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幕末・明治期の博物学者田中芳男の植物学への貢献:近代日本の農業と博物学の礎を築いた生涯

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 5月26日
  • 読了時間: 18分

更新日:5月29日


田中芳男肖像 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/) 田中芳男君七六展覧会記念誌 大日本山林会 1913
田中芳男肖像 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/) 田中芳男君七六展覧会記念誌 大日本山林会 1913


はじめに:近代日本の夜明けと博物学者・田中芳男


田中芳男(1838-1916)は、幕末から明治、大正という激動の時代に活躍した傑出した博物学者であり、日本の近代化に多方面から貢献した人物である。信濃国(現在の長野県)飯田に生まれ、79歳でその生涯を閉じた。広く「日本の博物館の父」として知られる田中であるが、本稿では田中芳男の多岐にわたる功績の中でも、特に植物学への貢献に焦点を当て、その詳細を深く掘り下げる。


田中芳男の活動期間は、鎖国が解かれ、西洋の科学技術や社会システムが急速に導入され、日本が近代国家へと変貌を遂げる時期と同期していた。この時代において、「博物学」は単なる学術的探求に留まらず、国家の「殖産興業」(産業育成)という実用的な目標と強く結びついていた。のキャリアパス、すなわち蕃書調所での物産学研究から始まり、万国博覧会への参加、そして明治政府での農商務省勤務へと進んだ経緯は、まさに当時の国家的な要請に応えるものであった。氏が植物学に深く関わったのは、植物が食料、繊維、医薬品など、国家の富を増やすための直接的な資源であったためである。このことから、氏の貢献は単なる学術的探求に留まらず、国家戦略の一環として位置づけられる。氏の植物学への貢献は、個人の学術的興味から生まれたものだけでなく、当時の日本の国策、すなわち富国強兵・殖産興業を推進するための不可欠な要素であったと言える。氏の活動は、科学知識が国家の発展に直接貢献するという近代国家の理念を体現していた。


田中芳男は「博物学者」と称されるが、その活動は植物学、動物学、鉱物学といった多岐にわたる分野に及んでいた。しかし、主著が『有用植物図説』であり、新種植物の導入や品種改良に特に注力した点を見ると、氏の博物学の中でも「植物」が中心的な位置を占めていたことがわかる。これは、江戸時代の「本草学」が持つ広範な対象(薬用植物、鉱物、動物など)から、近代的な「植物学」という専門分野へと移行する過渡期における、氏の役割を示唆している。広範な博物学の知識を基盤としつつも、特に有用植物という実用的な側面から、近代植物学の応用分野を切り開いたと言える。田中芳男の「博物学者」としての活動は、近代科学が専門分化していく過程において、従来の「本草学」の枠組みを実用的な「応用植物学」へと発展させた先駆的な役割を担っていた。氏の貢献は、単なる知識の収集ではなく、それを社会の発展に結びつける「実学」としての植物学の確立に寄与したのである。



東京大学デジタルアーカイブポータブル

農学生命科学図書館コレクション

有用植物図説




第一章:本草学から近代植物学へ:田中芳男の学術的基盤


田中芳男は天保9年(1838)に医師の三男として誕生した。幼少期から読書に親しむだけでなく、山野草からエキスを抽出したり、化学薬品を自製したりするなど、実践的な活動に早くから関心を示していた。こうした幼少期の経験が、後の博物学者としての素養を培ったと考えられる。

18歳になった安政3年(1856)、田中は名古屋へ赴き、洋学の大家であり本草学の権威であった伊藤圭介(1803-1901)に師事した。伊藤圭介は名古屋の本草学の中心的人物であり、来日時のシーボルトとも交流があった大学者であった。伊藤のもとで医術よりも本草学に傾倒し、その基礎から実地の採薬までを本格的に修得した。わずか3年間の修行であったが、この時期から氏は後の膨大な資料集となる『捃拾帖』の第1冊目の作成を始めている。


文久元年(1861)、幕府の洋学研究機関である蕃書調所(後の開成所)に物産学出役として出仕し、海外から送られてきた植物類の試験栽培や国内の産物調査を担当した。師である伊藤圭介が辞職・帰郷した後も、氏は他の物産方要員と共に業務を継続し、フランスの蔬菜や樹木の種子110種の播種、落花生、馬鈴薯、菊芋、亜麻、カミツレなど、多岐にわたる有用植物の試作を行った。特に菊芋に関しては、アメリカ人が食用にしていたものが日本に伝わった際、洋書を調べて「球根向日葵」と呼ばれる球根植物であることを知り、自ら「菊芋」と命名したというエピソードが残されている。


