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日本の花卉文化を彩る「しき錦」:明治の変革期に咲いた、四季と美意識の結晶

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 2024年2月25日
  • 読了時間: 11分

更新日:6月18日



日本の豊かな文化において、花卉や園芸は単なる自然の美しさの鑑賞に留まらず、人々の精神性や美意識と深く結びついてきました。四季折々の移ろいを愛で、植物の生命力に心を寄せる——そうした日本ならではの感性は、数々の芸術作品に昇華されてきた歴史があります。本稿では、明治時代という激動の時代に生まれ、日本の花卉園芸文化の奥深さを今に伝える一冊の図案集「しき錦」に焦点を当てます。この図案集は、一体どのような背景から生まれ、どのような美意識を私たちに語りかけているのでしょうか。その魅力と、現代に繋がる日本の伝統の精神を探求し、日本の花卉/園芸文化への理解を深める一助とします。   



1. 「しき錦」とは:明治の美意識が息づく図案集


「しき錦」は、明治36年(1903)5月に京都の本田雲錦堂から出版された、下村玉廣による木版刷りの図案集です。この作品は、単なる工芸品の下絵として利用されるだけでなく、それ自体が独立した芸術作品として認識されることを目指して制作されました。その特徴は、日本の伝統的な木版技法を継承しつつも、当時の新しい美意識を反映した斬新な図案表現を実現している点にあります。特に注目すべきは、裏表紙に商号や情報を英語で印刷するという、当時としては非常に珍しい試みが行われたことです。これは、国内市場に留まらず、海外への意識も強く持っていた明治期の日本の産業デザイン界の動向を物語る象徴的な要素です。   


この作品は、伝統的な日本の工芸と近代的な産業デザインの間に橋を架ける役割を担っていたと考えられます。工芸品の下絵としての実用性と、それ自体が芸術作品としての価値を持つという二重の目的は、当時の日本の産業が直面していた課題と機会を浮き彫りにします。下村玉廣自身が「産業意匠」を手掛けた染織図案家であり、出版元である本田雲錦堂が主に「染色図案集」を専門としていた事実は、そのデザインが実際の産業、特に染織分野で活用されることを前提としていたことを示唆しています。さらに、裏表紙に英語で情報が記載されていたことは、海外市場、すなわち輸出産業を強く意識していたことを明確に示しています。これらの要素が複合的に作用することで、「しき錦」は伝統的な日本の美意識を継承しつつ、近代的な産業デザインのニーズに応え、さらには国際的な評価をも視野に入れた、まさに伝統と近代の架け橋となる存在であったと言えるでしょう。これは、明治期の日本が西洋化を進める中で、自国の文化をいかに再解釈し、世界に発信しようとしたかを示す貴重な一例として位置づけられます。   


「しき錦」の基本情報は以下の通りです。

書名

作者

出版年月

出版社

技法・材質

しき錦

下村玉廣

明治36年(1903年)5月

本田雲錦堂

木版、紙



2. 下村玉廣と「しき錦」誕生の時代背景



2.1. 稀代の図案家・下村玉廣の足跡


下村玉廣(本名:悌蔵)は、明治10年(1877)に京都の粟田で生まれました。玉廣の生きた時代は、開国を経て西洋文化が流入し、日本の伝統文化と交錯する、まさに「エキサイティングな時代」でした。当初、裕福な家庭に生まれたとされますが、父の事業失敗により家業が傾き、玉廣自身も小学校を中退するほどの困窮を経験しました。その後、彼は陶画工の元へ弟子入りし、輸出向け陶器の絵付けに従事することでその才能を開花させました。   


この初期の経験は、下村玉廣のその後のキャリアに大きな影響を与えたと考えられます。輸出向け陶器の絵付けという国際市場を意識した分野での経験は、後に「産業意匠」を手掛ける染織図案家として活躍する素地を形成したと言えるでしょう。下村玉廣は、明治以降、特に大正期に京都で人気を博した染織図案家となり、『京都図案協会』を設立するなど、図案団体を組織して大きな影響を与えました。『近代友禅史』においては、神坂雪佳、古谷紅麟、上野清江らと並び、最も沢山の著述をした図案家の一人として高く評価されています 。彼の図案は「斬新で優美」と評され、特に柔らかな曲線で描かれた動物や鬼のモチーフは、「どこまでもやさしく、素朴な魅力にあふれた存在感」があると形容されました。   


