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明治31年刊行 芍薬の名品図譜:『芍薬花譜』

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 2024年5月3日
  • 読了時間: 11分

更新日:1 日前


日本の四季を彩る花々には、単なる視覚的な美しさ以上の物語が宿っています。古くから日本人は、花に心を寄せ、その姿に人生や哲学、そして季節の移ろいを重ねてきました。特に、初夏に大輪の花を咲かせ、見る者を魅了する芍薬は、その優雅で堂々とした佇まいから「立てば芍薬、座れば牡丹」と美人の代名詞にも例えられ、多くの人々に愛されてきました。では、この芍薬が日本の文化の中でどのように育まれ、その繊細かつ壮麗な美がどのように後世に記録されてきたのでしょうか。   


本稿では、明治時代に刊行された稀代の植物図譜、賀集久太郎の『芍薬花譜』を通して、日本の花卉文化の奥深さと、そこに込められた人々の情熱、そして美意識の真髄を探ります。この一冊の図譜が、いかにして時代を超えて私たちに語りかけ、日本の伝統的な花卉/園芸文化への関心を高めるのか、その魅力に迫ります。   



1. 『芍薬花譜』とは:明治の世に咲いた精緻な美の記録



1.1. 概要:幻の図譜が示す芍薬の多様な姿


『芍薬花譜』は、明治31年(1898)に刊行された、芍薬の多様な品種を精緻な彩色木版画で描いた貴重な植物図譜です。この図譜は、当時の人々の芍薬に対する高い関心と、明治期における園芸技術の発展を示す資料として、単なる植物学的な記録に留まらず、芸術作品としても高く評価されています。   


全24図の彩色木版で構成されており、京都の著名な園芸店「朝陽園」から出版されました。この図譜は、当時の高度な木版画技術と、植物の細部までを捉えようとする観察眼が融合した、まさに「記録性」と「芸術性」を兼ね備えた作品と言えるでしょう。   



1.2. 『芍薬花譜』に描かれた名品たち


『芍薬花譜』には、当時の代表的な芍薬の品種が多数収録されています。その中には、以下に示すような、詩情豊かで日本的な美意識を湛えた名前を持つ品種が含まれています。   


表1:『芍薬花譜』掲載品種一覧(一部)

品種名

特徴(図譜から推察される美意識)

日出世界

昇る太陽のような力強さと輝き

染鹿子

鹿の子絞りのような斑模様の美しさ

連城璧

数々の城にも匹敵するほどの貴重な美

大花笠

踊りの花笠のように華やかで大きな花

白珠殿

白い真珠のような清らかさと高貴さ

一天四海

全世界を覆うほどの壮大な美しさ

月宮殿

月の宮殿を思わせる幻想的な佇まい

羅生門

荘厳で威厳のある姿

羅綾袂

薄絹の袖のようにたおやかな花びら

湊川

川の流れを思わせる優美な姿

花筏

花びらが水面に浮かぶ筏のような風情

九重

幾重にも重なる花びらの豪華さ

千代鏡

永遠に続く美しさを映す鏡

倭三階

日本的な趣を持つ三段咲きの花

三室錦

三つの部屋を飾るような豪華な錦


これらの品種名は、単に植物を識別するためだけでなく、それぞれの花姿や色彩の美しさを克明に捉え、そこに込められた人々の感性や想像力を物語っています。この詳細な品種の記録は、当時の育種家たちの情熱と、芍薬が持つ多様な魅力を現代に伝える貴重な手がかりであり、明治期における日本の園芸文化が極めて成熟し、多様性に富んでいたことを示しています。



2. 賀集久太郎と時代背景:花への情熱が紡いだ歴史



2.1. 賀集久太郎の足跡:園芸に捧げた生涯


『芍薬花譜』の編者である賀集久太郎は、京都に拠点を置く著名な園芸店「朝陽園」の経営者でした。彼は芍薬の専門家であるだけでなく、薔薇や朝顔の栽培にも深い知見と情熱を注ぎました。特に薔薇に関しては、当時の日本に専門文献が少ないことを憂慮し、自ら『薔薇栽培新書』の執筆を決意するほどの「先見の明」と「文化的使命感」を持っていました。   


賀集は明治28年(1895)に『朝顔培養全書』を出版しており、その奥付には『薔薇栽培新書』の刊行が近いと広告されています。しかし、彼は明治33年(1900)に脳出血で急逝しました。その遺志は、親友である京都の素封家・小山源治らによって引き継がれ、賀集の遺稿を元に『薔薇栽培新書』は明治35年(1902)にようやく出版されました。この経緯は、賀集が単なる商業的な園芸家ではなく、日本の園芸文化の発展と知識の普及に尽力した、まさに文化人としての側面を持っていたことを示唆しています。彼の早逝にもかかわらず、その業績が周囲の人々によって高く評価され、後世に伝えられたことは、彼がどれほど重要な存在であったかを物語っています。   


