top of page

幸野楳嶺が描く「千種の花」:日本花卉文化の精髄と未来への継承

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 6月24日
  • 読了時間: 11分


日本の四季は、その移ろいの中で豊かな自然の表情を見せ、古くから人々の心に深く根ざした花卉文化を育んできました。単に美しい花を愛でるだけでなく、その姿に人生の機微や哲学を見出し、生活や精神、さらには芸術にまで昇華させてきたのが、日本の花卉文化の真髄と言えるでしょう。この深遠な世界を現代に伝える貴重な遺産の一つが、明治期の日本画家、幸野楳嶺が遺した植物画譜『千種の花』(ちぐさのはな)です。本稿では、この画譜がどのような作品であり、いかなる歴史的背景のもとに生まれ、そして現代を生きる私たちに何を語りかけるのかを深く探求します。

日本の花卉文化は、単なる過去の遺物ではありません。それは、自然への深い敬意と生命の尊厳、そして「もののあはれ」や「わびさび」といった日本独自の美意識が凝縮された、まさに「生きた文化遺産」と呼ぶにふさわしいものです。幸野楳嶺の『千種の花』は、この文化の奥深さを視覚的に捉え、過去の美が現代の感性にも響く普遍性を持つことを示しています。花を単なる物理的な存在としてではなく、内面的な感情や哲学を映し出す鏡として捉える日本の独特な文化観が、この画譜には色濃く反映されているのです。   



1. 「千種の花」とは:幸野楳嶺が遺した植物画譜の概要


『千種の花』は、幸野楳嶺によって描かれた全4巻、合計200図からなる木版彩色の花の図譜です。この画譜の特筆すべき点は、単なる花の絵の羅列に終わらず、各図に花や葉の形状に関する詳細な解説が付されていることです。さらに、京都で活躍した本草学者である山本章夫(渓愚)が校閲を務めている点も重要です。これは、本作品が単なる芸術作品に留まらず、当時の科学的な探求心、すなわち自然を客観的に記録しようとする「本草学」の精神が融合した、明治期における知の結晶であることを示しています。   


画譜に収録されている植物は驚くほど多様です。桃、梨、椿、柳、柿、マルメロ、山吹、沈丁花、柚、木瓜、栗、花梨、楓といった木々から、延命菊、菖蒲、風車、浜茄子、美男鬘、隠元豆、独活、茄子、唐辛子などの園芸種や野菜、さらには野いちご、水葵、蒲、白粉花といった野草に至るまで、広範な草花が網羅されています。この網羅性は、幸野楳嶺が植物の多様な姿を精緻に捉えようとした意欲と、当時の人々の植物への深い関心を示しています。   


『千種の花』が制作された主な意図は、幸野楳嶺の門下生たちの絵手本としてでした。この画譜は、単に美しい絵を集めたものではなく、次世代の画家を育成するための実践的な教材としての役割を強く持っていたのです。このことは、幸野楳嶺が個人の芸術表現に留まらず、日本の美術教育の発展に寄与したという、より広範な社会的意義を持つ作品であることを物語っています。   



1.1. 「千種の花」収録植物の多様性


『千種の花』には、日本の豊かな自然と園芸文化を象徴する多種多様な植物が収録されています。その一部を以下に示します。

分類

植物名(例)

木々

桃、梨、椿、柳、柿、李、マルメロ、山吹、沈丁花、柚、木瓜、栗、花梨、楓    

園芸種・野菜

延命菊、菖蒲、風車、浜茄子、美男鬘、隠元豆、独活、茄子、唐辛子    

野草

野いちご、水葵、蒲、白粉花    

この幅広い植物の選定は、当時の日本の植物学的な知識の広がりと、幸野楳嶺の観察眼の鋭さ、そして教育者としての網羅的なアプローチを明確に示しています。



2. 歴史と背景:明治の京都画壇と「千種の花」の誕生


『千種の花』が生まれた明治時代は、日本が大きな変革期にあった時代です。この画譜を理解するためには、作者である幸野楳嶺の生涯と、彼が活躍した当時の美術界、そして花卉文化の潮流を深く掘り下げることが不可欠です。



2.1. 幸野楳嶺の生涯と画業


幸野楳嶺は、弘化元年(1844)に京都で生まれ、明治28年(1895)に52歳で逝去しました。楳嶺は江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した日本画家であり、その画業は日本の美術史において重要な位置を占めています。   


楳嶺は円山派の中島来章に師事し、約20年間学びました。その後、四条派の塩川文麟にも師事することで、両派の技法と精神性を吸収しました。楳嶺の作風は、円山応挙が提唱した「写生主義」と、南画の持つ「精神主義」の調和を目指したもので、特に艶麗で華やかな花鳥画を得意としました。写実的な描写に定評があり、対象の「気」や「生気」を捉えようとする日本の写生精神を深く体現していました。   


