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江戸琳派の粋と自然への眼差し:酒井抱一が遺した『鶯邨畫譜』の魅力

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 2024年4月16日
  • 読了時間: 15分

更新日:6月23日

日本の四季は、古くから人々の心に深く根ざし、その美しさは詩歌や絵画を通じて表現されてきました。特に、花卉や園芸は、単なる趣味を超え、日本文化の精神性や美意識を映し出す鏡として発展を遂げています。

本記事では、江戸時代後期に「江戸琳派の祖」と称された絵師、酒井抱一が手掛けた絵手本『鶯邨畫譜』に焦点を当てます。この画譜は、抱一の洗練された美意識と、自然への深い洞察が凝縮された一冊であり、当時の園芸文化や人々の暮らしにどのような影響を与えたのかを探ります。

『鶯邨畫譜』を通じて、日本の花卉文化が持つ奥深さ、そして時代を超えて私たちに語りかける美の本質に触れてみませんか。



1. 『鶯邨畫譜』とは:江戸琳派が紡ぐ花鳥の世界



1.1. 雅な絵手本の概要:その形式と特徴


『鶯邨畫譜』は、酒井抱一が自ら手掛け、生前に唯一刊行した自身の絵手本、すなわち画譜です。書名の「鶯邨(おうそん)」は、抱一が49歳で移り住んだ根岸が鶯で有名だったことに由来する彼の俳号であり、晩年の抱一の自然への親しみを象徴しています。この号を画譜のタイトルに冠したことは、単なる技術的な絵手本ではなく、抱一の成熟した自然主義的な感性と詩的な深みが作品全体に息づいていることを示唆しています。彼の初期の奔放な生活から、より穏やかで瞑想的な境地へと移行した晩年の心境が、この号の選択に反映されていると考えることができます。   


本書は四色刷りの和綴じ豆本(B7変型判、46頁)として復刊されており、その雅な画風と洒脱な俳画が特徴です。収録されている画題は多岐にわたり、富士、糸桜、女郎花、梅、笛、桜町大納言、杜若といった和の草花や、縁起物、さらには平安時代から続くやまと絵の伝統的な様式の公卿や官女、行事などが含まれています。特に、梅の枝の描写には、抱一が私淑した尾形光琳の影響が見られます。画譜全体で約25図が収録されており、精密な線描で円形の中に描かれた朝顔や牡丹などの草花100点、そして桜、牡丹、菊、紅葉、松竹梅、唐草など古典的な植物文様300点余りの図案集としても機能していました。   


この幅広い画題の収録は、抱一が単に植物の正確な描写法を伝えるだけでなく、日本の文化や象徴的な意味合いを含む、総合的な芸術的語彙を提供しようとした意図を示しています。これにより、『鶯邨畫譜』は、単なる「植物画集」ではなく、より広範な芸術的インスピレーションやデザインの源泉として機能し、花卉・園芸分野に限定されない多様な芸術的関心に応えることを目的としていたと解釈できます。画譜の役割を単なる技術指南書から、日本の美意識全体を伝える包括的なガイドへと深化させるものでした。



1.2. 卓越した版画技術:拭きぼかしに代表される高度な表現技法


『鶯邨畫譜』の絵には、特徴的な美しいグラデーションが見られます。これは、版木をしめらせて刷る「拭きぼかし」という錦絵の高度な技法によるものです。この技法は、繊細なグラデーションや柔らかな色彩表現を実現し、絵に深みを与えました。初版本(文化14年/1817)の表紙には、尾形光琳の代表的モチーフである「波模様の雲母刷」が施されており、後に「光琳波」と呼ばれるこの文様は、特に工芸の分野で広く利用されました。淡泊な色使いを基調としながらも、拭きぼかしなどの技法を駆使することで、気品に満ちた世界観を表現しています。   


