日本近代植物学の夜明けを拓いた巨人:本草学者・伊藤圭介の生涯と知の探求
- JBC
- 6月25日
- 読了時間: 15分

1.時を超えて息づく、植物への情熱
日本の四季を彩る花々、心を和ませる庭園の風景は、私たちの生活に深く根ざした花卉・園芸文化の象徴です。この豊かな文化の根底には、古くから自然を慈しみ、その生命の神秘を探求してきた人々の知の歴史が息づいています。現代の私たちが当たり前のように享受している植物の知識や分類体系は、一体どのようにして築き上げられてきたのでしょうか。その問いの答えの一つに、江戸から明治へと激動の時代を生き抜き、日本の近代植物学の礎を築いた一人の偉大な本草学者、伊藤圭介の存在があります。
伊藤圭介の生涯は、まさに伝統と革新が交錯する日本の知の変遷を体現しており、その飽くなき探求心と社会貢献への情熱は、時を超えて私たちに多くの示唆を与えてくれます。伊藤圭介の物語を辿ることは、単なる歴史上の人物の足跡を追うに留まりません。それは、日本の自然観がいかにして近代科学と融合し、今日の花卉・園芸文化、ひいては自然科学全体に深い足跡を残したのかを探る、壮大な知的発見の旅へと私たちを誘います。本記事では、伊藤圭介の多岐にわたる功績と、伊藤が日本の知の発展に果たした役割を深く掘り下げていきます。
2.伊藤圭介とはどのような人物か:伝統と革新を繋ぐ知の巨人
伊藤圭介は、享和3年(1803)に尾張国名古屋(現在の愛知県名古屋市)で医師の次男として生を受け、明治34年(1901)に99歳という驚くべき長寿を全うしました。この約一世紀にわたる生涯は、江戸時代後期から幕末、そして明治維新を経て近代国家へと変貌を遂げる日本の激動期と見事に重なります。伊藤は家業である医学を修める傍ら、古来の東洋の学問である本草学(植物、動物、鉱物の形態、産地、効能などを研究する学問)に深く傾倒しました。伊藤の知識は単なる書物上のものに留まらず、実物に触れて知見を深める実証的な姿勢を重んじていました。この実践的な探求心こそが、伊藤の学問の根幹をなすものでした。
伊藤の学問人生における最大の転機は、文政9年(1826)、23歳の時に訪れたドイツ人医師シーボルトとの出会いです。シーボルトは日本の博物学に深い関心を持ち、多くの日本の文物や産物を収集していました。伊藤はシーボルトから西洋の最新植物学を学び、シーボルトもまた伊藤の知識とオランダ語能力を高く評価し、「余は圭介の師であるとともに、圭介氏は余の師である」とまで語ったとされています。この言葉は、伊藤が単なる知識の受容者ではなく、西洋の知と対等に向き合い、共同で探求を進めることができる優れた研究者であったことを示唆しています。この出会いは、伊藤が日本の伝統的な本草学と西洋の近代科学を結びつける「架け橋」となる道を決定づけるものでした。医師として人々の命を救うことに尽力しつつも、その余暇を割いて博物学の研究や蘭書の翻訳に没頭し、その生涯を通じて日本の知の近代化に貢献し続けました。伊藤の長寿は、この東洋と西洋の学問を融合させる試みが一過性のものではなく、人生を貫く揺るぎない哲学であったことを雄弁に物語っています。
3.歴史と背景:本草学から近代植物学への架け橋
伊藤圭介の生涯は、日本の学問が伝統的な本草学から近代的な植物学へと移行する、まさにその変革期と重なります。その業績は、この大きな流れの中で、日本の知のあり方を大きく転換させる触媒となりました。
3.1尾張本草学の系譜と若き日の学び
伊藤は8歳から父に医学を学び、尾張国で盛んだった本草学を、父、兄の大河内存真、そして彼らの師である水谷豊文から深く学びました。水谷豊文は、中国の本草学の系譜に連なる稲生若水、松岡如庵、小野蘭山の流れを汲む実証的な本草学者であり、書斎の学問に留まらず、採薬や薬草園での実地観察研究を重視していました。伊藤もまた、この実証的な流派に属し、植物採集など実物に触れて知見を深めることを重視しました。この「実証主義」を重んじる尾張本草学の伝統は、後に西洋の近代植物学を受け入れる上で、極めて重要な素地を形成しました。伊藤の学びの背景には、単なる知識の吸収ではなく、実物に基づく探求という、東洋と西洋の科学に共通する精神性があったと言えるでしょう。
