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幕末期に渡来した植物の図譜:新渡花葉図譜

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 2024年6月20日
  • 読了時間: 11分

更新日:6月15日



時を超えて咲き誇る、知と美の花々


日本の四季折々の美しさは、古くから人々の心を捉え、その感性は花卉や園芸文化として結晶してきました。庭園に込められた哲学、いけばなに息づく精神性、そして一輪の花に宿る生命力。これらは単なる装飾を超え、日本人の自然観そのものを映し出しています。私たちは、この豊かな文化の奥深さに、どれほど気づいているでしょうか。   


本稿では、江戸時代中期に尾張藩士・渡辺又日菴によって描かれた稀有な植物図譜、『新渡花葉図譜』に光を当てます。この画譜は、当時の人々の植物への深い眼差し、知的好奇心、そして卓越した写実表現が融合した、まさに「植物の肖像」と呼べるものです。単なる過去の遺産ではありません。これは、日本の花卉・園芸文化が持つ普遍的な魅力の具体的な証拠として、現代の私たちに日本の自然観や美意識の本質を再認識させる「窓」の役割を果たします 。その精密な描写と背後にある知的好奇心は、時代や文化を超えて共感を呼び、「生命の美と多様性の不思議」を伝えてくれるでしょう。   



1. 『新渡花葉図譜』とは:異国の花々が織りなす、江戸の知の結晶


『新渡花葉図譜』は、尾張藩に仕えた武士、渡辺又日菴によって精緻に描かれた植物図譜です。この図譜の特筆すべき点は、当時の日本に新しく渡来した珍しい植物たちの姿を、極めて精緻かつ色彩豊かに記録していることです。単なる植物の分類や記録に留まらず、その一つ一つの美しさや特徴を芸術的な視点から捉え、後世に伝える貴重な資料としての価値を確立しています。   


本図譜は乾・坤の2冊構成で、合計130種以上の植物が収録されています。天保末年(1840頃)から明治3年(1870)にかけて、実に30年もの歳月をかけて作成されました。特に注目すべきは、多くの植物に渡来年や尾張藩への導入経路が詳細に注記されている点です。これは、厳格な鎖国体制が敷かれていた江戸時代において、植物という形で海外の情報や文化がどのように流入し、流通していたかを示す具体的な歴史的証拠となります。例えば、遣米使節(1860)や遣欧使節(1862)が持ち帰った植物種子の記録も含まれており、当時の日本の対外関係や情報収集のネットワークの広がりを物語っています。さらに、36品もの植物が本書に初出として記録されていることは、当時の植物学研究における本図譜の先駆的な役割を示しています。   


『新渡花葉図譜』は、科学的な正確さと卓越した芸術性を兼ね備えています。植物の形態を正確に描写することに努め、花や葉の細部まで丁寧に描き込む写実性と、鮮やかな色彩で植物の色彩を忠実に再現する彩色の豊かさは、又日菴が単なる記録者ではなく、優れた画家であったことを物語っています。これは、江戸時代の本草学が西洋の近代科学のように厳密に「科学」と「芸術」を分離するのではなく、両者を一体として捉え、自然の真理を探求しようとした姿勢の表れと言えるでしょう。知の探求が美の追求と不可分であった、当時の日本独自の学問観、美意識がこの図譜には凝縮されています。現在、本図譜は植物学者・伊藤篤太郎の母である小春(伊藤圭介の五女)に転写された写本として現存し、その価値を現代に伝えています。   



2. 尾張藩士・渡辺又日菴の足跡と時代背景:知的好奇心が花開いた江戸中期



2.1 多才な武士、渡辺又日菴の生涯


『新渡花葉図譜』の作者である渡辺又日菴、本名・規綱(のりつな)は、尾張藩の家老を務めた武士でした。寛政4年(1792)、三河国奥殿藩主・松平乗友の次男として江戸で生まれ、享和2年(1802)には叔父である渡辺綱光の養子となり名古屋へ移り住みました。文化元年(1804)に家督を相続し、尾張藩の重臣として藩政に携わりました。   