『鶯邨畫譜』が単に何が描かれているかだけでなく、どのように印刷されているかという点も重要です。これらの技術は、繊細なグラデーションや柔らかな色彩表現を実現し、絵に深みを与えました。これは、抱一が古典的な琳派の美学に根ざしながらも、版画技術の革新にも積極的であったことを示しています。高度な木版画技術の採用は、量産可能な形式で洗練された美的品質を追求する意図があったことを示唆しています。この芸術的ビジョンと技術的熟練の融合により、高品質な芸術作品が広く普及し、江戸時代の大衆に洗練された芸術表現へのアクセスが提供されました。これは、芸術家が印刷技術を積極的に活用して自身の表現範囲と影響力を拡大し、純粋芸術と大衆文化の間の橋渡しをした、当時の重要な傾向を浮き彫りにしています。   



2. 酒井抱一の生涯と時代背景:風雅を愛した貴公子の軌跡



2.1. 姫路藩主の弟から絵師へ:抱一の生い立ちと出家までの道のり


酒井抱一は、宝暦11年(1761)に、徳川家重臣の名門大名家である姫路藩主・酒井雅楽頭家の世嗣の次男として江戸に生まれました。幼い頃から俳諧や書画を嗜み、狩野派の絵師から学びました。兄・忠以が藩主を継いだことで、抱一は自由な環境で青年期を過ごし、吉原での遊興や狂歌、浮世絵など、江戸の市井文化にも深く親しみました。彼の複雑な生い立ちと部屋住み生活が、風雅な道へと進むきっかけになったとも言われています。   


抱一の貴族としての生い立ちは、当初は彼に余暇と文化へのアクセスを提供しましたが、同時に制約も伴いました。「部屋住み」という身分は、一見すると制限的ですが、逆説的に彼に公務からの自由を与え、芸術や文学の探求に没頭することを可能にしました 。しかし、抱一を庇護していた兄・忠以が寛政9年(1797)に36歳で病没すると、その3年後には酒井家の屋敷を出て、37歳で出家し、武士の身分を離れました。この出家は、一見すると隠遁のように見えますが、実際には武士としての身分から完全に離れ、芸術に専念するための意図的な行動でした。これは、彼が芸術的表現のために「自由を求め、創造する」というパターンを示しており、社会的な役割(貴族、僧侶)を自身の芸術的発展のための手段へと転換させたことを意味します。   



2.2. 江戸琳派の確立と光琳への傾倒:尾形光琳を私淑し、独自の画風を築いた経緯


出家後、抱一は尾形光琳の画風に深く傾倒するようになります。光琳はかつて酒井家に召し抱えられていた時期もあり、抱一は幼い頃から酒井家に残る光琳作品に触れる機会があったと考えられています。抱一は光琳の画技を習得するだけでなく、その顕彰活動にも尽力しました。文化12年(1815)には、光琳の百回忌法要を企画し、その記念に『光琳百図』を刊行しました。また、荒廃していた京都の光琳の墓を整備するなど、光琳の後継者としての地位を確立しました。   


抱一は、俵屋宗達や尾形光琳の装飾性豊かな芸術観を受け継ぎながらも、俳諧性や洒脱な画風を取り入れ、江戸好みの作風へと昇華させ、独自の画風を確立しました。この功績により、「江戸琳派の祖」と称されています。彼の作風は、装飾性やデザイン性に富み、現代人の感性にも響く革新的なものでした。琳派が直接的な師弟関係ではなく「私淑」によって継承されてきたことは、その特徴として強調されます。抱一は、琳派の直接の師を持たなかったにもかかわらず、光琳の作品を深く研究しました。この直接的な指導からの自由が、抱一に古典的な琳派様式に当時の江戸の美意識、彼自身の詩的な感性(俳諧)、そして自然主義的なアプローチを融合させることを可能にしました。これは、琳派の伝承そのもの、すなわち個人的な学習と再解釈を通じての伝承が、世代を超えたその適応性と持続的な革新の主要な原動力であったことを示唆しており、抱一の「江戸琳派」が独特で現代的な琳派の表現として確立された背景を説明します。   



