『植物写生図帖』が織りなす江戸の自然観と美意識
- JBC
- 2023年12月5日
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更新日:6月11日
1. 序章:時を超えて息づく植物の美への誘い
日本の四季折々の美しさは、古くから人々の心を捉え、その感性は花卉や園芸文化として結晶してきました。庭園に込められた哲学、いけばなに息づく精神性、そして一輪の花に宿る生命力。これらは単なる装飾を超え、日本人の自然観そのものを映し出しています。日本の庭園文化は、その独特な美学と哲学的な背景により、世界中で高く評価されており、静謐な空間は見る人に安らぎと瞑想の機会を与え、自然との調和を促すと言われています。いけばなの起源も、仏教とともに伝来した仏前の供花や、神を招く依り代として常緑樹を立て花を飾った日本古来の習俗に求められ、草木に寄せる日本独特の思いがその発展の背景にあるとされます。私たちは、この豊かな文化の奥深さに、どれほど気づいているでしょうか。
本稿では、江戸時代中期に讃岐高松藩で編纂された稀有な博物図譜、松平頼恭編『写生画帖』の転写本『植物写生図帖』に光を当てます。この画譜は、当時の人々の植物への深い眼差し、知的好奇心、そして卓越した写実表現が融合した、まさに「植物の肖像」と呼べるものです。歴史的な資料としての『植物写生図帖』は、単なる過去の遺産ではありません。これは、日本の花卉・園芸文化が持つ普遍的な魅力の具体的な証拠として、現代の私たちに日本の自然観や美意識の本質を再認識させる「窓」の役割を果たします。その精密な描写と背後にある知的好奇心は、時代や文化を超えて共感を呼び、「生命の美と多様性の不思議」を伝えてくれます。
『植物写生図帖』を紐解くことは、単なる過去の遺産を知ることに留まりません。そこには、現代の私たちにも通じる普遍的な美意識と、自然との共生を求める日本文化の本質が息づいています。
2. 『植物写生図帖』の全貌:精密な観察が織りなす植物の肖像
『植物写生図帖』は、讃岐高松藩の第5代藩主・松平頼恭が編纂を命じた『写生画帖』の転写本であり、江戸時代中期に制作された植物の精密な写生図を収めた画譜です。この画譜は、高松松平家に伝わる「高松松平家博物図譜」と呼ばれる壮大な博物図譜群の一部を成しています。この図譜群は、魚類を描いた『衆鱗図』、鳥類を描いた『衆禽画譜』、そして植物を描いた『衆芳画譜』と『写生画帖』(本稿のテーマである『植物写生図帖』の原本)の4種13帖から構成され、総計2,141点もの生物が描かれています。そのうち、『植物写生図帖』には175点の植物が収録されています。
この画譜の最大の特長は、その驚くべき写実性です。描かれた植物は、葉脈の一本一本、花弁の微細なグラデーション、そして茎の質感に至るまで、細部にわたって正確に捉えられています。これは、当時の絵師たちが持っていた高い技術力を示しており、単なる記録に留まらない、植物の生命力や本質的な美しさを表現しようとする芸術的な感性が感じられます 。例えば、関連する『衆鱗図』では、鱗の下地に金銀の箔を用いて光沢を表現したり、紙を重ねて表面を盛り上げたりする技巧が凝らされており、こうした「スーパーグラフィック」と称される表現への挑戦が、『植物写生図帖』にも共通して見られます 。この「スーパーグラフィック」という評価は、単なる美的評価に留まらず、当時の絵師たちが極めて高い技術力をもって、科学的正確性を追求した結果であることを示唆しています。魚の鱗に金銀箔を用いたり、紙を重ねて立体感を出すといった技巧は、対象の「ありのまま」を捉え、その生命力や美しさを最大限に引き出すための、科学的観察と芸術的表現の徹底的な融合を物語っています。
江戸時代には多くの植物図譜が制作されましたが、『植物写生図帖』は、その中でも特に彩色による写実性と、藩主の博物学的な探求心に根差した制作背景において独自性を持ちます。例えば、江戸時代後期に刊行された草木図譜『花彙』は、精緻な植物画と簡潔な解説文が特徴ですが、白黒の木版画で描かれており、彩色画である『植物写生図帖』とは一線を画します。岩崎灌園の『本草図譜』は、日本各地の約2,000種の草木を収録した「わが国で最初の本格的な植物図鑑」と言われ、網羅性において際立っています。『植物写生図帖』は、季節ごとや多様な植物を雑多に描く当時の写生図の形式に倣いつつ、より体系的な博物図譜の一部として位置づけられます。
