」と評されており 、これは単なる植物愛好家を超えた、高度な鑑識眼と探求心を持った人物であったことを物語ります。「好事家」という呼称は、しばしば深い学識と美的センスを兼ね備えた人物に対して用いられるものであり、忠美の植物研究が、体系的な知識と美的感受性の双方に裏打ちされていたことを示唆します。
忠美の植物研究におけるアプローチは実践的であり、自ら植物を詳細に観察し、それを写生するという手法を採っていました。これは、書物上の知識に頼るだけでなく、実物と向き合い、自身の眼で確かめるという実証的な態度を重視していたことの現れです。このような姿勢こそが、『竹園草木図譜』に収録された情報の信頼性を高めていると言えるでしょう。
3. 『竹園草木図譜』の詳細
3.1. 物理的特徴
『竹園草木図譜』は、刊本ではなく、手彩色の施された肉筆の写本として現存しています。これは、一点一点が手作業で制作されたことを意味し、木版画による大量印刷が可能な図譜とは異なり、その制作には多大な時間と労力を要したと考えられます。
図譜の具体的な装丁や寸法、用紙については、に興味深い記述があります。これは、著名な本草学者である伊藤圭介の五女・小春が母のために転写したとされる写本に関するものであり、貴志忠美の自筆稿そのものではない可能性が高いですが、当時の写本の一形態を知る上で貴重です。それによれば、乾・坤の2冊からなる袋綴じ本で、寸法は縦26.2cm、横18.7cmです。用紙は手書きで枠を引いた四周単辺無界の和紙が用いられていますが、乾巻の7丁のみは「植物図纂」という柱書を持つ印刷された用紙を使用しているといいます。この「植物図纂」の用紙の使用は、当時利用可能な紙を柔軟に活用したか、あるいは何らかの既存の出版物の一部を再利用した可能性を示唆しており、写本制作の実際的な側面を垣間見せます。伊藤圭介の娘による転写という事実は、この図譜が当時の本草学者の間で注目され、知識共有のために書写されていたことを物語っています。
3.2. 内容と構成
『竹園草木図譜』の最も重要な特徴は、著者の貴志忠美自身が直接植物を観察し、写生した記録であるという点にあります。図譜には、それぞれの植物について、その形態的な特徴、生育の様子、そして和名や漢名といった名称などが詳細に記述されています。
特に注目すべきは、日本在来の植物だけでなく、当時海外から渡来した植物に関する記録も豊富に含まれていることです 。鎖国体制下にあった江戸時代においても、長崎の出島を通じてオランダなどから新たな文物がもたらされており、その中には未知の植物も含まれていました。これらの外来植物をいち早く記録し、図示したことは、『竹園草木図譜』の学術的価値を高める重要な要素となっています。
3.3. 画風
『竹園草木図譜』に描かれた植物画は、図譜として美しい植物画であり、その美術的な価値も高く評価されています。その画風は、植物の細部まで忠実に再現しようとする写実性と、彩色による鮮やかな表現が特徴です。これは、江戸時代の他の優れた本草図譜、例えば岩崎灌園の『本草図譜』などにも通じる特徴であり 、科学的な正確さと美的魅力の両立を目指した当時の博物図譜制作の一つの到達点を示していると言えるでしょう。
『竹園草木図譜』が写本であるという事実は、その内容や形態を考察する上で重要な意味を持ちます。刊本とは異なり、写本は筆写の過程で誤記や脱落、あるいは筆写者による加筆や変更が生じる可能性を常に含んでいます。では、「アフセト草」という記述が「アラセト草」の誤写であろうと指摘されており、これは写本特有の問題点を示しています。
4. 植物学的貢献と特筆すべき記録
4.1. 国内外の植物相の記録
『竹園草木図譜』は、貴志忠美が生きた江戸時代後期の日本の植物相を理解する上で、極めて重要な手がかりを提供する資料です。図譜には、日本固有の植物だけでなく、当時新たにもたらされた外来の植物も多数収録されており、その詳細な観察記録は、当時の植生や園芸状況を復元するための基礎データとなります。
特に外来植物に関する記録の豊富さは、本図譜の大きな特徴の一つです。これらの記録は、単に植物学的な興味にとどまらず、当時の日本と海外との文化交流の様相を植物という具体的な事物を通して明らかにするものであり、文化史的な観点からも価値が高いです 。
4.2. クローバー(シロツメクサ)の日本初開花と「ツメクサ」命名の記録
