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『花菖蒲図譜』に息づく日本の美意識:近代植物学と伝統園芸文化の融合

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 2024年5月4日
  • 読了時間: 11分

更新日:6月13日



1. 日本の花菖蒲:失われゆく美と『花菖蒲図譜』の物語


日本の豊かな四季が織りなす花々は、古くから私たちの心を魅了し、独自の文化を育んできました。梅雨の季節にひときわ鮮やかに咲き誇る花菖蒲は、その優雅な姿と多様な色彩で、多くの日本人を惹きつけてやみません。しかし、この美しい花々が、かつて失われかける危機に瀕していたことをご存知でしょうか?そして、その危機を救い、現代にまでその多様な美しさを伝えた一冊の図譜が存在します。それが、近代日本の植物学の礎を築いた三好学が編纂した『花菖蒲図譜』です。   


この図譜は単なる植物の記録ではありません。そこには、日本の花卉園芸文化の奥深さ、そして失われゆく美を守り伝えようとした人々の情熱が凝縮されています。花菖蒲が直面した消滅の危機は、この貴重な図譜が生まれるきっかけとなりました。危機的な状況下で、日本の植物文化の保護と継承への強い意志が結実し、この図譜の編纂へとつながったのです。本稿では、『花菖蒲図譜』がどのような図譜であるのか、その背景にある三好学の生涯と時代、そしてこの図譜が持つ文化的意義と哲学について深く掘り下げていきます。   



2. 『花菖蒲図譜』とはどのような図譜か


『花菖蒲図譜』は、明治時代から大正時代にかけて、日本の花菖蒲の多様な品種を精緻な植物画と詳細な解説で記録した、学術的かつ芸術的価値の高い図譜です。この図譜は、単に花菖蒲の姿を写し取ったものではありません。各品種の形態的特徴、色彩、斑の入り方、草丈、開花時期といった詳細な情報が、植物学的な正確さをもって描かれ、記述されています。これは、失われゆく花菖蒲の品種を後世に伝えるための貴重な資料として編纂されたものです。   


図譜に収められている花菖蒲の品種は、江戸時代に育種された古典品種から、明治以降に新たに作出された品種まで多岐にわたります。当時の花菖蒲は、江戸時代に隆盛を極めた園芸文化の中で数多くの品種が生み出されていました。しかし、明治維新による社会の変化や西洋文化の流入に伴い、日本の伝統的な園芸文化は一時的に衰退の危機に瀕し、多くの古典品種が失われその記録も散逸しかけていました。このような状況において、『花菖蒲図譜』は、単なる植物の図鑑ではなく、失われつつあった日本の花卉園芸文化の包括的な記録として機能しました。植物の物理的な特徴だけでなく、その歴史的背景や美的価値までもがこの図譜に収められ、未来へと伝えられる文化的なアーカイブとしての役割を担ったのです。   


図譜の制作にあたっては、当時の著名な植物画家が起用され、その筆致は花菖蒲の繊細な美しさを余すところなく表現しています。また、三好学自身による詳細な植物学的解説が加えられることで、単なる絵画集に留まらない、学術的な資料としての価値も確立されています。『花菖蒲図譜』は、日本の花卉園芸史において、失われかけた伝統的な美を記録し、後世に伝える役割を果たしただけでなく、植物学と芸術が融合した稀有な作品としても評価されています。   



3. 三好学の経歴と時代背景、花菖蒲図譜が作られた経緯



3.1 三好学の経歴


三好学(安政5年(1858)~昭和13年(1938))は、日本の近代植物学の礎を築いた傑出した植物学者です。現在の岐阜県に生まれ、幼少期から植物に深い関心を示しました。東京大学理学部を特待生として卒業後、大学院に進み地衣類の解剖を研究しました。その後、ドイツに留学し、当時最先端の植物生理学を学びました。帰国後、東京帝国大学(現在の東京大学)の教授に就任し、日本の植物学研究と教育を牽引しました。   


三好学は、植物生理学、特に植物の光合成や呼吸に関する研究で国際的に高い評価を得ました。また、桜や花菖蒲の研究の第一人者としても知られ、日本の桜の品種保存や分類にも尽力しました。三好学の研究は、単なる学術的な探求に留まらず、日本の自然保護や園芸文化の発展にも大きく貢献しました。天然記念物の保護事業にも取り組み、現在の「文化財保護法」の前身である「史蹟名勝天然紀念物保存法」の成立にも貢献するなど、日本の自然・文化財保護の先駆者でもありました。大正9年(1920)には帝国学士院会員に選ばれています。三好の功績は、西洋の先進的な科学的手法を日本に導入しつつも、日本の固有の自然や文化遺産への深い敬意を失わなかった点にあります。三好学は、近代化が伝統の放棄を意味するものではなく、むしろ新たな知識と技術を用いて既存の文化価値を理解し、保護し、高めることができるという、強力な融合の道を体現した人物と言えるでしょう。   



