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恠恠奇奇、金碧の輝き:狩野永徳最晩年の傑作《檜図屏風》

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 5月28日
  • 読了時間: 14分



員数:4曲1双 作者:狩野永徳筆 時代世紀:安土桃山時代・天正18年(1590) 品質形状:紙本金地着色 法量:各 縦170.0 横230.4  所蔵者:東京国立博物館 https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-1069?locale=ja



檜図屏風 全体図
員数:4曲1双 作者:狩野永徳筆 時代世紀:安土桃山時代・天正18年(1590) 品質形状:紙本金地着色 法量:各 縦170.0 横230.4  所蔵者:東京国立博物館 https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-1069?locale=ja


序章:国宝《檜図屏風》への誘い


狩野永徳筆《檜図屏風》は、安土桃山時代(1543-1590)を代表する稀代の絵師、狩野永徳の最晩年に制作された傑作であり、日本の国宝に指定されている重要な文化財です。この作品は、桃山時代の豪壮かつ華麗な文化を象徴する金碧障壁画の最高峰の一つとして、日本美術史において確固たる地位を築いています。


本作品は、元来、天正18年(1590)に落成した八条宮(後の桂宮家)邸を飾る襖絵として描かれたものでした。その雄大な構図と力強い筆致は、当時の天下人たちが求めた壮大な美意識と権威の象徴を色濃く反映しています。桃山時代は、織田信長や豊臣秀吉といった強力な権力者が天下統一を目指し、その権勢を示すために安土城、大坂城、聚楽第といった豪華壮麗な城郭建築を次々と造営した時代です。このような建築様式は、広大な空間を装飾する障壁画の需要を飛躍的に高め、永徳に代表されるような「大画様式」の発展を促しました。つまり、当時の政治的権力の誇示が、美術様式の革新と発展に直接的な影響を与えたという、時代背景と美術表現の密接な関係がこの作品から読み取れます。   


《檜図屏風》が桃山美術の精華として評価されるのは、単に当時の美意識を現代に伝える貴重な遺産であるという点に留まりません。永徳が確立したこの豪壮な障壁画様式は、その後の日本画壇、特に琳派などにも多大な影響を与えた可能性が指摘されています。永徳の表現は、単一の流派の枠を超え、日本美術全体の表現の幅を広げ、後世の画家たちに新たな創造の可能性を示しました。この作品は、桃山時代の精神を凝縮しつつ、日本美術史の大きな流れの中で普遍的な価値を持つ傑作として、現在も多くの人々を魅了しています。   



第一章:稀代の絵師 狩野永徳の生涯と画業



狩野派の継承者としての永徳


狩野永徳(1543-1590)は、室町時代中期から江戸時代末期まで約400年にわたり日本の画壇の中心に君臨した狩野派の代表的画人であり、その最盛期を築き上げた中心人物です。永徳は狩野派3代目の当主である狩野松栄の長男として京都に生まれ、幼少期から画才を発揮しました。特に、祖父である狩野元信から直接画の指導を受け、10歳にして将軍・足利義輝に謁見するなど、早くから将来を嘱望されたエリート絵師でした。   


永徳が23歳という若さで『洛中洛外図屏風 上杉本』を完成させ、その卓越した画力を世に示したことは、彼の才能がいかに早熟であったかを物語ります。この功績により、父・松栄から狩野派の頭領の座を譲り受けました。狩野派がこれほど長きにわたり日本の美術界の頂点に君臨できた背景には、強固な世襲制と組織力に加え、永徳のような傑出した才能が時代ごとの権力者と密接に結びつき、画風を革新し続けたことが挙げられます。永徳の登場は、狩野派の歴史においてまさに頂点を極める転換点であり、彼がいたからこそ狩野派は江戸時代を通じて絵師の最高峰であり続けることができたと言えます。



織田信長・豊臣秀吉に仕えた「天下人の絵師」


永徳は、織田信長や豊臣秀吉といった当時の権力者たちに深く重用され、居城である安土城、大坂城、聚楽第といった主要な城郭の障壁画制作を請け負いました。これらの大規模な建築物の障壁画は、単なる装飾ではなく、時の権力者たちの威厳と財力を内外に示すための重要な政治的・文化的装置です。永徳の豪壮で力動感あふれる作風は、まさに権力者の求めた壮大な美意識に合致し、その威光を視覚的に表現する上で不可欠な存在でした。   