『竹園草木図譜』が植物史において特筆されるべき貢献の一つに、クローバー(シロツメクサ)に関する詳細な記録があります。本図譜には、日本で初めてクローバーが花を開いた日付が記録されており、これが現在一般的に用いられている「ツメクサ(詰草)」という和名の由来になったとされています。
その経緯は、弘化3年(1846)にオランダから江戸幕府へ献上された輸入品の梱包材、すなわち「詰物」として用いられていた枯れ草の中から種子が見つかり、これを貴志忠美(あるいは関係者)が播種して育てたことに始まります。そして、この植物が花を咲かせた際、本草学者の曲直瀬養安院正貞がこれを苜蓿(ウマゴヤシの類)の一種であると鑑定し、「和蘭苜蓿」と名付けたと『竹園草木図譜』の巻21には記されています 。このように、輸入品の「詰物」から得られたことから「詰草」の名が生まれたというエピソードは、植物名の由来を具体的に示す貴重な記録です。
4.3. その他の注目すべき植物記録
クローバーの記録以外にも、『竹園草木図譜』及び関連すると考えられる貴志忠美の記録には、注目すべき植物に関する記述が散見されます。
例えば、オクラに関する記録があります。これは、忠美が駿府町奉行として在任中の安政2年(1855)に、江戸から贈られたオクラの種子を翌年に播種したところ、無事に開花し、細長い実を結んだという内容です(「本草写生」より)。この記述は、忠美が駿府という地方都市においても植物の栽培と観察を継続していたこと、そして江戸との間で植物の種子や情報が交換されていたことを示しています。
また、国立国会図書館が所蔵する『朝暾集』内の『竹園草木誌』には、キダチチョウセンアサガオ(木立朝鮮朝顔)、チョウマメ(蝶豆)、ツルナシナタマメ、マンテマといった植物名が挙げられています。さらに同資料には、「山字草」(サンジソウ)という和名の由来に関する考察や、当時渡来していた新しい品種のアラセイトウ(ストック、図譜中では「アフセト草」と誤写されている可能性が指摘されています)に関する記述も含まれており 、忠美の広範な植物への関心と詳細な記録へのこだわりが窺えます。
これらの記録は、貴志忠美のような幕府の役人が、その職務上の立場や人脈を通じて、新たな情報や物品に接しやすかったことを示唆しています。特にオランダからの献上品に含まれていたクローバーの種子 や、江戸から駿府へ送られたオクラの種子は、その好例です。幕府は時として薬園の管理や物産の調査を行うこともあり 、忠美のような個人的な情熱を持つ役人が存在した場合、その公的な立場が学術的な探求を助ける形で機能したと考えられます。『竹園草木図譜』は、個人の学術的興味と、幕藩体制下における情報流通のあり方が交差する点で生まれた成果と言えるかもしれません。
表2:『竹園草木図譜』における注目すべき植物記録
植物名 (和名/通称) | 図譜における記述・意義 |
シロツメクサ (白詰草) / クローバー / 和蘭苜蓿 | 日本で初めて開花し、ツメクサの名の由来に関する記録があります (弘化3年/1846年) |
オクラ | 駿府にて栽培・開花・結実した記録があります (安政2年/1855年播種) |
キダチチョウセンアサガオ (木立朝鮮朝顔) | 『竹園草木誌』(『朝暾集』所収) に記載されています |
チョウマメ (蝶豆) | 『竹園草木誌』(『朝暾集』所収) に記載されています |
ツルナシナタマメ | 『竹園草木誌』(『朝暾集』所収) に記載されています |
マンテマ | 『竹園草木誌』(『朝暾集』所収) に記載されています |
山字草 (サンジソウ) | 和名の由来に関する記述があります (『竹園草木誌』所収) |
アラセイトウ (ストック) | 渡来品種の記録があります (『竹園草木誌』所収、「アフセト草」は誤写の可能性があります) |
5. 江戸時代の科学文化における意義
5.1. 本草学の伝統と『竹園草木図譜』
江戸時代は、本草学がその黄金時代を迎えた時期でした。本草学は中国由来の薬物学を基礎としながらも、日本では独自の発展を遂げ、国内の動植物に関する知識体系を構築していきました。この時代には、多くの本草学者が植物図譜を制作し、植物の形態や薬効などを記録しました。貴志忠美の『竹園草木図譜』もまた、このような本草学隆盛の潮流の中で生まれた重要な作品の一つであり、その詳細な観察記録は、当時の植物相を理解する上で不可欠な資料となっています。
