『聚芳図説』が語る江戸の華:花卉・園芸文化に息づく美と知の探求
- JBC
- 2024年11月24日
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更新日:3 日前
1. はじめに:時を超えて花開く日本の美意識
日本の四季が織りなす豊かな自然は、古くから人々の心に深く寄り添い、生活に彩りを加えてきました。花々は単にその美しさゆえに愛でられるだけでなく、そこには深い精神性や知的な探求が息づく、独自の文化が育まれてきました。江戸時代に生み出された一冊の植物図譜、『聚芳図説』(じゅほうずせつ)は、当時の人々の花への情熱、そして自然と向き合う真摯な姿勢を現代に伝える貴重な資料です。
本記事では、この『聚芳図説』を紐解きながら、江戸時代に花開いた日本の花卉・園芸文化の奥深さ、その歴史的背景、そしてそこに込められた美意識や哲学を探求していきます。この書物が現代に伝える、時を超えた日本の美の真髄に触れる旅へ、読者を誘います。
2. 『聚芳図説』とは:江戸の園芸熱が生んだ植物図譜
『聚芳図説』は、江戸時代後期、安永9年(1780)頃に成立したとされる、著者未詳の植物図譜です。全3巻からなる写本で、国立国会図書館デジタルコレクションにも所蔵されており、その内容の一部を現代でも閲覧することが可能です。
この図譜は、草花、樹木、野菜など多岐にわたる植物の図と解説で構成されています。特に、その写実的な描写は植物の特徴を精緻に捉えており、当時の植物学的な観察眼の高さを示しています。例えば、下巻には1本の木に5種類の柑橘類を接木した盆栽の図が描かれていますが、これは安永5年(1776)に写生されたものであり、当時の高度な栽培技術を具体的に示しています。
『聚芳図説』は、当時の江戸の園芸文化、特に草花や樹木の品種改良や栽培技術を知る上で極めて貴重な資料とされています 。単なる植物図鑑に留まらず、先行する園芸書からの転写を基本とすることで、当時の園芸知識の集大成としての役割を担っていたと考えられています。この書物は、江戸時代における園芸の隆盛と、それに伴う高度な技術の発展を物語る重要な証拠となっています。
3. 歴史と背景:謎多き作者と時代が育んだ文化の粋
3.1. 謎に包まれた作者と有力な植木屋の影
『聚芳図説』の著者は不明であり、正確な作成年代も特定されていません。しかし、その記述内容や品質から、当時の有力な植木屋によって書かれたと推測されています。この匿名性は、当時の園芸が単なる個人の趣味を超え、高度な技術と商業的側面を持つ産業であったことを示唆しています。
特に、江戸染井(現在の豊島区駒込付近)を拠点とした「伊藤伊兵衛家」との関連が強く示唆されています。伊藤伊兵衛家は、江戸時代に園芸界で絶大な影響力を持ち、「江戸一番の植木屋」と称され、多くの園芸書を出版していました。『聚芳図説』の内容が、『花壇地錦抄』など先行する園芸書からの転写を基本としている点も、伊藤伊兵衛家のような知識集約型の植木屋が関与した可能性を裏付けています。これは、特定の個人の独創的な研究成果というよりも、当時の園芸知識の集大成としての性格が強かったことを示唆しており、多くの知識が集積され、共同作業や代々の知識継承によって編纂されたため、特定の個人名を冠する必要がなかった、あるいは難しかったのかもしれません。
さらに、「上野宮様ヨリ」「御成 将軍様江御上ヶ」といった記述は、大名や宮家、将軍家といった上層階級に出入りする植木屋が作成した著作である可能性を示唆しており、その社会的、経済的な背景を物語っています。このような記述は、『聚芳図説』が単なる学術書ではなく、自社の栽培技術や取り扱い品種を顧客に示すための「カタログ」や「営業資料」としての側面が強かった可能性を示唆しています。当時の文化において、個人の名よりも、その内容の網羅性や実用性、そして家系のブランドが重視された結果、匿名性が選択されたと考えられます。
3.2. 江戸園芸文化の隆盛と品種改良の熱狂