このような精密な描写は、当時の本草学において、植物の正確な同定や薬効の研究に不可欠な情報伝達手段でした。写真技術がない時代において、絵画は最も信頼性の高い記録媒体であり、その精緻さは学術的価値に直結しました。したがって、『植物写生図帖』は、科学的探求のために芸術的才能が惜しみなく注ぎ込まれた、江戸時代の知の結晶と言えるでしょう。この画譜は、現代の私たちが「アート」と「サイエンス」とを区別するような境界線が、当時の日本においては曖昧であり、むしろ相互に補完し合う関係にあったことを示しています。この画譜は、知識の探求と美の追求が一体であった、江戸時代の豊かな文化を象徴するものです。
また、『植物写生図帖』が「転写本」であるという事実は、その原本が極めて高い価値を持ち、その内容が広く共有される必要があったことを示唆しています。多くの博物図譜が、細密な絵を切り抜いて貼り付ける「折本装」という手法で制作されたことは 、情報の追加や再構成、あるいは部分的な共有を容易にするための、当時の知恵であったと考えられます。デジタル化技術がなかった時代において、精緻な図譜の「転写」は、知識を保存し、普及させるための重要な手段でした。特に、後世の図譜にしばしば模写されているという評価は 、『植物写生図帖』が単なる一藩の記録に留まらず、当時の植物学や博物学研究において、広く参照され、影響を与えた「標準資料」としての役割を担っていた可能性を示しています。この「転写本」という形態は、『植物写生図帖』が当時の知識人や研究者にとって、いかに貴重で求められる情報源であったかを雄弁に物語っています。これは、江戸時代における学術情報の流通と、その価値がどのように認識されていたかを示す興味深い側面です。
以下に、江戸時代の主要な植物図譜と『植物写生図帖』の比較を示します。
江戸時代の主要な植物図譜と『植物写生図帖』の比較
図譜名 | 作者/編者 | 制作年代(概算) | 特徴 | 文化的意義 |
『植物写生図帖』 | 松平頼恭(転写本) | 明和年間(1764-1772年)頃 | 精密な写実描写、彩色画の可能性、芸術性、藩の殖産興業との関連、175品収録 | 博物学と実学の融合、美術と科学の融合、立花の記録の可能性、後世への影響 |
『花彙(かい)』 | 小野蘭山など | 江戸後期 | 精緻な植物画、簡潔な解説文、白黒木版画、全8巻 | 本草学の集大成、知識普及、当時の植物学の到達点 |
『本草図譜』 | 岩崎灌園 | 江戸後期 | 日本初の本格的な植物図鑑、約2,000種収録、日本各地を踏査して写生 | 近代植物学の礎、分類学の発展、広範な植物知識の集積 |
『栗氏魚譜』 | 栗本丹洲 | 江戸中期 | 西洋の植物図鑑『花譜』の影響、写実的描写、魚介類図譜 | 写実主義の確立、西洋学術の受容、博物学の多様性 |
3. 歴史と背景:知的好奇心と実学が花開いた江戸中期
3.1. 讃岐高松藩主・松平頼恭の生涯と先見の明
松平頼恭は、正徳元年(1711)に陸奥国守山藩主・松平頼貞の五男として生まれ、明和8年(1771)に61歳で亡くなった、江戸時代中期の大名です。彼は讃岐高松藩の第5代藩主として、藩の財政再建に尽力しました。当時の高松藩は水不足や火災、凶作が多発し財政が逼迫していましたが、頼恭は質素倹約を励行し、藩士の禄を減らすなどして財政再建を目指しました。
頼恭は、単なる財政再建に留まらず、藩の殖産興業にも並々ならぬ熱意を注ぎました。彼は向山周慶に砂糖作りを研究させ、梶原景山には塩田を振興させるなど、讃岐の主要産物である「讃岐三白」(砂糖、塩、綿)の形成に大きく貢献しました。この実学的な視点と並行して、頼恭は一流の博物学者としても知られています。彼は高松城内に植物園を設け、様々な植物の栽培に取り組みました。このような博物学への深い興味から、魚類、鳥類、植物を網羅した『衆鱗図』『衆禽画帖』『衆芳画譜』といった「松平家図譜」が編纂されたと考えられています。
