top of page

豊原国周『十二ヶ月花合』:浮世絵に咲く、明治の粋と日本の心

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 6月26日
  • 読了時間: 14分

豊原国周『十二ヶ月花合』
豊原国周 筆『十二ヶ月花合』,武川清吉,1880. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9369974

日本の花卉文化は、単に花の美しさを愛でるだけでなく、その中に人生の機微や哲学を見出し、生活や精神、さらには芸術にまで昇華させてきた奥深い伝統が息づいています 。この豊かな文化の一端を、浮世絵という大衆芸術の視点から紐解いてみましょう。   


明治時代という激動の時代、西洋文化が怒涛のように押し寄せる中で、日本の伝統的な美意識はどのように息づいていたのでしょうか。今回ご紹介する豊原国周(とよはら くにちか)の『十二ヶ月花合』は、まさにその問いに答えるかのような作品群です。このシリーズは、四季折々の花々と当時の人気歌舞伎役者たちを組み合わせることで、移り変わる時代の中で変わらない日本の美の本質と、人々の心の拠り所を鮮やかに描き出しています。この作品は、激しい社会変革の波に揺れる人々にとって、伝統的な美意識と自然への敬意が、時代を超えて変わらない日本の根底にある精神性であることを示唆し、文化的な安定をもたらす役割を果たしたと考えられます。   



1. 『十二ヶ月花合』とは:浮世絵に映る四季の風雅



1.1. 浮世絵「十二ヶ月花合」の概要


豊原国周の『十二ヶ月花合』は、明治13年(1880)に版元である武川清吉から刊行された全12枚からなる浮世絵のシリーズです。この作品は、日本の伝統的な「花合わせ」の趣向を浮世絵に取り入れたもので、各月にちなんだ花々と、当時の歌舞伎界で絶大な人気を誇った役者たちの姿が華やかに描かれています。多くは大判錦絵(縦35.8cm×横24.3cm程度)という形式で制作され、色彩豊かで表現力に富んだ役者絵の魅力を最大限に引き出しています。   



1.2. 平安から江戸へ:花合わせと花かるたの伝統


『十二ヶ月花合』の根底には、日本に古くから伝わる「花合わせ」の文化があります。この遊びは、平安時代(794〜1185)に貴族の間で、花を持ち寄ってその花に寄せる歌を詠み合う風雅な催しとして始まりました。これは、自然の美しさを愛で、それを詩歌に昇華させるという、貴族文化の洗練された一面を示すものでした。   


やがて時代が下り、江戸時代の文政年間(1818〜1830)頃になると、花などを12ヶ月に配した「花かるた」という庶民的な遊びへと発展していきます。この変化は、貴族の文化が大衆に広がり、より身近な娯楽として定着していった過程を示しています。豊原国周の『十二ヶ月花合』は、まさにこの「花かるた」の流れを汲むものとされており、季節ごとの花と歌舞伎役者という、当時の大衆が熱狂した二大要素を組み合わせることで、伝統的な美意識と現代的な娯楽を見事に融合させた作品と言えるでしょう。   


このシリーズは、もともと貴族の教養であった「花合わせ」を、大衆芸術である浮世絵の形式で表現することで、文化的な橋渡し役を担いました。浮世絵は、歌舞伎役者や遊女など「浮世」の事柄を描き、庶民に広く親しまれたメディアです。国周は、この大衆的な媒体に、古典的な「十二ヶ月」の趣向を取り入れ、当時の人気役者と組み合わせることで、高尚な文化を身近なものへと引き寄せました。これは、伝統が固定されたものではなく、常に新しい表現形式や大衆の嗜好と融合しながら進化していく、日本文化の柔軟性と適応力を示すものです。この作品は、伝統的な美意識が時代を超えて継承され、新たな形で息づく様を鮮やかに伝えています。   



2. 豊原国周の生涯と作品の背景:明治の世に役者絵の真髄を求めて



2.1. 豊原国周の芸術家としての軌跡


豊原国周(天保6年/1835〜明治33年/1900)は、幕末から明治時代にかけて活躍した浮世絵師の巨匠の一人です 。江戸京橋の湯屋の次男として生まれた国周は、幼少期から祭りの行灯絵を描くなど、その画才の片鱗を見せていました。最初は押絵師の豊原周信に師事して役者絵の基礎を学び、その後、歌川派の三代歌川豊国(歌川国貞)に正式に入門します。   


