『日本植物誌』
“Flora Japonica”
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)は、ドイツの医師・博物学者で、江戸時代末期の文政6年~11年(1823-28)、日本に滞在しました。シーボルトは日本滞在中に多数の植物標本を収集し『日本植物誌』を編纂し、動物についてはライデン王立自然史博物館(現:ナチュラリス生物多様性センター)のウィレム・デ・ハーンらとともに「日本動物誌」を編纂・刊行しました。
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本文はミュンヘン大学の植物学教授ツッカリーニが分類学的所見をラテン語で書き、シーボルトはフランス語で植物の自生地・分布・栽培状況・日本名・利用法などを書いた。『日本植物誌』は2巻構成で、それぞれの巻に100枚の図版が含まれる予定であった。1巻の1~2分冊はミュンヘンの石版印刷所で作成され、1835年にオランダのライデンで出版され、1841年に完結した。翌年には2巻の第1分冊が出たが、1844年に2巻の第5分冊が出た後に中断する。そしてシーボルトが死去した後の1870年に、ミクエルによって2巻の6~10分冊が出された。
画像、文章引用:福岡県立図書館郷土資料室http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/kyoudo/page/Siebold/
日本の歴史、地理、風俗等の研究に努める一方で、生物学、民俗学、植物学、地理学等の多彩な才能を活かして日本を研究しました。
(帰国後は大著『日本』を出版し、当時のヨーロッパにおいて日本学の祖として海外に日本のことを広めたことでも知られています。)
また、出島外に鳴滝塾を開校し、日本人に最新の医学を教えたことでも知られています。
その後、シーボルトは、江戸時代後期の1828年に国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとしたことが発覚しました。
この事件によりシーボルト自身は国外追放処分となり、役人や門人らが多数処罰されましたが、それは日本が鎖国体制時代において、外国人による日本文化の持ち出しを防ぐために行われたものでした。
(30年後、シーボルトは安政5年(1858)の日蘭修好通商条約の締結により追放が解除となり、翌安政6年(1859)に長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となっています。)
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※ 引用:福岡県立図書館郷土資料室http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/kyoudo/page/Siebold/