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江戸時代後期の旗本、本草学者:毛利梅園(梅園草木花譜/梅園海石榴花譜/草木実譜)


概要


毛利梅園は、江戸時代後期に活躍した旗本、本草学者です。 本名は毛利元寿。寛政10年(1798年)に江戸築地で生まれ、嘉永4年(1851年)に亡くなりました。 幕臣として書院番を務めるかたわら、動植物や菌類に深い関心を持ち、 精密な観察に基づいた写生図を数多く残しました。彼の作品群は総称して「梅園画譜」と呼ばれ、国立国会図書館に所蔵されています。   



生涯


寛政10年(1798年)、江戸築地で、江戸幕府旗本毛利兵橘元苗の長男として生まれました。 母は安部信富の養女(安部信允の娘)でした。 享和3年(1803年)、木挽町築地の拝領屋敷から白山鶏声ヶ窪の古河藩土井家屋敷内へ転居。  文政3年(1820年)頃から植物に興味を持ち、写生に熱中するようになりました。 当初は梅樹園と号していましたが、後に阿部正精に欑華園の号を賜っています。 また、楳園、写生斎、写真斎、攅華園など、多くの号を用いました。 文政5年(1822年)に書院番諏訪備前守組に加入し、文政13年(1830年)に父の遺領を相続しました。 天保2年(1831年)には動物、天保6年(1835年)には菌類へと関心が移り、写生を続けました。 天保13年(1842年)3月7日、牛込からの大火に類焼し、3月15日、麻布龍土町の長州藩毛利家下屋敷に移り住み、梅竜園と号しました。 弘化元年(1844年)に写生活動を再開し、初めツバキの諸品種を模写しています。 江戸近郊へも積極的に採集に出かけるようになり、嘉永元年(1848年)9月には高尾山、嘉永2年(1849年)3月には箱根に採集を行い、また小仏峠、大山、江ノ島、鎌倉、金沢等も巡りました。 しかし、嘉永2年(1849年)で活動が途絶え、嘉永4年(1851年)8月7日に死去。三田正覚院に葬られました。   



主な著作


梅園は生涯を通じて多くの写生図譜を残し、それらは「梅園画譜」と総称されています。 代表的な著作は以下の通りです。   


  • 梅園魚譜:魚類の写生図譜。3帖からなります。   

  • 梅園禽譜:鳥類の写生図譜。   

  • 梅園介譜:貝類の写生図譜。   

  • 梅園草木花譜:草木の写生図譜。17帖からなります。   

  • 梅園菌譜:菌類の写生図譜。   

  • 梅園竒賞:1828年に出版された、動植物などを扱った書物。   


   

本草学への影響


梅園の作品は、江戸時代の博物学や自然観察の発展に寄与しました。 彼の図譜は、後の世代の学者や画家に影響を与え、日本の自然史に関する研究において重要な資料とされています。 当時の日本の生態系を理解する上で貴重な情報源となっているだけでなく、その精密で美しい描写は芸術作品としても高い評価を得ています。 特に、梅園は実物の観察に基づいた描写を重視しており、他の絵師や学者が模写した作品が多かった当時において、その姿勢は特筆すべき点と言えるでしょう。 これは、日本の本草学における実証主義的な研究の先駆けと言えるかもしれません。   

 


結論


毛利梅園は、江戸時代後期に活躍した本草学者であり、精密な観察に基づいた写生図を数多く残しました。彼の作品群は「梅園画譜」と総称され、日本の自然史研究において重要な資料となっています。実物の観察を重視した彼の姿勢は、当時の本草学において特筆すべき点であり、後世の学者や画家に大きな影響を与えました。現代においても、梅園の作品はデジタル化され、多くの人が容易にアクセスできるようになっています。これは、彼の功績を広く知らしめ、江戸時代の本草学への理解を深める上で重要な役割を果たしていると言えるでしょう。





参考







梅園草木花譜


春之部






夏之部






秋之部







冬之部






梅園海石榴花譜


毛利元寿梅園<毛利梅園>//模写『梅園海石榴花譜』,写,天保15(1844).国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1286917






草木実譜


毛利梅園『草木実譜』,写.国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2537209

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