下村玉廣の生い立ちとキャリアの変遷は、明治期の日本の社会変動と産業構造の変化を色濃く反映しています。裕福な家庭から一転して困窮し、小学校中退後に「輸出向け陶器の絵付け」に従事したという彼の経歴は 、明治維新後の急激な社会構造の変化、特に伝統的な家業の衰退と、新たな輸出産業の勃興という時代の流れを鮮明に映し出しています。彼の才能が「輸出向け陶器」という国際市場を意識した分野で開花したことは、その後の「産業意匠」としての活躍 に繋がる素地を形成したと考えることができます。下村玉廣の個人的な足跡は、単なる個人の成功物語としてだけでなく、明治期日本の近代化、国際化、そしてそれに伴う伝統産業の変革という、より大きな社会経済的文脈の中で理解されるべきものです。玉廣のデザインが持つ「斬新さ」は、こうした時代の要請に応える形で培われたものと推測されます。   



2.2. 変革期に生まれた「しき錦」の制作経緯


「しき錦」が制作された明治30年代は、日本の図案界が大きな変革期を迎えていた時代でした。開国後の日本は、西洋の文化や技術を積極的に取り入れ、伝統的な図案の枠を超えた「新しい創意を持った図案」が強く求められていました。染織産業が近代化を進める中で、図案は単なる模様ではなく、芸術性と機能性を兼ね備えた「産業意匠」としての重要性を増していったのです。この時期の日本文化は海外で高く評価され、産業意匠としての図案集が数多く発行されました。   


このような背景の中、「しき錦」は、下村玉廣の独創的なデザインと、複数の関係者の協力によって生み出されました。作者である下村玉廣のデザインを、校閲者として神坂雪佳(慶応2年/1866~昭和7年/1932)が確認し、作品の質と内容に貢献しました。神坂雪佳は、当時の著名な芸術家であり、玉廣の関与は「しき錦」の芸術的価値を保証するものとなりました。そして、出版を担ったのは、本田雲錦堂の代表である本田市次郎です。本田雲錦堂は、明治20年(1887年)に京都で設立された出版社で、主に染色図案集の出版を手掛けており、この分野における専門的なノウハウを持っていました。彼らの協業は、「しき錦」が単なる図案集に留まらず、明治期の美術とデザインの融合、伝統と革新の交錯を示す貴重な資料となる基盤を築きました。   


明治期の図案出版は、単なる商業活動を超え、新しい美術・デザイン様式の確立と普及に貢献したという側面があります。本田雲錦堂が「染色図案集」を専門としていたこと は、当時の染織産業における図案の需要の高まりを示唆しています。しかし、「しき錦」が「芸術作品として認識されることを目指した」 点、そして神坂雪佳のような著名な芸術家が校閲に関わった ことは、単なる商業的な図案提供に留まらず、デザインそのものの芸術的価値を高め、新しい美意識を社会に提示しようとする意図があったことを示唆しています。この時代の図案集の出版は、産業の発展を支えるだけでなく、日本の美術史、特にデザイン史における重要な役割を担っていました。それは、伝統的な職人技と近代的な芸術概念、そして商業的流通が複雑に絡み合い、新たな文化を形成していったプロセスの一端を映し出していると言えるでしょう。   


「しき錦」の制作に関わった主要な関係者とその役割は以下の通りです。

役割

氏名

貢献

作者

下村玉廣

図案の創造と表現

校閲者

神坂雪佳

作品の質と内容の確認、芸術性の保証

出版者

本田市次郎(本田雲錦堂代表)

作品の刊行と普及、国際的な視点での展開



3. 「しき錦」に宿る日本の花卉文化と精神性



3.1. 図案に込められた四季と植物の哲学


「しき錦」の最大の魅力は、その名が示す通り、日本の四季折々の美しさを植物や花卉のモチーフを通して表現している点にあります。具体的には、しだれ桜、紫陽花、紅葉といった、それぞれの季節を象徴する植物が巧みに図案化されています。これらの植物は、単に写実的に描かれるのではなく、「図案化」されることで、デザインとしての様式美と装飾的な要素が加えられ、より象徴的な意味合いを帯びています。   


日本の花卉/園芸文化は、古くから植物の「繊細な変化」の中に美を見出す独自の感性によって育まれてきました。江戸時代には、アサガオやオモトの葉の斑入り、菊の花の多様な形など、微細な変異を楽しむ「古典園芸植物」の文化が花開き、花合わせや銘鑑といった品評・記録の文化も盛んでした。これは、自然界の完璧な形を模倣するだけでなく、その中に見出される「不完全さ」や「移ろい」をも美として捉える、日本特有の美意識の表れです。   


さらに、日本の植物文化には、深い精神性が宿っています。日本庭園が「小宇宙」と喩えられ、自然と人間の調和、静寂、内省の場としてデザインされるように、植物は単なる装飾ではなく、哲学的な意味合いを持つ存在です。石や木、水といった自然のあらゆるものに霊魂が宿るという古代日本のアニミズムの思想 や、禅の精神 が、植物の配置や鑑賞のあり方に影響を与えてきました。   


