屏風に咲く墨の詩:鶴亭「花木図押絵貼屏風」に宿る禅と写実の美 参考図・伊藤若冲「花鳥図押絵貼屏風」
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「花木図押絵貼屏風」は、鶴亭(かくてい・1722-1785)の筆による絵画作品です 。江戸時代中期の明和4年(1767)に制作されたとされており 、これは鶴亭の活動時期の中期に位置する作品です 。技法は紙本墨画、すなわち水墨画による押絵貼屏風であり 、各扇に個別の水墨画が描かれ、それらが屏風の台紙に貼り付けられています。寸法は各図が縦133.0cm、横50.5cmで、六曲一双の形式で構成されており、合計12面の絵が連なります 。この貴重な作品は九州国立博物館に所蔵されています 。
屏風には、東洋画で伝統的に尊ばれる「四君子」(蘭、竹、菊、梅)に加えて、芭蕉、松、棕櫚、木蓮が組み合わされており、計12図からなる水墨の花木図が描かれています 。これらのモチーフは、それぞれが持つ象徴的意味合いを内包しています。例えば、松は長寿を、梅は雪を衝いて真っ先に花開き香りを放つことから清廉な文人の象徴とされ、竹は高潔さを、蘭は幽玄な美しさを表します 。これらの象徴性が作品全体の精神性を高めています。
鶴亭「花木図押絵貼屏風」
員数:6曲1双 作者:鶴亭筆 時代世紀:江戸時代 明和4年(1767) 品質形状:紙本墨画 法量 各図:縦133.0 横50.5 所蔵者:九州国立博物館 https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyuhaku/A141?locale=ja
「押絵貼屏風」の技法とその本作品における特異性
押絵貼屏風は、厚紙をくり抜き、その上に綿をくるんだ縮緬や金襴などの布の端切れを貼り合わせることで、立体的な絵を作り出す日本の伝統的な工芸技法です。江戸時代には、羽子板の装飾品として特に有名であり、その年の話題の人を題材にした「変わり羽子板」にもこの技術が使われています。また、夏の吉原で催された即興芝居「俄」の表現や、教訓的な物語を描いた「帝鑑図押絵貼屏風」のように、装飾性や物語性の高い用途で広く用いられました。その最大の特徴は、熟練の職人による緻密な作業から生まれる華やかさと、土台から飛び出すような立体感、そして繊細な表現にあります。
本作品が持つ顕著な特徴は、このような立体的な装飾技法である押絵貼屏風のフォーマットを用いながらも、色彩豊かな布地の押絵ではなく、各扇に描かれた水墨画(紙本墨画)を貼り付けて構成されている点です。これは、通常は華やかさや立体感を強調する押絵貼屏風の枠組みに、水墨画の持つ簡潔さ、精神性、そして余白の美学を融合させた、鶴亭独自の革新的な試みと言えます。水墨画は、すべてを描くのではなく無駄をそぎ落として描くことで、自然や人生の深さ、わび・さび、静寂、素朴さといった日本人の心に深く根付く美意識を表現します 。この形式の転用は、個々の花木が持つ象徴的意味合いをより際立たせ、鑑賞者の内省を促す効果をもたらしました。これは、華美な色彩や連続的な物語性ではなく、個々のモチーフの精神性や象徴性を深く探求する黄檗禅の思想と合致する表現様式であり、鶴亭がこの形式の持つ潜在的な可能性を最大限に引き出したことを示しています。
水墨画を用いた押絵貼屏風の例は、鶴亭以外にも見られます。例えば、伊藤若冲の「鶴図押絵貼屏風」(一部) や、岩井正斎の「十二ヶ月花鳥図押絵貼屏風」(大森寺蔵) 、相国寺蔵の「群鶏蔬菜図押絵貼屏風」 などがあります。これらの作品は、押絵貼屏風が個々の絵を独立させて見せる形式として、水墨画の表現にも適していたことを示唆します 。しかし、鶴亭の作品は、黄檗僧としての「墨戯(ぼくぎ)」の伝統と、沈南蘋派の写実性を水墨で表現する点で、他の追随を許さない独自性を持っています。
鶴亭(海眼浄光)の画業と背景
黄檗宗の僧としての生涯と長崎での活動