慶応3年(1867)、幕府の要員としてパリ万国博覧会に派遣され、日本の出品物の輸送と展示を担当するために渡仏した。万博開催中の約10ヶ月間、氏は会場を巡るだけでなく、現地の植物園や博物館を精力的に訪れ、知見を広めた。この滞在中、特に海外の種苗商から、日本の気候に適した有用植物の種子や苗を積極的に購入し、日本に持ち帰ったことが「経歴談」に記されている。明治維新後も、ウィーン万国博覧会(1873)やフィラデルフィア万国博覧会(1876)に事務官として派遣され、西洋の最新知識を吸収し、日本の文化や産業を紹介する役割を担った。これらの海外での経験は、氏の博物学研究に国際的な視点をもたらし、近代国家建設における植物の重要性を再認識させる決定的な契機となった。


田中芳男が伊藤圭介に師事し、本草学を学んだことは伝統的な日本の自然認識を深く理解していたことを示す。しかし、幕府の蕃書調所における「物産学」への従事や、海外万博での経験を通じて西洋の「博物学」に触れたことは、単なる本草学者に留まらず、実用性や分類学を重視する近代的な博物学へとその視点を広げたことを意味する。特に、海外の種苗商から積極的に植物を収集した行為は、知識の収集だけでなく、その応用と実用化を強く意識していた証拠である。このことから、田中芳男は、江戸時代から続く本草学の伝統を継承しつつも、開国後の国際的な知識交流を通じて、それを近代的な応用植物学へと発展させた重要な人物であったと言える。氏の学術的基盤は、伝統と革新の融合の上に成り立っていたのである。


複数回にわたり万国博覧会に派遣されたことは、単なる展示担当者ではなく、日本の近代化に必要な「新知識」や「有用植物」を積極的に探求するミッションを帯びていたことを示唆する。氏が植物園や種苗商を訪れ、植物を買い入れたという記述は、博覧会が単なる文化交流の場ではなく、具体的な技術や資源の導入窓口として機能していたことを明確に示している。これは、明治政府が「殖産興業」を国是とする中で、いかに海外の知識を貪欲に吸収しようとしていたかという、当時の国家戦略の側面を浮き彫りにする。万国博覧会は、田中芳男にとって、そして近代日本にとって、単なる文化イベントではなく、西洋の先進的な農業技術や有用植物を直接的に学び、導入するための重要な「学習と導入のプラットフォーム」であった。氏の活動は、日本の農業技術の飛躍的な発展に不可欠な基盤を築いたのである。



東京大学デジタルアーカイブポータブル

田中芳男・博物学コレクション

捃拾帖



第二章:有用植物の導入と品種改良:日本の農業近代化への貢献


田中芳男は、キャベツ、落花生、タマネギ、白菜など、現在日本の食卓に欠かせない多くの農作物の導入を手がけた中心人物である。氏の手によって、これらの導入作物のほとんどが日本の土に植えられ、全国に広まっていった。蕃書調所時代から、フランスの蔬菜や樹木の種子110種の播種、落花生、馬鈴薯、菊芋、亜麻、カミツレの試作など、多岐にわたる試験栽培を行った。特に菊芋は、アメリカ人が食用にしていたものを日本に導入し、自身が「菊芋」と命名したという逸話がある。さらに、1883年には沖縄県八重山に赴き、キニーネの栽培試験のために調査を行い、その開発を建議した。


田中とリンゴの関わりは慶応元年(1865)に始まる。当時、巣鴨の福井藩邸に遣米使節が持ち帰ったリンゴ樹があったが、その枝を譲り受け、在来種に接ぎ木を試みた。これは我が国におけるリンゴ接ぎ木の第1号とされている。明治期には農商務省に出仕し、現在の新宿御苑に設けられた試験場で農作物の導入と増殖を継続した。明治8~9年には米国から苗木を取り寄せ、増殖した2万本の苗木を東北・長野などに配布し、我が国のリンゴ栽培の本格的な源流を築いた。農務局長時代には、青森県に出張した際、我が国に侵入したばかりのリンゴワタムシを発見し、即座に防除を指示するなど、単なる官僚に留まらない技術者としての実践的な側面も発揮した。


田中芳男自身が育成したビワの品種「田中ビワ」は、現在でも根強い人気を維持し、現存する。明治21年(1888)からは品種として全国に普及し、その特徴は実の大きさにある。平成6年(1994)現在、田中ビワの栽培面積は第2位を占めるほどである。この品種は、田中が長崎で食べたビワを持ち帰り、自宅で栽培したことが始まりとされており、現在も愛媛県や千葉県等で栽培されている。