頼恭の博物学への関心は、単なる趣味や教養に留まらず、藩の経済的自立と発展という「実学」的な目的と深く結びついていました。植物園での薬草栽培や、詳細な植物図譜の制作は、領内の資源を正確に把握し、その利用価値(薬用、食用、工業用など)を最大限に引き出すための基礎研究であったと考えられます。つまり、博物学は殖産興業のための「知の基盤」として機能し、その成果が藩の経済力強化に貢献しました。これは、当時の先進的な藩経営の一端を示すものであり、学術が直接的に地域社会の発展に貢献するモデルであったと言えます。『植物写生図帖』は、単なる美術品や学術資料ではなく、藩主の先見の明と、地域経済の振興という具体的な目標が融合して生まれた、極めて実践的な価値を持つ文化財なのです。
3.2. 江戸時代の博物学と本草学の隆盛
『植物写生図帖』が制作された江戸時代中期は、本草学が隆盛を極めた時代でした 。当初は中国から伝来した本草書を基に薬草の知識を学んでいましたが、やがて日本の風土に合った植物の同定や栽培が進み、日本人自身による本草書が手がけられるようになりました。この過程で、本草学は薬用植物に限定されず、自然界のあらゆるものをありのままに記録しようとする博物学的な研究へと変容していきました。
特に江戸時代後期には、長崎を通じて伝わる蘭学(西洋学問)の興隆とともに、西洋の植物学の影響も受け始め、より精密な観察と記録に基づいた植物図譜が求められるようになりました。万物を知ろうとする博物学にとって、そのものの情報を正確に記録し、伝達するための精緻な写生図は不可欠であり、時を経るごとに、より正確で緻密な写生図が描かれるようになりました。狩野探幽の写生図は、江戸の新たな美意識と潮流を映し出していたとされ、写生の真髄が伝授され共有された新たな美として花開いていきました。
この時代における写生図は、現代のカラー写真やデジタルデータに匹敵する、あるいはそれ以上の価値を持つ情報伝達ツールでした。文字だけでは表現しきれない植物の形態、色彩、生育状況などを視覚的に、かつ写実的に記録することで、知識がより正確に、そして広範囲に共有されることを可能にしました。これは、学術研究の精度を高めるだけでなく、一般の人々が植物知識に触れる機会を増やし、園芸文化の発展にも寄与しました。特に、西洋の博物学が求める客観性と精密さが加わることで、写生図は単なる芸術表現を超え、科学的データとしての役割を強化していったのです。『植物写生図帖』のような写生図譜は、江戸時代の知的な好奇心と実学志向の象徴であり、知識の可視化と共有が、いかに学術の発展と文化の深化に貢献したかを示す好例と言えるでしょう。
3.3. 図譜制作の経緯と平賀源内の関与
『植物写生図帖』は、松平頼恭が藩の殖産興業を奨励し、薬草の栽培や産物の開発に力を入れていた時代背景の中で、植物の正確な記録と研究、そして藩の産業振興に役立てるために作成されたと考えられています 。この制作には、多岐にわたる分野で活躍した江戸時代の異才、平賀源内(享保13年(1728)-安永8年(1779))が深く関わっていた可能性が指摘されています。源内は頼恭が藩主を務める高松藩の出身であり、頼恭は源内の父が下級家臣であったにもかかわらず、その才能を見出して長崎への遊学を支援するなど、手厚く庇護しました。高松松平家に伝来する博物図譜は、頼恭の命を受け、平賀源内が関わって制作されたと考えられています。
源内は、頼恭が栗林荘(現在の栗林公園)に設けた薬草園の世話や、図譜づくりの手伝いをしていたと伝えられています 。博物趣味の頼恭は頻繁に薬草園を訪れ、源内と直接交流していたと考えられます。源内は長崎や大坂で本草学や医学を学び、江戸では本草学者・田村藍水に師事し、薬品会(薬種や物産の展示会)を主催するなど、博物学に精通していました 。彼の学識や発想が、『植物写生図帖』の構成や表現方法に大きな影響を与えた可能性は十分に考えられます。
