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『作庭記』に息づく平安の庭:橘俊綱が紡いだ自然の美学

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 5月29日
  • 読了時間: 13分

  1. はじめに


橘俊綱(1028-1094)は、平安時代中期から後期に活躍した重要な人物です。俊綱は官人、歌人としての顔を持つ一方で、日本庭園史において極めて大きな足跡を残しました。


『作庭記』は、まとまった作庭書としては世界最古のものとされており、平安時代後期の11世紀後半に成立したと見られています。この書は、寝殿造の庭園に関する意匠と施工法を記しており、絵図を一切用いずすべて文章で記されている点が特徴です。その内容は、後の日本庭園の発展に決定的な影響を与え、日本庭園の根本理念が記されていると評価されています。


『作庭記』は、単なる技術書に留まらず、日本庭園の根幹をなす哲学的な思想、すなわち自然との調和や受動的な美意識の源流を形成したと言えます。特に「自然に対し受動的であれ」「自然を克服するのではなく自然に従え」という思想は、西洋の庭園思想とは一線を画す日本庭園の独自性を象徴するものです。この思想は、後の日本庭園が持つ「静寂と調和の芸術」としての特性を決定づける重要な要素となっています。『作庭記』が編纂された平安時代は、中国文化の影響を受けつつも、国風文化が花開き、日本独自の美意識が確立されていった時期と重なります。この「自然に従う」という考え方は、単に庭園技術の伝授に留まらず、当時の日本人の自然観や美意識が庭園という形を通して結晶化したものであると解釈できます。



日本庭園 参考画像
参考画像 日本庭園



  1. 橘俊綱の人物像と庭園への深い関わり


橘俊綱は、関白藤原頼通の次男として生まれ、後に播磨守橘俊遠の養子となり橘姓を名乗りました。俊綱は尾張守、丹波守、播磨守、讃岐守、近江守、但馬守といった地方官を歴任し、位階は正四位上に留まりました。摂関家の生まれでありながら、宮中の複雑なルールに縛られない受領生活は、彼の性に合っていたと推測されており、趣味にも打ち込み、人生を前向きに楽しんでいた様子がうかがえます。


文化人としては、和歌、笙、笛、琵琶にも優れ、当時の歌壇に大きな影響力を持っていたことが知られ、俊綱の和歌は「後拾遺和歌集」などの勅撰和歌集に12首が入集されています。俊綱は和歌や音楽といった風雅な文化活動に深く傾倒しており、邸宅では頻繁に歌合や歌会が催され、「伏見長者」と称されるほど風流な生活を送っていました。庭園は、平安貴族にとって社交の場であり、風流を楽しむための空間でした。このことから、俊綱の庭園づくりは単なる実用的な空間設計に留まらず、俊綱の持つ豊かな感性や美意識、そして文化的な交流の場としての機能を強く意識して行われたと考えられます。和歌に詠まれる自然の情景や、音楽が奏でる調べが、庭園の意匠や構成、特に植物の配置や水の流れといった要素に反映されていた可能性が示唆されます。俊綱の文化人としての側面が、単なる技術書ではない『作庭記』の深遠な思想的背景を形成したと言えるでしょう。庭園が単なる景観ではなく、精神性や美意識を表現する場であるという認識は、彼の多岐にわたる文化活動と密接に結びついていたと考えられます。


俊綱は父親である藤原頼通が宇治殿(後の平等院)を建てたように、宇治川を挟んだ伏見側の対岸に自身の別邸を建て、自ら造園を行いました。この伏見山荘は、「風流勝他、水石幽奇也」(風流は他より勝り、水石は幽玄で奇妙である)と「中右記」に賞賛されたと伝えられています。人々からは「これほど風流で趣のある庭はない」と称賛されました。伏見邸は、巨椋池が見渡せる見晴らしの良い庭園であったと推定されています。俊綱は白河上皇との庭園談義で、地形の眺望がない鳥羽殿よりも自身の伏見邸を優れていると評価しました。『作庭記』の基本理念の一つに「立地を考慮しながら、山や海などの自然景観を思い起こし、参考にする」という記述があります。このことから、俊綱が自身の庭園で実践した「眺望を重視する」という考え方は、『作庭記』で説かれる「生得の山水」(自然の景観)を庭園に取り入れるという理念と深く結びついており、作庭思想の一貫性を示しています。俊綱の美意識は、単なる閉じた空間美ではなく、広がる自然景観との融合を志向していたと言えるでしょう。


