『扶桑百菊譜』に秘められた江戸の美意識と菊への情熱
- JBC
- 2024年9月22日
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更新日:6月15日
はじめに:日本の秋を彩る菊の深淵へ
日本の秋を彩る花といえば、何を思い浮かべるでしょうか。多くの人が、その高貴な姿で私たちを魅了する「菊」を挙げることでしょう。しかし、この菊が、単なる美しい花としてだけでなく、江戸時代の人々の生活と精神に深く根ざし、独自の文化を育んできたことをご存知でしょうか。
今日、私たちが目にする多様な菊の品種や、その繊細な美しさは、実は遥か昔、江戸時代の人々が抱いた花への途方もない情熱と探求心が生み出した結晶です。本稿では、その情熱の証とも言える一冊の貴重な図譜、『扶桑百菊譜』に光を当て、日本の花卉文化の奥深さに迫ります。この図譜は、単なる植物の記録に留まらず、当時の人々の自然観、そして美に対する独自の感性を現代に伝える貴重な手がかりとなります。
1. 『扶桑百菊譜』とは:江戸の菊文化を映す珠玉の図譜
『扶桑百菊譜』は、江戸時代中期、享保21年(1736)2月に刊行された、日本の菊文化を伝える極めて貴重な植物図譜です。この図譜は、当時の菊への熱狂的な情熱を現代に伝える文化遺産として位置づけられます。
本書は上下二巻からなる和装本であり、上巻は40丁、下巻は35丁で構成されています。その内容は、100種類もの菊が精緻な筆致で描かれた図に、それぞれの菊についての詳細な注釈、そして菊を詠んだ古歌が添えられているというものです。この構成は、『扶桑百菊譜』が単なる植物の記録に留まらず、文学的・芸術的な側面を強く持ち合わせていることを示唆しています。現代においても、国立国会図書館デジタルコレクションや東京大学総合図書館でデジタル画像が公開されており、当時の菊の多様性と類稀なる美しさを窺い知ることができます。
1.1 著者「百鞠亭児素仙」の謎
『扶桑百菊譜』の著者として記されているのは「百鞠亭児素仙」という人物ですが、その実名や生没年などの詳細な経歴は現在も不明な点が多く、謎に包まれています。唯一の手がかりとして、本書の自序には「左京河東散人」と記されており、この記述から著者が京都に住んでいたと考えられています。
このような著者の匿名性は、単なる情報の欠落として捉えるだけでは、その真の背景を見過ごすことになります。江戸時代の園芸文化は、徳川家康、家忠、家光といった将軍が熱心な花好きであったことに端を発し、彼らを支える大名や旗本、さらには庶民へと急速に波及していきました。この時代には、「花合わせ」と呼ばれる品評会が盛んに行われ、優れた品種は「銘鑑」という登録簿に記録されるなど、愛好家間の活発な交流と共同体的な活動が広く行われていました。菊ブームは元禄年間から享保年間にかけて大衆化し、多くの人々が品種改良や鑑賞に熱中していたのです。
百鞠亭児素仙の個人情報がほとんど不明であることは、当時の園芸文化が個人の名声や単独の業績に帰属するよりも、むしろ広範な愛好家たちの「共同体」の活動によって支えられ、発展していたという背景を物語っています。百鞠亭児素仙は、その共同体の一員として、当時の菊愛好家たちの知識や情熱、そして彼らが発見した「芸」の粋を結集し、図譜として形にする役割を担ったと推察されます。彼の名は、個人の偉業というよりも、菊文化を愛する無数の人々の「集合知」の象徴として捉えることができるでしょう。この匿名性は、現代の読者に対して、単一の天才による作品というより、当時の社会全体が共有していた文化的な熱量と、名もなき人々が築き上げた遺産としての『扶桑百菊譜』という物語性を提示し、より深い共感を促すものとなります。
2. 『扶桑百菊譜』が生まれた時代:百鞠亭児素と菊ブームの背景
『扶桑百菊譜』が刊行された享保21年(1736)は、まさに江戸時代中期における菊の栽培が最も盛んになり、多くの品種が作出された「菊ブーム」の絶頂期にあたります 。このブームは元禄年間(1688~1704)頃から始まり、正徳・享保年間(1716~1736)にかけてさらに盛り上がりを見せました。本書の刊行時期がこの熱狂的な時代と完全に合致していることは、本書が当時の菊文化の熱気を凝縮したものであることを示しています。
