狩野山雪筆「老梅図襖」:力強い生命力と革新性
- JBC
- 2023年12月17日
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更新日:6月23日

日本の豊かな文化の中で、植物は単なる自然の一部以上の意味を持ってきました。四季の移ろいを繊細に映し出し、人々の心に深く寄り添う存在として、花卉や園芸文化は独自の発展を遂げてきたのです。では、古の絵師が描いた一本の梅の木が、現代を生きる私たちに、日本の植物文化の奥深さをどのように語りかけるのでしょうか。本稿では、メトロポリタン美術館に所蔵される狩野山雪の傑作「老梅図襖」を紐解き、その芸術性、歴史的背景、そして老梅に宿る日本の精神性に迫ります。この襖絵が、いかに日本の花卉・園芸文化の本質と魅力を伝えているのか、その秘密を発見する旅に出かけましょう。
この「老梅図襖」は、単なる美術品として鑑賞されるだけでなく、絵画と花卉・園芸文化とを結びつける重要な役割を担っています。梅という植物を主題としたこの絵画は、日本の花卉・園芸文化において深く重要な象徴とされてきました 。作品が描く梅の生命力や独特の美意識は、美術史の枠を超え、日本の植物文化に対する深い洞察を提供します。この多角的な視点から作品を捉えることで、日本の文化に初めて触れる方から、植物の専門家、そして深い知識を求める方々まで、幅広い読者の興味に応え、記事の関連性と魅力を高めることができるでしょう。
1. 「老梅図襖」とは:奇跡の襖絵の概要
狩野山雪の「老梅図襖」は、その圧倒的な存在感と独特の表現で、観る者を魅了し続けています。この章では、まずこの傑作の基本的な情報と、その視覚的な特徴について解説します。
1.1. メトロポリタン美術館に息づく傑作
「老梅図襖」は、江戸時代(17世紀)に京狩野派の絵師、狩野山雪によって描かれた四面の襖絵です 。紙本金地着色(しほんきんじちゃくしょく)という、金箔を貼った紙に彩色を施す豪華な技法が用いられており、各面が縦166.7cm、横116.0cmという堂々たる寸法を誇ります 。現在、この作品はアメリカ・ニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されており 、海を渡った日本の至宝として世界中の人々を魅了し続けています。
この襖絵は、元来、京都の臨済宗妙心寺の塔頭である天祥院の方丈(住職の居室)を飾る障壁画として制作されました 。障壁画としての襖絵は、単なる独立した絵画として存在するのではなく、建築空間と一体となり、部屋の雰囲気や機能、そしてそこに集う人々の精神性に深く関わるものでした。
1.2. 視覚的特徴:生命力溢れる老梅の描写
「老梅図襖」の最も印象的な視覚的特徴は、その圧倒的な構図と筆致にあります。画面中央に配された老梅の幹は、墨の濃淡を駆使した力強い筆致で描かれ、まるで地面から横に伸び、天を向いて上昇し、やがて下降して何かを追い求めるかのように左へと伸び続ける、生きているかのようなダイナミズムを感じさせます。その姿は「爬虫類にも似た」と評されるほど奇抜でありながら、画面の枠を飛び出しそうなほどの迫力に満ちています。
この作品には、「老い」と「若さ」の鮮やかな対比が表現されています。太く大きく節くれだった幹から空間を探るように突き出した枝には、初春を告げる繊細で可愛らしい小さな梅花がいきいきと描かれ、画面に華やかさを添えています。この対比は、作品に深い象徴性をもたらし、山雪晩年の大作として、彼の老いの中にも生命力が満ち溢れる様を描いたものとも解釈されています。金地の背景は、梅の力強い姿を一層際立たせ、豪華さと神聖さを同時に表現しています。
この「老い」と「若さ」の鮮やかな対比は、単なる視覚的要素に留まらず、日本文化における「わび・さび」の美意識と生命の「再生」という普遍的なテーマを深く表現しています。梅の木を「老梅」「爬虫類にも似た」「老い行く」と表現しつつ、そこから「小さな梅花がいきいきと、またかわいらしく描かれ」ている点は、単に古木を描いたのではなく、その古木から新たな生命が芽吹くという「再生」のプロセスを視覚的に表現していることを示唆しています。日本の伝統的な美意識である「わび・さび」は、古びたものや簡素なものの中に美を見出すものですが、それは単なる衰退ではなく、その中に宿る生命力や時の流れが醸し出す深みを尊ぶものです。この襖絵は、まさにその「わび・さび」と「再生」の共存を象徴しており、日本の花卉・園芸文化における古木の盆栽や庭木の鑑賞にも通じる深い精神性を提示しています。
