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立原道造と植物:詩と建築が織りなす日本の植物文化

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 6月24日
  • 読了時間: 13分
立原道造の肖像
立原道造 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)


1. 花と詩が誘う、心の庭園へ


現代の喧騒の中で、私たちはしばしば、日常に潜む美しさを見過ごしがちです。しかし、古くから日本人は、自然、特に花や植物に、深い精神性や哲学を見出し、それを文化として育んできました。この豊かな花卉・園芸文化の歴史を紐解くとき、一人の夭折の詩人、立原道造の存在が浮かび上がります 。彼の短い生涯は、詩と建築という二つの芸術に捧げられましたが、その根底には常に、植物への繊細な眼差しと、自然との共生を願う心が息づいていました。   


立原道造の作品は、単なる言葉の羅列ではなく、まるで心の中に広がる庭園のように、私たちを静謐で美しい世界へと誘います。立原の描いた「植物」は、単なる風景の一部ではなく、立原の内面世界や、理想とする生き方を映し出す鏡でした。日本の花卉文化を語る際、多くは具体的な植物の栽培法や、生け花のような造形美に焦点が当てられますが、立原の詩世界は、その物理的な側面を超え、植物が持つ普遍的な生命力や、それが人間に与える精神的な影響に深く迫ります。



2. 立原道造という詩人:夭折の才が遺した軌跡


立原道造(大正3年 (1914) - 昭和14年 (1939) )は、昭和初期に活躍し、わずか24歳8か月で急逝した日本の詩人であり、将来を嘱望された建築家でもありました 。その短い生涯の中で、道造は文学と建築という二つの分野で早熟な才能を鮮やかに開花させました。   


幼い頃から「神童」と称され、旧制一高在学中にはすでに詩人としての天賦の才を堀辰雄に認められています。立原の代表作としては、詩集『萱草に寄す』や『曉と夕の詩』が挙げられます。特に『萱草に寄す』の冒頭を飾る「はじめてのものに」は、多くの人々に口ずさまれてきました。詩作において、立原は青春の憧れと悲哀を音楽性豊かな口語で謳い上げました。立原の詩は、限界まで無駄を省き彫琢された言葉が特徴で、「絵画的」な詩を嫌い「音楽的」な詩を求めました。   


また、立原は手作り詩集の制作にも情熱を注ぎ、『さふらん』『日曜日』『散歩詩集』『ゆふすげびとの歌』といった自装詩集を遺しています。これらの詩集は、楮紙による和装で制作され、レタリングや色彩にまでこだわりを見せるなど、立原の非凡な才能と美的感覚が随所に表れています。詩に14行からなるソネット形式を好んだように、言葉の形式にも強いこだわりを持っていました。   


文学に傾倒しつつも、立原は東京帝国大学工学部建築学科に進み、岸田日出刀の門下生となります。大学卒業後は石本建築事務所に入社し、技術者としても高い評価を得ていました。立原の建築設計図に見られる几帳面で繊細な線やカラーレタリングは、詩の原稿に見られる女性的な小さな丸文字と通底しており、詩と建築が彼の内面で深く結びついていたことを示唆しています。この詩と建築という異なる表現形式における共通の精緻さは、立原が形式と美の追求に一貫した哲学を持っていたことを物語っています。言葉の音楽性や彫琢された表現、そして建築における線や色彩の細部へのこだわりは、すべて調和と洗練された美を求める彼の芸術的衝動の表れでした。   


しかし、建築家としての本格的な活躍を始める前に、結核に罹患し、昭和14年 (1939) 3月29日にわずか24歳でその生涯を閉じました。立原の構想した建築の多くは実現を見ませんでしたが、その短い一生に残した足跡は、今なお多くの人々に深い感動を与え続けています。   



3. 昭和初期の時代背景と文学潮流:モダニズムの息吹の中で


立原道造が活躍したのは、大正末期から昭和初期にかけての激動の時代でした。この時期の日本は、関東大震災からの復興、都市化の進展、そして国際情勢の緊迫化といった社会的な変化の中で、文学や芸術も大きな転換期を迎えていました。   