安政元年(1854)頃から本格的に浮世絵制作を開始し、特に師・豊国譲りの役者絵で頭角を現しました。明治2年(1869)には、版元・具足屋嘉兵衛から役者の大首絵(おおくびえ:顔や上半身を大きく描いた浮世絵)シリーズを刊行し、これが国周の代表作となり、「役者絵の国周」としての名声を不動のものとしました。国周の役者絵は、鮮やかな色彩と、まるで画面から役者が飛び出してくるかのような迫力ある構図が特徴です。   


国周は、西洋化の波が押し寄せる明治の世にあっても、頑なに江戸の風雅と役者絵の伝統を守り続けました 。これは単なる保守的な姿勢ではなく、時代の変化を見極めた上で、自身の芸術的強みと大衆の需要に応える戦略的な選択であったと捉えられます。当時の人々は、急速な近代化の中で、失われゆく江戸の文化や美意識に郷愁を感じていました。国周の役者絵は、そうした人々の心に深く響き、「江戸の風雅」を色濃く残しつつ、役者そのものの魅力を最大限に引き出す画風で熱狂的に支持されたのです。彼の作品は、社会の大きな変革期において、人々が文化的な連続性を感じ、心の拠り所とするための重要な役割を担いました。   


その豪放な性格でも知られ、大酒飲みで借金も多く、生涯で117回も引っ越しを繰り返したという逸話は、葛飾北斎を凌ぐ「引っ越し好き」として有名です 。このような個性的な生き様もまた、彼の作品に独特の深みと人間味を与え、当時の大衆に親しまれる一因となりました。   



2.2. 激動の明治時代と浮世絵の変遷


明治時代(1868〜1912)は、日本が封建社会から近代国家へと急速な変革を遂げた激動の時代でした。西洋の文物が怒涛のように押し寄せ、人々の生活様式や価値観は大きく変化し、それは芸術の世界にも大きな影響を与えました。浮世絵もまた、この時代の変化に直面し、その役割と表現方法を模索することになります。   


明治前半期には、浮世絵はなお優れた報道メディアとしての価値を有し、西南戦争、博覧会、憲法発布など多岐にわたる時事的な画題が描かれました。一部の絵師は「開化絵」と呼ばれる西洋風俗や近代化を描いた作品を手がけたり、文部省発行の「教育錦絵」のような教材としての浮世絵も制作されました 。しかし、錦絵の技術的な成長は鈍化し、量産はされるものの、その芸術的な頂点は江戸末期に据えられているという見方もあります 。写真という新たな視覚メディアの台頭は、浮世絵の報道性や記録性という役割を徐々に奪っていきました。   


このような状況下で、豊原国周は、時事的な画題も描いたものの、その主軸を歌舞伎役者絵に置き続けました。これは、明治の世にあって「江戸の風雅」を求める人々の需要に応えるものであり、国周の役者絵は当時の大衆に熱狂的に支持されました 。国周のこの姿勢は、単に伝統を守るだけでなく、変化の激しい時代の中で、人々が慣れ親しんだ文化に安心感と喜びを見出すことができるよう、芸術を通じて貢献しようとする意図があったと解釈できます。   



2.3. 『十二ヶ月花合』制作の意図と時代背景


『十二ヶ月花合』が明治13年(1880)に制作された背景には、国周自身の役者絵における確固たる地位と、明治時代における浮世絵の役割の変化が深く関わっています。このシリーズは、季節ごとの花と歌舞伎役者という組み合わせで「華やかな図柄」を生み出し 、読者に「発見を促す」ような魅力を伝えることを目的としていました。   


この時期、浮世絵は写真や新聞といった新しいメディアの台頭に直面していましたが 、国周は、歌舞伎という普遍的な人気を持つ題材と、日本の伝統的な花卉文化を融合させることで、浮世絵の新たな価値を創造しようとしました。月岡芳年の「東京自慢十二ヶ月」など、同時期には花と名所を組み合わせた「十二ヶ月」シリーズが他にも存在し、急速に近代化する首都の「誇り」や、変化の激しい世の中における「不易流行」(流行は移り変わるが、根本にある美意識や自然への敬意は変わらないという哲学)の象徴として花が描かれていました 。国周の『十二ヶ月花合』もまた、この「不易流行」の思想を内包し、伝統的な美意識と自然への敬意が、時代を超えて変わらない日本の根底にある精神性であることを示唆していたと考えられます。   


「十二ヶ月」というテーマの選択は、当時すでに確立された文化的モチーフであり、これに国周の得意とする役者絵を組み合わせることで、馴染みやすさと新鮮さを両立させました。これは、浮世絵が新しいメディアとの競争の中で生き残るための、商業的かつ文化的な戦略であったと見ることができます。このアプローチにより、浮世絵は単なる情報伝達の手段を超え、人々に娯楽と同時に、伝統的な美意識や哲学を再認識させる媒体としての役割を維持することができました。この作品は、芸術家や版元が、時代の変化の中でいかに伝統文化の価値を再定義し、大衆との接点を創出しようと努めたかを示す好例と言えるでしょう。