しかしながら、永徳が力を振るったこれらの大規模な障壁画の多くは、建築物の焼失や取り壊しによって現存していません。これは、作品の大部分が、建物と一体化した障壁画という性質上、その運命が建築物と不可分であったことを示しています。このような背景から、現存する永徳の真筆作品は比較的少なく、その希少性が《檜図屏風》のような残された作品の美術史的価値を一層高めています。現存作品の少なさは、永徳の画業の全貌を捉える上で課題となる一方で、残された作品の重要性を際立たせる要因となっています。   



「大画様式」の確立と「細画」の多様性


永徳は、画面いっぱいにモチーフを大きく描く「大画様式」を編み出し、豪壮で華やかな表現を確立したことで知られています。この革新的な様式は、狩野派のみならず、当時の画壇全体に大きな影響を与え、桃山美術の基調を形成しました。永徳がこの「大画様式」を確立したのは、信長や秀吉からの大規模な障壁画の「怒濤の注文に応えた結果」であると指摘されており、彼の画風が単なる個人的な嗜好に留まらず、時代の要請やパトロンの需要に柔軟に対応し、新たな表現を創造する適応能力の高さによって形成されたことを示唆しています。   


一方で、永徳は繊細な筆致による細密描写も得意としていた。『洛中洛外図屏風 上杉本』は、その緻密な表現の好例であり、永徳の若き日の卓越した画力を示しています。美術史家の黒田日出男は、《唐獅子図屏風》や《檜図屏風》のような豪放な絵を描く作者と同一とは思えないほど、上杉本の細密な器用さが際立つと評しています。この豪放な「大画」と緻密な「細画」という一見矛盾する画風を同一人物が手掛けたという事実は、永徳の画力の幅広さと、彼が単なる様式の継承者ではなく、時代の変化に対応し、自ら革新を推し進めた芸術家であったことを明確に示しています。このような画風の多様性と適応性が、狩野派が長期にわたり画壇の頂点に君臨できた要因の一つであったと考えられます。永徳の芸術的偉大さは、この多面的な表現能力の中にこそ見出されるのです。   





第二章:《檜図屏風》の基本情報と来歴



作品データ:名称、作者、時代、形式、寸法、所蔵先、国宝指定


《檜図屏風》に関する客観的な基本情報は以下の通りである。これらの情報は、作品の理解を深める上で不可欠な土台となります。


表1: 国宝《檜図屏風》基本情報

項目

データ

作品名

檜図屏風(ひのきずびょうぶ)

作者

狩野永徳筆

時代

安土桃山時代・16世紀

形式

紙本金地著色、四曲一双(修理前は八曲一隻)

寸法

各 縦170.0cm 横230.4cm

所蔵先

東京国立博物館

国宝指定日

1957年2月19日



制作背景:八条宮邸の襖絵としての誕生


本作品は、天正18年(1590年)に落成した八条宮(後の桂宮家)邸を飾る襖絵として描かれたものです。永徳はこの年に急逝しているため、この作品は彼の最晩年の、まさに絶筆ともいえる時期に制作されたものと考えられています。   


襖絵として制作されたという事実は、この絵が単なる鑑賞物ではなく、宮廷建築の一部として機能し、空間全体を構成する役割を担っていたことを示しています。当時の貴族の邸宅の室内装飾として、その豪壮かつ生命力あふれる檜の表現が選ばれたことは、宮廷文化における自然観や、権威の象徴としての檜の意義を浮き彫りにします。襖絵としての機能を示す物理的な証拠として、現在の屏風の右隻四扇には、かつて襖であったことを示す引手金具の跡が残されています。この痕跡は、作品が固定された建築空間の中で、人々の日常と密接に関わりながら存在していた歴史を物語っています。   



伝来の歴史と形態の変遷:襖絵から屏風へ


《檜図屏風》は、制作以来、明治時代まで桂宮家に伝来しました。その後、宮家の廃絶に伴い皇室の所有である御物となり、現在は東京国立博物館が所蔵しています。   


この作品の歴史において特筆すべきは、その物理的な形態の変遷です。もともと4枚の襖であったこの絵は、後に8扇(八曲一隻)の屏風に仕立て直されました。このような形態の変更は、時代ごとの鑑賞様式や保存環境の変化を反映し、襖絵が固定された建築空間の一部であるのに対し、屏風は移動可能であり、より柔軟な鑑賞を可能にします。   