2.3. 『鶯邨畫譜』制作の背景:晩年の抱一と、絵手本としての出版意図


抱一は晩年、俳号「鶯邨」を名乗った根岸に居を構え、その時期に『鶯邨畫譜』を出版しました 。初版は文化14年(1817)に刊行されています。この画譜は、抱一が光琳の作品を集成した『光琳百図』と同様に、琳派の画風を学習し、流布させるための重要な資料として位置づけられてきました。   


『鶯邨畫譜』は「絵手本」として出版されており、当時の園芸愛好家や絵を学ぶ人々に対し、和の草花や縁起物、人物画などの描き方を示すことを意図していました。当時の出版界では、北斎をはじめとする有力絵師が自身の雅号を冠した画譜を出す傾向があり、抱一もその流れの中で、自身の洗練された画風を広く紹介し、普及させることを目的としていたと考えられます。抱一のような高名な芸術家が『鶯邨畫譜』を「絵手本」として出版したことは、特に彼の晩年の確立された時期において、個人的な芸術創作を超えて「芸術教育と文化普及」への意識的な動きを示唆しています。これは、抱一が琳派を習得し発展させた後、自身の洗練された美意識と琳派の伝統を、絵を学ぶ人々や一般の愛好家を含むより広い層に到達させたいという責任感や願望を持っていたことを示唆します。これにより、「絵手本」は単なる技術指導書から、強力な文化伝達のツールへと変貌し、高尚な芸術へのアクセスを民主化し、江戸の活気ある文化シーンにおける芸術様式の継続と進化を確実なものにしました。これは、当時のマスターアーティストがより公共的かつ教育的な役割を担うようになった変化を反映しています。   



3. 『鶯邨畫譜』に息づく美意識と哲学:自然と心の調和



3.1. 琳派の装飾性と自然主義の融合:抱一が描く花鳥画の革新性


酒井抱一は、尾形光琳に私淑し、その装飾性豊かな琳派の画風を継承しつつも、独自の「俳味」と「洒脱さ」を加え、江戸好みの洗練された画風を確立しました。抱一は「近代日本画の先駆者」とも評されるほど、当時としては革新的で独創的な絵師でした。作品は、琳派の装飾性(例えば金銀箔の大胆な使用)と、花鳥画における繊細な自然主義的描写(草花の微妙な表情や色彩の変化を生き生きと描く筆致)を融合させている点が大きな特徴です。   


『流水四季草花図屏風』に代表されるように、抱一は流れる水と咲き乱れる草花を組み合わせることで、四季の移ろいや生命の循環、時間の経過を巧みに表現し、見る者の心を揺さぶる情感豊かな作品を生み出しました。『鶯邨畫譜』においても、淡泊な色使いを基調としつつ、拭きぼかしなどの高度な技法を用いて気品に満ちた世界を現出しており、この融合的な美意識が反映されています。抱一は、貴族でありながら江戸の大衆文化に深く没頭したため、古典的な宮廷美学(琳派の雅)と江戸の洗練された都市感覚(市井文化)の間の橋渡しをする独自の立場にありました。抱一が琳派の装飾様式に「粋」と「通」を取り入れたことは、その芸術が伝統的なパトロンだけでなく、これらの価値観を重んじる新興の町人階級や教養ある庶民にも訴えかけたことを意味します。これは、『鶯邨畫譜』が単に描画技術を伝達するだけでなく、江戸特有の美学哲学を微妙に教え込み、芸術を江戸の文脈における文化的洗練と社会的区別の手段としたことを示唆しています。   



