斎藤兼光と『一白花譜』
江戸時代の本草学者 斎藤兼光と白い花への探求
斎藤兼光は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した本草学者です。文化8年6月6日(1811年)に江戸で生まれ、明治26年(1893年)に83歳で亡くなりました。旗本として幕府に仕え、文政11年(1828年)には賄方という役職に就いていた記録が残っています。
兼光は、江戸時代後期の著名な本草学者である栗本丹洲に師事し、本草学を深く学びました。本草学とは、主に薬用となる植物を研究する学問で、当時の日本では西洋の近代植物学が導入されるまで、医学や薬学と密接に結びついていました。
兼光は、特に白い花を咲かせる植物に強い興味を持ち、江戸の小石川に「一白園」と名付けた庭園を築き、様々な種類の白い花を栽培していました。自身の庭園を「一白園」と名付けたことからも、白い花への強いこだわりが伺えます。そして、長年の探求の集大成として、白い花を咲かせる植物だけを集めた図譜『一白花譜』を編纂しました。維新後は静岡に移り住み、掛川農学社の創立に尽力したことも知られています。
兼光が『一白花譜』を編纂した動機は、明らかにはされていません。しかし、白い花に造詣が深かったこと、そして本草学者として薬草の研究にも携わっていたことから、白い花への深い興味と、薬草としての白い花の効能を記録しようとした可能性が考えられます。
白い花を愛でる、江戸の本草学者の情熱が詰まった『一白花譜』
『一白花譜』は、兼光が生涯をかけて収集した白い花の植物を、精緻な絵と解説文でまとめた、貴重な図譜です 。出版された年は不明ですが、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧することができます 。構成や収録植物数などの詳細は不明ですが、白い花を咲かせる植物への兼光の深い愛情と本草学の知識が凝縮された資料と言えるでしょう。
『一白花譜』が他の植物図譜と一線を画すのは、白い花のみを対象としている点です。江戸時代には、ツバキやサクラ、キクなど、様々な植物の図譜が制作されていましたが、特定の色の花に焦点を当てた図譜は非常に珍しかったと考えられます 。
当時の日本では、白は純粋さや清らかさの象徴として、特に神聖な色とされていました。兼光が白い花に惹かれた背景には、こうした文化的・美的背景も影響していたのかもしれません。
斎藤兼光と『一白花譜』が残したもの
斎藤兼光は、旗本でありながら、本草学者として植物研究に情熱を注ぎ、多くの白い花を収集し、『一白花譜』を編纂しました。その探求心と情熱、そして白い花への深い愛情は、時を超えて現代の私たちにも感銘を与えます。
『一白花譜』は、江戸時代の植物学や本草学、園芸文化を知る上で貴重な資料であると同時に、自然の美しさや多様性を再認識させてくれるものでもあります。兼光が生涯をかけて探求した白い花を通して、自然と人間の関わりについて改めて考えてみるのも良いでしょう。
乾
斎藤兼光『一白花譜 2巻』[1],写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2558136
坤
斎藤兼光『一白花譜 2巻』[2],写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2558137