栗林荘の薬草園は、頼恭の「実学」への関心と源内の「博物学」の知識が具体的に結びつく「知のハブ」として機能しました。藩主が自ら現場に足を運び、専門家と直接議論することで、理論と実践が密接に連携し、新たな発見や技術革新が促されたと考えられます。これは、現代の産学連携やオープンイノベーションの原型とも言えるでしょう。源内の多角的な視点(蘭学、本草学、発明)が、図譜の精密さや構成に影響を与えた可能性も高く、この交流が『植物写生図帖』の質を飛躍的に高めた要因となったと考えられます。『植物写生図帖』は、単に個人の業績ではなく、藩主と学者の知的な協働、そして実践的な場(薬草園)が一体となって生み出された、当時の日本における「知識創造のプロセス」を象徴する存在です。
4. 文化的意義と哲学:自然への深い眼差しと美意識の結晶
4.1. 学術的価値と写実表現の極致
『植物写生図帖』は、高松松平家博物図譜の一部として、日本の植物学史において極めて重要な位置を占めています。その精緻な描写は、当時の植物の正確な記録と分類に貢献し、後世の植物学研究に多大な影響を与えたことが、近年の研究で他の図譜にしばしば模写されていることから明らかになっています。これは、単なる地域的な資料に留まらず、全国的な学術ネットワークの中でその価値が認識されていたことを示唆しています。模写は、単なる複製ではなく、当時の学術情報や美術表現の「伝播」と「受容」のプロセスを示す重要な証拠です。それは、『植物写生図帖』が、その正確性と芸術性ゆえに、当時の博物学者や絵師たちにとって信頼できる「標準資料」として機能していたことを意味します。これにより、植物の同定、分類、あるいは絵画表現の規範として、広範な地域や学派に影響を与え、日本の植物学や博物画の発展に間接的かつ持続的に貢献したと考えられます。
この図譜に込められた写実表現は、単なる科学的正確さを追求するだけでなく、芸術としての高い完成度を誇ります。植物の細部までを正確に捉える絵師の技術力は、まさに「スーパーグラフィック」と称されるにふさわしく、対象の「性質まで表現しようと挑んだ」意図が感じられます 。これは、江戸時代に隆盛した博物学と、狩野探幽らに始まる写生画の潮流が融合した結果であり、科学的探求と芸術的表現が分かちがたく結びついていた当時の日本文化の特性を如実に示しています。この「スーパーグラフィック」という表現は、単なる表面的な形だけでなく、その奥にある「生命力」や「美しさ」といった抽象的なものを伝えようとする意図を反映しています。それは、江戸時代において、知識の追求(科学的正確さ)と美の表現(芸術的技巧)が相互に補完し合う関係にあったことを示し、両者が一体となって対象の「生きた本質」を捉えようとした、当時の知的な営みの表れと言えます。
4.2. 日本の自然観と美意識の反映
『植物写生図帖』に描かれた植物の姿からは、当時の日本人が自然に対して抱いていた深い敬意と共生の思想が読み取れます。日本の庭園文化が「自然との調和」を追求し、非対称性、象徴性、見え隠れ、緑の強調、抑制の美といった原則に基づいているように、この図譜もまた、植物のありのままの姿を捉え、その生命力を尊重する姿勢が貫かれています。松の長寿、竹の柔軟性、桜の儚い美しさなど、植物一つ一つに象徴的な意味を見出し、その美しさを深く味わう日本独特の感性が、写生という行為を通して表現されています。
日本の庭園がしばしば「小宇宙」と喩えられるように、一葉一花に広大な自然の縮図を見出す感性は、『植物写生図帖』にも通底しています。精緻な写生は、個々の植物が持つ独自の美しさと、その背後にある生命の神秘を凝縮して表現しようとする試みであり、見る者に、自然の多様性と奥深さへの「発見」を促します。写生は、対象を徹底的に観察し、その細部までを写し取る行為です。この集中と没入の過程で、絵師は植物の成長、生命の循環、そして環境との相互作用といった、通常は見過ごされがちな「見えない情報」や「時間の流れ」を感覚的に捉えていたと考えられます。その結果、完成した図譜は、単なる静止画ではなく、植物が持つ生命の息吹や、その存在の背景にある自然の摂理を暗示するようになりました。これは、日本の庭園における「見え隠れ」の美学や「抑制の美」に通じ、全てを露わにせず、見る者に想像力と深い洞察を促すという、より高次の美意識へと繋がるのです。これは、現代にも受け継がれる、自然と一体となり、その中に美と哲学を見出す日本文化の精神性の結晶と言えるでしょう。