さらに近年、作品の傷みが激しくなったため、平成25年に大規模な修理が行われました。この修理の際、八曲一隻の屏風には中央部分に段差が生じ、枝の絵柄がつながらない不自然な箇所があったことが確認されました。そこで、絵柄のズレを解消し、作品の本来の構図を復元する目的、そして保存上の観点から、四曲一双(4面をつないだものが2つで1組)の屏風に再仕立てされ、現在の姿となりました。この修理は、単なる劣化の修復に留まらず、作品の本来の姿や永徳の意図を深く探求し、それを現代に伝えるための学術的な再構成の側面も持っていました。これは、現代の文化財保存が、単なる現状維持に留まらず、作品の「生命」を未来に繋ぐための積極的な行為であることを示しています。   



第三章:《檜図屏風》の美術的特徴と表現技法



豪壮かつ生命力溢れる檜の描写


《檜図屏風》の最も顕著な美術的特徴は、画面全体に圧倒的な存在感を示す巨大な檜の描写です。金箔を貼った大地と雲を背景に、檜の大樹が幹をうねらせ、大枝を広げる様子は、豪放な形態と濃密な色彩によって表現されています。その表現は、まるで蛇がのた打ち回るような、あるいは画面から突き抜けるかのような生命力にあふれており、見る者を圧倒する迫力を持ちます。   


檜の巨木は、うねるように伸びる太い枝とともに、その生命力を画面全体に満たします。幹や岩の黒々と引かれた墨線は際立つ筆勢を示し、巨木が屏風の枠を越えて見る者に迫りくるかのような、圧倒的な存在感を強調しています。永徳は、檜の葉を現実の檜の葉が持つ柔らかく平たい、先の丸い形を忠実に再現する細かな筆遣いで描かれ、これに対し、幹の部分は巨大さや太さが強調され、表面の苔や岩のゴツゴツした質感は、勢いのある筆の順法(対象の量感や質感を表現するために特徴的な筆の運びを用いる技法)によって表現されています。この細部描写と大局的な迫力の両立は、永徳が「細画」と「大画」という異なる技法を融合させ、リアリズムとダイナミズムを同時に追求していたことを示しています。この多才な表現力が、作品に多層的な魅力を与えています。   



金碧障壁画の極致:金箔と限られた色彩の調和


本作品は、画面全体に金箔を貼り付けて描く「金碧障壁画」の代表例であり、その豪華絢爛さは桃山美術の極致を示しています。描かれているモチーフは檜、岩、群青の水面のみに限定され、色数が少なく整理されています。この色彩の抑制が、かえって檜の力強い存在感を際立たせ、見る者にいっそう強く迫ってくるような効果を生み出しています。   


金色の背景は、単なる装飾以上の意味を持ちます。当時の城郭や邸宅の室内は光源が限られており、金地は光を反射・拡散することで空間を明るく豪華に見せる実用的な機能も兼ね備えていました。また、金は権力や富の象徴であり、天下人たちの威信を視覚的に表現する上で不可欠な要素です。永徳は、この金地を背景に力強い檜を描くことで、自然の生命力と権力者の豪壮さを重ね合わせる象徴的な表現を確立しました。金色の雲は緩やかな曲線を描き、顔料で描かれた青い水や緑の岩と色彩的なコントラストをなし、画面に奥行きと広がりを与えています。このように、限られた色彩と金箔を巧みに組み合わせることで、永徳は視覚的なインパクトと象徴的な意味合いを両立させました。   



「恠恠奇奇」と評された桃山時代の美意識


江戸時代に出版された狩野永納の『本朝画史』では、本作にみられる幹や岩の黒々と引かれた墨線の際立つ筆勢の絵画表現を「恠恠奇奇(かいかいきき)」と評しています。この評価は、従来の日本画には見られない、奔放で力強い表現が当時の人々にとって異様でありながらも、同時に強い魅力を放っていたことを示しています。   


「恠恠奇奇」という表現は、戦国時代から桃山時代へと移り変わる激動の時代において、旧来の秩序や美意識が揺らぎ、より大胆で力強い新たな表現が求められた時代精神を反映しています。天下統一を目指す武将たちは、自らの権力と威厳を誇示するため、壮大で豪華な空間装飾を求めました。永徳の作品は、彼らが愛した豪壮華麗な美意識を具現化し、その時代の精神を色濃く映し出しています。この作品が持つ「異様さ」は、まさに桃山時代の革新性とエネルギーの象徴であり、美術批評が単なる技術論に留まらず、それが生まれた時代の文化的・社会的な背景と深く結びついていることを示しています。   