2. 歴史と背景:狩野山雪の足跡と作品誕生の物語
「老梅図襖」の魅力を深く理解するためには、作者である狩野山雪の生涯と、作品が生まれた時代の背景、そしてその数奇な運命を知ることが不可欠です。
2.1. 京狩野派の継承者、狩野山雪の生涯と画風
狩野山雪(天正18年(1590)- 慶安4年(1651))は、肥前国(現在の佐賀県・長崎県)に生まれ、16歳で京都に移り住み、京狩野派の棟梁である狩野山楽の門人となりました。その才能を認められ、山楽の娘と結婚して養子となり、京狩野二代目を継承しました。狩野派は室町時代から江戸時代にかけて武家政権の御用絵師として画壇に君臨した、日本絵画史上最大の画派です。
山雪は狩野派の伝統を受け継ぎながらも、極めて個性的な様式を確立しました。その画風は、力強い筆致、大胆でしばしば型破りな構図、そして細部の緻密な描写によって特徴づけられ、時に「奇矯」あるいは「奇想」とも評されます。これは、狩野永徳に代表される桃山時代の劇的な力強さを継承しつつ、新たなレベルの緻密な洗練さを加えたものと見ることができます。山雪は画家であるだけでなく、美術史や画論にも深い関心を寄せた学究肌の人物でした。日本初の本格的な画家伝である『本朝画史』(元禄4年(1691)刊行)の草稿を執筆し、その学究的な一面は「蛇足軒」「桃源子」といった雅号にも表れています。
2.2. 江戸時代初期の文化と社会背景
「老梅図襖」が制作された江戸時代初期は、約260年にわたる天下泰平の世が始まった時期であり、経済的余裕が生まれ、武士だけでなく町人も学問や文化を享受するようになりました。歌舞伎や相撲といった娯楽が登場し、「町人文化」が発展していった時代です。町人は経済的な成功を追求しながらも地域の結束を重んじ、教育や学問を重視しました。浮世絵、落語、歌舞伎などが庶民の娯楽として楽しまれるようになり、茶の湯、遊芸、祭などの行事も盛んに行われ、町人の生活を彩りました。
美術界では、政治の中心が江戸に移ると、狩野派も実質的に二分されました。狩野探幽を中心とする江戸狩野は徳川幕府の庇護を受け、「瀟洒淡麗」と評される軽やかで洗練された画風を発展させました。一方、山雪を含む京狩野は京都に留まり、永徳以来の力強く豪壮な画風を踏襲しつつ、それを深化させ、独自の表現を追求しました。
山雪の「奇矯」あるいは「奇想」と評される画風は、単なる個人的な特異性ではなく、江戸時代初期における京狩野派が、江戸幕府の庇護を受けた江戸狩野派との対比の中で、自らの存在意義と伝統の深化を追求した結果として生まれた、戦略的な芸術表現であったと考えられます。江戸時代に入り狩野派が江戸狩野と京狩野に分かれた際、山雪の画風が「奇矯」と評されながらも、桃山時代の力強さを継承しつつ「緻密な洗練さ」を加えたとされているのは、単に奇抜な絵を描いたのではなく、政治の中心が江戸に移り、江戸狩野が主流となる中で、京狩野が京都における伝統と権威を保ち、独自のアイデンティティを確立しようとした表れと解釈できます。つまり、山雪の「奇想」は、時代と画壇の変革期における、京狩野派としての「挑戦」であり「宣言」であったと言えるでしょう。
2.3. 天祥院での誕生:父への追悼と襖絵の役割
「老梅図襖」は、正保3年(1646)または正保4年(1647)頃に制作されました。依頼主は若き大名であった松平忠弘(寛永8年(1631)- 元禄13年(1700))で、京都西部に位置する臨済宗妙心寺の塔頭である天祥院のために描かれました。天祥院は、忠弘が父であり、初代徳川将軍・家康の孫でもあった松平忠明(天正11年(1583)- 正保元年(1644))の菩提を弔うために建立した寺院でした。