江戸時代は、将軍から一般庶民に至るまで、想像を絶するほど人々が草花に高い関心を抱いた「園芸ブーム」の時代でした。特に都市部の家屋が密集していた江戸では、鉢植えが狭い庭や路地でも楽しめる手軽さから人気を博し、庶民の癒しとなりました。この現象は、密集した都市生活において、鉢植えが限られた空間でも自然を楽しむ唯一の手段となり、精神的な安らぎを提供したことに起因すると考えられます。
このブームは、朝顔、菊、椿、蓮といった様々な植物の品種改良に拍車をかけました 。『聚芳図説』には、100品種以上の桜草と290品種以上の中菊が掲載されており、当時の品種改良技術の高さと、より美しく珍しい花を求める人々の熱狂がうかがえます。このような具体的な数値は、当時の園芸家たちの情熱と、それを支える高度な栽培・育種技術がなければ実現し得なかったことを強く印象付けます。
珍しい品種は高額で取引され、寛政10年(1798)には幕府が鉢植えの高額売買を禁止するほどでした。また、園芸愛好家たちは「花連」と呼ばれる結社を作り、厳しい資格審査を設けるなど、その熱は組織的な活動にまで発展していました。品評会も盛んに開催され、品種改良の競争をさらに加速させました。
江戸の園芸ブームは、都市の物理的・社会的特性が複合的に作用した結果です。高い識字率と経済的余裕は、園芸に関する知識(図鑑や園芸書)の普及と、珍しい品種の高額取引を可能にしました 。情報が活発に交換され、行商人による販売も盛んに行われました。品評会や「花連」のような組織の存在は、単なる個人趣味ではなく、社会的な競争と共同体意識を育みました。より珍しい、より美しい品種を創り出すことが、一種のステータスシンボルとなり、技術革新を促したのです。植木屋は、このブームの担い手として、知識と技術の普及に不可欠な役割を果たしました。
3.3. 知識の可視化と共有:図譜の役割
『聚芳図説』のような植物図譜は、単に植物を記録するだけでなく、当時の知識を可視化し、共有する重要な役割を担っていました。これは、江戸時代の知的な好奇心と「実学志向」(実践的な学問への関心)の象徴であり、学術の発展と文化の深化に大きく貢献しました。
将軍徳川家光が盆栽愛好家であったこと や、大名たちが「博物趣味」を持ち、図譜を通じて動植物の知識を交流させていたこと も、この時代の図譜文化の広がりを示しています。特に、細川重賢の姉が高松藩主・松平頼恭の妻であったことから、両家は姻戚関係にあり、図譜の貸し借りや模写といった文化的な交流が促進されたと考えられています。これにより、特定の藩だけでなく、より広範な地域で博物学的な知識が普及し、深められていきました。
『聚芳図説』に「将軍様江御上ヶ」と記されているように 、これは当時の最高権力者への献上物としても位置づけられる、非常に価値の高い資料であったことを示唆しています。図譜は、学術的探求の深化、情報共有と知識の普及、そして藩の枠を超えた文化的な交流を促進する媒体として機能していました。
4. 文化的意義と哲学:自然への敬意と生命への慈しみ
4.1. 花に宿る精神性:美と知の飽くなき探求
『聚芳図説』は、単なる植物の記録を超え、当時の日本人が自然に対して抱いていた「美」と「知」への飽くなき探求心を体現しています。これは、科学的な探求と芸術的な感性が互いに高め合う、日本独自の文化的な視点を示すものです。
江戸時代の植物図譜は、西洋の博物学が求める客観性と精密さを取り入れつつも、単なる芸術表現に留まらず、科学的データとしての役割を強化していきました。『聚芳図説』の写実的な描写も、この時代の博物学的なアプローチを反映していると言えるでしょう。この融合は、江戸時代に実践的な知識や技術を重視する「実学」が発展したことと、日本に古くから自然の中に美を見出し、それを生活や芸術に取り入れる伝統的な美意識があったことの結びつきによって生じました。植物の正確な記録は、薬用、食用、栽培技術の向上といった実生活に直結する知識として求められ、同時に、その生命の美しさや奥深さを芸術的に表現しようとする試みがなされました。精密な描写は科学的正確さを追求しつつ、同時にその植物が持つ「らしさ」や「生命力」を芸術的に捉えることを可能にしたのです。
4.2. 自然への敬意と生命への慈しみ
日本の花卉・園芸文化は、単なる美の追求に留まりません。そこには、自然への深い敬意、生命への慈しみ、そして困難を乗り越えるための知恵が息づいています。これは、日本の花卉・園芸文化の核心を成す精神性です。