当時の文学界では、大正13年 (1924) に発刊された『文藝時代』に集まった「新感覚派」と呼ばれる作家たちによって、日本のモダニズム文学が幕を開けます。彼らは旧来の文学からの脱却を図り、都市生活の感覚や新しい表現形式を模索しました。詩壇においては、立原道造は堀辰雄が主宰する詩誌「四季」(第二次)に参加し、詩人として本格的にデビューしました。この「四季派」は、西洋のリルケに見られるような近代的な実存の深淵を見つめる姿勢を持ち、穏健な抒情詩を特徴としていました。   


一方で、同時期には「コギト派」のような、より実験的で時代へのヒステリックな抵抗姿勢を持つ文学潮流も存在しました。立原道造は、この「コギト派」の田中克己に対して「輪郭だけを描いて色を塗らなかった詩人」として反発を感じていたとされており 、道造の詩風が、具体的な描写よりも内面的な響きや音楽性を重視する「四季派」の美学と深く結びついていたことを示唆しています。   


立原の生涯は短く、昭和14年 (1939) に夭折したため、立原の文学的進化は途上で終わりました 。しかし、この夭折こそが、作品に「未完の美」という独特の魅力を与えることになりました。吉本隆明が指摘するように、立原は自身の自然観の表現感覚を変更することなく若くして亡くなったため、その詩は青春期の多感な感情や、自然への純粋な眼差しをそのままの形で結晶させました。この純粋さが、時代や世代を超えて普遍的な共感を呼び続けている理由です。立原の文学的進化が途上で終わったからこそ、その初期の、最も純粋な詩情が色褪せることなく、多くの読者の心に響くのです。これは、日本の花卉文化における「移ろいの美」や「一瞬の輝き」といった哲学とも通じる、深い精神性を持っていることを示唆しています。彼は、モダニズムの波が押し寄せる中で、抒情詩の可能性を追求し、独自の詩世界を確立した重要な詩人として、日本文学史にその名を刻んでいます。   



4. 立原道造の自然観と植物描写:心象風景に咲く花々


立原道造の詩において、植物や自然は単なる背景ではなく、立原の内面世界を映し出す重要な要素です。立原の自然描写は、具体的な固有名詞を避ける傾向があり、非常に抽象的です。例えば、特定の鳥の種類や木の名前はほとんど登場せず、「小鳥」や「樹々」といった総称で表現されます。   


しかし、その抽象性の一方で、立原は自然物を「擬人化」する特徴を持っています。「樹々たち」や「花たち」のように、人間にのみ用いられるような複数形を使うことで、自然を感情を持つ存在として捉え、人間と同等の目線で感応しようとしました。これは、立原が自然を客観的な対象としてではなく、共鳴しうる生命体として見ていた証です。   


吉本隆明は、立原道造の自然に対する感覚的な特徴として、五感(視覚、嗅覚、触覚、聴覚など)がすべて「融和」し、融合している点を指摘しています。例えば、嗅覚である「匂い」が視覚的な意味合いで使われたり、風の音を「風の匂いがした」と表現したりします。これは、日本の伝統的な詩歌、特に新古今集に見られる感覚の融合を、立原がさらに極端に推し進めたものとされます。立原の詩は、具体的な現実感を意図的に遮断し、抽象的な領域で物語を紡ぐ傾向があり、特定の現実的な匂いを排除しようとする意図が見られます。   


吉本はさらに、立原の自然観が「内臓感覚」に近いと考察しています。人間の中の植物部分や静物部分が自然と感応するレベル、つまり意識的な感覚器官を通してではなく、身体の奥底で根源的に感じ取るものとして自然を捉えていたというのです。立原の詩における植物描写の「抽象性」は、日本の花卉文化に新たな深みをもたらします。立原は特定の植物の美しさだけでなく、植物が持つ普遍的な生命力、循環、そしてその存在そのものに宿る精神性を捉えようとしました。この抽象的な視点は、読者が個々の花や植物の姿形を超えて、自然全体との一体感や、生命の根源的な美しさを感じ取ることを促します。これは、日本の花卉文化が単なる装飾や園芸技術に留まらず、自然との対話や、その中に見出す「いのち」の尊さを追求する哲学的な側面を持つことを、立原の詩を通して再認識させるものです。立原の詩は、具体的な「花」を愛でる行為の背後にある、より大きな「自然観」への扉を開きます。   