18歳で医業を開始した伊藤は、父から学んだ漢方医学に加え、オランダを通じて入ってきた西洋の学問である蘭学にも強い関心を持ち、自身の医学に応用しました。この蘭学への深い造詣と、実証を重んじる学問的姿勢が、後のシーボルトとの出会いを決定的なものとし、日本の科学史における伊藤の役割を決定づけることになります。
3.2シーボルトとの邂逅と『泰西本草名疏』の誕生
文政9年(1826)、江戸参府の途中で名古屋に立ち寄ったシーボルトと伊藤は出会い、医学と博物学について深く交流しました。シーボルトは伊藤の知識と語学力を高く評価し、長崎での遊学を勧めました。伊藤は長崎でシーボルトの下で植物学を学び、単なる師弟関係に留まらず、共同研究者のような関係を築きました。この交流の中で、シーボルトは伊藤にスウェーデン人植物学者ツュンベルクの『日本植物誌(FloraJaponica)』を贈呈しました。当時、文政8年(1825)には幕府の紅葉山文庫にツュンベルクの著作が納められていたにもかかわらず、日本の本草学者はその存在を知りませんでした。しかし、シーボルトから直接それを譲り受け、研究に没頭しました。これは、鎖国下で情報が閉鎖的であった時代において、個人の学術的交流が知識の伝播にどれほど重要であったかを示す好例です。
この『日本植物誌』を基に、伊藤は文政12年(1829)に『泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)』を著し、出版しました。この著作は、日本に生えている植物の「日本語の名前」と「学名(ラテン語)」を一覧にした、いわば和英・英和辞典のような画期的なものでした。この中で、伊藤は日本で初めてリンネの分類体系を紹介し、それまで日本にはなかった「おしべ」「めしべ」「花粉」といった現代の植物学で不可欠な用語を考案しました。
「おしべ」「めしべ」「花粉」といった言葉の考案は、単なる翻訳や命名に留まらない、画期的な業績でした。当時、動物の生殖については知られていましたが、植物の生殖の仕組みは一般には理解されていませんでした。伊藤は「植物にもオス(おしべ)とメス(めしべ)の部分があって、花粉を媒介して広がっていく」という概念を、平易で直感的な日本語で表現したのです。これは、西洋の専門知識を日本独自の文化・言語に落とし込み、専門家だけでなく、現代の小学生が理科で学ぶような基本的な知識として、一般の人々にも理解可能な形で提供したことを意味します。この「知のインフラ整備」は、知識の国際化と同時に、知識の「国産化」と「大衆化」を同時に推進したものであり、日本の近代科学が国民生活に浸透していく上で不可欠なステップでした。これは、科学が社会のためにあるべきだという、伊藤の実践的な哲学の表れでもあります。
3.3幕末・明治維新期の社会貢献と公職
伊藤の活動は学術研究に留まらず、激動の幕末から明治にかけて、社会の喫緊の課題解決にも尽力しました。
天保の大飢饉(天保6年〜天保8年)の際には、人々の苦しむ姿を見て、天保8年(1837)に『救荒植物便覧(きゅうこうしょくぶつびんらん)』を発刊しました。これは、食糧不足の際に食べられる野生植物の特徴などをリスト化したもので、医師として治療以外に有益な情報を提供することで、一人でも多くの命を救おうとする伊藤の深い人間愛と実践的な精神が表れています。この著作は、伊藤の学術的知見を現実社会の課題解決に応用しようとする、実践的な科学者としての側面を強く示しています。