又日菴の生涯は、武士としての職務に留まらない多才な顔を持っていました。文政2年(1819)に隠居した後、天保6年(1835)には出家して又日庵と号し、茶道に深く傾倒しました 。彼の実弟は裏千家11代玄々斎精中宗室であり、又日菴自身も茶道界に大きな影響を与えたことが窺えます。さらに、彼は自邸に窯を築き、京都の楽吉左衛門(了入)や常滑の上村白鴎を招いて楽焼を始めるなど、文化人としての側面も持ち合わせていました 。彼のこうした活動は、江戸時代の武士階級、特に上級武士の間で「文武両道」の理想がどのように具現化されていたかを示唆しています。彼らは単に軍事や行政の職務を果たすだけでなく、学問や芸術を深く探求することで、人間としての教養と品格を高めようとしたのです。又日菴の生涯は、知的な探求と芸術的創造が、当時のエリート層の生活において不可欠な要素であったことを物語っています。明治4年(1871)に80歳で死去するまで、彼はその生涯を通じて知的好奇心と芸術的探求心を失うことはありませんでした。   



2.2 鎖国下の知の探求:本草学と園芸文化の隆盛


渡辺又日菴が生きた江戸時代中期は、鎖国政策が敷かれていたにもかかわらず、長崎出島を通じて海外の珍しい文物が流入し、本草学(植物学)が盛んに研究されていた時期と重なります。この時代、本草学は薬用植物の同定という実用的な目的を超え、観賞用植物への関心も高まり、園芸文化が花開きました。   


当時の本草学の発展を示す重要な植物図譜は他にも存在します。例えば、岩崎灌園の『本草図譜』は、我が国初の本格的彩色植物図譜として知られ、西洋の植物学、特にリンネの分類法の影響を受けていたことが示唆されています。また、島田充房・小野蘭山の『花彙』も、蘭学の興隆とともに、より精密な観察と記録に基づいた植物図譜が求められるようになった時代の潮流を反映しています。これらの事例は、鎖国が完全に外部との接触を断絶していたわけではなく、限定的ながらも海外からの情報や実物が日本にもたらされ、それが国内の学問の発展に刺激を与えていたことを示しています。又日菴の『新渡花葉図譜』は、この限られた情報流入の中で、いかに日本の学者が外来の知識を取り入れ、独自の形で消化・発展させていったかを示す具体的な事例であり、当時の日本の学術界の柔軟性と探求心を浮き彫りにしています。   



2.3 新渡来植物との出会い:図譜制作への情熱


『新渡花葉図譜』が制作された背景には、当時の日本における異国の植物への強い関心がありました。鎖国下であっても、貿易を通じて様々な珍しい植物が日本にもたらされ、それらは知識人や好事家の間で大きな話題となりました。又日菴は、これらの新渡来植物を実際に目にし、その形態や色彩に深く魅了されたと考えられます。彼は、これらの植物が持つ異国情緒と、日本の風土に根ざした在来種とは異なる美しさを、正確かつ美しく記録することを使命と感じたのでしょう。   


当時の本草学の発展に貢献したいという学術的な動機や、自身の画才を活かしたいという芸術的な欲求も、図譜制作の大きな原動力となりました。又日菴が自ら植物を栽培し、観察記録を残していたという事実も、彼の深い探求心と情熱を裏付けています。彼の活動は、本草学が単に薬草の同定という実用的な目的から、植物そのものの美しさや多様性を鑑賞し、栽培するという美的・文化的な側面へとその範囲を広げていったことを象徴しています。科学的探求と美的鑑賞が融合し、江戸時代の園芸文化が単なる流行を超えて、より深い学術的・芸術的基盤を得ていたことが、又日菴の仕事から見て取れるのです。   



3. 『新渡花葉図譜』が映し出す日本の精神性:自然への敬意と美意識の結晶



3.1 異文化受容と知の探求心:開かれた江戸の眼差し


『新渡花葉図譜』に込められた意義の一つに、当時の日本人が持っていた旺盛な知的好奇心と、異文化への柔軟な受容性が挙げられます。鎖国という時代背景の中で、海外から渡来する植物を積極的に受け入れ、その姿を詳細に記録しようとした渡辺又日菴の姿勢は、単に珍しいものを集めるだけでなく、それを深く理解し、自国の知識体系に組み込もうとする精神性の表れです。   


江戸時代後期には蘭学が興隆し、西洋の植物学の影響が、より精密な観察と記録を求める潮流を生み出していました。同時代の『本草図譜』がリンネの分類法を取り入れていることからも、西洋の自然科学が本格的に日本に紹介されつつあったことがわかります。『新渡花葉図譜』は、西洋的な「正確な描写」と日本の伝統的な「美的表現」を融合させている点で、明治期に盛んになる「和魂洋才」(日本の精神と西洋の学術・技術の融合)の思想が、既に江戸時代後期の本草学や芸術の分野で萌芽していたことを示唆しています。これは、単なる模倣ではなく、日本の文化が持つ柔軟性と適応能力の証であり、知の探求が国境を超えて行われていたことを示しています。   