「しき錦」の図案化された植物モチーフは、単なる装飾を超え、日本の伝統的な自然観と美意識の凝縮された表現と捉えられます。この図案集が「図案化されている」と明記されていることは、下村玉廣が植物を写実的に描くのではなく、デザイン要素として再構築したことを意味します。これは、古典園芸において「繊細な変化の中に美を見出す」という美意識 、すなわち自然の細部への深い観察と、それを抽象化・様式化して表現する日本の芸術的伝統に合致します。また、日本文化における植物は、単なる物理的な存在ではなく、「小宇宙」や「禅の精神」、アニミズムといった哲学的な概念と結びついています。したがって、「しき錦」の植物図案は、単に美しい模様を提供するだけでなく、日本の四季の移ろい、自然への畏敬の念、そして微細な変化の中に無限の美を見出すという、日本独自の深い精神世界を象徴的に表現していると言えるでしょう。これは、日本の花卉文化の表面的な美しさだけでなく、その根底にある思想を理解するための重要な手がかりとなります。   



3.2. 伝統と革新が織りなす花卉園芸文化への影響


「しき錦」が誕生した明治期は、日本の花卉/園芸文化もまた、伝統を守りつつ新たな局面を迎えていました。江戸時代に確立された園芸ブームや品評会の文化 は継承されつつも、開国によってもたらされた西洋の植物や園芸技術、そしてデザイン概念が、日本の美意識と融合し始めます。例えば、着物の図案には、従来の様式的な植物表現に加え、化学染料の進歩とともに「写実的な意匠表現」や西洋の花々が取り入れられるようになりました。これは、西洋の文化を受容しようとする動向と、日本の伝統が融合する時代の背景を反映しています。   


下村玉廣の「しき錦」は、こうした時代の潮流の中で、伝統的な日本の四季の植物をモチーフとしながらも、それを近代的な「図案」として昇華させることで、新しいデザインの可能性を示しました。この作品が「工芸品の下絵としてだけでなく、それ自体が芸術作品として認識されることを目指した」 点と、下村玉廣が「産業意匠」を手掛けたデザイナーと位置付けられている点 は、日本の花卉園芸文化の美意識が、近代化の中でいかに「応用美術」や「産業デザイン」へと拡張されたかを示す象徴と言えます。彼の作品群、例えば『むかしはなし』や友禅の図案集が「近代図案コレクション」として再編集されていること は、彼のデザインが単発のものではなく、その後の日本のデザイン界、特に染織分野において、継続的な影響を与えたことを示唆しています。   


「しき錦」は、単に美しい絵柄を提供するだけでなく、日本の伝統的な花卉美意識を、近代的な産業(特に染織)の需要に応える形で「デザイン」として再構築し、その応用範囲を広げた点で、日本の花卉園芸文化の発展に間接的かつ重要な影響を与えました。これは、美意識が純粋芸術に留まらず、日常生活や産業へと深く浸透していく日本の文化の特徴をよく表しています。「しき錦」は、日本の花卉園芸文化が、単なる植物の栽培や鑑賞に留まらず、それを芸術表現へと高め、さらには産業デザインへと応用していく過程の一端を担ったと言えるでしょう。それは、日本の伝統的な自然への敬意と美意識が、近代化の波の中でいかに柔軟に変容し、新たな価値を創造していったかを示す、生きた証拠なのです。



結び


下村玉廣の「しき錦」は、明治という時代の息吹を宿した、単なる図案集以上の存在です。それは、日本の花卉/園芸文化が育んできた四季への深い愛着と、植物の生命に宿る繊細な美意識が、近代化の波の中で新たな表現を見出した結晶と言えるでしょう。伝統的な木版技法と革新的なデザイン思想、そして国際的な視野が融合したこの一冊は、私たちに、移ろいゆく自然の中に普遍の美を見出す日本の心の豊かさを改めて教えてくれます。   


「しき錦」を通して、私たちは、過去の職人や芸術家たちが自然と対話し、その本質を捉えようとした情熱を感じ取ることができます。それは、現代に生きる私たちにとっても、身近な植物の中に無限のインスピレーションと心の安らぎを見出すための、大切な示唆を与えてくれるはずです。この図案集が、日本の花卉/園芸文化への関心を深め、その奥深い世界へと足を踏み入れるきっかけとなることを願ってやみません。   



下村玉広 画『しき錦』,本田雲錦堂,明36.5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13212855 







参考/引用









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