植物学への貢献は、単に植物を分類・記述する「博物学」の範疇に留まらず、海外から導入した有用植物を日本の土壌や気候に適応させ、品種改良を通じて「産業」として確立させるという、明確な「応用農学」の視点を持っていた。リンゴやビワの事例は、氏の活動が学術研究だけでなく、具体的な農産物の生産性向上と国民の生活改善に直結していたことを示している。これは、明治政府の殖産興業政策と完全に合致しており、氏の専門知識が国家の発展に直接貢献した典型例である。このことから、田中芳男は、近代日本の農業の「文明開化」を主導した人物であり、氏の植物学研究は、単なる科学的探求ではなく、国家の経済基盤を強化するための戦略的な実学であったと言える。氏は、新しい知識を社会に実装する「イノベーター」としての役割を担っていた。


農商務省農務局長という要職にありながら、青森県でリンゴワタムシを発見し防除を指示した逸話や、自ら「田中ビワ」を育成したことは、氏が単なる官僚や学者ではなく、現場の課題を解決し、具体的な成果を生み出すことに情熱を燃やす「根っからの技術者」であったことを示している。この実践的な姿勢が、氏の導入した植物や改良品種が日本全国に普及し、定着する上で極めて重要であったと考えられる。田中芳男の成功の要因の一つは、理論と実践を兼ね備えたその稀有な才能にあった。氏の技術者としての視点が、机上の空論に終わらせず、日本の農業に具体的な変革をもたらす原動力となったのである。



表:田中芳男が導入・改良に貢献した主要植物

植物名(和名)

導入・改良時期

具体的な貢献内容

現在の影響

リンゴ

慶応元年(1865年)〜明治8-9年

在来種への接ぎ木(日本初)、米国からの苗木導入・増殖、東北・長野への配布、リンゴワタムシの防除指示

我が国のリンゴ栽培の源流となる

田中ビワ

明治21年(1888年)〜

長崎のビワから大型品種を選抜・育成

現存し、栽培面積第2位(平成6年現在)を占める人気品種

キャベツ

幕末〜明治期

日本への導入と普及の中心人物

現在日本の食卓に不可欠な農作物

落花生

元治元年(1864年)〜

蕃書調所での試験栽培と普及

現在日本の食卓に不可欠な農作物

タマネギ

幕末〜明治期

日本への導入と普及の中心人物

現在日本の食卓に不可欠な農作物

白菜

幕末〜明治期

日本への導入と普及の中心人物

現在日本の食卓に不可欠な農作物

菊芋

元治元年(1864年)〜

蕃書調所での試験栽培、自ら「菊芋」と命名

-

亜麻

慶応元年(1865年)〜

蕃書調所での試作、繊維を取り出して布を織る試み

-

カミツレ

慶応元年(1865年)〜

蕃書調所での試作

-

キニーネ

1883年〜

沖縄県八重山での栽培試験と開発建議

-

オリーブ

明治期

試作・紹介

-

チューリップ

明治期

試作・紹介

-



第三章:著作活動と知識の普及:植物学情報の体系化


田中芳男の主著である『有用植物図説』は、氏が監修した植物図譜である。この図譜は、図譜3冊、解説3冊、目録索引1冊の合計7冊で構成され、明治24年(1891)に大日本農会から刊行された。本著作は、当時の日本の有用植物に関する知識を体系的にまとめたものであり、近代農学の普及と発展に大きく貢献した。

『有用植物図説』以外にも、田中は植物学に関する多くの著作や資料作成に携わった。例えば、『新撰日本物産年表』には、物産方での試験栽培や培養の具体的な記録が記されている。フランスの蔬菜や樹木の種子110種の播種、元治元年(1864)の落花生・馬鈴薯・菊芋などの栽培、慶応元年(1865)の亜麻やカミツレの試作などが詳細に記述されている。

また、物産方で作成された図譜である『海雲楼博物雑纂』にも田中芳男が関与しており、前述の菊芋や亜麻の試作がこの図譜にも公式に記録されている。この図譜は、伊藤圭介の専門外であった小動物や海洋生物なども含まれており、当時の博物学者の広範な研究姿勢をうかがわせる。図だけでなく、和名、リンネ分類名、ラテン名、オランダ名、植物の発芽時期、葉の形、花、結実状況など、詳細な調書が作成されていたことも特筆される。