また、天然痘の予防にも力を入れ、天保12年(1841)には『英吉利国種痘奇書』を著し、種痘の普及に尽力しました。嘉永3年(1850)には自宅に種痘所を設け、毎月8の日に施術を実施。嘉永5年(1852)には尾張藩種痘所が設置され、兄と共に取締役に命じられました。伊藤の活動は、後の江戸種痘所(東京大学医学部の前身)設立のきっかけの一つとなりました。文久3年(1863)にはコレラの心得書『暴瀉病手当素人心得書』を著し、緊急処置の方法を人々に分かりやすく伝えました。これらの公衆衛生への貢献は、伊藤が単なる学術的な分類法だけでなく、実用的な情報提供に力を入れたことと共通しており、「知識の社会還元」という伊藤の思想的背景を示しています。
文久元年(1861)には幕府の洋学研究機関である蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の出役を命じられ江戸に赴任しました。約2年で帰郷しますが、この際に国外追放を解かれて再来日していたシーボルトと横浜で再会するという感動的な出来事もありました。
明治時代に入ると、伊藤は日本の近代科学の確立にさらに貢献します。明治3年(1870)には、他の医師たちと西洋医学講習所開設を尾張藩に請願し、これが現在の名古屋大学医学部・同附属病院の基礎となりました。同年10月には明治新政府の命を受け、植物学の研究に専念。70代からは医業から距離を置き、植物学に注力しました。文部省教授や東京大学理学部客員教授に任じられ、小石川植物園(日本で最も古い植物園の一つです)で研究を行いました。明治14年(1881)からは東京大学教授となり、明治21年(1888)、86歳で日本最初の理学博士の称号を受けました。
晩年には、明治14年(1881)から明治19年(1886)にかけて、賀来飛霞(かくひか)と共に『小石川植物園草木図説』を編纂しました。この図譜は、多色石版印刷に一部手彩色が施され、当時の植物の姿を精密に伝える画期的なものでした。和名と学名の併記、分類学上重要な器官の分図掲載は、日本の伝統的な本草学の知識と西洋の近代植物学の手法が融合した「和魂洋才」の精神を象徴しています。この図譜の編纂は、明治政府が国家戦略として近代科学の確立を目指す中で、伝統的な日本の知見と西洋の最新技術(多色石版印刷など)を融合させようとした象徴的な試みであり、伊藤はその中心的な役割を担いました。伊藤がその編纂の中心にいたことは、伊藤が単なる学者ではなく、国の科学的発展を牽引するリーダーであったことを意味します。
表1:伊藤圭介の主要な業績と年代
年代(和暦/西暦) | 出来事/業績 | 意義 |
享和3年(1803年) | 尾張国名古屋に生まれる | 日本の近代植物学の礎を築く人物の誕生 |
文政3年(1820年) | 18歳で医業を開始 | 漢方医学と蘭学を融合させる実践的医師としての第一歩 |
文政9年(1826年) | ドイツ人医師シーボルトと出会い、長崎で植物学を学ぶ | 西洋の近代植物学に触れる決定的な転機、共同研究関係の構築 |
文政12年(1829年) | 『泰西本草名疏』を著述・出版 | 日本で初めてリンネの分類体系を紹介、「おしべ」「めしべ」「花粉」などの用語を考案し、植物学知識の国産化・大衆化に貢献 |
天保8年(1837年) | 『救荒食物便覧』を発刊 | 飢饉対策として実用的な植物知識を提供、社会貢献への深い関心を示す |
天保12年(1841年) | 『英吉利国種痘奇書』を著述 | 天然痘予防のための種痘普及に尽力 |
嘉永3年(1850年) | 自宅に種痘所を設ける | 公衆衛生の向上に直接貢献 |
嘉永5年(1852年) | 尾張藩種痘所の取締役に就任 | 藩レベルでの種痘普及を推進、後の江戸種痘所設立に影響 |
文久元年(1861年) | 幕府の蕃書調所に出仕 | 幕府の洋学研究機関での活動、シーボルトとの再会 |