この襖絵は、天祥院の方丈の一室の壁面を構成していました。方丈は当時の典型的な禅宗寺院の客殿建築であり、複数の部屋が襖で仕切られ、各部屋には特定の画題が与えられていました。特に「老梅図」が設置された部屋は、金地の背景に彩色で描かれており、その重要性が窺えます。部屋の主題は、忠弘、山雪、そして天祥院の開山である乳峯義元によって決定されたと考えられます。
2.4. 隠された対作品:「群仙図襖」との関係
「老梅図襖」は、元来その裏面にも絵画が施されていました。これらは中国の主題である「八仙図」(「群仙図」)を描いたもので、天祥院方丈の隣接する部屋の壁面を構成していました。これは、物理的には四枚の襖が、それぞれ異なる主題で装飾された二つの空間を共有する間仕切りとして機能していたことを意味します。
「群仙図襖」は現在、ミネアポリス美術館の所蔵です。この対となる構成は、日本の伝統的な自然風景(老梅)と中国の道教的な仙人という、異なるテーマが対話する空間を生み出していました。これは、狩野派が和漢両様の画法を習得していたことを示しています。興味深いことに、「群仙図襖」に描かれた仙人たちの配置は、「老梅図襖」の梅の構図とほぼ同じ形をしているという説もあり、両作品の間に意図的な視覚的連関があった可能性を示唆しています。
「老梅図襖」と「群仙図襖」が元来、襖の表裏一体として、異なる主題(日本の自然と中国の仙人)で隣接する二つの空間を隔てていたという構成は、当時の禅宗寺院建築における空間デザインと絵画の機能が高度に統合されていたことを示唆しています。これは単に二つの絵画があるのではなく、建築空間の中で「間仕切り」として機能し、異なるテーマの空間を同時に創造していたという、建築と絵画の融合を意味します。特に、追悼のための寺院において、自然の「再生」(老梅)と道教の「不死」(群仙)というテーマを対比的に配置したことは、生と死、現世と超越といった深遠な哲学的な対話を意図していた可能性が高いと言えるでしょう。

2.5. 激動の時代を越えて:海を渡った傑作の軌跡
「老梅図襖」は、正保3年(1646)の制作から明治時代(1868-1912)まで、天祥院に所蔵されていました。しかし、明治維新後の「廃仏毀釈」という反仏教運動と政策により、多くの寺院が経済的困難に陥り、寺宝を売却せざるを得なくなりました 。天祥院も例外ではなく、1880年代に売却されました。天祥院は明治19年(1886)に壊滅的な火災に見舞われており、この火災が売却を促した可能性もあります。
その後、この襖絵は片岡直温という大蔵大臣も務めた人物の所有となり、邸宅に収めるために襖の上部が切断されるという大きな物理的改変を受けました。1950年代半ばに美術商の水谷甚三郎(みずたにじんざぶろう)の手に渡り、さらにアメリカ人コレクターのハリー・G・C・パッカード(Harry G. C. Packard)が取得しました。最終的に、昭和50年(1975)にパッカード氏の寄贈と美術館の購入により、メトロポリタン美術館のコレクションとなりました。この過程で、「老梅図襖」と「群仙図襖」は分離され、それぞれ異なる美術館に所蔵されることになったのです。
これらの作品が廃仏毀釈や火災を経て分離・流出したことは、歴史の激動が文化財の本来の文脈と芸術的意図をいかに分断し、その理解を複雑にするかという、文化遺産保存の課題を浮き彫りにしています。現代の観者は、作品単体ではその全体像や本来のメッセージを完全に理解することが困難となり、文化財の保存と復元の重要性が改めて強調されます。
以下に、「老梅図襖」の来歴と変遷をまとめた表を示します。
表1: 「老梅図襖」の来歴と変遷
3. 文化的意義と哲学:老梅に宿る日本の精神性
「老梅図襖」は、単なる絵画としてだけでなく、日本の豊かな文化的意義と深遠な哲学を内包しています。この章では、老梅が象徴する日本の美意識、禅宗との繋がり、そして山雪の「奇想」が拓いた植物画の新境地について掘り下げます。
3.1. 梅が象徴する日本の美意識:忍耐、再生、そして高潔さ