また、賀集久太郎は、明治10年代から20年代にかけて、当時の主要な農業・園芸雑誌である津田仙の『農業雑誌』の熱心な読者であり、その分野の知識人・実践者として積極的に情報収集と発信を行っていたことが伺えます。これは、彼が常に最新の園芸技術や情報にアンテナを張り、自らの知識を深め、それを社会に還元しようとしていたことを示しています。彼の具体的な生年は資料からは特定されていませんが、明治33年(1900)に死去したことは確認されています。   



2.2. 明治期の園芸文化の隆盛と『芍薬花譜』の誕生


芍薬は、奈良時代に薬草として中国から日本に伝来しました。その後、平安時代には観賞用としても栽培が始まり、江戸時代には「肥後芍薬」など多くの改良品種が生まれ、園芸文化の中で広く親しまれるようになりました。特に『増補地錦抄』(宝永7年/1710年)には47品種が追加されており、この頃には芍薬が日本の代表的な花卉の一つとして急速に改良が進んだことが示されています。   


明治時代に入ると、日本の園芸文化は新たな局面を迎えます。西洋の栽培技術や品種が日本にも導入され、芍薬の品種改良はさらに進展しました。この時代には、華やかな洋芍薬タイプが主流となり、日本の伝統的な和芍薬との交配も盛んに行われ、多種多様な品種が生み出されました。これは、明治期の園芸文化が、伝統を継承しつつも西洋の「革新」を積極的に取り入れ、「融合」させていった証左と言えるでしょう。   


『芍薬花譜』は、このような明治期の園芸文化の隆盛、特に芍薬に対する人々の高い関心と、その美しさを後世に残そうとする熱意を背景に制作されました。この図譜の刊行は、単なる植物の記録に留まらず、近代化の波の中で日本の伝統的な園芸文化を体系化し、その価値を再認識しようとする時代の精神を反映していると言えます。同時期には、『菊花明治撰』や『園籬圖譜』といった他の植物図譜も刊行されており、これらは日本の美意識や園芸技術の高さを示す貴重な「文化的遺産」として、現代にその価値を伝えています。これらの園芸書は、当時の日本人が、激動の時代にあってなお、自然との調和を重んじ、美を追求し続けた精神の結晶であり、単なる実用書を超えた思想的な媒体としての役割を担っていました。   



3. 芍薬が彩る日本の心:文化的意義と哲学



3.1. 薬用から観賞へ:芍薬の日本における受容の歴史


芍薬は、その歴史の始まりにおいて、薬草としての役割を担っていました。奈良時代に中国から日本に伝来した芍薬の根は、古くから婦人科系の漢方薬として重宝され、その名「芍薬」も「抜きんでて美しい薬」という意味に由来すると言われています。しかし、その用途は次第に広がりを見せます。平安時代には既に観賞用としても栽培が始まり、江戸時代には「肥後芍薬」などの多様な改良品種が生まれ、園芸文化の中で広く親しまれるようになりました。   


江戸時代の『花譜中巻』(元禄11年/1698年)では、芍薬を「花相」(花の宰相、花の大臣)と称し、その品位が「花王」である牡丹に次ぐものと位置づけています。これは、芍薬が単なる薬草から、日本の花卉文化において極めて高い地位を確立したことを物語っています。このような変遷は、日本人が自然の恵みを多角的に捉え、実用性だけでなく、そこに宿る美しさや精神性をも見出す感性の豊かさを示していると言えるでしょう。   



3.2. 「立てば芍薬、座れば牡丹」に象徴される美意識


「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という日本のことわざは、芍薬が日本の伝統的な美意識の中で、いかに重要な位置を占めてきたかを明確に示しています。すらりと伸びた茎の先に大輪の花を咲かせるその立ち姿の優雅さは、まさに女性の理想的な美しさを象徴するものとされてきました。   


芍薬は、その豪華でありながら奥ゆかしい花姿で、単なる装飾を超えた存在として、文学や芸術作品においても愛や情熱、時には人生の機微と結びつけて描かれてきました。また、芍薬と混同されがちですが密接に関連する牡丹が「富貴」や「王者の風格」の象徴とされたように、芍薬もまた、その美しさゆえに高い社会的地位や経済的豊かさを示す意味合いを持っていました。これは、美的な好みを反映するだけでなく、当時の社会構造とも深く結びついていたことを示唆しています 。芍薬の「多義的な象徴性」は、その美が人々の生活や思想、社会のあり方と深く結びついていたことを物語っています。   