文久3年(1863年) | 『暴瀉病手当素人心得書』を著述 | コレラ対策の緊急処置法を普及、実践的知識の提供 |
明治3年(1870年) | 西洋医学講習所開設を請願(現名古屋大学医学部の基礎) | 日本の近代医学教育の発展に貢献 |
明治3年(1870年) | 明治新政府の命を受け植物学研究に専念 | 医業から植物学研究への本格的な移行 |
明治14年(1881年) | 東京大学教授に就任 | 日本の最高学府での植物学教育・研究を牽引 |
明治14年(1881年)〜明治19年(1886年) | 賀来飛霞と共に『小石川植物園草木図説』を編纂 | 伝統と近代科学が融合した画期的な植物図譜の作成、国家戦略としての科学確立に貢献 |
明治21年(1888年) | 日本最初の理学博士の称号を受ける(86歳) | 日本近代科学史における偉大な功績が国家的に認められる |
明治34年(1901年) | 99歳で逝去 | 生涯にわたる知の探求と社会貢献の人生を全う |
4.文化的意義と哲学:自然への深い敬意と飽くなき探求心
伊藤圭介の業績は、単なる学術的な貢献に留まらず、日本の文化、特に自然観や科学に対する思想に深い影響を与えました。伊藤の生涯と活動は、日本の近代化における「和魂洋才」の精神を体現し、知的好奇心と社会貢献への情熱がどのように結びつくかを示しています。
4.1実証主義の精神と「和魂洋才」の体現
伊藤の研究姿勢は、書物上の知識だけでなく、自ら野外で植物を採集し、その情報を詳細に記録するという実証的なものでした。これは、当時の本草学が、フィールドワークに基づく経験知を重視する、近代科学に通じる実証主義的な精神を持っていたことを示しています。シーボルトから実証研究の大切さを学んだことは、伊藤の博物学の基礎を確固たるものにしました。
伊藤の最大の功績の一つは、日本の伝統的な本草学と西洋の近代科学を融合させた点にあります。これは単なる知識の輸入や模倣ではなく、日本の既存の知の基盤の上に西洋の知識を「消化」し、独自の形で「再構築」しようとする、まさに「和魂洋才」の精神の具体的な体現でした。例えば、『泰西本草名疏』におけるリンネ分類体系の導入と、「おしべ」「めしべ」といった日本語の造語は、西洋の普遍的な科学概念を日本の言語と文化に根付かせた画期的な試みでした。伊藤の蘭方医学と植物学に対する考え方も、両者を二分して考えるのではなく、互いに補完し合い、西洋の知見を日本の本草学に利用するという折衷的なものでした。この思想は、単に生存に必要な知識の収集から、世界の真理を解明しようとする科学的探求への意識の転換を示すものであり、後の近代科学の萌芽ともいえる重要な思想的変化を促しました。
4.2知的好奇心と長寿の秘訣
伊藤圭介の99歳という長寿は、現代においても驚くべきものです。その長寿の秘訣は、伊藤の尽きることのない知的好奇心と探求心にあったとされています。伊藤は生涯を通じて学び続け、最後の公職である東京大学を非職で辞めたのが84歳でした。90歳代前半になっても植物学の集大成である『錦窠植物図説』をまとめるなど、その学究心は衰えることを知りませんでした。
伊藤の知識欲の深さを示す具体的なエピソードとして、伊藤の著書『錦窠植物図説』に添付された多様な資料が挙げられます。伊藤は植物研究のために、岩崎灌園をはじめとする先人の図譜や文献の転写だけでなく、広告の切り抜きなど身近な素材も数多く収集し貼り付けていました。例えば、茶の項目にはお茶の価格表や宣伝紙が20枚以上、モモの項目には舶来のモモ缶のラベルが丁寧に剥がして貼り付けられています。また、図説の最後には「楮譜」という特別の項目を設け、清国の紙見本を500枚近く貼り付けた資料も収集していました。これらの行動は、植物に関する事柄であれば、茶の値段、舶来の缶詰、紙の見本など、あらゆる情報を吸収しようとする伊藤の飽くなき探求心を示しています。