江戸時代においては、本草学や博物趣味は、専門の研究者だけでなく、大名から町人に至るまで、身分を超えて広く愛好されていました。各地でアマチュア本草家の同好会が結成されたり、珍しい産物を展示する物産会が盛況を博したりするなど、博物学的な関心は社会全体に浸透していました 。このような文化的土壌が、貴志忠美のような人物による精緻な植物図譜の制作を可能にしたと言えるでしょう。
5.2. 外来植物研究への貢献
『竹園草木図譜』の学術的価値の中でも特に注目されるのが、外来植物の研究への貢献です。前述の通り、本図譜には当時日本にもたらされた海外の植物に関する記録が豊富に含まれており、これらは江戸時代後期の植物相の変遷や、異文化との接触による植物の伝播の歴史を明らかにする上で非常に貴重な資料となります。
特にクローバーの渡来と「ツメクサ」命名に関する記録は、当時の日本人が外国の文物や植物に対して強い好奇心を抱いていたこと、そして海外との限定的な交流が植物の伝播という形で具体的な影響を及ぼしていたことを示す好例です。これらの記録は、植物学的な側面だけでなく、当時の社会における異文化受容の一端を垣間見せるものとしても興味深いです。
5.3. 当時の社会文化を反映する資料としての価値
『竹園草木図譜』は、単に植物の形態や名称を記録した図鑑としての価値に留まらず、それが制作された時代の社会や文化を色濃く反映した歴史資料としての側面も有しています。貴志忠美の鋭い観察眼と、それを詳細に記録しようとする情熱は、当時の知識人の知的好奇心のあり方や、自然への向き合い方を示唆しており、現代の我々にも多くの示唆を与えてくれます。
江戸時代後期には、例えば岩崎灌園による『本草図譜』のような、日本で初めて多色刷りで刊行された植物図鑑も登場しています。灌園の『本草図譜』が木版多色刷りという出版形態をとったのに対し、貴志忠美の『竹園草木図譜』は肉筆の写本であり、その制作方法や流通のあり方は異なっていました。しかし、両者ともに当時の園芸ブームや海外からの新たな植物の流入といった社会背景のもと 、江戸時代後期の博物学熱の高まりを象徴する作品として位置づけることができます。
しかしながら、江戸時代に隆盛を誇った本草学も、明治維新以降、西洋近代科学の導入と共にその地位を大きく変えることとなります。明治政府が実利主義や合理性を追求する国策を推し進める中で、伝統的な本草学は古い学問として扱われ、西洋の植物学や医学に取って代わられる形で、学問の主流から外れていきました。本草学が持っていた、自然に対する包括的で時にロマンティシズムさえ感じさせるアプローチは、分析的・体系的な西洋科学とは相容れない面があったのかもしれません 。『竹園草木図譜』のような作品は、まさにこのような学問的パラダイムシフトが起こる直前の、日本独自の自然探求の一つの頂点を示すものと言えます。それゆえに、これらの資料を保存し研究することは、失われた知のあり方や、かつての日本人の自然観を再評価する上で極めて重要な意味を持ちます。
6. 結論
本稿で詳述してきたように、江戸時代後期の幕臣・貴志忠美によって著された『竹園草木図譜』は、忠美の植物に対する深い愛情と卓越した学識、そして丹念な観察眼の結晶です。本図譜は、江戸時代後期の植物学、特に外来種の導入と定着に関する記録において、他に代えがたい重要な学術的価値を有しています。
その詳細な記述と、写実性と芸術性を兼ね備えた美しい図画は、『竹園草木図譜』を単なる科学的資料としてだけでなく、美術品としても、また江戸時代の豊かな博物文化を伝える文化遺産としても高く評価することを可能にします。
貴志忠美による『竹園草木図譜』の編纂は、当時の植物に関する知識を正確かつ美しく後世に伝えるという点で、日本の本草学及び植物図譜の伝統に大きく貢献したと言えます。彼の業績は、幕臣としての公務をこなしながらも、私的な時間と情熱を学術的な探求に注ぎ続けた江戸時代の知識人の一つの典型を示しています。
最後に、『竹園草木図譜』という名称に含まれる「竹園」の由来については、本稿で参照した資料からは明確な情報を得ることはできませんでした。これが貴志忠美の屋敷にあった実際の庭園の名であったのか、あるいは何らかの雅号や象徴的な意味を込めた名称であったのかは、今後の研究によって明らかにされるべき興味深い課題として残されています。
〔貴志朝暾//画〕『竹園草木図譜』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1286940