慶応2年(1866)12月11日に英国船エゾフ号に乗船しフランスへ出航した際の詳細な記録である『博覧会日記』も、氏の植物学への関心を示す重要な資料である。この日記には、香港での草木や竹木、シンガポールでの熱帯植物(バナナを含む)、セイロンでの椰子類、エジプトでの砂地と草木の欠如など、氏が旅の途中で目にした自然物に関する記述が含まれている。この日記は、が物産方での活動を念頭に置いていたことを示し、国際社会の中で日本を見つけ直す目を養った様子がうかがえる。


さらに、田中芳男の生涯を象徴する資料として、約60年間の長きにわたり、催し物のチラシや商品ラベル、新聞の切り抜きなど、様々な紙片をスクラップした98冊にも及ぶ膨大な資料集『捃拾帖』がある。名古屋での修行時代、氏は先輩の雀庵からスクラップブックを見せられ、「本草を研究する者は産地を正さねばならない。産地を正そうとするには博聞多識でなくてはいけない」という教えを受け、情報収集の重要性を深く認識した。有用性・実用性を追求するためには、事物の関連情報を集約整理し、必要に応じて参照できるようにすることが必須であるという、田中の生涯を貫く信念がこの『捃拾帖』に反映されている。特に農林水産業方面の情報が多数収録されており、三田育種場販売の野菜の種の袋の画像なども含まれる。また、氏は立体物の表面の凹凸を模写する「搨写(フロッタージュ)」の技法も得意とし、菓子の現物や植物の葉、幹、断面などをこの技法で記録し、『捃拾帖』の随所に貼り込んでいる。これらの蔵書約6000冊とともに、東京大学に「田中芳男文庫」として保存されており、明治・大正期の殖産資料として極めて貴重である。



田中芳男文庫



田中芳男の著作活動は、単なる学術的記録に終わらず、『有用植物図説』という形で「有用植物」に焦点を当て、大日本農会から刊行したことは、知識を一般の農家や産業界に普及させ、実用化を促す強い意図があったことを示唆する。また、『捃拾帖』に見られる徹底した情報収集と整理は、氏が情報を「生きた資源」として捉え、いつでも活用できるように体系化しようとしていた証拠である。これは、情報が体系的に整備されていなかった近代化途上の日本において、新しい知識をいかに効率的に社会全体に広めるかという課題に対する、氏の実践的な回答であった。このことから、田中芳男は、単なる研究者ではなく、知識の「伝道者」であり「インフラ整備者」でもあったと言える。氏の著作活動は、近代日本の農業と産業の基盤となる知識体系を構築し、その普及を通じて社会全体のリテラシー向上に貢献したのである。

『捃拾帖』が約60年間にわたって作成され、チラシや商品ラベルといった「雑多な紙片」まで含まれていることは、田中芳男が当時のあらゆる情報を博物学の対象として捉え、その実用的な価値を見出そうとしていたことを示している。これは、情報が体系的に整備されていなかった時代において、個人の努力によっていかに広範な知識を収集し、整理していたかを示す貴重な事例である。また、氏が「搨写」という技法を用いて立体物を記録していたことは、当時の技術的制約の中で、いかに正確な情報を残そうと工夫していたかを示唆する。ゆえに、『捃拾帖』は、田中芳男の個人的な情報収集術の集大成であると同時に、幕末から明治にかけての日本の社会、経済、科学技術の変遷を映し出す「一次資料の宝庫」である。それは、近代博物学が単なる学問に留まらず、社会のあらゆる側面と結びついていたことを象徴している。



第四章:植物学教育と関連機関の設立:次世代への遺産


田中芳男は「日本の博物館の父」として知られ、町田久成とともに「博物館」という和製漢語の普及に貢献した。明治初期には、大学南校物産局の担当となり、町田の片腕として博物館建設に尽力、上野の博物館、動物園の創設に深く関与し、内国勧業博覧会審査官も歴任した。氏は博物館の設立を、博覧会や殖産興業の収集品を展示する施設として構想しており、実用的な知識の普及を重視していた。特に、日本最初の産業博物館である伊勢の神宮農業館の創立には多大な力を注ぎ、東京農業大学の前身である東京高等農学校に標本室を設置し、実物資料を重視した実学教育を推進した。


また、駒場農学校(1878年創立、後の東京大学農学部の前身)の設立に参画し、近代的な植物学教育の基盤を築いた。明治9年(1876)には東京農学校(後の東京大学農学部)の発案者の一人で、大日本農会(1881結成)、大日本水産会(1882創設)、大日本山林会(1882創設)といった、日本の農林水産業の振興を目的とした主要団体の創設に貢献した。氏はこれらの各会の顧問や大日本山林会の幹事長(後の会長)を長きにわたり務め、産業界に多大な貢献をした。大日本農会附属私立東京高等農学校(現在の東京農業大学の前身)の初代校長を務め、教頭の横井時敬と共に学校の研究と教育を大きく発展させた。標本室の設置、農場の拡大、養蚕舎や温室などの施設の充実、新校舎の落成など、学校整備に多大な貢献をした。