3.2 生命への深い眼差しと共生の思想:植物に宿る生命の輝き


図譜に描かれた植物たちは、それぞれが持つ生命力や美しさを最大限に引き出すように、細部にわたって丁寧に描写されています。これは、自然界のあらゆる生命に対する深い敬意と、人間が自然と共生していくという日本の伝統的な思想が根底にあることを示唆しています。又日菴の眼差しは、単なる観察ではなく、対象への愛情と畏敬の念に満ちており、植物一つ一つに宿る生命の輝きを捉えようとする日本人の感性が浮き彫りにされています。   


この思想は、日本の庭園文化やいけばなの精神性にも通じるものです。日本の庭園は、単なる美しい風景の配置に留まらず、自然との調和を促し、見る人に安らぎと瞑想の機会を与えます。いけばなもまた、仏前の供花や神を招く依り代といった古来の習俗に起源を持ち、草木に寄せる日本独特の思いがその発展の背景にあります。華道では、花を通じて自然のサイクルを感じ、生命の尊さや儚さを実感することが重視されます。『新渡花葉図譜』は、描かれた植物一つ一つに生命の輝きや神秘を見出そうとする、日本人の根源的な自然観と共生の哲学を視覚的に表現しており、科学的な探求が精神的な深みと結びついていた、日本独自の知のあり方を示しています。   



3.3 科学と芸術の融合:日本独自の美意識の表現


『新渡花葉図譜』は、科学的な正確さだけでなく、卓越した芸術性も兼ね備えています。色彩の豊かさ、構図の妙、そして筆致の繊細さは、又日菴が単なる記録者ではなく、優れた画家であったことを物語る証拠です。当時の日本人が、自然の中に普遍的な美を見出し、それを芸術として昇華させようとした美意識が、この図譜には凝縮されています。植物の姿を通して、生命の神秘や宇宙の秩序を感じ取ろうとする、日本独自の哲学的な美意識が表現されているのです。   


江戸時代には、『本草図譜』や『花彙』、『植物写生図帖』など、多くの植物図譜が制作されました。これらの図譜は、単なる学術的な記録に留まらず、「植物の肖像」として、いかに芸術性を追求していたかを示しています。『新渡花葉図譜』もその一つであり、科学的観察と美的表現が見事に融合した、日本独自の植物画の伝統を象徴する作品と言えるでしょう。   



3.4 時を超えて語り継がれる価値:現代への継承と教育的意義


この図譜は、当時の貴重な植物情報を後世に伝えるだけでなく、植物学や園芸文化の発展に寄与する教育的価値も持ち合わせています。現代においても、当時の植物相を知る上で重要な資料であり、また、江戸時代の絵画技術や本草学のレベルを示す貴重な文化財となっています。   


『新渡花葉図譜』は、単なる過去の遺物ではありません。渡辺又日菴の情熱と探求心が、時を超えて現代にまでその価値を伝え、現代の私たちに日本の自然観や美意識の本質を再認識させる「窓」の役割を果たしています。この図譜は、科学史、美術史、文化史、そして思想史の各方面から研究対象となる複合的な文化財であり、又日菴の個人的な情熱が、時代を超えて多岐にわたる分野に影響を与え続ける、その継承性と教育的意義の深さを物語っています。その精密な描写と背後にある知的好奇心、そして自然への敬意を通じて、現代の私たちにも通じる普遍的な美意識と、自然との共生を求める日本文化の本質を伝えているのです。   



結び


『新渡花葉図譜』は、尾張藩士・渡辺又日菴という一人の武士が、旺盛な知的好奇心、自然への深い敬意、そして卓越した芸術的才能を融合させて生み出した、日本の花卉・園芸文化の奥深さを象徴する傑作です。   


この図譜は、単なる植物の記録を超え、江戸時代の知の探求、異文化受容の精神、そして自然との共生という日本の根源的な精神性を現代に伝える貴重な「窓」として機能しています 。私たち日本花卉文化株式会社は、この『新渡花葉図譜』を通して、日本の花卉文化が持つ普遍的な美と哲学、そして生命への深い眼差しを再発見する旅へと皆様を誘いたいと願っています。この古き良き時代の花々が、現代を生きる私たちの心にも、新たな発見と感動をもたらしてくれることでしょう。    





渡邉又日庵 撰『新渡花葉圖譜』,伊藤小春写,1914. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2607706





渡邉又日庵 撰『新渡花葉圖譜』,伊藤小春写,1914. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2607706






参考/引用





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