鶴亭は、江戸時代中期に長崎で生まれた黄檗宗の僧であり、僧としての本名を海眼浄光(または海眼浄博)と称しました。彼は長崎の聖福寺に籍を置き、絵画を深く嗜み、その才能を開花させました。長崎は、江戸時代において唯一の海外貿易港として、中国文化が直接的に流入する拠点であり、この地の特性が鶴亭の画業形成に決定的な影響を与えました。長崎を拠点としつつも、京都、大坂、さらには江戸へと進出し、その活躍の場を広げました。
沈南蘋・熊斐からの影響と南蘋派の画風
鶴亭は、享保16年(1731)に来日し、わずか2年間ながら日本画壇に絶大な影響を与えた清の画家・沈南蘋(しんなんぴん、1682-?)や、その直弟子である熊斐(ゆうひ、1712-1772)から画法を学んだとされています。
沈南蘋の画風は、墨線を用いずに直接色彩で形を勾勒する「没骨法」、鳥獣の徹底した写実的描写、華麗ながらも精緻な彩色、そして背景に淡い墨を施すことで空間の奥行きを表現する手法が特徴です。この革新的な画風は「写生正派」と称され、当時の日本画壇に新たな息吹をもたらし、それまでの主流であった狩野派や琳派に代わる、あるいはそれらと拮抗する主要な画派の一つとして台頭しました 。鶴亭は、この「南蘋風花鳥画」の新しい潮流を、長崎から京都や大坂といった文化の中心地へ初めてもたらした重要な画家と評価されています。
水墨画と彩色花鳥画の二面性
鶴亭の絵画様式は、大きく二つの系統に大別されます。一つは、沈南蘋や熊斐から直接学んだ、鮮やかで吉祥性に富む花鳥画です。もう一つは、黄檗僧としての修行に裏打ちされた、禅僧ならではの精神性を表現する力強く鋭い筆遣いの水墨の花木図です。「花木図押絵貼屏風」は、この水墨画の様式に属し、鶴亭の墨戯の側面を強く示しています。
鶴亭は、画風形成期において、黄檗宗の墨戯の伝統から出発し、その後熊斐に南蘋風花鳥画を学習したと想定されています。鶴亭の20代には、墨画と淡彩画を一つの画面に混ぜるような「墨彩没骨画法」を試みるなど、自己の画風を模索し、独自の表現を確立していった過程が見られます。この二面性は、鶴亭が異なる文化・芸術的要素を積極的に融合させ、自身の表現を創造していった過程を示唆しています。鶴亭の水墨花木図は、黄檗禅の精神性と南蘋派の写実的描写(色彩ではなく墨で表現された)が融合した結果であり、これが作品に独特の「奇体美」をもたらしたと考えられます。この融合能力こそが、彼が後世の画家、特に伊藤若冲に影響を与え得た基盤であり、江戸時代中期における絵画表現の多様化に貢献した重要な側面です。
黄檗僧の「墨戯」としての表現
黄檗宗は、中国明末清初の禅宗の一派であり、承応3年(1654)に隠元隆琦によって日本にもたらされました 。黄檗宗は、建築様式(赤く塗られた堂宇、黄檗天井など)や書体(明朝体)など、中国的な文化や美意識を日本に深く伝播しました 。絵画においても、中国南画や禅画の影響が色濃く見られ、特に「唐絵」と呼ばれる中国風の絵画が重視されました。
墨戯とは、禅僧が筆墨を用いて行う一種の精神的な表現であり、単なる絵画制作に留まらず、禅の思想や悟りの境地を筆致に込めることを重視するものです。鶴亭の「花木図押絵貼屏風」は、この黄檗宗の墨戯の伝統の上に成り立っており、その筆致には禅僧ならではの力強さと精神性が宿っています。
鶴亭の絵画世界は、隠元以来の黄檗文化が育んだ「奇体美」(奇妙で独特な美しさ、あるいは異形性)を源流としていると指摘されています。彼の作品には、放物線を描くようにしなやかな曲線や、明暗・陰陽の強い対比を意識した新しい試みが見られます。これは、沈南蘋や熊斐のオーソドックスな写生体花鳥画とは一線を画す、鶴亭独自の個性的世界を形成しており、彼の作品が持つ独特の魅力を生み出しています。
鶴亭が黄檗僧として墨戯を重視したことは、当時の日本画壇の主流(装飾性や様式美を重んじる狩野派や琳派、あるいは写実性を追求する円山四条派)とは一線を画す、中国禅宗由来の「文人画的」な価値観を追求していたことを意味します。この「反主流」的な立ち位置が、かえって既成概念に囚われない自由な表現を可能にし、伊藤若冲のような革新的な画家が影響を受ける土壌となったと考えられます。若冲もまた、特定の画派に属さず独自のスタイルを確立した画家であり、鶴亭の持つ自由闊達な精神性や実験的な姿勢に共鳴した可能性が高いと言えます。これは、江戸時代中期に多様な画風が生まれた背景の一端を説明する重要な視点です。