菊は日本在来の植物ではありませんが、平安時代の宮廷で「菊花の宴」が流行していたことから、遅くとも律令期には中国からもたらされ、古くから日本の地で親しまれてきました。平安・鎌倉時代には、日本独自の美意識によって、支配者層の間で「嵯峨菊」や「伊勢菊」といった独特の品種が生み出され、宴用の花、美術工芸品、そして不老不死のシンボルとして特権的な地位を築きました。
近世中頃以降になると、菊は支配者層だけでなく大衆にも広まり、「大衆化」の波に乗って、変化に富む園芸種の菊花壇や、菊細工の見世物が流行しました。徳川家康、家忠、家光といった将軍が熱心な花好きであったことも、彼らを支える大名や旗本、さらには庶民へと園芸熱が波及する大きな要因となりました。また、参勤交代制度も、地域間の植物や情報の流通を活発化させ、園芸文化の発展に寄与しました。江戸時代は戦乱の世から安定した社会へと移行し、歌舞伎などの文化芸術が発展する中で、庶民も楽しめる古典園芸植物が発達したのです。
2.1 菊ブームを彩った「古典菊」の多様性
この時代の菊ブームを支えたのが、伝統的な中輪種の「古典菊」です。これらの菊は、それぞれが独自の「芸」を持ち、愛好家たちの探求心を刺激しました。
肥後菊:宝暦年間(1751~1764)に肥後の名藩主・細川重賢が文化政策の一環として栽培を奨励したと伝えられています。花弁がまばらで細いのが特徴で、「朱鷺の羽」や「金星」といった雅な名前がつけられました。
江戸菊:文化・文政期(1804~1830)に江戸市中で大流行しました。咲き始めは周辺の舌状花の花弁が垂れ下がりますが、さらに咲き進むと中心部に近い花弁から順次立ち上がり、様々に折れ曲がって筒状花を抱え込むように変化する「芸」が特徴です。蕾から咲き開くまで10日、開いて「狂いながら(芸をしながら)」10日、完全に狂って10日と、長く楽しめる花として愛されました。
丁子菊:江戸時代最初の流行期である元禄(1688~1704)から享保(1716~1736)頃に「丁子咲」として最初に現れた系統です。花芯部の筒状花が丁子弁になって盛り上がって咲くのが特徴です 。
嵯峨菊:京都の嵯峨地方で栽培され、2メートル近くまで伸ばす独特の仕立て方は、皇居の殿上の回廊から観賞できるようにしたといわれています。糸のように細い多数の舌状花の花弁が、咲き始めは横に向いて開きますが、花弁がほぼ伸びきると真直ぐに立ち上がって刷毛状に咲くのが特徴です。明治時代になるまでは大覚寺のみで栽培され、門外不出でした。
伊勢菊:三重県松阪地方で、天保~嘉永(1830~1855)頃から栽培されている中輪の花です。花弁は細長く、縮れて咲き始め、伸びるにしたがって花弁が垂れ下がるのが特徴で、珍奇な形の花をつける菊として貴重です。
奥州菊:青森県八戸地方で品種改良された菊で、両手で花をキュッと掴んだように盛り上がり、太い花弁が垂れ下がるのが特徴です。
表1:江戸時代の主要な古典菊とその特徴
古典菊の名称 | 登場時期/流行期 | 主な産地 | 特徴 | 文化的背景/意義 | 関連する図譜の記述 |
肥後菊 | 宝暦年間 (1751-1764) | 肥後(熊本) | 花弁がまばらで細い。「朱鷺の羽」「金星」など | 細川重賢による文化政策の一環として奨励 | 『扶桑百菊譜』に描かれた菊にも、このような特徴を持つ品種が含まれている可能性。 |
江戸菊 | 文化・文政期 (1804-1830) | 江戸 | 咲き始めから花弁が徐々に立ち上がり、筒状花を抱え込むように変化する「芸」が特徴。長く楽しめる | 江戸市中で大流行し、大衆化の象徴 | 『扶桑百菊譜』が刊行された享保期は江戸菊の成立前だが、その後の「変化を愛でる」美意識の萌芽を示す。 |
丁子菊 | 元禄~享保期 (1688-1736) | 不明 | 花芯部の筒状花が丁子弁のように盛り上がる | 『扶桑百菊譜』の刊行時期と重なる初期の流行品種 | 『扶桑百菊譜』に収録されている可能性が高い品種群の一つ。 |
嵯峨菊 | 江戸末期頃品種成立 (説として嵯峨天皇頃から) | 京都・嵯峨 | 2m近くまで伸ばす独特の仕立て方。糸のように細い花弁が刷毛状に咲く。門外不出 | 皇室との関わり、大覚寺での門外不出など、高貴な菊としての地位 | 『扶桑百菊譜』に描かれた菊の源流の一つとして、その美意識の形成に影響を与えた可能性。 |
伊勢菊 | 天保~嘉永期 (1830-1855) | 三重・松阪 | 花弁が細長く縮れて垂れ下がる。嵯峨菊を改良 | 珍奇な形が愛好され、地域文化と結びつく | 『扶桑百菊譜』刊行後の品種だが、菊の多様な「芸」の追求という点で共通の美意識を示す。 |
