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備荒草木図:江戸時代の飢饉を救った植物図鑑

更新日:1月24日


はじめに


江戸時代、日本は度重なる飢饉に見舞われ、人々は飢えをしのぐため、様々な工夫を凝らしました。その一つが、山野に自生する植物を食用とすることでした。そのような植物を「救荒植物」と呼びます。備荒草木図は、一関藩の藩医であった建部清庵が、飢饉に苦しむ人々を救うために作成した救荒植物の図鑑です。

本稿では、備荒草木図について、その目的、作成の背景、描かれている植物の特徴、文化的・歴史的な価値、現代における意義など、多角的な視点から考察していきます。




備荒草木図とは


備荒草木図は、一関藩の藩医、建部清庵が食用となる山野の植物をまとめた書です。 清庵は名医として知られており、「一関に過ぎたるものは二つあり、時の太鼓に建部清庵」 という俗謡が残っています。これは、一関には時の太鼓と建部清庵という二人の名人がいるという意味で、清庵がいかに地域で尊敬を集めていたかが伺えます。 ちなみに、清庵は代々医者を務める建部家で五代目にあたる人物です。   


備荒草木図は上下2冊からなり、104種の植物の図と、それぞれの植物を食用とする際の調理法や注意点などが解説されています。 各植物には漢名と和名が併記されており 、巻末には、植物図を描いた北郷子明による覚書、建部清庵による題言、石坂宗哲と杉田伯元による序文、大槻玄幹による縁起、杉田立卿による附言、石坂圭宗による後序、杉田白玄による跋、そして解題が収められています。  また、上下巻それぞれに目次も含まれています。   




備荒草木図作成の目的と背景


建部清庵は宝暦5年(1755年)に東北地方を襲った大飢饉を経験し、その惨状を目の当たりにしました。 多くの人々が飢えに苦しみ、命を落とす姿を目の当たりにした清庵は、飢饉対策の必要性を痛感し、救荒書である『民間備荒録』を著しました。   


翌年は天候に恵まれ豊作となりましたが、清庵は人々が飢饉の苦しみを忘れ去ろうとしていることを危惧しました。 そこで、将来再び飢饉が起こった際に人々が同じ苦しみを味わうことのないよう、飢饉の際に食用となる植物を記録し、後世に伝えることを決意しました。  清庵は、この書を村々に配布し、飢饉に備えることを目指していました。   


清庵は古老に話を聞いたり、弟子たちに植物の栽培や採集をさせたりしながら、食用となる植物に関する情報を集めました。 また、同じ陸奥国の江刺郡岩谷堂村の遠藤志峯からは『荒歳録』という書物とともに草木を送ってもらい、多くの助言を得ました。 この『荒歳録』は、備荒草木図の完成に大きな影響を与えたと考えられます。そして、一関藩の画工である北郷子明に植物図を描いてもらい、漢名、和名を載せて『備荒草木図』を完成させました。   




備荒草木図に描かれている植物


備荒草木図には、スミレ、キキョウ、ヘチマ、クヌギなど、104種の食用可能な草木が掲載されています。  その多くは日本や東アジアに分布する植物で、北海道十勝地方にも生育するものが多いとされています。 また、生薬や民間薬として使用されているものも多く含まれています。   


植物名(和名)

特徴

食用方法

薬効

スミレ

道端や草地などに自生する多年草。

若葉を茹でて水にさらし、塩や味噌で調味して食べる。


キキョウ

山野に自生する多年草。

根を乾燥させて粉末にし、お湯に溶かして飲む。

去痰、鎮咳、排膿

ヘチマ

ウリ科の一年草。

若い果実を、皮をむいて生で食べる、または煮て食べる。

利尿作用、解熱作用

クヌギ

ブナ科の落葉高木。

ドングリを炒ったり蒸したりして食べる。

渋腸作用

   


備荒草木図の特徴


備荒草木図は、飢饉に苦しむ人々を救うために作られたという点で、他の植物図鑑とは一線を画しています。その特徴として、以下の点が挙げられます。


  • 実用性:食用となる植物を選別し、その調理法や解毒法を具体的に解説しています。  これは、飢饉の際に人々が安全に植物を食用できるようにという清庵の配慮の表れです。   