幸野楳嶺は、単なる画家としてだけでなく、教育者としても傑出した存在でした。楳嶺は京都美術界の近代化に尽力し、日本初の公立美術学校である京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)の設立を建議し、その教師も務めました。楳嶺の門下からは、竹内栖鳳、上村松園、菊池芳文、谷口香嶠、都路華香、川合玉堂といった、後に近代日本画壇を代表する多くの巨匠たちが育ちました。楳嶺が厳しく徹底的な基礎教育を施したことが、現代京都画壇の礎を築いたと言えるでしょう。   


楳嶺の功績は高く評価され、明治15年(1882)には『百鳥画譜』の著述により絵事著述褒状を受章。さらに明治26年(1893)には、画壇における最高の栄誉の一つである帝室技芸員に任命されています。   



2.2. 明治時代の美術界と園芸文化の潮流


明治維新後の日本は、西洋文化の流入と近代化の波に洗われ、美術界も大きな転換期を迎えていました。伝統的な日本画が西洋美術の影響を受ける中で、京都画壇は独自の道を模索し、幸野楳嶺はその中心人物の一人でした。   


この時代は、植物画にとっても重要な時期でした。植物学の研究が盛んになり、それに伴い、植物の正確な記録としての植物画が多く描かれるようになりました。江戸時代から続く園芸文化も隆盛を極め、特に明治20年代には「変化朝顔」や「江戸菊」といった園芸植物のブームが再来しました。品種改良には近代科学の技術が取り入れられ、品評会や愛好会が各地で活発に設立され、雑誌も刊行されるほどでした。また、ユリ球根を筆頭に、日本の花卉が一大輸出産業として注目された時期もありました。   


このような背景の中で、『千種の花』は、幸野楳嶺が伝統的な写生を基盤としつつ、当時の園芸ブームと植物学の発展がもたらした精緻な描写への需要に応える形で制作されました。画譜が「絵手本」として制作された背景には、こうした社会的な植物への関心の高まりと、それに応じた写生能力の需要があったと考えられます。この作品は、単なる個人的な創作活動ではなく、当時の社会的な「植物への関心」という大きな潮流の中で生まれた、時代を映す鏡のような作品と言えるでしょう。



2.3. 幸野楳嶺の主要な生涯と業績


年代(和暦/西暦)

出来事

弘化元年(1844年)

京都に生まれる    

嘉永5年(1852年)

円山派の中島来章に師事    

明治4年(1871年)

四条派の塩川文麟に師事    

明治11年(1878年)

京都府知事に画学校設立を建議    

明治13年(1880年)

京都府画学校(現:京都市立芸術大学)発足、副教員となる    

明治14年(1881年)

竹内栖鳳が私塾に入門    

明治15年(1882年)

第一回内国絵画共進会で「百鳥画譜」により絵事著述褒状ならびに絵事功労賞を受章  

明治20年(1887年)

明治宮殿皇后宮常御殿杉戸絵「山吹」「芍薬」などを揮毫    

明治23年(1890年)

京都美術協会の設立に参加、評議員となる    

明治26年(1893年)

帝室技芸員に任命される    

明治27年(1894年)

東本願寺大師堂(御影堂)壁画「聖池蓮花図」などを揮毫    

明治28年(1895年)

逝去    

幸野楳嶺が伝統的な画技を習得しつつ、近代美術教育の創設に深く関わり、多くの後進を育成した「伝統と近代の架け橋」としての役割を明確に示しています。楳嶺の作品と生涯は、明治期の日本美術が直面した課題と、それに対する独自の解決策を体現していると言えるでしょう。



3. 文化的意義と哲学:「千種の花」に息づく日本の美意識と教育精神


『千種の花』は、単なる植物の図鑑や絵画集に留まらず、日本の花卉文化、美術史、そして教育史において多層的な意義を持つ作品です。幸野楳嶺の美意識と、作品に込められた哲学的な眼差しを深く考察することで、その本質が見えてきます。



3.1. 幸野楳嶺の美意識と自然観


幸野楳嶺の作風は、「教育的」でありながら「知性と感情が調和した」と評されます。楳嶺は円山応挙の「写生主義」と南画の「精神主義」の調和を目指しました。この「写生」は、単なる外見の忠実な模写に留まるものではありませんでした。日本の伝統的な写生は、対象の「気」や「生気」、すなわち内面的な生命力を捉えようとする姿勢を重視します。   