3.2 時代背景


『花菖蒲図譜』が制作された明治時代から大正時代は、日本が近代国家として急速な発展を遂げていた時期です。西洋の科学技術や文化が積極的に導入され、社会全体が大きく変革していました。しかし、その一方で、江戸時代に培われた伝統的な文化や技術が、近代化の波の中で失われつつあるという危機感も存在しました。   


園芸文化も例外ではありませんでした。江戸時代には、花菖蒲、朝顔、菊、椿など、様々な植物の育種が盛んに行われ、庶民の間でも園芸が広く親しまれていました。特に花菖蒲は、その優雅な姿と多様な品種が愛され、専門の育種家によって多くの新品種が作出されていました。中でも、二千石取りの旗本・松平定朝、通称・菖翁(しょうおう)と呼ばれる人物は、江戸時代後期に花菖蒲の品種改良を飛躍的に発達させたことで知られています。定朝は、江戸麻布桜田町(現在の港区元麻布三丁目)の広大な邸宅で60年以上にわたり花菖蒲の改良に取り組み、京都町奉行などの役職で京都に滞在した際も花菖蒲を携え改良を続けました。定朝の品種改良は、それまでの単純な花形だった花菖蒲に「業(芸、変化)」を持たせ、花形を飛躍的に発達させたことにあります。名花「宇宙」のような牡丹咲きまで作出しましたが、単なる変化だけでなく、花の持つ「品格」を非常に重視しました。この精神は、その後熊本や堀切へと受け継がれ、現代に至るまで花の品位を重要視するという伝統に影響を与えています。定朝は、自作の花菖蒲を晩年まで門外には出しませんでした。   


しかし、明治維新後、武士階級の解体や社会構造の変化により、伝統的な園芸を支えていた基盤が揺らぎ始めます。武士階級は、定朝のような育種家を輩出し、またその文化を支える重要な担い手であったため、その解体は、単に社会構造の変化に留まらず、洗練された園芸文化の衰退に直結しました。また、西洋の園芸植物が導入される中で、日本の古典園芸植物への関心が薄れる傾向も見られました。多くの品種が記録されることなく消滅し、その美しさが忘れ去られる危機に瀕していたのです。これは、単に植物の品種が失われるという事態に留まらず、江戸時代に培われた、花に「業」や「品格」を見出すという哲学的な園芸の伝統そのものが失われる危機でもありました。   



3.3 『花菖蒲図譜』が作られた経緯


このような時代背景の中で、三好学は、日本の貴重な花菖蒲の品種が失われつつある現状に強い危機感を抱きました。三好学は、単なる学術的な研究者としてだけでなく、日本の植物文化の保護者としての使命感を持っていました。   


『花菖蒲図譜』の制作は、三好学が中心となり、当時の著名な園芸家や植物愛好家、そして植物画家たちの協力を得て進められました。三好学は、全国各地に散逸していた花菖蒲の品種を収集し、それらを東京帝国大学の植物園などで栽培・観察しました。そして、それぞれの品種が最も美しく咲き誇る時期を捉え、精緻な植物画として記録する作業が行われました。   


この図譜の制作は、単なる記録作業ではありませんでした。それは、失われゆく日本の美を後世に伝えようとする、三好学と彼に賛同する人々の情熱と執念の結晶でした。彼らは、花菖蒲の多様な美しさを正確に記録することで、その品種が持つ遺伝的な情報だけでなく、それらを育んできた日本の園芸文化の精神性をも保存しようとしたのです。この取り組みは、単なる事後的な記録ではなく、消えゆく文化遺産を救い、未来へと繋ぐための能動的かつ体系的な文化継承の行為でした。   


『花菖蒲図譜』は、学術的な正確さと芸術的な美しさを兼ね備えた、他に類を見ない図譜として完成しました。この図譜の制作は、日本の近代植物学が、西洋の科学的手法を取り入れつつも、日本の伝統文化への深い敬意と愛情を失わなかった証でもあります。   



4. 『花菖蒲図譜』についての文化的意義・哲学


『花菖蒲図譜』は、単なる植物の記録を超え、日本の文化と哲学を深く体現する作品として、多岐にわたる文化的意義を持っています。   



4.1 失われゆく美の保存と継承


最も重要な意義は、失われゆく日本の伝統的な花菖蒲の品種を、学術的かつ芸術的に記録し、後世に継承した点にあります。明治維新後の社会変革の中で、多くの古典品種が消滅の危機に瀕していました。三好学は、この図譜を通じて、単に植物の形態を記録しただけでなく、それぞれの品種が持つ歴史的背景や、それを育んできた人々の情熱、そしてその美意識をも保存しようとしました 。これは、過去の文化遺産を現代に繋ぎ、未来へと引き継ぐという、文化継承の重要な役割を果たしています。   