奥州菊 | 不明 | 青森・八戸 | 両手で掴んだように盛り上がり、太い花弁が垂れ下がる | 地域ごとの独自の品種改良の進展を示す。 | 『扶桑百菊譜』が示す菊の多様性と、地域に根差した園芸文化の広がりを補完する情報。 |
この表は、当時の菊文化の驚くべき多様性と品種改良の熱意を、具体的な品種の例を通して示しています。各菊の登場時期を明記することで、『扶桑百菊譜』が刊行された享保期(1736)が、どの古典菊の流行と重なっていたのか、あるいはその後の菊文化の発展にどのように繋がっていったのかという時間的な流れを理解する助けとなります。また、肥後、江戸、京都、松阪、八戸といった地域名を明記することで、菊文化が全国各地で独自の発展を遂げ、地域ごとの特色ある「芸」が生み出されていたという地理的な広がりと多様性を強調しています。
2.2 菊ブームに見る社会の安定と文化の成熟
『扶桑百菊譜』は享保21年(1736)に刊行され、これは元禄年間から享保年間にかけての「菊ブーム」の最盛期にあたります。同時に、この江戸時代は、戦国時代と比較して「安定的な社会」が供給され、歌舞伎など様々な文化芸術が発展した時期でもありました。
園芸、特に高度な品種改良や、それを鑑賞し記録する文化は、人々に時間的・経済的余裕がなければ発展し得ません。戦乱の時代では、生存と食料生産が最優先されるため、このような「ゆとりの文化」が花開くことは難しいものです。江戸幕府による約260年間の長期的な平和は、まさにその「安定」を提供しました。この安定が、人々に精神的・物質的なゆとりをもたらし、それが園芸という「ゆとりの文化」を育む肥沃な土壌となったのです。さらに、将軍家が花好きであったこと や、参勤交代制度による全国規模での人や物の往来が活発化したこと は、この安定期における文化的な投資と情報拡散を加速させる直接的な要因となりました。
したがって、菊ブームは単なる園芸熱の盛り上がりという表面的な現象に留まらず、江戸時代の社会が成熟し、文化的な豊かさを享受できる段階に達したことの象徴と言えます。人々が生活の基盤を確保し、精神的な充足を求めるようになった結果として、花卉文化がこれほどまでに深く、広く浸透したのです。『扶桑百菊譜』は、この社会的な成熟と文化的な豊かさの証として、その時代精神を凝縮した作品と位置づけられます。この事実は、文化の発展には社会の安定が不可欠であるという普遍的なテーマを提示し、現代の園芸文化やその他の文化活動もまた、社会の豊かさや平和の上に成り立っているという視点を提供します。
3. 『扶桑百菊譜』が伝える美意識と哲学:変化の中に宿る日本の心
『扶桑百菊譜』が最も雄弁に語りかけるのは、江戸時代の人々が菊に注ぎ、育んだ、花卉に対する日本独自の美意識です。現代の園芸植物が、均一な美しさや特定の色彩を追求する傾向があるのに対し、日本の古典園芸植物は、花の色や大きさの多彩さよりも、花型の変化、葉の斑入りや縮れといった「繊細な変化」や「変異形質」の中に美を見出す「芸」の概念を重視しました。
これは西洋の園芸文化とは一線を画す顕著な傾向であり、江戸時代に大流行したアサガオの「変化朝顔」や、菊、サクラソウ、ナデシコなどに見られる特徴です。江戸時代の人々は、花弁の形や模様、葉の斑入りなど、微細な変化を楽しみ、そこに無限の美を見出していました。この「変化」を愛でる心は、単なる植物の鑑賞を超えた、深い精神的な営みでした。古典園芸植物は、単に「食べるもの」から「観るもの」へと進化し、造園や農業といった実用的な利用から脱却し、華道や盆栽と共に「単独の芸術」として確立されました。これは、植物が人々の生活の中で、より高次の文化的価値を持つようになったことを示しています。また、「花合わせ」と呼ばれる品評会が盛んに行われ、優れた品種には「番付」が付けられ、「銘鑑」という登録簿に記録されたことは、この美意識が単なる個人の趣味に留まらず、体系化され、共同体の中で共有・発展されていた証です。
3.1 菊に宿る精神性:心で花を観る境地
『扶桑百菊譜』の序文には、「天地の造化によって草木の間に生まれた花は、種類が非常に多い…」という記述があり、自然の創造物への深い畏敬の念が感じられます。これは、花が単なる装飾品ではなく、宇宙の摂理の一部として捉えられていたことを示唆しています。