3.2. 俳諧と芸術観の関連性:抱一の詩情と洒脱な表現の源泉


抱一は絵画だけでなく、狂歌や俳句にも深く傾倒し、狂歌師の太田南畝など多くの文化人と交流していました。抱一の芸術観は、装飾性と叙情性、古典的な文学趣味を貫き、「粋」と「通」を重んじる繊細さによって特徴づけられます。作品には、俳諧からくる詩情が取り入れられ、洒脱な画風へと昇華されています 。例えば、『十二か月花鳥図』では、各月に描かれた草花を通じて、和と漢の融合が解釈されており、その背景には抱一の教養、特に俳諧という文化が大きく関わっていたことが示唆されています。『鶯邨畫譜』の書名自体が俳号「鶯邨」に由来することからも、抱一の俳諧への深い関心と、それが作品全体に与える詩的な影響がうかがえます。   


俳諧、特に俳句は、その簡潔さ、示唆に富む力、そして「間」(ま、空間や間隔)と暗示された意味の重要性で知られています。抱一の俳諧への深い関与は、彼の視覚芸術に自然に影響を与えたと考えられます。俳諧が抱一の絵画、ひいては『鶯邨畫譜』に与えた影響は、単なる画題(特定の植物や季節のテーマ)を超えています。それは、示唆、線の経済性、そして余白の喚起力を重視する構図への哲学的なアプローチを示唆しています。この「間」またはネガティブスペースは、日本の美学に共通するものであり、鑑賞者の想像力がその空白を埋めることを可能にし、作品とのより深く個人的な関与を生み出します。これは、一見シンプルな『鶯邨畫譜』の「絵手本」形式が、単に描き方だけでなく、俳諧のような文学的伝統から派生した、言外のものを重視し、喚起力のある詩的な感性で構図を学ぶことを subtly 教えていることを示唆しています。



3.3. 日本人の自然観と精神性:作品に込められた四季への敬愛と「心」の表現


日本の花鳥画は、中国の水墨画の流れを汲みながらも、日本独自の繊細な感性によって発展し、日本人の自然に対する独特の感性や、四季の移ろいを繊細に捉える美意識を表現してきました。花鳥画は単なる自然描写を超え、季節感、祝福、縁起を表す生活文化の一部として根付いています。抱一の作品、例えば『流水四季草花図屏風』では、流れる水が生命の循環と時間の経過を象徴し、咲き乱れる草花が自然の美しさと生命の輝きを表現しています。抱一の花鳥画は、日本ならではの自然観や美意識に触れる機会を提供します。   


『鶯邨畫譜』に収録された和の草花や、富士、梅といった画題は、日本人が古くから愛でてきた自然の象徴であり 、抱一がそれらを絵手本として残したことは、自然への深い敬愛と、その美を次世代に伝えたいという精神性の表れと言えるでしょう。抱一の作品、そして『鶯邨畫譜』は、単なる植物の図鑑的な描写を超越しています。伝統的な「花鳥風月」のテーマに、独自の装飾性、自然主義、そして詩的な感性を融合させることで、自然を単に描くのではなく、独特の日本の精神的な視点を通して「解釈」しました。これは、『鶯邨畫譜』が描画技術だけでなく、日本の自然に深く根ざした繊細な美と象徴性を鑑賞し、理解するための手引きとしても機能していることを示唆しています。それは、鑑賞者や学習者に、自然を外部の存在としてだけでなく、内なる調和の反映であり、普遍的な美の源泉として捉えることを促し、日本の文化の精神的な側面とのより深い繋がりを育むものです。   



4. 江戸の園芸文化と絵手本の役割:知識と美の普及



4.1. 庶民に広がる園芸ブーム:江戸時代の花卉愛好と絵手本の需要


江戸時代中期は、徳川の治世が安定し、人々の生活に経済的・時間的な余裕が生まれた「太平の世」であり、園芸や美術といった余暇の趣味が爆発的に発展する土壌となりました。この時代には、往来や縁日で植木売りが店を広げ、家の軒先を鉢植えで飾るなど、庶民の間でも園芸が流行しました。特に、花弁を変化させた朝顔や、プロの技巧を楽しむ菊細工など、多様な園芸が人気を博しました。こうした園芸の流行は、浮世絵の格好の画題となるほど、当時の社会に深く浸透していました。   


