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白梅に託す想い:菅原道真公と飛梅伝説


菅公像
菅公像 作者:山崎朝雲作 時代世紀:昭和11年(1936) 品質形状:木造 銘文等:朝雲/作 寄贈者:山崎朝雲氏寄贈 所蔵者:東京国立博物館 https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/C-522?locale=ja

菅原道真公(845-903年)は、平安時代前期に活躍した学者、詩人、そして政治家です。幼い頃から学問に秀でた才能を発揮し、若くして文章博士に任命されました。その後、宇多天皇の信任を得て政治の中枢を担い、遣唐使の停止を提言するなど、日本の文化の独自性を育む礎を築きました。しかし、藤原時平の讒言により大宰府に左遷され、不遇のうちにその生涯を閉じました。死後、道真公は怨霊として恐れられましたが、その後は学問の神様として、天神信仰の対象となり、現在に至るまで多くの人々の崇敬を集めています 。   


道真公は、梅をこよなく愛した人物としても知られています。そして、梅は道真公の人生と深く結びつき、様々な逸話や伝説を生み出しました。本稿では、菅原道真公の生涯と業績を辿りながら、彼と梅との物語を紐解き、後世に与えた影響について考察いたします。   




道真公と梅花の絆


道真公が梅をこよなく愛したことは、多くの逸話や歌からも伺えます。中でも有名なのは、大宰府に左遷される際に詠んだ歌「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」でしょう。都に残してきた梅への切ない想いが込められたこの歌は、道真公と梅の特別な関係を象徴するものとして、広く知られています。   


また、道真公を慕って都から梅の木が飛んできたという「飛梅伝説」も 、道真公と梅の結びつきを語る上で欠かせません。太宰府天満宮のご神木として大切にされている飛梅は、道真公の御霊を慰め、今もなお人々に感動を与え続けています。   


道真公を祀る天満宮の多くに梅が植えられているのは、道真公の梅への愛と、それにまつわる伝説を後世に伝えるためでしょう。春になると、境内を彩る梅の花は、道真公の御霊と共に、訪れる人々の心を和ませ、希望を与える存在となっています。


天神飛梅図
天神飛梅図 作者:狩野山雪筆 時代世紀:江戸時代 17世紀 品質形状:紙本著色 所蔵者:九州国立博物館 https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyuhaku/A138?locale=ja



生涯


幼少期と学問の道


菅原道真公は、承和12年(845年)に、参議・菅原是善の三男として生まれました。菅原家は代々学者の家系であり、祖父の清公、父の是善も文章博士に任じられた人物でした。道真公も幼い頃から学問に励み、5歳で和歌を詠み、11歳で漢詩を詠むなど、その非凡な才能を示していました。18歳という若さで文章生となり、23歳で文章得業生となった後、26歳で官吏登用試験である対策に合格し、順調に出世の階段を登っていきました。そして33歳で文章博士に任命され、学者としての最高位に就いたのです。道真公は文章博士として、国史の編纂や後進の育成にも力を注ぎました。彼は祖父の代から続く私塾「菅家廊下」を主宰し、多くの弟子を育てました。   



政治家として台頭


道真公は学者としての活躍だけでなく、政治家としても優れた手腕を発揮しました。42歳の時、讃岐守として讃岐国(現在の香川県)に赴任しました。そこで道真公は、疲弊した民の暮らしを目の当たりにし 、税制度の見直しに着手しました。後に、この経験を基に、人頭税から土地税への転換など、抜本的な改革を断行し 、国家財政の安定化に貢献しました。また、遣唐使の停止を提言し、日本の文化の独自性を育む礎を築いたことも彼の功績として挙げられます。宇多天皇の信任は厚く、道真公は学者としては異例の出世を遂げ、右大臣にまで上り詰めたのです。   



左遷と晩年


順風満帆に見えた道真公の政治家人生でしたが、昌泰4年(901年)1月25日、突如として暗転します。藤原時平の讒言により、道真公は大宰府に左遷されることとなったのです。これは、道真公が天皇を廃立し、娘婿の斉世親王を擁立しようと企てているという嫌疑をかけられたためです。無実の罪を着せられた道真公は、都を離れることになりました。大宰府での生活は過酷であり、衣食住にも事欠くような状況であったといいます 。道真公は失意のうちに、延喜3年(903年)に大宰府でその生涯を閉じました 。左遷の道中、道真公は「駅長莫驚時変改 一栄一落是春秋(駅長よ、驚くことはない。栄枯盛衰は世の習い)」という漢詩を詠み、心情を吐露しました。   