3. 『十二ヶ月花合』に込められた文化的意義と哲学:花と役者が語る「不易流行」



3.1. 各月の花と役者の象徴的意味


『十二ヶ月花合』の各作品は、単なる花の絵や役者の肖像画に留まらず、それぞれの月に対応する花と、その花や季節の趣に合わせた歌舞伎役者の役柄を組み合わせることで、多層的な意味合いを帯びています。これは、日本の伝統的な美意識と、歌舞伎という大衆文化が織りなす奥深い世界を表現しています。

以下に、『十二ヶ月花合』に描かれた主な月ごとの花と役者、そしてその象徴的意味をまとめます。この一覧は、作品が持つ豊かな文化的背景と、各要素がどのように結びついているかを理解するための手がかりとなるでしょう。


表1: 『十二ヶ月花合』各月の花と役者一覧

役者

役柄/演目

一月

梅花

助高屋高助

梅ヶ枝

二月

桃花

市川團十郎

加藤清正

三月

桜花

吉田松若

市川団三郎

四月

白蓮

岩井半四郎

地獄太夫

五月

芙蓉・牡丹

尾上多賀之丞

阿古屋

六月

菖蒲

中村芝翫

長五郎

七月

連花

尾上菊五郎

天竺徳兵衛

八月

萩花

市川九蔵

袴垂

九月

千壽菊

中村翫雀

知恵内

十月

紅葉

市川左團次

郷衛門

十一月

片岡我童

奴蘭平

十二月

沈丁花

中村宗十郎

源義経

この組み合わせは、単なる視覚的な美しさだけでなく、見る者に季節の移ろい、人生の機微、そして歌舞伎の物語性を感じさせる深い仕掛けとなっています。例えば、五月の「夫蓉牡丹」と『壇浦兜軍記』の「あこや」の組み合わせでは、牡丹の持つ豪華さと繁栄の象徴が、琴・三味線・胡弓を弾いて無実を証明するあこやの芯の強さや美しさと重なり、華やかさの中に秘められた精神性を表現しているかのようです。   



3.2. 日本の花卉文化における自然観と美意識


『十二ヶ月花合』が示すように、日本の花卉文化は、単に美しい花を愛でるだけでなく、その姿に人生の機微や哲学を見出し、生活や精神、さらには芸術にまで昇華させてきた点が真髄です。日本の自然観は、西洋が神を頂点に置き自然を低い価値と見なしてきたのに対し、自然と共生し、その中に神性や美を見出してきた文化的背景と対照的です。   


花は、日本の四季の移ろいを敏感に感じ取り、それを表現する上で重要な役割を担ってきました 。『十二ヶ月花合』に描かれた花々は、その精緻な描写の中に、植物の「生き様」や「生命力」が宿っているかのようです。これは、単なる形態の再現を超え、植物の内奥に宿る生命の輝きや、それを通じて感じられる自然の摂理、さらには日本人の心象風景を表現しようとする、深い精神的探求であったことを示唆しています。   


このシリーズは、花が持つ「無言の大美」(天地には大いなる美があるが、それは言葉にならない)を、視覚的な形で大衆に提示しました。言葉では表現しきれない自然の奥深さや、生命の循環といった哲学的な概念を、具体的な花の姿と役者の表現を通じて直感的に伝えることを可能にしたのです。これにより、鑑賞者は季節の移ろいを肌で感じ、人生の儚さと力強さを花に重ね合わせることで、内省的な時間を持ち、精神的な安定を得ることができました。花は、変化の激しい世の中における「不易流行」の象徴であり、流行は移り変わるが、根本にある美意識や自然への敬意は変わらないという哲学が、この画譜には込められています。   



3.3. 「もののあはれ」と「わび・さび」の精神性


日本の花卉文化の根底には、「もののあはれ」や「わび・さび」といった伝統的な美意識が深く結びついています。これらの美意識は、日本人の自然観と深く結びつき、芸術表現に多大な影響を与えてきました。   


「もののあはれ」とは、平安時代に確立された美意識で、移ろいゆくもの、儚いものの中に深い感動や哀愁を見出す感情を指します。桜の花が満開の美しさを見せた後に潔く散る姿は、まさにこの「もののあはれ」の象徴であり、『十二ヶ月花合』の三月の桜の描写にも、その精神性が込められていることでしょう。役者の華やかな舞台もまた、一瞬の輝きであり、その儚さの中に美を見出す「もののあはれ」の感覚と通底しています。   


