松平定信(1758-1829)は、江戸時代中期の大名であり、寛政の改革を主導した政治家として知られていますが、園芸文化の発展にも多大な影響を及ぼした人物です。本稿では、定信が築いた庭園の設計思想、植物収集と栽培技術への科学的関心、文化的活動を通じた園芸の普及、およびこれらの活動が当時の社会構造とどう関わったかを多角的に分析します。特に「浴恩園」を中心とする作庭活動においては、自然観と庶民開放性を基調とした独創性が注目され、江戸園芸文化に新たな潮流をもたらしたことが明らかになります。定信の園芸への取り組みは単なる趣味の域を超え、近世日本における植物学の発展と市民文化の形成に重要な役割を果たしたと言えるでしょう。

松平定信の庭園設計思想と作庭実践
浴恩園における自然観の具現化
築地市場跡地に存在した「浴恩園」は、定信の作庭思想を最も顕著に表した庭園です。この庭園は元々寛永年間に稲葉侯が築いた軍池を改修したもので、三段の地形を活かした六区画構成(集古園・贊勝園・竹園・春園・秋園・百菓園)を特徴としていました。各区域は廻遊式苑路で連結されつつも独立した景観を形成し、四季折々の植栽変化への配慮がなされていました。特に注目すべきは、貝原益軒『花譜』の知見を反映したハスの栽培方法で、弱い品種を個別の甕で保護するという科学的配慮が実践されていた点です。
定信の作庭思想は、以下の九つの特徴に集約されます。
自然愛を基調とし風韻を尊ぶ姿勢
因習的制約からの自由な構成
趣味性の徹底的表現
理知的な自然観察態度
眺望・借景の巧みな活用
名勝模倣における写意性の重視
花卉多用による四季の変化演出
実用性の融合
階級を超えた共有思想
これらの特徴は、単なる美的追求を超えて、生態学的配慮と社会学的視点を兼ね備えた総合的な環境設計思想を示しています。例えば浴恩園では、松・楓・桜・梅・柳を戦略的に配置し、視覚的変化だけでなく微気候の調整機能をも考慮した植栽計画がなされていました。


浴恩園図記
広瀬蒙斎 著 ほか『浴恩園図記』,朝岡旦嶠 写,明治18 [1885]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2540999
南湖庭園の社会的意義
福島県白河市に現存する南湖は、定信作庭の庭園で唯一現存する遺構です。和歌「山水の高き低きもへだてなく共に樂しき圓居すらしも」が示す通り、この庭園は当初から庶民の慰楽を目的として設計された点で画期的でした。当時の大名庭園がもっぱら支配階級の独占物であったことを考慮すると、階級を超越した公共性の萌芽が見て取れます。事実、南湖は日本近代公園の原型と評されることが多く、定信の先進的社会思想が庭園設計に反映された好例と言えるでしょう。