『千種の花』に描かれた植物は、その精緻な描写の中に、植物の「生き様」や「生命力」が宿っているかのように感じられます。これは、幸野楳嶺の写生が、単なる形態の再現を超え、植物の内奥に宿る生命の輝きや、それを通じて感じられる自然の摂理、さらには日本人の心象風景を表現しようとする、深い精神的探求であったことを示唆しています。   


日本の自然観は、四季の移ろいを繊細に感じ取り、儚いものの中に永遠の美を見出す「もののあはれ」や「わびさび」といった伝統的な美意識と深く結びついています。幸野楳嶺の作品にも、冬の厳しさの中に生命の力強さを見出すような、自然への深い眼差しが感じられます。これは、西洋が神を頂点に置き自然を低い価値と見なしてきたのに対し、日本が自然と共生し、その中に神性や美を見出してきた文化的背景と対照的です。   



3.2. 「千種の花」の教育的・哲学的意義


『千種の花』の制作は、幸野楳嶺の教育活動の延長線上にあり、当時の美術教育の制度化と軌を一にするものでした。この画譜は、単なる鑑賞のための画集ではなく、次世代の画家を育成し、日本の美術教育の基礎を築くという明確な「目的」を持っていたのです。その精緻な植物画は、単なる記録に留まらず、当時の日本人が自然に対して抱いていた独特の美意識を色濃く反映しています。   


また、『千種の花』は、明治宮殿の装飾との関連性からもその文化的意義を読み解くことができます。明治宮殿の化粧の間や葡萄の間、千種の間の格天井には、花鳥画や四季の草花が描かれていました。これは、『千種の花』のような画譜が、当時の最高峰の空間装飾に影響を与え、日本の美意識の象徴として位置づけられていた可能性を示唆しています。   


作品に描かれた植物の一つ一つにも、象徴的な意味合いが込められています。例えば、菊は古くから高潔さ、長寿、希望の象徴とされてきました。このような植物が画譜に選ばれることは、単なる写実を超え、作品全体に深い文化的・哲学的なメッセージを付与しています。   


『千種の花』は、明治という時代の「和魂洋才」の精神を色濃く映し出しています。明治期には植物研究が盛んになり、植物画も多く描かれ、品種改良に近代科学の技術が取り入れられました。一方で、幸野楳嶺は伝統的な円山・四条派の写生を基盤とし、南画の精神性も取り入れています。この融合は、日本の伝統的な精神や文化を保持しつつ、西洋の科学技術や知識を取り入れて近代化を図るという、明治政府が推進した時代の潮流が、『千種の花』という作品にも色濃く反映されていることを示しています。芸術と科学、伝統と近代の融合という点で、この作品は明治期の日本の文化的アイデンティティを象徴する存在と言えるでしょう。   



4. 結び:現代に繋がる「千種の花」の魅力


幸野楳嶺の『千種の花』は、明治時代に制作された画譜でありながら、現代の私たちにも多くのことを語りかける普遍的な魅力を持っています。この作品は、単なる歴史的な画譜としてだけでなく、現代社会において私たちに自然の美しさ、生命の尊厳、そして日本の伝統的な美意識を再認識させる力を持っています。

デジタル化が進んだ現代において、『千種の花』のような木版彩色の画譜に触れることは、アナログな手仕事の精緻さや、そこに込められた人間の感性を再発見する貴重な機会となります。情報過多な現代において、本質的な美や深い洞察を求める人々にとって、この画譜は静かに立ち止まり、自然と向き合うことの価値を問いかける存在です。   


幸野楳嶺が残した教育的遺産は、現代の芸術教育や植物研究にも通じる普遍的な価値を秘めています。楳嶺の画譜は、単に過去の美を鑑賞するだけでなく、私たち自身の身近な自然に目を向け、その中に潜む美や生命の営みを感じ取るきっかけとなるでしょう。

『千種の花』は、日本の花卉文化の奥深さを伝える「生きた教材」であり、私たちと自然との豊かな関係性を再構築し、日々の生活の中に美と精神性を見出すための示唆を与え続けています。この画譜を通じて、日本の花卉/園芸文化への理解を深め、身近な植物に目を向けたり、関連する美術館や庭園を訪れたりすることで、その魅力をさらに探求してみてはいかがでしょうか。   




幸野楳嶺 著・画『千種の花』1,文求堂,明治23-24. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13212859






幸野楳嶺 著・画『千種の花』2,文求堂,明治23. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13212860






幸野楳嶺 著・画『千種の花』3,文求堂,明治23-24. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13212861






幸野楳嶺 著・画『千種の花』4,文求堂,明治24. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13212862









参考/引用








bottom of page