梅は、まだ寒さの残る早春に他の花に先駆けて咲くことから、日本では古くから忍耐力、生命力、そして不屈の精神の象徴とされてきました。この「老梅図襖」に描かれた古木から芽吹く繊細な白い花は、まさに誕生、再生、若返りの象徴であり、厳しい冬を乗り越え、新たな生命が息吹く早春の気概を表現しています。これは、日本の自然観において、困難に耐え、再生する強さへの敬意と共感を反映しています。
作品に描かれる梅の木は、「爬虫類的」、「老いさらばえた」、「古木」と表現され、その節くれだった幹には緑色の苔が付着しています。この「老い」の表現は、単なる衰えではなく、長い年月を経て培われた生命の力強さや、そこから生まれる独特の美しさを強調しています。日本の文化では、古木や老いたものに宿る「わび・さび」の美意識があり、山雪の梅の表現は、この伝統的な美意識と深く共鳴しています。花卉/園芸文化においても、盆栽などで古木の趣を尊ぶ傾向があり、これに通じるものがあります。
3.2. 禅宗との深遠な繋がり:修行と悟りの象徴
梅の花は禅と深いつながりを持っています。寒さに耐えて花を咲かせ、清らかな香りを放つ梅の姿は、苦境に直面しても逃げずに真正面から向き合う修行僧の姿と重なります。大切なのは、その「清香」、つまりほのかな香りです。一生懸命に修行に取り組んでいることを声高に語らなくても、その姿そのものが周囲の人々を自然と感化していく謙虚な強さ、そして人を優しく包み込むような淡い香りが、禅が目指す境地を示しているのです。
禅語には「一点梅花蘂 三千世界香」という言葉があります 。これは、梅の蘂(しべ)が放つ香りはほのかなものですが、姿勢を正し心を澄ませれば、その香りが天地いっぱいに(三千世界に)広がっていることに気づくことができる、という意味です。また、「雪裏の梅華只一枝」という言葉も、降り積もる雪の中で耐え忍ぶ梅の一枝が、坐禅や修行を表し、やがて開く梅の華が悟りや仏の世界を示すとされます 。梅が実を結ぶことも、成功という結果だけでなく、懸命に取り組んだことが自分の身になるという禅の教えと関連付けられます。
この作品が京都の禅寺である天祥院のために制作されたという事実は 、梅と禅宗の深いつながりをより一層強調します。この襖絵は、禅の修行と悟りの象徴としての梅を、視覚的に表現しているのです。
この作品の禅宗との深遠な繋がりは、日本の花卉文化を鑑賞する際の精神的な枠組みを提供します。梅が厳しい冬を耐え忍び、やがて清らかな花を咲かせる姿は、禅の修行における忍耐と悟りの過程を象徴しています。このことから、植物を育み、その変化を観察する行為自体が、一種の瞑想的な実践や、生命の循環に対する深い理解へと繋がる道となり得ることを示唆しています。梅の冬から春への旅路は、私たち自身の内面的な成長や再生の物語を映し出す鏡となり、花卉文化を単なる園芸趣味以上の、精神的な豊かさをもたらす営みとして捉えることができるでしょう。
3.3. 「奇想」の表現が拓く植物画の新境地
山雪の梅の形態は「こんな梅が本当にあるのか?」と誰もが思うような奇抜な形をしていると評され、山雪の「奇想」の際立った特徴とされています 。この表現は、単に写実的に植物を描くのではなく、芸術家の内面的な解釈や創造性を加えることで、植物の持つ生命力や存在感をより劇的に表現しようとする試みです。この「奇矯さ」は、日本の植物に対する伝統的な見方に、より自由で大胆な表現の可能性を示し、鑑賞者に植物の新たな側面を発見させることに貢献しました。
美術史家の辻惟雄氏が提唱した「奇想の系譜」において、狩野山雪は、岩佐又兵衛、伊藤若冲、曽我蕭白らと共に、主流の芸術傾向から逸脱し、顕著な独創性と「奇抜さ」を示した画家の一人として位置づけられています。この「老梅図襖」は、山雪がこの「奇想の系譜」に含められる議論において、しばしば引用される代表作です 。辻氏の論は、山雪のような画家が単に「奇妙」と見なされるのではなく、むしろ初期のアヴァンギャルドな芸術、つまり慣習からの意識的な逸脱であり、芸術的に重要で進歩的であったと再評価する上で極めて重要でした。
3.4. 空間と一体となる障壁画の魅力:花卉・園芸文化との接点
