岡村尚謙「桂園橘譜」の世界:江戸の柑橘
- JBC
- 2月9日
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更新日:6月20日

1. 時を超えて息づく、日本の花卉文化の精髄
もし、江戸時代の知が結実した一冊の植物図譜が、現代の私たちの食卓に並ぶ果物の歴史を紐解く鍵だとしたら、あなたはその世界を覗いてみたくありませんか? 日本の豊かな自然は、古くから人々の暮らしと深く結びつき、独自の「花卉/園芸文化」を育んできました。その歴史は単に植物を愛でるだけでなく、深い探求心と、自然との共生を重んじる精神に満ちています。
本記事では、江戸時代後期に生きた本草家・岡村尚謙(おかむら しょうけん)が著した『桂園橘譜(けいえんきっぷ)』を窓として、日本の花卉/園芸文化の奥深さと、その中に息づく精神性、そして現代へと続く知の連鎖を探求します。この図譜は、単なる植物の記録に留まらず、当時の科学的視点、文化的価値観、そして未来への眼差しが凝縮された、まさに「発見」に満ちた一冊なのです。
2. 『桂園橘譜』とは:江戸の知が結実した画期的な植物図譜
『桂園橘譜』は、江戸時代後期の嘉永元年(1848)に成立した、柑橘類を主題とした貴重な植物図譜です。本書が日本の植物学史において特筆すべき存在とされる最大の理由は、当時まだ一般には広く普及していなかった温州みかん(温州橘)に関する「詳細かつ正確な写生図」を伴う、最初の文献であるという点にあります。
この図譜は写本として制作され、挿画は丹念に彩色されています。その精緻な図版は、当時の植物学的観察の高さと、それを正確に記録する技術の成熟を示しています。特に温州みかんの描写において「写生図」という言葉が繰り返し用いられることは、単なる美的な表現に留まらない、植物学的同定におけるその重要性を物語っています。
当時の社会において、温州みかんは「タネなし」という特性から、「子だね運を悪くする」と忌避され、広く普及していませんでした。江戸時代に主流だったのは、種子のある紀州みかんや九年母(くねんぼ)などでした。このような文化的背景があったにもかかわらず、岡村尚謙が温州みかんを詳細に記録し、その「最初の正確な写生図」を残したことは、尚謙の深い科学的洞察力と先見性を示すものです。当時の文化的偏見を超えて、温州みかんが持つ優れた特性(高品質、食べやすさ)を既に見抜いていた可能性が高いと考えられます。この先駆的な記録は、後に明治時代に入って温州みかんが日本の主要品種へと転換し、さらには「サツマ・マンダリン」として世界に広がる際の、科学的な基盤の一つとなったと推測されます。『桂園橘譜』は、単なる植物図鑑ではなく、未来の食文化を予見し、その科学的基盤を築いた画期的な著作であると言えるでしょう。
3. 歴史と背景:本草家・岡村尚謙の足跡と時代精神
3.1. 岡村尚謙の人物像と学問的アイデンティティ
岡村尚謙(名は遜、号は桂園)は、江戸時代後期に活動した医師であり、同時に「本草家」という、自然物を薬用・博物学的に研究する学者でした。当時の本草学が医学と密接に結びついていたことを象徴する人物像であり、多くの本草家が医師でもあったことは、学問が実生活、特に医療に貢献するという強い意識があったことを示唆しています。
岡村尚謙は下総高岡藩(現在の千葉県)の藩主、井上正滝に仕え、江戸の下谷に居住していたと記録されています。これは、彼が単なる在野の学者ではなく、藩に仕える身分でありながら、学術的な探求に深く没頭していたことを示しています。没年については一部資料に1837年との記述が見られますが、『桂園橘譜』が彼自身によって嘉永元年(1848)に著されたことは、国文学研究資料館の書誌情報など、複数の信頼性の高い資料によって裏付けられており、1848年以降も活動していたことが確実です。『桂園橘譜』以外にも、文政11年(1828)に成立した竹をテーマにした植物図譜『桂園竹譜』も著しており、植物学に対する幅広い関心と継続的な研究活動がうかがえます。
3.2. 江戸時代後期の本草学と柑橘文化の隆盛
江戸時代の「本草学」は、中国の薬物学を起源とし、薬用とする植物・動物・鉱物の形態、産地、効能などを研究する学問でした。この学問は江戸時代に全盛期を迎え、単に中国の本草書の翻訳・解釈にとどまらず、日本に自生する動植物の研究へと発展し、詳細な観察と写生に基づく実証的な研究を発展させました。当時の日本は多様な植物が育つ豊かな環境にあり、人々は多くの植物を日常生活に取り込み、利用していました。この豊かな自然環境が、本草学の発展を後押ししたと言えるでしょう。岩崎灌園の『本草図譜』のように、本格的な彩色植物図譜がこの時代に制作されており、岡村尚謙の『桂園橘譜』もその流れの中に位置づけられます。これは、当時の博物学が視覚的な記録の重要性を認識し、その質を高めていたことを示しています。