江戸時代の平和と経済的安定は、単に園芸ブームを生み出しただけでなく、これまでエリート層に限られていた文化的活動へのアクセスを民主化しました。この広範な関心は、実用的な知識と芸術的インスピレーションへの需要を育み、その結果、「絵手本」や「園芸図譜」の普及につながりました 。これは、芸術と自然鑑賞が社会のあらゆる階層の日常生活に統合され、芸術作品の生産と出版業界の両方を推進したという、重要な文化的変化を示唆しています。この「ブーム」は、単に多くの人々が園芸をするようになっただけでなく、園芸の実践が「深化し多様化」し、浮世絵や絵手本といったより広範な文化的表現に統合されたことを意味します。   



4.2. 『鶯邨畫譜』が果たした役割:美術史における位置づけと後世への影響


江戸時代には、植物図譜や絵手本が数多く出版され、新たな植物の紹介や栽培知識の普及に貢献しました。これらの出版物は、美しい植物図で人々の関心を喚起し、実際に植物を育てる意欲を高める役割を果たしました。   


『鶯邨畫譜』は、酒井抱一という一流絵師による「絵手本」として、当時の園芸愛好家や絵を学ぶ人々にとって、洗練された画風と高度な技術を学ぶ貴重な機会を提供しました。特に「拭きぼかし」のような高度な版画技法は、錦絵の先駆となり、浮世絵における色彩表現の多様化を促すなど、日本の美術史に大きな影響を与えました。抱一の画譜は、与謝蕪村の絵画手本が浮世絵技術に影響を与えたように、当時の画家や工芸家たちに、琳派の装飾性と自然主義を融合させた新たな表現の可能性を示唆したと考えられます。また、抱一が光琳作品の顕彰活動の一環として『光琳百図』を刊行したように 、『鶯邨畫譜』もまた、琳派の美意識を広く伝え、後世の芸術家たちに影響を与える役割を担いました。   


江戸時代に『鶯邨畫譜』のような「絵手本」が普及したことは、知識と美的基準の民主化における重要な発展を示しています。以前は、芸術技術や洗練された美学は、特定の流派や貴族のサークルに限定されていたかもしれません。しかし、印刷された絵手本を通じて、これらの技術と感性は、意欲的な芸術家、職人、そして文化的な追求に関心のある一般の人々を含む、より広い大衆にアクセス可能になりました。これは、芸術技術を広めただけでなく、特定の美的形式(例:琳派様式での梅の描写方法)を標準化するのに役立ち、幅広い工芸品や視覚文化に影響を与えました。したがって、『鶯邨畫譜』は、大家の洗練された芸術を複製可能な形式に変換する媒体として機能し、それによって時代の視覚言語と芸術的嗜好を形成しました。これは、出版と文化発展の間の強力な因果関係を示すものです。



結び


酒井抱一の『鶯邨畫譜』は、単なる絵の手本に留まらない、多層的な魅力を持つ作品です。それは、抱一自身の卓越した芸術性、琳派の伝統と江戸の粋が融合した美意識、そして自然への深い敬愛が凝縮された一冊と言えます。

この画譜は、当時の園芸ブームの中で、人々に植物の美しさを伝え、描く喜びを教え、さらには日本独自の自然観や精神性を育む役割を果たしました。高度な版画技術によって、その美は広く普及し、後世の美術にも大きな影響を与えました。

現代に生きる私たちも、『鶯邨畫譜』を通じて、江戸時代の人々が自然とどのように向き合い、その中にどのような美を見出していたのかを感じ取ることができます。抱一が遺したこの貴重な文化遺産は、日本の花卉・園芸文化の奥深さを再認識させ、私たち自身の暮らしの中に「花鳥風月」の美を取り入れるきっかけとなるでしょう。



抱一 筆『鶯邨畫譜』,須原屋佐助,[18--]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2542559








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