作品に詠まれた梅


道真公は、和歌や漢詩にも梅を詠み込み、その美しさや、梅に託した心情を表現しました 。   


和歌


東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな


此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに


海ならず 湛へる水の 底までに 清き心は 月ぞ照らさむ


水ひきの 白糸延へて 織る機は 旅の衣に 裁ちや重ねん


   

漢詩


月耀如晴雪 梅花似照星 可憐金鏡転 庭上玉房馨

訳:月の光は晴れた雪のように輝き、梅の花は星のように煌めいている。美しい月の光が移りゆくにつれて、庭の梅の花が香りを放っているのは、なんとも素晴らしいことだ。


駅長莫驚時変改 一栄一落是春秋

訳:駅長よ、驚くことはない。世の中の栄えたり衰えたりすることは、春と秋が巡り来るのと同じように、当たり前のことなのだ。


去年今夜待清涼 秋思詩篇獨斷腸 恩賜御衣今在此 捧持毎日拜餘香

訳:去年の今夜は、清涼殿で(天皇に)お仕えしていた。秋の思いを込めた詩を詠んだが、その時の私は、ただ一人、悲しみに暮れていた。天皇からいただいた衣服は、今ここにあり、毎日それを手に取っては、残り香を拝んでいる。

   


大宰府天満宮の歴史


道真公が亡くなった後、太宰府では彼を祀るための神社が建立されました。これが現在の太宰府天満宮です。道真公の墓所の上に建てられたこの神社は、当初は小さな祠でしたが、徐々に規模を拡大し、現在では全国に約1万2000社ある天満宮の総本社として、多くの参拝者を集めています。

太宰府天満宮は、道真公の御霊を鎮めるだけでなく、道真公の学問に対する情熱や、逆境に立ち向かう強さを後世に伝える役割も担っています。境内には、道真公が愛した梅の木が植えられており、特に「飛梅」は道真公を慕って都から飛んできたという伝説と共に、今もなお人々に感動を与え続けています 。   


太宰府天満宮 本殿
太宰府天満宮 本殿



後世への影響


道真公の死後、都では落雷や火災などの災厄が相次ぎました。人々はこれを道真公の怨霊の祟りだと恐れ、道真公を神として祀るようになったのです。道真公は、学問に秀でた人物であったことから、学問の神様として信仰されるようになり、各地に天満宮が建立されました。特に、道真公が亡くなった太宰府に建立された太宰府天満宮は、天神信仰の中心地として、現在でも多くの参拝者を集めています。   


道真公を祀る天満宮には、梅の木が植えられていることが多く、春には美しい梅の花が咲き誇ります。これは、道真公が梅を愛したという逸話にちなんだものであり、道真公と梅の結びつきが、天神信仰にも影響を与えていることを示しています。   



人物像


菅原道真公は、学者、詩人、政治家として多岐にわたる才能を発揮した人物でした。彼は、幼い頃から学問に優れ、努力家でした。また、誠実で忠義心が強く、人々から慕われていました。一方で、地方官として赴任した際には、民の苦しみを目の当たりにし、社会問題にも関心を寄せていました。道真公は、繊細で情の深い一面も持ち合わせており、左遷の際には、都に残してきた家族や梅を偲ぶ歌を詠んでいます。   


加えて、道真公は子煩悩な人物としても知られており、子供たちを慈しむ歌や漢詩を多く残しています。また、乗馬を好み、趣味でも馬を走らせていたという。このような多角的な側面を持つ人物であったからこそ、道真公は多くの人々の共感を呼び、後世までその名を残したと言えるでしょう。   




最後に


菅原道真公は、梅を愛し、梅と深く結びついた人生を送りました。彼の詠んだ歌や漢詩、そして「飛梅」の伝説は、道真公の心情や人生観を反映するとともに、後世の人々に深い感銘を与え続けています。道真公を祀る天満宮に植えられた梅は、彼の御霊を慰め、訪れる人々の心を和ませます。

道真公と梅の物語は、日本文化史における美しい一葉として、これからも語り継がれます。


大宰府天満宮は、道真公の生涯と業績を偲び、彼の遺徳を後世に伝える重要な場所です。これからも多くの人々が訪れ、道真公の精神に触れることで、学問への情熱や、逆境に負けない心を育んでいくことでしょう。


太宰府天満宮と飛梅
太宰府天満宮 本殿と飛梅

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