4.3. 『立花』の貴重な記録としての可能性
『植物写生図帖』は、当時のいけばなの一形式である「立花(りっか)」の貴重な記録である可能性を秘めています。江戸時代初期に大成された立花は、多くの花伝書にその理念的な図が記されていますが、実際に生けられた立花を写生した資料は非常に稀です。もし『植物写生図帖』が実際の立花を記録したものであれば、当時の立花の様式や、用いられた植物の種類、さらにはその時代のいけばなの美意識を具体的に知る上で、他に類を見ない貴重な資料となるでしょう。
いけばなのような立体的な芸術は、文字や言葉だけではその姿を正確に伝えることが困難でした。寛文11年(1671)に刊行された『古今立花集』のような「花形絵(はながたえ)」と呼ばれる図絵は、実際の立花の形や色を具体的に伝える画期的な資料でした 。こうした視覚資料の存在は、いけばな文化の普及と深化に大きく貢献しました。『植物写生図帖』もまた、植物の写生を通じて、当時の花卉文化、特に立花における植物の使われ方や、その背景にある美意識を現代に伝える可能性を秘めているのです。多くの花伝書が理念的な図を示す一方で、実際の立花がどのように生けられ、どのような植物が使われたかという具体的な情報は、視覚資料が不足しているため、推測に頼る部分が大きいのが現状です。もし『植物写生図帖』に立花に使われた植物が、その配列や状態、あるいは特定の品種として詳細に描かれていれば、それは当時のいけばな実践の「現場」を伝える一次資料となり、いけばな史の「空白」を埋める画期的な発見に繋がりうるでしょう。
5. 結び:『植物写生図帖』が未来へ繋ぐ日本の心
松平頼恭編『写生画帖』の転写本『植物写生図帖』は、単なる過去の植物図鑑ではありません。それは、江戸時代中期という、知的好奇心と実学が花開いた時代の息吹を伝える貴重な文化財です。藩主の先見の明、平賀源内をはじめとする学者の知性、そして絵師たちの卓越した技術が融合し、植物の生命と美を極限まで追求したこの画譜は、当時の日本人が自然に対して抱いていた深い眼差しと、美意識の結晶と言えるでしょう。高松松平家博物図譜は、後世に多大な影響を与えた重要な図譜として評価が高まっており、近年、デジタルアーカイブの整備が進む現代において、こうした歴史的資料がオンラインで閲覧可能になり、その価値はさらに高まっています。
『植物写生図帖』が示すように、日本の花卉・園芸文化は、単に花を愛でるだけでなく、自然を深く観察し、その本質を理解し、生活や学術、産業に活かそうとする精神性によって育まれてきました。日本の庭園が世界中で注目され、持続可能なデザインのモデルとしても評価されているように、自然との共生を重視する日本の美意識は、現代においても普遍的な価値を持ち続けています 。盆栽や苔に魅了される外国人が多く、日本庭園に満ちた精神性が世界の人々を魅了していることは、その普遍的な訴求力を物語っています。
日本花卉文化株式会社は、この豊かな日本の花卉・園芸文化を現代に伝え、未来へと繋ぐ架け橋となることを目指しています。『植物写生図帖』が教えてくれる、自然への深い洞察と美意識は、現代の私たちの生活にも新たな彩りを与えてくれるはずです。この歴史的な図譜が示す「自然への深い洞察と美意識」は、現代の日本の花卉文化にも脈々と受け継がれています。つまり、この図譜は過去の遺物ではなく、現代のいけばな、庭園、盆栽といった文化の「源流」であり、「生きた精神性」の証であると言えます。
※高松藩は、幕臣の漢学者・平沢元愷を介して植物名を清人に問いあわせましたが、その問いと返答も写されています。画譜の赤札が元愷の質問、その脇の漢文が清人の返答です。(引用:ttps://www.ndl.go.jp/nature/cha1/index2.html#h330)
上巻
『植物写生図帖』上,写. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/8942738
下巻
『植物写生図帖』下,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8942739