加えて、植物の品種は、病害など自然の脅威にも常に晒されており、その脆弱性は、このような精緻な記録の重要性を一層際立たせます。図譜は、単なる記録を超え、失われた品種を識別し、もし可能であれば再興するための詳細な「遺伝的青写真」としての役割も果たし得るのです。この緻密な記録は、生物多様性の維持と文化の連続性を保証するための、貴重な資源となっています。   



4.2 自然への深い洞察と敬意


『花菖蒲図譜』に描かれた花菖蒲は、単なる写実的な描写に留まらず、それぞれの花が持つ生命力や個性が表現されています。これは、三好学をはじめとする当時の植物学者や画家たちが、植物を単なる研究対象としてではなく、生命あるものとして深く洞察し、敬意を払っていたことの証です。彼らは、植物の物理的な形だけでなく、その本質や精神性をも捉えようとしました。日本の伝統的な自然観では、自然は畏敬の対象であり、その中に美を見出すことが重要視されてきました。この図譜は、そうした日本の自然観が、近代科学の客観的な視点と融合した稀有な例と言えるでしょう。客観的な観察と、対象への深い共感と尊敬が一体となることで、より豊かな理解が生まれることを示しています。   



4.3 科学と芸術の融合


この図譜は、植物学的な正確さと、卓越した植物画の技術が融合した作品です。科学的な分類や記述が、芸術的な表現によって補完され、より深い理解と感動を呼び起こします。多くの文化圏では、科学と芸術は異なる、あるいは対立する分野と見なされがちですが、この図譜は、日本の文化において学問と芸術が分断されることなく、互いに高め合う関係にあったことを示唆しています。花菖蒲の微細な特徴を捉える植物学者の眼差しと、それを美しく表現する画家の筆致が一体となることで、この図譜は単なる資料以上の価値を持つに至りました。これは、異なる分野の知見と技術が協働することで、いかに豊かで多角的な成果が生まれるかを示す好例であり、その普遍的な魅力は、より広い層の読者に作品の価値を伝えています。   



4.4 園芸文化の精神性


花菖蒲の育種は、長い年月と忍耐、そして細やかな観察力を必要とする営みです。新しい品種を生み出す過程には、自然の摂理を理解し、それを人間の手で導くという、深い哲学が込められています。江戸時代の菖翁が「業(芸)」と「品格」を追求したように、育種家たちは単なる形や色を超え、花に生命の尊厳と美意識を宿らせようとしました。これは、自然との対話を通じて新たな美を創造しようとする、育種家たちの精神性を表しています。   


また、花菖蒲を愛でる文化は、移ろいゆく季節の中で、一瞬の美に心を寄せる日本人の「もののあわれ」の精神とも深く繋がっています。その儚い美しさにこそ、深い感動を見出すのです。この図譜は、そうした日本独自の園芸文化の精神性を視覚的に表現し、後世に伝えています。それは、単なる植物の記録ではなく、花に込められた人間の営みと思想、そして自然との共生の中から生まれる美の哲学を伝える文化遺産です。   



4.5 国際的な評価と影響


『花菖蒲図譜』は、その学術的価値と芸術的価値の高さから、海外の植物学者や園芸家からも高い評価を受けました。日本の花卉園芸文化の独自性と奥深さを世界に紹介する役割も果たし、国際的な植物学研究や園芸文化交流にも貢献しました。これは、日本の伝統文化が、特定の地域に留まらない普遍的な価値を持つことを示す一例でもあります 。科学と芸術、そして深い文化哲学が統合されたこの作品は、国境を越えて人々に感動と学びを与え、日本の文化が世界に誇るべきものであることを証明しています。   



結論


総じて、『花菖蒲図譜』は、三好学の先見の明と情熱、そして多くの人々の協力によって生み出された、日本の花卉園芸文化の至宝です。この図譜は、単に過去の記録に留まらず、現代を生きる私たちに、自然への敬意、美の追求、そして文化継承の重要性を問いかけ続けています。   


それは、日本の伝統が持つ普遍的な価値と、未来へと繋ぐべき精神性を教えてくれる、貴重な文化遺産なのです。この『花菖蒲図譜』を通じて、私たちは花菖蒲の奥深い世界に触れ、日本の花卉園芸文化の真髄を再発見することができるでしょう。この作品は、過去の美を現代に蘇らせるだけでなく、私たち自身の文化的な視座を広げ、自然とのより深い関わり方を考えるきっかけを与えてくれます。   





三好学 著『花菖蒲図譜』1,芸艸堂,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12395148





三好学 著『花菖蒲図譜』2,芸艸堂,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12395149





三好学 著『花菖蒲図譜』3,芸艸堂,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12395150





三好学 著『花菖蒲図譜』4,芸艸堂,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12395151






参考/引用






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