「花木図押絵貼屏風」の芸術的分析
水墨表現の特色と筆致の考察
本作品は、鶴亭が黄檗僧として得意とした水墨画の様式で描かれています。鶴亭の水墨画は、禅僧ならではの力強く鋭い筆遣いが特徴であり、これは「墨戯」としての精神的な表現に裏打ちされています。
描かれた花木は、四君子や芭蕉、松、棕櫚、木蓮といった、水墨画で伝統的に描かれるモチーフです。これらのモチーフは、鶴亭が好んだとされる「放物線を描くようにしなやかなカーブで伸びていく、曲線的な姿」で表現されている可能性が高く 、画面に独特の躍動感を与えています。
鶴亭の墨画には、輪郭線を用いない「没骨法」が用いられることがあります。この技法は、花や葉の重なりを形式化し、模様のような抽象的な美しさを提示する特徴があります。また、墨の濃淡や滲みを巧みに利用し、繊細さと大胆さを兼ね備えた表現が見られ、対象の質感や立体感を暗示しています。
花木の象徴的意味合いと吉祥性
屏風に描かれた四君子(蘭、竹、菊、梅)は、それぞれ高潔な人格や清廉さを象徴し、東洋の文人画において特に重んじられてきた画題です。これらは、厳しい環境下でも変わらぬ美しさや香りを放つことから、逆境に屈しない君子の徳になぞらえられました。松は長寿を、芭蕉は文人の隠遁生活や風流を象徴するなど、各花木には伝統的な吉祥的意味合いや文人趣味が込められています。これらのモチーフの組み合わせは、単なる植物の描写に留まらず、鑑賞者に対して精神的なメッセージや、理想的な生活環境、あるいは高潔な生き方を暗示していると考えられます。
黄檗絵画における本作品の芸術的意義
本作品は、鶴亭が黄檗僧としての墨戯の伝統を継承しつつ、沈南蘋派から学んだ写実性と構成力を水墨画に応用した、彼の画業における重要な作例です。押絵貼屏風という装飾的な形式に水墨画を組み合わせたことは、当時の日本画壇における新たな試みであったと言えます。これにより、各扇が独立した構図を持ちながらも、屏風全体として統一された花木の世界を表現し、見る者に静謐な鑑賞体験を提供します。
鶴亭の作品は、水墨画の持つ簡潔な筆致で対象の本質を捉える精神性(わび・さび、静寂)と 、黄檗宗由来の「奇体美」が融合した独自の美意識を示しています。この融合は、当時の主流派とは異なる、新鮮な表現を生み出しました。鶴亭の作品は、単なる写実主義に留まらず、黄檗禅の思想に根ざした「奇体美」という独特の美的感覚が加わることで、対象を単に模写するのではなく、その本質や生命力を異化された形で表現しています。これは、沈南蘋派の写実性と黄檗の墨戯の融合から生まれた独自の表現であり、彼の作品が持つ力強さや、見る者に問いかけるような深みを生み出している要因です。この独自のバランス感覚が、後の伊藤若冲のような「奇想」の画家が彼に影響を受けた一因とも考えられ、江戸時代中期における絵画表現の多様性と深まりを示す重要な要素となっています。
伊藤若冲への影響とその比較研究
鶴亭の水墨花木図が若冲に与えた具体的な影響
鶴亭の水墨花木図は、同時代の革新的な画家である伊藤若冲(1716-1800)にも大きな影響を与えたと考えられています。特に、若冲が中国の沈南蘋に直接影響を受けたのではなく、鶴亭や熊斐、宋紫石といった「南蘋派」の画家たちを介して影響を受けたという見解が、美術史研究において示されています。鶴亭は、沈南蘋の画風を日本で独自に消化・発展させた「日本化された南蘋派」の代表格であり、若冲にとってはその表現の可能性を示す重要な存在でした。この事実は、鶴亭が単なる沈南蘋派の追随者ではなく、その画風を日本独自の文脈(特に黄檗禅の墨戯)で消化し、さらに発展させたことで、若冲のような次世代の革新的な画家への「橋渡し」の役割を果たしたことを意味します。鶴亭の作品は、沈南蘋の写実性と黄檗禅の精神性を融合させた「日本化された南蘋派」の典型であり、若冲がその表現の可能性を見出す上で重要な参照点となったと考えられます。これは、江戸時代中期における美術様式の伝播と変容の複雑さを示す重要な側面です。