一方、「わび・さび」は、室町時代(1336〜1573)に禅宗の影響を受けて発展した美意識で、簡素さ、静けさ、そして不完全さの中にこそ見出される深遠な美を尊びます。生け花(華道)の「立花」様式は、この「わび・さび」の精神を取り入れ、簡素でありながら深い精神性を感じさせる様式として確立されました。『十二ヶ月花合』の華やかな役者絵の背景に描かれる花々も、その季節ごとの自然な姿を捉えることで、鑑賞者に「わび・さび」に通じる自然への深い眼差しを促していると言えます。   


これらの美意識は、花を単なる装飾としてではなく、人生や宇宙の調和、そして人間の在り方を映し出す鏡として捉える、日本独自の文化観を形成しています。このシリーズは、歌舞伎という大衆的な娯楽と、これらの高尚な美意識を融合させることで、庶民が日々の生活の中で自然に日本の伝統的な美意識に触れ、それを育むための媒体として機能しました。役者の躍動的な表現と、静謐な花の対比は、見る者に人生の移ろいと自然の普遍性を同時に感じさせ、深い思索へと誘う効果を持っていたと考えられます。   



3.4. 歌舞伎と浮世絵:大衆文化が育んだ美の哲学


浮世絵と歌舞伎は、江戸時代から明治時代にかけて、互いに深く影響し合いながら発展した「大衆文化の双璧」と言えます。浮世絵は、歌舞伎役者の舞台姿や人気演目の場面を描くことで、現代のポスターやブロマイドのような役割を果たし、芝居の宣伝媒体としても機能しました。絵師たちは、芝居が上演される前に役者の構想に基づいて下絵を描いたり、実際に芝居を観て役者の衣装や表情、動作を細密に描写したりしました。   


特に役者絵は、美人画と並ぶ浮世絵の二大柱として展開し、歌舞伎の人気が浮世絵の定着と発展を後押ししました。豊原国周は、この役者絵の分野で独壇場を築き、明治の世にあっても江戸の風雅を残しつつ、役者そのものの魅力を打ち出す画風で当時の人々を魅了しました。   


『十二ヶ月花合』における花と役者の融合は、日本人が自然を単なる背景としてではなく、精神的な意味を持つ存在として捉える美意識の表れであり、花を通して季節感や人生の機微を表現するこの手法は、自然と人間、そして芸術が一体となる日本文化の深層を映し出しています。激動の時代にあって、人々がどのように精神的な安定を保ち、美を見出していたかを示す貴重な手がかりとなるこの作品は、生活の喧騒や政治的混乱から一時的に離れ、内省的な時間を持つための媒介として機能したと言えるでしょう。   


明治時代は、西洋化の波が押し寄せ、日本の社会や文化が大きく変容した時期でした。このような状況下で、『十二ヶ月花合』のような伝統的な題材に焦点を当てた作品が継続的に制作され、広く受け入れられたことは、日本文化が持つ強靭な生命力を示しています。これは、単に過去の様式を保存するだけでなく、新しい時代の中で日本のアイデンティティを再確認し、それを芸術を通じて表現しようとする、能動的な文化の営みであったと理解できます。このシリーズは、激しい変化の中でも、自国の文化的な根源を大切にし、それを次世代へと繋いでいこうとする人々の意識を反映しており、日本の文化的な回復力と適応力を象徴する作品として評価されます。花が持つ「無言の大美」(天地には大いなる美があるが、それは言葉にならない)を浮世絵という大衆的なメディアで表現することで、深い哲学を広く共有し、人々の心の拠り所となることを目指したのです。   



結論:現代に息づく『十二ヶ月花合』の魅力と継承


豊原国周の『十二ヶ月花合』は、単なる美しい浮世絵シリーズではありません。それは、幕末から明治へと時代が大きく転換する中で、日本の花卉文化と大衆娯楽である歌舞伎が織りなした、美と哲学の結晶です。この作品は、国周の卓越した画力と、激動の時代にあっても「江戸の粋」を守り抜こうとした彼の芸術家としての強い意志を今に伝えています。

『十二ヶ月花合』に込められた「不易流行」の精神は、現代を生きる私たちにも深く響きます。変化の速い現代社会において、変わらない自然の美しさや、花に込められた人生の機微、そして自然との共生という日本の根源的な精神性に目を向けることの重要性を、この作品は静かに語りかけているのです 。花を愛で、その中に精神的な意味を見出す日本の花卉文化は、ストレスの多い現代において、心の平穏や集中力を育む貴重な営みとなり得ます。   



豊原国周 筆『十二ヶ月花合』,武川清吉,1880. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9369974









参考/引用






bottom of page