また、白河上皇との談義では、俊綱が「眺望の利く庭」を良い庭園と評価し、伏見邸を挙げたのに対し、白河上皇は「阿弥陀堂と園池が一体となった浄土庭園」を重視しました。これは、当時の貴族社会において、庭園の美的価値を測る基準が一つではなかったことを示しています。俊綱の視点は、自然の雄大さや景観との一体感を追求する「借景」の思想に通じるものであり、一方の上皇の視点は、仏教的世界観を具現化する「浄土式庭園」の思想を反映しています。この対話は、平安時代後期における庭園文化の成熟と、多様な美的価値観の共存を浮き彫りにしています。この談義は、単なる個人の好みの違いだけでなく、当時の社会における庭園の機能や役割、さらには宗教観や権力者の思想が庭園デザインにどのように反映されていたかを示す貴重な史料と言えるでしょう。俊綱の評価基準は、より純粋な景観美と自然との調和を追求する芸術家の視点に近く、上皇の基準は、宗教的権威や精神的充足を重視する統治者の視点であったと解釈できます。



  1. 『作庭記』:日本最古の造園指南書としての意義


『作庭記』は、まとまった作庭書としては世界最古のものとされ、平安時代後期の11世紀後半に成立したと見られています。編者や編纂時期については諸説ありますが、橘俊綱であるとする説が定説となっています。俊綱は藤原頼通の次男(養子)であり、若年の頃から見聞した高陽院庭園など寝殿造庭園の工事に関する豊かな経験や鋭い自然観察をもとに、この書を編纂したとされています。現存する最古の写本は「谷村家本」で、前田家に伝わったものとされています。


また、『作庭記』は大量に流布した書物ではなく、江戸時代に塙保己一が編纂した『群書類従』によってその存在が広く知られるようになったとされています。この「秘伝書」的な性格は、単に技術的な知識の伝承に留まらず、作庭の思想や美意識が特定の家系や流派を通じて口伝や写本によって伝えられてきたことを示唆しています。そのため、その影響は直接的な「教科書」としてではなく、むしろ日本の庭園文化の深層に、思想的な基盤として浸透していったと考えられます。現代の研究においても、その伝来や著者像の解明が進められています。


『作庭記』は、平安時代の貴族の住宅である寝殿造の庭園に関する意匠と施工法が記されています。絵図は一切なく、すべて文章で書かれているのが特徴です。庭園の主要な要素として、配石、園地、中島、滝、遣水、樹木、泉などが考えられており、その中でも配石が最も重視されているのが『作庭記』の大きな特徴です。石の立て方、滝の作り方、島の姿、山の築き方など、作庭の部分や素材の扱い方が詳しく述べられています。『作庭記』では「配石が最も重視されている」と明記されており、「石をたてんには、まづおも石のかどあるをひとつ立おゝせて、次々のいしをば、その石のこはんにしたがひて立べき也」という一節が有名です。これは、庭園の骨格を形成する上で石が最も基盤的かつ重要な要素であることを示しており、植物の植栽よりも優先されるべきであるとされています。この思想は、後の枯山水庭園など、水を用いずに石や砂で山水を表現する日本庭園の発展に直結するものであり、日本庭園が持つ普遍的な「石の美学」の源流をなしていると言えます。石が単なる素材ではなく、庭園の魂や骨格を形成する要素として位置づけられていたことが理解できます。


『作庭記』の根本理念の一つに「石を立てるにあたっては、まず主石の見どころや才能があるものを一つ立て、次々の石は、その主石が乞うているであろうところに従って立てなくてはならない」という思想があります。これは「自然に対し受動的であれ」「自然を克服するのではなく自然に従え」という、日本庭園の決定的な特徴を示す思想です。岩や地形が自ずと要求してくるものを感じ取り、それを表現するという姿勢が貫かれています。


