香川県指定有形文化財である「高松松平家博物図譜」(以下、松平家図譜)は、高松藩五代藩主・松平頼恭の命により制作された、動植物を精緻に描いた博物図譜です。 松平頼恭は、殖産興業を奨励し、栗林荘内に薬園を設けて薬草を栽培するなど、藩の産業振興に尽力した人物として知られています。 このような背景から、松平家図譜は、単なる美術品としてではなく、学術的な研究資料としても高い価値を持つものとして制作されたと考えられます。この図譜は、魚類、鳥類、植物など多岐にわたる生物を網羅しており、その中には写生画帖と呼ばれる、動植物をありのままに描いた絵画も含まれています。 本稿では、松平頼恭編『写生画帖』の転写本である『植物写生図帖』について、その特徴や歴史的背景、関連資料などを詳しく解説していきます。
『写生画帖』と『植物写生図帖』の関係性
『写生画帖』は、松平頼恭が編纂した博物図譜の一部であり、様々な動植物を写生によって記録したものです。 一方、『植物写生図帖』は、この『写生画帖』のうち、植物を描いた部分を転写したものです。 『植物写生図帖』は原本の『写生画帖』と同様に、植物の姿を精密に描写しており、当時の植物学や美術史を知る上で貴重な資料となっています。
『写生画帖』は、実物見本を模倣するために、魚やクラゲなどを紙で切り抜いて貼り付けるなど、立体的な表現を用いた豪華な図譜であったとされています。 しかし、このような精巧な作りは、取り扱いが難しく、保存にも不便であった可能性があります。そこで、より実用的な資料として、『植物写生図帖』のような転写本が作成されたと考えられます。
『植物写生図帖』が作成された時期と目的
『植物写生図帖』の正確な作成時期は不明ですが、原本である『写生画帖』が制作されたのは松平頼恭が藩主を務めていた18世紀中期と考えられています。 この時期の日本は、江戸時代中期にあたり、博物学への関心が高まっていました。 動植物の観察や記録が盛んに行われ、その成果は、屏風や画帖などに描かれ、博物図譜としてまとめられました。 松平頼恭もまた、殖産興業を奨励し、薬草の栽培や産物の開発に力を入れていました。 『植物写生図帖』は、こうした時代背景の中で、植物の正確な記録と研究、そして藩の産業振興に役立てるために作成されたと考えられます。
さらに、『植物写生図帖』は、当時の生け花である「立花」の記録としても重要な意味を持つ可能性があります。 江戸時代初期に大成された立花は、多くの花伝書に記され、その理念的な図は残されていますが、実際の立花を写生したものは多くありません。 『植物写生図帖』が、もしも実際の立花を記録したものであれば、当時の立花の様式や、用いられた植物の種類を知る上で貴重な資料となるでしょう。
『植物写生図帖』に収録されている植物の種類と特徴
『植物写生図帖』には、175品もの植物が収録されています。 具体的な植物の種類や特徴については、詳細な情報は見つかりませんでした。しかし、当時の写生図は、実物に近い形で植物の姿を記録することを目的としていたため、 『植物写生図帖』に描かれた植物も、当時の讃岐地方(現在の香川県)に生息していた植物を忠実に再現していると考えられます。
江戸時代の写生図は、狩野探幽の「草花写生図巻」のように、春夏秋と季節ごとに描かれたものや、様々な種類の植物を雑多に描いたものなど、様々な形式で制作されました。 『植物写生図帖』も、こうした当時の写生図の形式に倣って、様々な種類の植物が描かれている可能性があります。
江戸時代の植物図譜との比較
『植物写生図帖』は、江戸時代に制作された数多くの植物図譜の一つです。ここでは、他の代表的な植物図譜と比較することで、『植物写生図帖』の特徴をより明確にしていきます。
花彙(かい) :江戸時代後期に刊行された草木図譜。全8巻で、草編4巻と木編4巻から構成されています。本草学者・小野蘭山などが執筆・絵画を担当し、精緻な植物画と簡潔な解説文が特徴です。白黒の木版画で描かれている点が、『植物写生図帖』のような彩色画とは異なります。
栗氏魚譜 :幕医栗本丹洲による魚介類図譜。全二十数巻からなり、国立国会図書館や東京国立博物館などに分散して所蔵されています。西洋の植物図鑑である『花譜』の影響を受けており、写実的な描写が特徴です。
『植物写生図帖』の作者や制作に関わった人物
『植物写生図帖』は、松平頼恭編『写生画帖』の転写本であるため、原本の作者と転写者の両方が存在します。 残念ながら、どちらの作者についても具体的な情報は明らかになっていません。 しかし、松平家は文化振興に熱心であり、多くの絵師や学者を庇護していたことから、 当時の高名な絵師や学者たちが制作に関わっていた可能性があります。
また、『写生画帖』の制作には、平賀源内が関わっていた可能性も指摘されています。 源内は、蘭学者、医者、作家、発明家など、多岐にわたる分野で活躍した人物であり、博物学にも精通していました。 彼が『写生画帖』の制作に携わっていたとすれば、その学識や発想が、図譜の構成や表現方法に影響を与えている可能性も考えられます。
結論
松平頼恭編『写生画帖』の転写本である『植物写生図帖』は、18世紀中期の日本の博物学や美術史を知る上で貴重な資料です。175品もの植物が精緻に描かれており、当時の植物相や写生技術を現代に伝える貴重な文化遺産と言えるでしょう。
『植物写生図帖』は、当時の社会状況や文化的な背景を反映した資料であると同時に、芸術作品としての価値も高く評価されています。写実的な描写は、植物の細部まで正確に捉えられており、当時の絵師の高い技術力を示しています。また、写生を通して、植物の生命力や美しさを表現しようとする、芸術的な感性も感じ取ることができます。
近年、デジタルアーカイブの整備が進み、多くの資料がオンラインで閲覧できるようになりました。し
※高松藩は、幕臣の漢学者・平沢元愷を介して植物名を清人に問いあわせましたが、その問いと返答も写されています。画譜の赤札が元愷の質問、その脇の漢文が清人の返答です。
(引用:ttps://www.ndl.go.jp/nature/cha1/index2.html#h330)
上巻
『植物写生図帖』上,写. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/8942738
下巻
『植物写生図帖』下,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8942739
参考
江戸の写生図―可憐なる花卉図の源泉 - 東京国立博物館
江戸の写生図 - researchmap
日本列島の植物|江戸の花だより - 国立公文書館