例えば、飢饉という極限状況において、人々が植物に命を託し、それを生命の源であり希望の象徴と見なした歴史があります。この認識は、植物に対する畏敬の念や、その生命を慈しむ心と深く通じています。このような歴史的背景は、植物が単なる鑑賞物や資源ではなく、人間が生きていく上で不可欠な「共生者」としての認識があったことを示しています。これは、自然を支配する対象ではなく、共に生きる存在として捉える思想の表れです。
生け花においても、枯れかけたり、色褪せたり、虫食いのある草花であっても、その生命に寄り添い、あるがままの姿を生かすことを理念としています。この理念は、植物の「生」だけでなく、「死」や「衰退」をも自然のサイクルの一部として受け入れる、深い生命観を示唆しています。これは、完璧な美しさだけでなく、移ろいゆくもの、不完全なものの中に美を見出す日本の伝統的な美意識「侘び寂び」にも通じるものです。また、江戸前華道流派のように、儒教の教えに基づき、花の見た目だけでなく、より高い精神世界を表現しようとする思想も存在しました 。花を育む行為、花を生ける行為が、自己の内面と向き合い、精神性を高めるための「道」として捉えられていたことを示唆しています。
『聚芳図説』が生まれた江戸時代の花卉文化は、単なる植物の知識や鑑賞に留まらず、生命の循環を受け入れ、自然と共生し、精神性を高めるという、多層的な「生」の哲学を内包していました。これは、日本の伝統的な思想が、日常の文化の中に深く根ざしていたことを示す重要な側面です。
4.3. 園芸から芸術へ:華道と盆栽の源流
江戸時代の古典園芸植物は、西洋の「観葉植物」とは異なる明確な美の基準を確立し、造園や農業といった実用的な植物利用から脱却し、いち早く「単独の芸術」として認知されていきました。
この動きは、「華道」や「盆栽」といった日本独自の園芸文化の誕生へと繋がりました。これらは単なる植物の育成を超え、美意識や哲学が込められた芸術形式として確立され、現在までその伝統が引き継がれています。特に、大きく育つ園芸品種よりも比較的小さな鉢で植物を育てるという、世界的に見ても特異な鉢植え文化が重視されました。
『聚芳図説』に描かれた、1本の木に5種類の柑橘類を接木した盆栽の図は、当時の高度な栽培技術と、盆栽が単なる植物の寄せ集めではなく、芸術作品としての完成度を追求していたことを物語っています。これらの芸術形式は、花や葉そのものに繊細な変化を求めること、そして日本の四季を通じて得られる変化を最大限に引き出すことを目的とした育成が行われた結果、発展していきました。
5. おわりに:現代に息づく『聚芳図説』の遺産
『聚芳図説』は、江戸時代の園芸文化の熱狂と、そこに息づく美意識、知的な探求心、そして生命への深い敬意を現代に伝える貴重な遺産です。国立国会図書館デジタルコレクションでその一部が公開されていることは、この歴史的資料へのアクセスを容易にし、現代の研究者や愛好家が江戸の園芸文化の真髄に触れる機会を提供しています。
現代の私たちが多種多様な花の品種を楽しめるのは、江戸時代の人々が情熱を注ぎ、品種改良に取り組んだおかげであると言えるでしょう。彼らの飽くなき探求心と、植物に対する深い愛情が、今日の豊かな花卉文化の基盤を築いたのです。
この一冊の植物図譜は、単なる過去の記録ではありません。それは、花を愛し、自然と深く関わり、その中に人生の喜びや哲学を見出した先人たちの息吹を今に伝えるものです。『聚芳図説』を通じて、日本の花卉・園芸文化の奥深さに触れ、私たち自身の生活の中にも、花々がもたらす豊かな「美」と「知」を発見するきっかけとなることを願っています。
巻上
『聚芳図説 3巻』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2606793
巻中
『聚芳図説 3巻』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2606793
巻下
『聚芳図説 3巻』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2606793