「石を乞はんに従う」という表現は、石に内在する意志や本質を尊重し、それに従うべきだという思想を示しています。これは、単なる技術的な指示に留まらず、石や自然そのものに霊的な力や人格を見出す、平安時代におけるアニミズム的な自然観が作庭思想の根底にあったことを強く示唆しています。『作庭記』には「霊石」や「石神」といった表現もみられ、石が強い霊力を持つと考えられていたことがうかがえます。また、「庭の中央に木があると『困』字になるから家運は困窮する」といった禁忌も記されており、これは中国の風水や専門方術書の影響であるとされています。これらの記述は、作庭が単なる造形行為ではなく、自然の摂理や霊的な力、さらには宇宙の秩序(陰陽五行説、四神思想)と調和を図る、ある種の倫理的・宗教的行為であったことを示しています。作庭家は、自然の声を聴き、それに従うことで、庭園に生命を吹き込み、その場所の運気や人々の生活に良い影響をもたらそうとしたと考えられます。



日本庭園 石組
参考画像 日本庭園 石組 池


  1. 『作庭記』に描かれる植物の役割と美意識


『作庭記』では、庭園の要素として配石が最も重視されており、植栽は配石が終わった後に行うべきだとされています。これは、植栽を先に行うと、石を配置する際に邪魔になるためという合理的な理由に基づいています。この順序は、庭園の骨格を石で形成し、その後に植物で肉付けするという、日本庭園の基本的な造園プロセスを示しています。『作庭記』において、植栽は配石の後に行うべきと明確に指示されており、これは、石が庭園の「骨格」や「構造」を形成し、植物はそれを補完する「装飾」や「季節感」を与える役割を担うという考え方を示唆しています。この「石主植物従」とも言える思想は、庭園の永続性にも影響を与えます。植物は成長し、枯れ、季節によって変化しますが、石はほとんど変化しません。石を基盤とすることで、庭園の基本的な景観や思想が時代を超えて維持されることを可能にしています。これは、日本庭園が持つ普遍的な美意識と、自然の循環を受け入れる思想の表れと言えるでしょう。


『作庭記』に実際に植えられていた樹木の種類は限られており、松、柳、梅、楓などわずかな種類しかありません。低木類は少なく、その代わりに草花が数多く植えられており、これらは「前裁」と呼ばれて親しまれていました。遣水(庭園内の小川)のほとりの野筋(低い帯状の地形の高まり)には、あまり繁茂する植物は植えず、「桔梗、女郎花、吾亦紅、擬宝珠」などを植えるべきだと具体的に記されています。『作庭記』に記されている樹木の種類は限定的であり、草花「前裁」が重視されています。具体的に挙げられる草花は、日本の野原に自生するような、派手さはないが季節の移ろいを繊細に感じさせる植物です。これは、当時の庭園が、中国から伝来した華やかな牡丹や蓮といった植物だけでなく、日本の風土に根ざした「自然らしさ」や「野趣」を庭園に取り入れようとする意識があったことを示唆しています。また、四季折々の草花を用いることで、庭園に常に変化と生命感を与え、日本の気候風土に合わせた繊細な季節感を表現しようとする美意識が働いていたと考えられます。


平安時代の庭園では、植物に込められた象徴性が重視されました。仏教の影響が深く、特に浄土式庭園では極楽浄土の世界観を表現するために様々な庭木が用いられました。例えば、蓮は泥水の中から美しい花を咲かせることから、悟りや清浄さを象徴し、仏教と深い関わりを持つ植物です。神道においては、常緑樹が永遠性や神の存在、生命力を象徴し、神々が宿る場所と考えられていました。榊はその代表例です。風水思想に基づき、特定の植物が特定の場所に植えられ、運気を高める役割を担っていました。例えば、東に川がない場合に柳を9本植えることで青龍の代わりとするといった具体的な記述があります。松は長寿と不変、竹は柔軟性と強さ、梅は忍耐力、桜は儚い美しさ、紅葉は変化の美しさを表すなど、植物には多岐にわたる象徴性がありました。