伊藤の自然観は、日本国内にとどまらず、世界へと広がる未知の植物への関心から窺えます。文政10年(1827)から、伊藤は尾張の本草学研究会「嘗百社」の仲間たちと展示会を開き、シーボルトから贈られたインド産やマレー産の植物標本も展示していました。また、後に勤務した蕃書調所には、東インドやジャワの植物に関する文献も揃っており、伊藤の知識を深める一助となりました。『錦窠植物図説』の各所にも、長年温めてきた異国の植物への情熱が見られます。さらに、日本の「辺境」と考えられていた北海道や沖縄、小笠原などの植物にも多大な好奇心を持っていました。これは、伊藤が日本の多様な自然に対する深い知識と関心を持っていたことを示しています。
4.3日本の自然観と花卉文化への貢献
『小石川植物園草木図説』に見られる精緻な描写は、単なる科学的な記録を超えた芸術作品としての価値を放っています。多色石版と手彩色による鮮やかな表現は、当時の日本の高い印刷技術と、植物の細部までを慈しむような職人技の融合を示しています。これは、江戸時代に隆盛した『本草図譜』のような本草図譜や博物画の伝統が、近代的な手法と結びつき、新たな形で昇華されたものと言えるでしょう。
植物の形態、花の色、さらには分類学上重要な器官に至るまで、細部にわたる正確な描写には、当時の人々が自然に対して抱いていた深い観察眼と、生命への畏敬の念が込められています。これは、江戸時代から続く日本の自然観、すなわち自然を客観的な対象としてだけでなく、共生すべき存在として捉える思想が、近代科学の導入後も失われなかったことを示唆しています。この図譜は、科学が客観的な事実の追求であると同時に、対象への深い共感や美意識を伴いうることを示しており、現代の環境問題や持続可能性への関心が高まる中で、科学と倫理、美意識がどのように結びつくべきかという問いに対し、歴史的な示唆を与えるものです。自然を「記録」し「分類」する行為の裏には、その多様性を「守り」「伝える」という未来への責任感が込められていたと解釈できます。
伊藤圭介の業績は、後の研究者たちに受け継がれ、発展しました。牧野富太郎は伊藤を「本草学の大家として……大海の中に毅然として立った島」と高く評価しています。伊藤の貢献は、日本の植物学を近代化し、その基盤を築いたことで、今日の花卉・園芸文化の発展に不可欠な科学的理解をもたらしました。植物の生命の仕組みや多様性を深く見つめる伊藤の精神は、現代の私たちが花や植物を愛でる心の源流の一つとして、今なお息づいています。
5.結び:未来へ繋がる伊藤圭介の遺産
伊藤圭介の生涯は、江戸時代から明治時代への激動期において、日本の科学と文化がいかにして伝統を守りつつ、西洋の新しい知を取り入れ、独自の発展を遂げたかを示す壮大な物語です。伊藤は、医師として人々の命を救い、社会の困難に立ち向かう実践的な科学者であると同時に、本草学と近代植物学の架け橋となり、日本の知のインフラを整備した先駆者でした。
伊藤の「和魂洋才」の精神、すなわち日本の伝統的知見を基盤としつつ西洋の科学を深く理解し融合させる姿勢は、単なる知識の吸収に留まらず、それを日本の風土と文化に根付かせ、国民生活に還元しようとする強い意志に裏打ちされていました。特に「おしべ」「めしべ」「花粉」といった言葉の考案は、専門知識を平易な言葉で伝え、科学を大衆化しようとした伊藤の教育者としての側面を象徴しています。
伊藤が残した遺産は、現代の日本の花卉・園芸文化の豊かさ、そして自然科学の発展の中に明確に息づいています。伊藤の飽くなき探求心、実証主義の精神、そして自然への深い敬意は、現代社会が直面する環境問題や持続可能性の課題を考える上でも、普遍的な価値を持つメッセージを私たちに伝えています。伊藤圭介の物語を知ることは、日本の花卉・園芸文化が持つ奥深さ、そしてその背景にある知の歴史への理解を一層深めるきっかけとなるでしょう。