3.3. 花言葉に込められた日本人の繊細な感性


芍薬の一般的な花言葉は、「恥じらい」「はにかみ」「つつましさ」「謙遜」です。これらの花言葉は、夕方になると花を閉じる芍薬の性質や、「Blush like a peony(芍薬のように顔を赤らめる=恥ずかしがる)」という英語のことわざに由来すると言われています。この奥ゆかしい花言葉は、日本人の繊細な感性や、控えめな美徳を尊ぶ文化を反映していると言えるでしょう。   


表2:芍薬の花言葉とその意味

花言葉の種類

由来・背景

意味

共通の花言葉

全般

夕方に花を閉じる性質、英語のことわざ「Blush like a peony」    


恥じらい、はにかみ、つつましさ、謙遜

色別の花言葉

冴えて堂々とした色合い、女王のような風格    


威厳、誠実、荘厳


ピンク

優雅で上品な色合いと奥ゆかしさ    


はにかみ


純白のイメージ、ウェディングシーンでの使用、中国での象徴性    


幸せな結婚、清純、満ち足りた心


西洋における紫のイメージ(別れ、不吉)、妖しげな雰囲気    


怒り、憤怒

色別の花言葉も存在し、赤い芍薬は「威厳」「誠実」「荘厳」、ピンクは「はにかみ」、白い芍薬は「幸せな結婚」「清純」「満ち足りた心」とされ、特に白い芍薬は純白のイメージからウェディングシーンで好まれます。一方で、稀な紫色の芍薬には「怒り」「憤怒」といったネガティブな花言葉もあり、これは西洋における紫色のイメージ(別れ、不吉)が影響している可能性が指摘されています。これらの花言葉は、単なる言葉の羅列ではなく、花が持つ特性と、それを受け止める人々の文化的な背景や感情が織りなす、豊かな表現の体系を示しています。   



3.4. 『芍薬花譜』が映し出す自然への深い洞察と共生思想


『芍薬花譜』は、単なる植物の記録に留まらず、当時の日本人が花卉を通じて自然とどのように向き合い、その本質を理解しようとしたかを示すものです。日本の園芸文化は、単に植物を収集するだけでなく、自然を模倣し、あるいは再構築することで、限られた空間に無限の宇宙を表現しようとする高度な芸術でした。植物の配置、石組み、水の流れが織りなす景観は、理想的な庭園のあり方を示唆しています。   


この背景には、植物を単なる鑑賞の対象としてではなく、「生命あるもの」として、その生態や成長の過程、周囲の環境との関係性までをも捉えようとする自然への深い洞察と「共生思想」があります。これは、日本の伝統的な「八百万の神」の思想や、自然の中に神性を見出すアニミズム的な感覚とも通じ、自然を支配するのではなく、自然に寄り添い、その恵みを享受するという思想が色濃く反映されています。日本の園芸文化の根底には、このような自然観の深さが存在し、それが花卉の栽培や表現に影響を与えていました。   


『芍薬花譜』に描かれた芍薬の精緻な描写は、作者が植物と真摯に向き合い、その内なる生命力や「生意」(生々しい気配)を探ろうとした証であり、花卉図譜が単なる学術的記録を超え、精神性をも表現する芸術であったことを物語っています。これらの図譜は、当時の「民族の思想・風習」に支えられ、花を単なる形としてではなく、その生命の息吹や、そこに宿る象徴的な意味までをも捉えようとする、日本独自の美意識の表れと言えるでしょう。   



結び


賀集久太郎の『芍薬花譜』は、単なる美しい植物図鑑ではありません。それは、明治という激動の時代において、日本人がいかに花卉に深い愛情を注ぎ、その美を追求し、後世に記録しようとしたかの確かな証です 。薬用から観賞へとその役割を変え、「立てば芍薬、座れば牡丹」と美人の代名詞として、また時には社会的地位の象徴として、芍薬は日本の文化に深く根ざしてきました。   


そして、『芍薬花譜』に込められた精緻な描写と、そこに息づく自然への深い洞察は、私たちに、花を単なる「もの」としてではなく、生きた存在として尊重し、その恵みに感謝しながら共生する日本の伝統的な思想を再認識させてくれます 。この図譜は、過去の園芸文化、美意識、そして哲学を現代に橋渡しする重要な役割を担っています。   


現代に生きる私たちも、この『芍薬花譜』が示すように、身近な花々の中に宿る物語や哲学に目を向けることで、日々の暮らしに豊かな彩りと発見を見出すことができるでしょう。時を超えて咲き誇る芍薬の美は、これからも日本の花卉文化の真髄を伝え続けていくに違いありません。




賀集久太郎 編『芍薬花譜』,朝陽園,明31.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12984894







参考/引用





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