具体的な類似点として、鶴亭の「葡萄図」や「蕃椒図(唐辛子)」に見られるような、輪郭線を用いずに墨の濃淡のみで葉や実の形を描き分ける「没骨法」は、若冲の作品にも類似が見られます。この技法は、対象の柔らかさや生命感を表現するのに効果的です。また、鶴亭の作品に見られる、縦長に伸びるような構図や、特定のモチーフを反復して描く手法は、若冲の作品にも共通する要素があります。これは、画面にリズムと独特の視覚的効果を生み出します。さらに、若冲の代表作である「動植綵絵」と同時期に制作された水墨画には、鶴亭をはじめとする長崎派や黄檗絵画からの影響が明確に窺えます。これは、若冲が彩色画と並行して水墨画においても実験的な造形を試みていたことを証するものです。
若冲の「筋目描き」などとの技法的な関連性
若冲の独創的な技法として知られる「筋目描き」は、吸水性の良い紙の上に淡い墨同士を隣接させて置くことで、水が滲んで墨が浸透しない部分に白い輪郭線が残る表現です 。鶴亭の「富士山図」(安永5年/1776)にも、若冲が用いた筋目描に類似する右奥の山並みの描法が見られると指摘されています。これは、鶴亭が若冲に先んじて、あるいは同時期に同様の実験的な水墨表現を試みていた可能性を示唆し、両者の間に技法的な相互作用や影響関係が存在したことを裏付けます。鶴亭が花や葉を没骨で表し、花弁や葉の重なりを形式化して模様のような美しさを提示するのに対し、若冲は牡丹の花を様々な角度から捉えるなど、より徹底した写実的な意図を持っていたという相違点も指摘されます。しかし、鶴亭の実験的な表現が若冲の造形実験を促し、その後の発展に繋がったことは明らかです。
両者の画風における共通点と相違点
鶴亭と若冲は共に、当時の既存の画壇の枠に囚われず、対象の生命力や本質を独自の筆致と構図で表現しようとした点で共通します。両者ともに水墨画において実験的な造形を試み、その表現は「きびきびとした墨描、独特のシャープな形態」といった特徴を持つと評されています。また、中国由来の南蘋派の写実性を基盤としつつも、それを単なる模倣に終わらせず、自身の解釈で昇華させた点も共通しています。
鶴亭と若冲は、それぞれ異なる背景を持ちながらも、既存の画法に安住せず、筆致や構図、墨の表現において「実験的」な試みを共有していました。これは、両者が単なる写実を超えた表現、あるいは対象の精神性や生命力を絵画に込めるための新たな手法を積極的に模索していたことを示唆します。鶴亭の黄檗禅に根ざした「奇体美」の追求が、若冲の「奇想の画家」としての造形実験に、具体的な技法(没骨法、筋目描き)と、既成概念に囚われない自由闊達な精神性の両面で影響を与えたと言えるでしょう。この共通の実験精神が、江戸時代中期に日本美術の新たな地平を切り開く原動力となりました。
一方、相違点としては、鶴亭の作品は、黄檗僧としての墨戯の精神性や「奇体美」に重きを置く傾向があるのに対し、若冲はより徹底した写実性(「動植綵絵」に見られる)と、それを超えた「奇想」的な表現に特徴があります。また、若冲は晩年に至るまで、野菜や山菜などの日常的なモチーフを題材にするなど、より大衆的・親しみやすい側面も持ち合わせていました。
伊藤若冲「花鳥図押絵貼屏風」
員数:6曲1双 作者:伊藤若冲筆 時代世紀:江戸時代 18世紀 品質形状:紙本墨画 法量:各縦127.7 横51.5 所蔵者:九州国立博物館
さいごに
鶴亭筆「花木図押絵貼屏風」は、江戸時代中期の日本美術において、黄檗絵画と南蘋派の画風を融合させ、水墨画の新たな表現領域を開拓した極めて重要な作例です。本作品は、鶴亭が黄檗僧として培った精神性と、中国由来の沈南蘋派の写実性を水墨で表現する独自のスタイルを確立したことを明確に示しています。特に、本来装飾的な性格を持つ押絵貼屏風の形式に、精神性の高い水墨画を適用したことは、当時の画壇における革新的な試みであり、形式と内容の新たな調和を生み出しました。鶴亭の作品は、その独自の表現と実験精神を通じて、伊藤若冲をはじめとする後世の「奇想の画家」たちに具体的な技法(没骨法、筋目描きなど)や、既存の枠に囚われない自由な表現の可能性を示唆し、江戸時代中期における日本美術史の多様化と深化に不可欠な存在であったと言えます。