さらに、日本の美意識の根底には、「花は事物にあるのではなく、人の心にある」という哲学があります。これは、単に目の前の花を視覚的に捉えるだけでなく、それを育み、その変化を観察し、そこに込められた努力や時間の移ろいを心で感じ取ることで初めて、その真の美しさが理解されるという、主観的かつ精神的な美の追求を示しています。「工夫をしてなお残るもの、極めつづけてなお失せぬもの」という言葉は、品種改良や栽培における絶え間ない探求と、その過程で培われる精神的な練達を意味します。これは、物質的な豊かさだけでなく、精神的な側面を重視する日本文化の特性とも通じます。菊を育てることは、変化を慈しみ、不完全さの中に美を見出し、自然と一体となる精神的な修行でもあったと言えるでしょう。
3.2 「変化」への執着が示す日本人の自然観と精神性
日本の古典園芸では、花の色や大きさよりも「花型の変化」や「葉の斑入り」といった「繊細な変化(芸)」に美を見出すという、西洋とは異なる顕著な傾向があります。特に江戸菊は、蕾から完全に開くまで「狂いながら(芸をしながら)」長く楽しめるという特徴を持っています。
この「変化」への嗜好は、単なる美的趣味の違いではなく、より深い文化的・哲学的背景に根ざしています。西洋の園芸がしばしば「完璧な形」や「均一な美」を追求し、完成された状態を理想とする傾向があるのに対し、日本文化は「不完全の美」「移ろいの美」、そして「時間の流れの中での変化そのもの」を重んじる特性を持っています。菊の花が咲き始めから終わりまで形を変え続ける「芸」を愛でることは、まさにこの「変化の過程」そのものを美として捉える感性の表れです。この感性は、日本の自然観、特に仏教に由来する「諸行無常」(全てのものは移り変わり、永遠不変ではない)や、そこから派生する「もののあはれ」(移ろいゆくものへのしみじみとした情感)といった思想と深く結びついています。花が咲き、形を変え、やがて散るという「生老病死」のサイクルを、単なる衰退ではなく、生命の営みとして、あるいは新たな「芸」の発現として肯定的に捉えるのです。これは、自然を支配する対象としてではなく、共に生き、その変化を受け入れ、そこに美を見出すという日本人の精神性の表れに他なりません。
『扶桑百菊譜』の序文に示される「天地の造化」への畏敬 や、「花は事物にあるのではなく、人の心にある」という思想 は、この「変化」を愛でる美意識と深く連動しています。自然の移ろいを深く観察し、そこに内在する生命の力を感じ取り、自らの心でその美を感受する。この内面的な営みこそが、日本における花卉文化の精神的な核を形成しているのです。つまり、『扶桑百菊譜』は単なる植物図鑑ではなく、当時の日本人が自然とどのように向き合い、生命の普遍的な真理を花の中に見ていたかを示す、一種の哲学書としての側面を持つと言えるでしょう。この事実は、『扶桑百菊譜』が持つ文化的意義を深く掘り下げ、日本の花卉文化が単なる園芸技術の粋を超えた、精神的な深みを持つことを提示しています。また、現代社会における「変化」への向き合い方、あるいは「完璧さ」を求める現代の価値観に対する、異なる視点を提供し、新たな発見と内省を促すことができます。
おわりに:現代に息づく『扶桑百菊譜』の遺産
『扶桑百菊譜』は、単なる歴史的な植物図譜にとどまらず、江戸時代の人々が菊に注いだ途方もない情熱、そして「繊細な変化」の中に美を見出す日本独自の感性を現代に伝える貴重な文化遺産です。国立歴史民俗博物館の「伝統の古典菊」展のように、現代においても古典菊の収集・展示が行われ、その美意識が継承されていることは、この文化が時代を超えて生き続けている証です。
本書は、当時の栽培技術や品種改良の様子を伝えるだけでなく、自然と向き合い、その中に精神的な豊かさを見出した先人たちの哲学を私たちに教えてくれます。情報過多で変化の速い現代において、私たちは『扶桑百菊譜』が示す「繊細な変化を慈しむ心」をどのように育んでいくべきでしょうか。この図譜は、私たちに立ち止まり、自然の微細な営みに目を向け、そこに宿る普遍的な美と精神性を再発見する機会を与えてくれます。日本の花卉文化の奥深さを知ることは、私たち自身の感性を磨き、日々の生活に彩りを与えることにも繋がるでしょう。
上 一
百鞠亭児素仙『百菊譜 2巻』[1],上坂勘兵衛[ほか3名],享保21 [1736]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2554325
下 二
百鞠亭児素仙『百菊譜 2巻』[2],上坂勘兵衛[ほか3名],享保21 [1736]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2554326