第四章:美術史における《檜図屏風》の評価と影響



永徳の代表作としての位置づけと重要性


《檜図屏風》は、狩野永徳の最晩年の作品であり、豪壮な「大画様式」を最もよく示す代表作の一つとして高く評価されています。永徳が織田信長や豊臣秀吉といった天下人のために手がけた大規模な障壁画の多くは、彼らの居城の焼失とともに失われました。現存する永徳の真筆作品が10点ほどと比較的少ない中で、本作品は桃山前期障壁画の貴重な遺例として極めて価値が高い。   


美術史家からは、この作品が持つ勢いのあるモチーフの形状と画面内における配置、そして筆致による質感の再現的描写など、様々なレベルで16世紀末における狩野派絵画の到達点を示す作品であると評価されています。最晩年作であるという事実は、永徳の芸術が円熟期に達し、その画業の集大成として生み出されたことを示唆しており、その後の狩野派の発展に与えた影響を考える上でも極めて重要です。この作品の希少性と制作時期は、その美術史的価値を一層高める要因となっています。



後世の日本画壇、特に琳派への影響


永徳が確立した豪壮華麗な障壁画様式や「大画表現」は、狩野派の内部に留まらず、当時の画壇全体に大きな影響を及ぼしました。その影響は、後の日本画壇、特に琳派の画家たちにも及び、琳派の祖とされる俵屋宗達の作品、例えば《槇檜図》などにも、永徳の豪放な画風や金地濃彩の表現が影響を与えた可能性を伺えます。   



主要な美術史家による論考と批評


《檜図屏風》は、現代の主要な美術史家によってもその多面的な価値が高く評価されています。辻惟雄や山下裕二といった著名な美術史家は、永徳の作品、特に《檜図屏風》の重要性について深く論じています。   


辻惟雄は、永徳の「大画」と「細画」の対比に言及し、《檜図屏風》のような豪放な絵と『上杉本洛中洛外図屏風』のような細密な絵が同一作者によるものであることに注目しており、《檜図屏風》を「まるで抽象絵画のような屏風絵」であり、「デザイン性も優れている」と評しています。この評価は、作品が時代を超えた普遍的なデザイン性や構成力を持っていることを示唆しており、単なる歴史的遺産としてだけでなく、現代の視点から見ても革新的で魅力的な芸術作品として再評価されていることを意味します。   


また、山下裕二は、永徳の作品の「力強さ」や「繊細さ」を評価し、その審美眼は「独特でありながら一貫性がある」と述べています。これらの美術史家による批評は、作品の多層的な解釈を可能にし、その芸術的深淵を浮き彫りにします。専門家の評価を引用することは、本報告の信頼性を高めるだけでなく、作品が現代においてもなお、鑑賞者や研究者に新たな問いを投げかけ、美術史におけるその位置づけを再考させる普遍的な力を持つことを示しています。   



結章:《檜図屏風》が語りかけるもの


狩野永徳筆《檜図屏風》は、その豪壮な構図、金地濃彩の表現、そして画面いっぱいに広がる生命力溢れる檜の描写を通じて、安土桃山時代の武将たちが愛した力強く華やかな美意識を現代に伝える、比類なき傑作です。この作品は、永徳の最晩年の画業の集大成として、永徳の確立した「大画様式」の到達点を示しています。同時に、その後の日本画壇、特に琳派などの装飾様式に与えた影響は計り知れず、日本美術史における永続的な価値を持ちます。   


《檜図屏風》は、戦乱の世を生き抜いた天下人たちの力強い精神性と、それを視覚的に表現しようとした永徳の芸術的挑戦が凝縮された作品です。この作品が持つ「恠恠奇奇」と評された異様さや、金碧障壁画としての機能美は、桃山時代の特異な文化を最も純粋な形で示しています。永徳は、当時の権力者たちの要請に応えつつ、自身の画力を最大限に発揮し、豪放な大画様式と緻密な細画様式という二面性を持ち合わせることで、日本美術の表現の幅を大きく広げました。   


また、2013年の大規模修理は、作品の物理的な保存に貢献しただけでなく、絵の具の剥落から元の色彩が明らかになるなど、永徳の当初の意図に関する新たな知見をもたらしました。これは、美術作品が単なる過去の遺産ではなく、時間とともに変容し、現代においても鑑賞者や研究者に新たな問いを投げかけ、その位置づけを再考させる普遍的な力を持つことを示しています。   


《檜図屏風》は、単なる絵画作品としてだけでなく、桃山時代の政治、文化、美意識が交錯する歴史的文脈を理解するための重要な鍵となり、その雄大な表現は、現代を生きる私たちにも、力強い生命力と時代を切り開くエネルギーを語りかけ続けているのです。




参考













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