白河市 国指定史跡・名勝「南湖公園」を歩こう!
植物収集と栽培技術への科学的関心
桜と蓮の収集活動
定信の植物収集活動は単なる趣味の領域を超え、体系的で学術的な性格を帯びていました。浴恩園では日本各地から収集した桜を栽培し、開花時期や形態の差異を詳細に記録していました。特に注目されるのは蓮の栽培方法で、貝原益軒の『花譜』で述べられた「弱い品種が淘汰される」現象を回避するため、個別の甕を用いた隔離栽培を実践していたことです。これは当時の園芸技術において極めて先進的な手法であり、植物個体の特性に応じた栽培管理の先駆的事例と言えるでしょう。
定信自筆と伝えられる蓮図譜は、単なる写生を超えて植物学的観察記録の性格を有します。各品種の花弁数・葉脈形状・茎の太さなどが克明に記録され、後世の品種研究に貴重な資料を提供しています。このような科学的態度は、「理知的な自然観察態度」の具体的現れです。
浴恩春秋両園櫻花譜
[松平定信] [編]『浴恩春秋両園櫻花譜』,狩野良信 写,明治17 [1884]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2542399
『白川侯蓮譜』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1286941
園芸書への影響と技術普及
定信の栽培技術は当時の園芸書にも影響を与えました。霧島屋の『花壇地錦抄』(1695年)が日本初の総合園芸書として知られますが、定信の活動時期(18世紀末-19世紀初頭)にはより実証的な栽培記録が登場しています。定信自身が著した随筆『花月草紙』には栽培実験の記述が散見され、経験に基づく技術改良の過程が窺えます。例えばサクラの接木方法に関しては、従来の「切り接ぎ」に加え「芽接ぎ」の成功率向上に言及し、時期選択と刃物の清潔保持の重要性を強調しています。
文化的活動における園芸の位置付け
芸術活動との融合
定信は園芸を単なる実用技術ではなく総合芸術として位置付けていました。静岡県立美術館所蔵の「和歌短冊(花さくら)」は、自ら栽培したサクラを題材にした和歌を記した作品で、園芸と文芸の融合を示す好例です。また、『集古十種』編纂事業においても、植物文様の古美術品収集が積極的に行われ、園芸の美的要素が歴史的文脈で再評価されていました。
茶の湯文化との関連も看過できません。定信は老中在職中も茶会を主催し、和菓子と庭園景観の調和を追求していました。特に季節の花卉を題材にした菓子の開発は、園芸文化を五感で楽しむ試みとして注目に値します。
歌人としての園芸表現
定信の歌集『三草集』には園芸にまつわる作品が多数収録されています。例えば「朝露に 光る葉ずれ 蓮の花 甕に分けたる 姿こそ優れ」という歌は、ハスの甕栽培の様子を詠んだもので、科学的観察と美的感覚の融合を体現しています。このような文芸活動を通じて、園芸が単なる技術ではなく文化的実践として社会に浸透していった過程が窺えます。
社会政策的文脈における園芸文化
寛政改革との連動性
寛政の改革(1787-1793)期における定信の政策は、園芸文化の発展と無関係ではありません。大名庭園の設計には「子孫繁栄の象徴としての陰陽石配置」や「常盤木としての松多用」といった思想的要素が見られますが、定信の場合はより実用的・教育的配慮が顕著でした。例えば浴恩園の広芝庭は藩士の武技練習場としても使用され、庭園空間の多機能化が図られていました。
財政改革の一環として行われた旧里帰農奨励策は、農村における園芸植物栽培を間接的に促進した可能性があります。花卉栽培が副業として奨励された記録はないものの、全国規模の植物収集活動は、地方の特産品開発意識を刺激したと考えられます。
園芸文化の大衆化への寄与
定信の園芸活動が従来の武家文化を超えて庶民層にまで影響を及ぼした点は特筆に値します。南湖庭園の一般開放はその典型例ですが、松月斎庭園の聯(「みやびの道にへだてなけれぱ」)が示す通り、階級を超えた文化共有を理想とする思想が背景にありました。この思想は、江戸後期に隆盛する町人園芸文化の基盤形成に寄与したと言えるでしょう。
技術的遺産と現代への影響
栽培技術の継承
定信が実践した隔離栽培法は、現代の品種保存技術の先駆と評価できます。特に絶滅危惧種保護における個体管理手法との類似性は注目に値します。浴恩園で実施されたサクラの系統別栽培は、明治期のソメイヨシノ普及にも間接的影響を与えた可能性が指摘されています。
都市計画への影響
「潮入の庭」の伝統は、定信の浴恩園設計にも受け継がれていました。築地市場跡地にあった浴恩園の潮入池は、現代の都市水路設計における自然循環システムの参考事例として再評価されつつあります。また、南湖庭園の公共性は現代の公園行政に通じる理念を含んでおり、歴史的環境保護の観点から重要性が増しています。
最後に
松平定信の園芸文化への貢献は、単なる大名の趣味を超えて多面的な意義を有しています。第一に、科学的観察に基づく栽培技術の革新により近世園芸の水準を向上させた点。第二に、庭園設計を通じて自然と人工の調和を追求した環境設計思想を確立した点。第三に、階級を超えた文化共有を実践し、園芸の大衆化に道を開いた点です。これらの業績は、江戸時代後期の文化成熟に大きく寄与するとともに、現代の環境デザインや文化政策にも通じる先見性を有していると言えるでしょう。
今後の研究課題として、定信の園芸活動と蘭学受容との関係性解明、および現存する南湖庭園の生態学的調査が挙げられます。特に微生物相や植生遷移の分析を通じ、近世庭園の持続可能性に関する知見を抽出することが期待されます。定信が遺した園芸文化遺産は、自然と人間の共生を考える上で、現代社会に重要な示唆を与え続けています。