田中芳男は、牧野富太郎と親交があったことが知られている。牧野は田中より24歳年下であったが、師弟関係を超えて親しく交流し、手紙のやり取りが残っている。田中は牧野に対し、飯沼慾斎の『草木図説』の新訂版出版を懇願する手紙を送るなど、互いの学術活動を尊重し、協力関係を築いていた。田中の博物学、特に有用植物の実用化や産業応用への視点は、牧野のような純粋な植物分類学者とは異なるアプローチであり、日本の植物学が多角的に発展していく上で重要な役割を果たした。

田中芳男が町田久成と共に「博物館」という和製漢語を普及させ、東京国立博物館や上野動物園の設立に尽力したことは、西洋の「ミュージアム」の概念を日本に導入し、その基盤を築いたことを意味する。氏の博物館構想が「博覧会や殖産興業の収集品展示施設」として考えられていた点や、東京高等農学校に標本室を設置し、実物資料を重視した実学教育を推進したことは、博物学を単なる学術研究に留めず、国民への啓蒙、産業振興、そして次世代の育成という「実学」の視点から捉えていたことを強く示唆している。田中芳男は、資料を実際に触れながら学び、役立てることこそが実学であるという信念を持っていた。このことから、近代日本の「知のインフラ」を整備した先駆者であると言える。博物館や教育機関を通じて、西洋の科学知識を日本社会に根付かせ、応用することを可能にした。氏の活動は、知識の収集から知識の社会還元へと、博物学の役割を拡大させたのである。


田中芳男と牧野富太郎の交流は、明治期の日本の植物学が、多様なアプローチによって発展していたことを示している。田中は有用植物の導入や品種改良、産業振興に重きを置いた「応用植物学者」としての側面が強いのに対し、牧野は植物分類学や新種の発見に情熱を注いだ「基礎植物学者」としての側面が強い。両者の親交は、異なる専門性を持つ学者が互いを尊重し、協力し合うことで、日本の植物学全体が多角的に発展したことを示唆する。田中が牧野に『草木図説』の出版を懇願した逸話は、牧野の分類学的な知見を高く評価し、それが産業応用にも資すると考えていた可能性を示唆しており、基礎と応用の連携の重要性を浮き彫りにしている。この関係は、近代日本の植物学が、純粋な科学的探求と実用的な応用という二つの柱によって支えられていたことを象徴している。氏らの交流は、学術的な分業と連携が、学問全体の発展に不可欠であることを示唆する。



さいごに:田中芳男が日本の植物学にもたらした多角的影響


田中芳男は、幕末から明治にかけての激動期において、日本の植物学、ひいては近代日本の発展に多大な貢献を果たした。伝統的な本草学を深く理解しつつ、西洋の近代博物学、特に植物学の知識を積極的に導入し、日本の風土に適応させることで、応用植物学の分野を確立した。氏の活動は、単なる学術研究に留まらず、リンゴや田中ビワなどの有用植物の導入・改良、そしてその全国的な普及を通じて、日本の農業生産性の向上と国民生活の豊かさに直接貢献した。これは、明治政府の「殖産興業」政策の中核をなすものであり、日本の近代化に不可欠な基盤を築いたのである。


さらに、東京国立博物館や上野動物園といった日本の近代科学と文化の象徴となる機関の設立に尽力しただけでなく、駒場農学校(東京大学農学部)、大日本農会、大日本山林会、大日本水産会、そして東京農業大学の前身校の初代校長として、日本の農業教育と研究の基盤を整備した。また、『有用植物図説』や、約60年間にわたる膨大な『捃拾帖』といった著作活動を通じて、氏が収集した広範な知識を体系化し、次世代に継承する道を拓いた。これらの資料は、現代においても貴重な歴史的・科学的資料として、多くの研究者に利用されている。


田中芳男の生涯は、学問と実用、知識の収集と社会還元がいかに密接に結びついているかを示す好例である。単に知識を蓄積するだけでなく、それを社会の具体的な課題解決に応用することの重要性を体現した。氏の先見の明と実践力は、現代においても、持続可能な農業の発展や科学技術の社会実装を考える上で、重要な示唆を与え続ける。田中芳男は、激動の時代において、科学の力を信じ、それを国家と国民の幸福のために最大限に活用しようとした、真の近代日本のパイオニアであった。





参考









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