柑橘栽培の歴史は古く、有田みかんの歴史は天正2年(1574)に小みかんが持ち帰られたことに始まり、江戸時代には日本初の共同出荷組織「蜜柑方」が設置され、紀州みかんを中心に全国に流通が広がりました。江戸末期には紀州みかんの出荷量が約15,000トンに達するほどで、柑橘が当時の日本人の食文化と経済に深く根付いていたことを示しています。
しかし、温州みかんは1500~1600年頃に鹿児島県で偶発的に発生したとされ、種子がない特性から子孫繁栄に繋がらないとして江戸時代にはあまり普及しませんでした。当時の主流は種子のある九年母や柑子、紀州みかんなどでした。この文化的背景は、『桂園橘譜』が温州みかんに焦点を当てたことの特異性を際立たせています。温州みかんが持つ「種子がない」という特性が、当時の人々の価値観(子孫繁栄)と相反し、普及を妨げたという事実は、文化が科学技術や新品種の受容に与える影響を示す興味深い事例です。これは、単なる経済的合理性だけでなく、人々の精神性や信仰が社会の動向に深く関わっていたことを示唆します。
「温州みかん」という名称は、中国のミカンの名産地「温州」に由来し、江戸時代後期にようやく認知され始めましたが、全国的に統一されたのは明治期に入ってからでした。
柑橘の種類 | 主な特徴 | 江戸時代における位置づけ |
温州みかん | 種子がない、果実が大きい、高品質、食べやすい | 「子だね運を悪くする」と忌避され、あまり普及せず。一部地域で栽培。名称も統一されていない時期。 |
紀州みかん | 種子がある、果実が小さい、品質が良い | 最も主要な品種。共同出荷組織「蜜柑方」により全国に流通。 |
九年母 | 種子が多い、果実が大きい、糖・酸ともに高い、独特の臭気 | 紀州みかんと並ぶ主流品種の一つ。現在は経済栽培されていない。 |
柑子 | 種子がある、果実が小さい、酸味が強い、霜後に甘みが増す | 主流品種の一つ。皮は粗く、白膜が多い。 |
3.3. 『桂園橘譜』制作の経緯と学術的意義
『桂園橘譜』は、江戸時代後期という本草学の爛熟期に制作されました 。この時代は、伝統的な博物学が詳細な観察と写生に基づく実証的な研究を発展させた時期であり、まさに知的好奇心と探求心が花開いた時代でした。
明治時代に入り、日本の近代植物学の黎明期において、植物学者の白井光太郎によって明治44年(1911)に出版・紹介されたことで、本書の価値が再認識されました。これは、江戸時代の学術成果が、西洋の科学的手法が導入された新しい時代の植物学にも通用する普遍的な価値を持っていたことを示しています。白井光太郎による紹介は、単なる古文献の再発見に留まらず、江戸時代の学術成果が、新しい時代の植物学、特に日本の柑橘研究の基礎として貢献し得るものであったことを物語っています。
このように、『桂園橘譜』は、その時代の産物であると同時に、伝統的学知と近代的科学知の「橋渡し」をする役割を担った文献として高く評価されます。江戸時代の本草学は、中国の薬物学を起源としつつも、日本独自の「実証的な観察と写生」に基づく博物学へと進化していました。この進化の過程で培われた知識や手法が、明治維新後の西洋科学導入期において、単なる過去の遺物としてではなく、新しい科学的発展の基礎として機能したのです。これは、日本の学術発展が、単純な西洋化ではなく、既存の優れた伝統的知識を土台とし、それを新しい知見と融合させる形で、有機的に進んだことを示しています。日本の文化が持つ「和魂洋才」のような、異なる要素を取り入れつつも独自の精神性を保つ特性を、学術分野で具体的に示した例と言えるでしょう。
さらに、『桂園橘譜』が温州みかんの正確な記録を載せた最初とされ、明治の碩学者である田中芳男らがこれを採用し、後に農務省を中心として「温州みかん」の名が広く用いられるようになったという事実は、本書が単なる個人の著作に留まらず、国家レベルでの品種統一と普及に貢献したことを示唆します。これは、学術的成果が実社会に与える影響の大きさを物語るものです。
4. 『桂園橘譜』が伝える文化的意義と哲学
4.1. 温州みかんの「写生図」が示す観察の精神