  • わかりやすさ:文字の読めない人でも理解できるように、植物図を多く用い、本文には振り仮名がふられています。  これは、より多くの人々に情報を届けるための工夫です。   

  • 医学的知見:清庵は医師であったため、各植物の薬効についても解説を加えています。  備荒草木図は、単なる植物図鑑ではなく、医学的な知見に基づいた、より安全で有益な情報提供を目指した書物と言えるでしょう。   


備荒草木図は、植物学的な知識と、飢饉における植物の利用法に関する実践的な知恵を組み合わせた、当時としては画期的な書物でした。   




備荒草木図を作成した人物と作成年代


備荒草木図は、陸奥国一関藩の藩医であった建部清庵によって作成されました。 清庵は宝暦5年(1755年)の大飢饉の経験から、食用可能な自生植物の調査に着手し、明和8年(1771年)に本書を完成させました。   


しかし、備荒草木図が出版されたのは、清庵の死後51年経った天保4年(1833年)のことでした。  清庵の息子で、蘭学者・杉田玄白の養子となった杉田伯元(建部由甫)が校訂を行い、杉田家の塾「天真楼」から出版されました。  この校訂作業には、杉田玄白の息子である杉田立卿も協力し、植物名については小野蘭山などの本草学者から教えを受け、植物図の一部は石川大浪や宇田川榕庵らに書き直してもらうなど、当時の蘭学界を代表する学者や画家たちが関わっていました。   


清庵自身も蘭学に精通しており、江戸の蘭学者杉田玄白と交流がありました。  清庵は、一関の地から蘭学を広める役割も担っており、その門下からは大槻玄沢など、蘭学の先駆者たちが輩出されました。  備荒草木図の出版には、こうした清庵の人脈が生かされたと言えるでしょう。   


興味深いのは、備荒草木図が天保4年(1833年)の飢饉の際に出版されたという点です。  これは、清庵の死後、再び飢饉が起こり、備荒草木図の必要性が再認識されたためと考えられます。備荒草木図は、まさに時代が必要とした書物であったと言えるでしょう。   



備荒草木図の文化的、歴史的な価値


備荒草木図は、江戸時代の飢饉の実態や、当時の食文化、植物学、医学などを知る上で貴重な資料です。  また、飢饉に苦しむ人々を救おうとした清庵の人道的な精神が込められた書物としても高く評価されています。  備荒草木図は、当時の社会状況や人々の暮らし、そして医学や植物学の発展を反映した、文化史的にも重要な資料と言えるでしょう。   



備荒草木図と似たような目的で作られた他の資料


備荒草木図と似たような目的で作られた資料としては、以下のようなものがあります。


  • 救荒本草:明の時代に中国で編纂された救荒植物に関する書物。  松岡玄達が日本語に訳し、享保元年(1716年)に出版されました。   

  • 民間備荒録: 建部清庵が備荒草木図よりも前に著した救荒書。  宝暦5年(1755年)の大飢饉の経験を基に、凶作への備えや、飢饉の際に起こる様々な問題への対処法を解説した書です。   




結論


備荒草木図は、江戸時代の飢饉を乗り越えるために作成された、104種の救荒植物を解説した図鑑です。その実用性とわかりやすさから、多くの人々に利用され、飢饉の際に役立ちました。現代においても、食料安全保障、生物多様性、伝統文化などの観点から、備荒草木図は重要なrelevance を持っています。

備荒草木図は、単なる過去の資料ではなく、現代社会における様々な課題解決に貢献する可能性を秘めた、貴重な財産と言えるでしょう。 それは、自然と人間との繋がり、そして生命の力強さを私たちに教えてくれる、時代を超えたメッセージでもあります。





備荒草木図 乾


建部由正『備荒草木図 2巻』,天保4 [1833]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2606693





備荒草木図 坤


建部由正『備荒草木図 2巻』,天保4 [1833]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2606693


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