『作庭記』における植物の記述には、仏教、神道、風水といった複数の思想体系が複合的に影響していることが示されています。これは、当時の貴族の生活や信仰が、単一の思想に限定されず、多様な価値観が混じり合っていたことを反映しています。庭園は単なる美的な空間ではなく、宇宙観、宗教観、さらには日常の吉凶を左右する風水といった、当時の人々が信じる多層的な世界観を具現化する場であったと言えます。植物は、これらの思想体系を結びつけ、庭園に深遠な意味合いと精神性をもたらす重要な媒介となっていました。例えば、松の長寿の象徴は神道的な願いに通じ、蓮の清浄は仏教的な悟りを表し、柳の配置は風水的な調和を意味するといった具合です。この複合的な象徴性は、日本庭園が持つ奥深さと、その背後にある豊かな精神文化を理解する鍵となります。



  1. 橘俊綱の庭園思想が後世に与えた影響と現代的意義


『作庭記』に記された作庭の基本理念は、「今日の作庭にもそのまま当てはめることができる先進性と普遍性がある」と高く評価されています。具体的には、「立地を考慮しながら自然景観を参考にすること」「過去の優れた作例を模範としつつ、家主の意向や自らのデザイン感覚で仕上げること」「国々の景勝地から優れた部分を吸収し作品に当てはめること」といった理念は、現代のランドスケープデザインにおいても通用する普遍的な原則です。また、『作庭記』は「枯山水」という語の初出文献でもあり、後の日本庭園の重要な様式の一つである枯山水庭園の思想的基盤を提供した可能性が指摘されています。このことは、日本庭園が時代や様式を超えて継承してきた核となる思想や技術が『作庭記』の中に既に確立されていたことを示唆しています。これは、単なる特定の時代の流行を記したものではなく、自然観、美意識、そして実践的な技術論が高度に融合した、日本庭園の原点であり、その後の多様な発展を可能にした基盤であったと言えるでしょう。この普遍性こそが、日本庭園が世界に誇る芸術形式として現代まで生き続けている理由の一つです。


『作庭記』の思想は、現代のランドスケープデザインにおいても、自然との調和、既存地形の活用、借景といった概念において重要な示唆を与えています。特に「自然に従う」という受動的な姿勢は、持続可能なデザインや環境共生型デザインが求められる現代において、改めてその価値が見直されています。現代社会では、環境問題や持続可能性が重視され、人間が自然を支配するのではなく、共生する姿勢が求められています。『作庭記』が提唱する「石を乞はんに従う」という思想は、まさに人間が自然の特性や内在する力を尊重し、それに耳を傾けることで、より調和のとれた空間を創り出すという、現代のランドスケープデザインが目指すべき「自然との対話」のあり方を千年前に既に示していたと言えるでしょう。これは、単なる技術的な模倣に留まらず、現代のデザイナーが自然と向き合う上での哲学的な指針となり得るものです。



  1. おわりに


橘俊綱は、平安時代という日本の庭園文化が大きく発展した時期において、自ら作庭を行い、その経験と深い洞察を『作庭記』という形で体系化したことで、日本庭園の思想と技術の確立に決定的な貢献をしました。彼の庭園観は、単なる美的追求に留まらず、自然との調和、環境への配慮、そして精神的な充足を重視するものであり、その思想は千年を超えて現代の日本庭園にも脈々と受け継がれています。橘俊綱は『作庭記』を通じて、日本庭園の設計理念、施工技術、そして植物の役割と象徴性を体系的に記述しました。この書は、それまでの口伝や経験則に頼っていた作庭の知識を文字化し、後世への伝承を可能にしました。これにより、日本庭園は単なる個々の庭の集合体ではなく、共通の思想と美学に基づく「日本庭園」という独自の芸術形式としてのアイデンティティを確立することができました。俊綱の貢献は、まさに日本庭園を「芸術」として昇華させる上で不可欠なものであったと言えるでしょう。


『作庭記』に込められた「自然に従う」という思想は、現代社会が直面する環境問題や持続可能な社会の構築において、新たな視点と解決策を提示し得る普遍的な価値を持っています。橘俊綱が示した、自然の力を尊重し、その本質を引き出す作庭の姿勢は、未来のランドスケープデザインにおいても、人間と自然が共生する豊かな空間を創造するための重要な指針となるでしょう。日本庭園は、過去の遺産としてだけでなく、未来を築くための知恵の宝庫として、その価値を再認識されるべきです。





参考








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