『桂園橘譜』の図版は「彩色図」であり、特に温州みかんの「写生図」は、実物を見て描かれた詳細かつ正確な描写が特徴です。これは、単なる美的な表現に留まらず、科学的記録としての厳密性を追求した結果です。この「写生図」を重視する姿勢は、岡村尚謙が直接観察に基づいた実証的な態度で学問に臨んでいたことを明確に示しており、これは江戸時代後期の進歩的な本草学に共通する特徴でした。当時の本草家たちは、机上の空論ではなく、自らの目で自然を観察し、その真の姿を捉えようと努めたのです。
単なる植物の記録に留まらず、その形態、色、質感に至るまでを精緻に捉えようとする姿勢は、自然に対する深い洞察力、敬意、そして飽くなき探求の精神を反映しています。これは、日本の花卉/園芸文化において、植物を単なる観賞物としてではなく、生命あるものとして深く理解しようとする姿勢に通じます。このような精緻な図版は、当時の人々の植物への眼差しや、対象をありのままに捉えようとする科学的探求心、そしてそれを美しく表現しようとする芸術的感性の融合を物語っています。科学と芸術が一体となった、日本独自の学術文化の一端がここにあります。
この「写生」という行為は、単に植物を正確に描く技術以上の意味を持ちます。それは、対象を徹底的に観察し、その本質を理解しようとする科学者の姿勢であり、同時に、自然の造形美を最大限に尊重し、それを忠実に再現しようとする芸術家の精神でもあります。この両義性が、日本の本草学、ひいては花卉/園芸文化の大きな特徴です。このような科学と芸術の融合は、日本の伝統文化、特に花卉/園芸文化においてしばしば見られる特徴であり、単なる機能的な記録を超えた、対象への深い「敬意」と「愛着」を表現しています。この精神性は、現代の盆栽や生け花、庭園文化にも通じるものです。
4.2. 江戸の博物学と現代植物学への貢献
『桂園橘譜』は、江戸時代の経験的観察が現代の植物学研究にいかに貢献し、日本の植物多様性の理解と保存に繋がっているかを示す貴重な資料です。その精緻な記録は、現代の品種改良や遺伝子研究においても、過去の多様性を知る上で重要な手がかりとなりえます。
本書が温州みかんの正確な記録を載せた最初とされ、その後の明治期に田中芳男らがこれを採用し、「温州みかん」という名称が広く統一されるきっかけとなったことは、本書が単なる歴史的文献に留まらず、現代の柑橘産業の基盤形成にも寄与したことを意味します。これは、学術的成果が実社会に与える具体的な影響を示す好例です。さらに、シーボルトが長島みかん(温州みかん)を初めて欧米に紹介し、明治9年(1876)にはG・R・ホールが温州みかんの苗木を米国に輸出し「サツマ・マンダリン」として広まった歴史を鑑みると、『桂園橘譜』は、日本の柑橘が世界に広がる礎となる、その初期の正確な学術的記録であったと言えるでしょう。
4.3. 花卉・園芸文化における『桂園橘譜』の遺産
『桂園橘譜』は、単なる学術書としてだけでなく、日本の花卉・園芸文化の歴史を物語る重要な遺産です。その存在自体が、日本の植物に対する深い愛情と探求心の証と言えるでしょう。本書は、江戸時代の人々がいかに植物と深く向き合い、その多様性を慈しみ、記録しようとしたかという精神を現代に伝えています。これは、現代の園芸愛好家が植物と向き合う姿勢の源流とも言えるでしょう。
現代の園芸愛好家や研究者にとって、『桂園橘譜』は、日本の柑橘の歴史を知る上で不可欠な一次資料であり、また、科学と芸術が融合した美しい植物図譜として、視覚的な喜びと知的な刺激を与える存在です。その精緻な描写と文化的背景は、日本の伝統的な園芸技術や美意識、そして自然との共生の哲学を再認識するきっかけとなるでしょう。本図譜は、単なる知識の伝達だけでなく、文化的な感性の涵養にも寄与する、日本の伝統に触れる貴重な機会を提供します。
5. 結び:未来へ繋ぐ『桂園橘譜』の魅力
岡村尚謙『桂園橘譜』は、江戸時代後期に生み出された単なる植物図譜ではなく、日本の本草学の精華、そして柑橘文化の豊かな歴史を現代に伝える貴重な遺産です。温州みかんの「最初の正確な記録」としての科学的価値、伝統と近代を繋ぐ「橋渡し」としての学術的意義、そして「写生図」に込められた自然への深い洞察と敬意は、現代を生きる私たちに多くの示唆を与えてくれます。
『桂園橘譜』が示す、植物への飽くなき探求心と、それを美しく記録しようとする情熱は、まさに日本の「園芸」と「花卉」文化の本質を象徴していると言えるでしょう。この図譜は、私たちに、植物を深く知り、慈しむことの喜びを教えてくれます。
岡村尚謙『桂園橘譜』,白井光太郎,明治44. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2536111