「老梅図襖」は元来、京都の禅寺である天祥院の方丈の襖絵として制作されました。障壁画は、単なる絵画として独立して存在するのではなく、建築空間と一体となって鑑賞されるものです。この巨大な梅の木が襖の枠を超えて飛び出してくるかのような構図は、鑑賞者を圧倒し、空間全体に梅の生命力を満たす効果を生み出しました。これは、日本の伝統的な建築と絵画の融合の中で、植物がどのように空間を構成し、人々の感情に訴えかけるかを示す好例です。
この襖絵は、日本の花卉や園芸文化、そして植物に対する伝統的な見方や関心に多岐にわたって貢献しています。日本の伝統的な植物に対する見方は、繊細な変化の中に美を見出すという独特の美意識を持ち、花の色や大きさだけでなく、花の形の変化、葉の斑入り、樹形や枝ぶりなども観賞の対象とします。山雪の「老梅図襖」は、梅という特定の植物を通して、日本の人々が自然に対して抱いてきた深い洞察と敬意を視覚的に表現しています。梅の生命のサイクル、逆境に耐える強さ、そしてその美しさは、単なる風景の一部としてではなく、精神的な象徴として捉えられてきました。
この作品は、日本の文化において四季の移ろいとそれに伴う植物の変化が非常に重視されることを強く意識させます。梅は早春の訪れを告げる花であり、「老梅図襖」は、この季節の移ろいと、それに伴う自然の生命力の変化を強く意識させる作品です。これは、日本の花卉や園芸文化が、単に花を鑑賞するだけでなく、季節の移ろいを植物を通して感じ取るという側面を持っていることを示しています。また、「老梅図襖」のような傑作は、植物を主要な主題とする芸術作品の価値を高め、その後の花鳥画や植物画の発展に影響を与えました。このような作品が広く鑑賞されることで、一般の人々の植物に対する関心や美意識を育むことにも貢献したと言えるでしょう。
「老梅図襖」は、日本の「気」(生命エネルギーや精神)という概念を具現化しているとも言えるでしょう。作品に描かれた梅は、単なる植物の写実的な描写に留まらず、「動き出しそうな気配」「画面の枠を飛び出すほどの迫力」「生命力が満ち溢れる」と評されるように 、空間と相互作用し、その雰囲気を定義する精神的な力として存在しています。山雪の「奇想」の画風は、この「気」を視覚的に捉え、鑑賞者に体感させる芸術的な試みであったと解釈できます。襖絵という、生活空間の一部となる形式で描かれたことで、作品は鑑賞者の意識に深く働きかけ、空間全体のエネルギーに影響を与えています。
結論
狩野山雪の「老梅図襖」は、単なる襖絵の枠を超え、日本の芸術、歴史、そして精神性が凝縮された傑作です。この作品は、山雪個人の芸術的才能の頂点を表すだけでなく、京狩野派の独自のアイデンティティを力強く主張するものでもあります 。また、明治時代の混乱や天祥院の火災といった歴史の激動を生き延び、海を越えてメトロポリタン美術館に所蔵されるに至ったその来歴は、文化財の複雑な運命と、美術史的解釈が時代と共に進化する性質を体現しています。
「老梅図襖」に描かれた老梅の再生する生命力とダイナミックな美しさは、観る者の心を捉え続けています。それは、厳しい冬を乗り越えて花を咲かせる梅の忍耐力、そして新たな生命を育む再生の象徴であり、日本の美意識の根底にある「わび・さび」の精神と深く共鳴します。さらに、禅宗の教え、特に修行と悟りの象徴としての梅の存在は、この作品に深遠な哲学的な意味を与えています。
この襖絵は、日本の花卉・園芸文化にとっても極めて重要な意味を持ちます。それは、単に美しい花を愛でるだけでなく、植物の生命の循環、樹形や枝ぶりの美しさ、そして季節の移ろいを深く感じ取るという、日本の伝統的な植物観を視覚的に表現しているからです。
この作品を通して、私たちは日本の花卉・園芸文化が、単なる植物の栽培や鑑賞に留まらず、自然への深い洞察、精神性、そして芸術表現と密接に結びついた、奥深い文化であることを再認識することができます。

上 メトロポリタン美術館所蔵 狩野山雪筆 老梅図襖 https://www.metmuseum.org/art/collection/search/44858
下 ミネアポリス美術館所蔵 狩野山雪筆 群仙図襖 https://collections.artsmia.org/search/Kano%20Sansetsu