吉本隆明が指摘する立原道造の「内臓感覚」による自然観は、日本の花卉文化が持つ根源的な精神性を浮き彫りにします。これは、植物や自然を、単なる外部の対象としてではなく、私たち自身の身体の一部、あるいは生命の根源的な営みと一体のものとして捉える視点です。意識的な思考や五感を超え、身体の奥底で自然の息吹を感じ取るこの感覚は、日本の伝統的な「自然との共生」の思想、そして花や植物を通じて自己の内面と向き合う姿勢と深く共鳴します。立原の詩は、花卉文化が単なる視覚的な美しさだけでなく、人間の存在そのものと深く結びついた、より深い「いのち」の表現であることを示唆しているのです。   


詩の中の具体的な描写としては、「庭一杯に茂り合つた いろんな植物の黒ずんだ葉の 重 かさな りや 花の 色彩 いろどり が 緻密画のやうに鮮やかに 小さく遠のいてうつる」といった、庭の植物の色彩や重なりを緻密な絵画のように捉える視点があります。また、「ひとり林に だれも 見てゐいないのに咲いてゐる 花と花だれも きいてゐないのに啼いてゐる 鳥と鳥」という詩では、人間が見ていなくても、聞いていなくても、自然はそれ自体として存在し、生命を謳歌しているという、自然の自律性を描いています。ここでは、立原自身が描写の中心にいることはなく、その存在は希薄で、自然界にあるものをそのまま抗うことなく受け入れ、描写する姿勢が示されています。   


「草に寝て」という詩では、「花にへりどられた 高原の林のなかの草地」という情景が描かれ、「希望と夢と 小鳥と花と 私たちの友だちだつた」と、花が希望や友愛の象徴として登場します。また、「ゆうすげ」という淡い黄色の花を「諦めきったすがすがしさで、夕ぐれ近い高原の叢に、夏のはじめから夏のなかばまで日ごとのつとめとしてひらく花」と表現し、そのはかなさの中に美しさを見出しています。これらの描写からは、立原道造が、植物を単なる客観的な存在としてではなく、人間の感情や精神と深く結びついた、生命の象徴として捉えていたことが伺えます。立原の詩に登場する植物は、立原の心象風景の中に咲き誇る、普遍的な美と生命の輝きを表現しているのです。   



5. 文化的意義と「風信子ハウス」の夢:花卉文化への新たな視点


立原道造の文化的意義は、詩と建築という二つの異なる芸術分野を横断し、それらを立原の独特な自然観と美学で融合させようとした点にあります。立原は、歌人の師から「体が弱く詩だけでは生計を立てられない」と心配され、総合造形芸術である建築を勧められました。立原自身も「確かに建築ならば、両立できそうな気がする」と考え、建築学科に入学しています。   


立原の美学は、理系的なセンスと詩作の融合に見られます。14行からなるソネット形式を好んだように、詩にも形へのこだわりを持ち、大学の卒業設計では「浅間山麓に位する芸術家コロニーの建築群」をテーマとし、芸術と建築という彼にとっての二つの道を一つに融合させようとしました。   


特に象徴的なのが、立原が構想した「風信子(ヒアシンス)ハウス」の夢です。これは、浦和の別所沼の畔を地所として構想された5坪の洋風ワンルームの小住宅であり、森の中に建ち、窓にはレースのカーテンがかかり、男女がブレックファーストを食べている情景が描かれていました。この構想は、当時の時代を先取りした画期的なものであり、単なる住居を超えて、自然と共生する理想の生活空間を具現化しようとする彼の哲学が込められていました。   


「風信子」という花の名前を冠したこの建築の夢は、立原が植物を単なる装飾としてではなく、生活の中心に据え、自然と一体となった空間を創造しようとした強い意志を示しています。立原は「窓がほしい。たったひとつ…」と書き残しており 、これは外界の自然と内面の空間を繋ぐ、繊細で詩的な窓への憧れであり、立原の美学の結晶とも言えます。窓辺に飾る花は「リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい」と具体的に言及している点も、彼の植物への深い愛着を示しています。   


立原道造が夢見た「風信子ハウス」は、単なる建築設計図を超え、「理想の空間」の哲学を象徴しています。この「花」の名を冠した住まいの構想は、人間が自然の中に身を置き、植物の息吹を日常に取り入れることで、いかに精神的な豊かさを得られるかという、彼の深い洞察を示しています。これは、日本の庭園が生み出す静謐な空間や、生け花が表現する自然の縮図といった、花卉文化が追求する「自然との調和」と「内面的な平和」という普遍的な価値観を、建築という形で具現化しようとした試みと言えます。立原の夢は、花卉文化が単に美しいものを鑑賞するだけでなく、生活そのものを芸術として昇華させ、自然との一体感を追求する、より高次の精神性を持つことを示唆しているのです。   


立原の作品は、具体的な人間関係の葛藤よりも、普遍的な喪失や追憶といった心理的側面を追求しており、倫理性が希薄であると吉本隆明は指摘しています。しかし、このことが逆に、立原の詩をより純粋な美の探求へと向かわせたとも言えるでしょう。   


立原道造の「風信子ハウス」の夢が彼の生前に実現しなかったことは、かえってその構想に普遍的な共感と、時を超えた文化的意義を与えています。未完の夢は、現実の制約から解放され、純粋な理想の姿として輝き続けます。この「未完の美」は、花卉文化が追求する、自然との完璧な調和という永遠のテーマと重なります。彼の夢は、単なる建築のアイデアに留まらず、人間が自然とどのように向き合い、どのような空間で生きるべきかという、根源的な問いを私たちに投げかけ続けています。それは、日本の花卉文化が、常に理想を追求し、自然の美しさの中に人間の精神的な豊かさを見出そうとする、終わりのない旅であることを示唆しているのです。   




6. 結び:時を超えて息づく、立原道造の植物への想い


立原道造の短い生涯は、詩と建築という二つの芸術を通じて、私たちに日本の花卉文化の新たな側面を教えてくれました。立原の詩に描かれる植物は、具体的な描写を超え、普遍的な生命の輝きや、内面的な風景を映し出す鏡でした。そして、「風信子ハウス」の夢は、自然と一体となった理想の生活空間を追求する、立原の深い哲学の結晶です。

立原は、花や植物を単なる美しいものとしてではなく、人間と自然が根源的に共鳴し合う存在として捉え、その精神性や哲学を作品に昇華させました。その抽象的でありながらも深い感性は、日本の花卉文化が持つ、形を超えた精神性や、自然との調和を重んじる美意識と深く通じています。

立原道造の作品は、現代の日本の花卉文化に「詩的視点」という新たな価値をもたらします。立原の詩や建築の構想を通じて、私たちは花や植物を単なる観賞の対象としてではなく、自己の内面と向き合い、生命の普遍的な営みに思いを馳せるための媒介として捉えることができます。この視点は、花卉文化が持つ精神的な深みを再認識させ、忙しい現代社会において、自然との対話を通じて心の豊かさを育むことの重要性を教えてくれます。立原の作品は、花卉文化が単なる趣味や装飾に留まらず、人間存在の根源的な問いと結びつく、奥深い文化であることを示唆しているのです。

立原道造の紡いだ言葉と夢見た空間は、時を超えて、日本の花卉文化の魅力を再発見するきっかけとなるでしょう。彼の植物への想いは、今も私たちの心の中で、静かに、そして力強く息づいています。







参考/引用






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