top of page

万葉の香、庭先の陰:馬酔木

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 4月23日
  • 読了時間: 18分

馬酔木(アセビ)は、早春に可憐な白い壺状の花を鈴なりに咲かせる美しい常緑低木です。しかし、その清楚な姿とは裏腹に、全株に強い毒性を秘めています。この「美」と「毒」という二面性は、古来より日本人の自然観や美意識を刺激し、文学、芸術、生活文化の中に深く、そして多様な形でその影を落としてきました。


「馬が酔う木」という、その毒性に由来する名を持ちながらも、なぜこの植物は『万葉集』の時代から和歌に詠まれ、近現代の文学作品の題材となり、さらには華道や茶道といった伝統文化の中でも用いられてきたのでしょうか。本稿は、この問いに対し、提供された資料に基づき、アセビが持つ文化的な側面を多角的に解き明かすことを目的とします。






馬酔木とは:その姿と名の響き



植物学的特徴:清楚な花と秘められた毒


アセビ(学名:Pierisjaponica)は、ツツジ科アセビ属に分類される常緑性の低木で、日本の固有種とされています。宮城県以南の本州、四国、九州の山地に自生するほか、庭木や公園樹としても広く植えられています。  顕著な特徴の一つは、早春、多くは2月から4月にかけて開花する、白や淡いピンク色の小さな花です。スズランや同じツツジ科のドウダンツツジにも似た壺状(あるいは鈴、釣鐘状)の花が、一つの花茎に連なって房のように垂れ下がる姿は、春の訪れを告げる風情ある景観を作り出します。ほのかな芳香を放つこともあります。  


しかし、この可憐な花の姿とは対照的に、アセビは葉、茎、花、根に至るまで、植物全体に「アセボトキシン」(資料によっては「アセチボン」とも)と呼ばれる有毒成分を含んでいます。この毒性は比較的強く、誤って摂取すると、嘔吐、下痢、呼吸困難、四肢麻痺などの症状を引き起こし、重篤な場合には死に至ることもあります。そのため、シカなどの野生動物もアセビを食べることを避けることが知られており、他の植物が食害にあってもアセビだけが残る光景が見られることもあります。  





「馬酔木」の語源と多様な呼び名:毒性が映し出す名前


アセビの最も一般的な和名表記である「馬酔木」は、その名の通り、馬がこの植物の葉を食べると毒にあたり、まるで酒に酔ったかのように足元がおぼつかなくなり、ふらつく様子から付けられたとする説が広く知られています。この名は、アセビの持つ顕著な特徴である毒性と、人間や家畜との関わりの中で生まれたものと考えられます。  


また、毒によって「足がしびれる」ことから「アシビ」、あるいは古くは「足癈(アシジヒ)」と呼ばれ、それが時代とともに訛って「アセビ」になったという説も存在します。さらに、毒のある実を意味する「悪し実(あしみ)」が転訛したという説も有力視されています。これらの語源説はいずれも、アセビの毒性、あるいはその影響に由来しており、古くから人々がこの植物の危険性を認識していたことを示唆しています。  


その毒性を反映した別名も存在します。家畜や野生動物が食べるのを避けることから、「ウマクワズ(馬食わず)」「シカクワズ(鹿食わず)」「ウシクワズ(牛食わず)」、あるいはより直接的に「ウマゴロシ(馬殺し)」といった呼び名が伝えられています。これらの名称は、アセビの名称が、その外見的な美しさよりも、むしろ生物に対する強い作用、すなわち「毒」という性質に基づいて形成されたことを物語っています。これは、古来の人々が植物を注意深く観察し、その特性、特に生活に関わる重要な性質を的確に捉えて命名していたことの証左と言えるでしょう。  



花言葉とその背景:二面性の象徴


アセビには、その特徴を反映した複数の花言葉が存在します。「危険」「犠牲」「献身」「清純な心」「あなたと二人で旅をしましょう」などが代表的なものとして挙げられます。  


「危険」という花言葉は、言うまでもなく、株全体が持つ強い毒性に由来します。一方で、「清純な心」という花言葉は、早春に咲く穢れのない白や淡いピンク色の花々の美しさ、その清らかな姿から付けられたとされています。また、「二人で旅をしましょう」は、寒い冬が終わり、春の陽気が感じられる頃に花開き、人々の心を旅へと誘うような、その開花の時期や雰囲気に由来すると考えられています。  


「犠牲」や「献身」といった花言葉については、その直接的な由来は明確ではありませんが、毒を持つことで他の生物から身を守りつつ美しい花を咲かせる植物のあり方や、あるいは後述する文学作品などでのイメージが影響している可能性も考えられます。  


このように、アセビの花言葉は、「危険」と「清純な心」に代表されるように、この植物が持つ「毒性」と「花の美しさ」という二つの側面を象徴的に反映しています。これは、人々がアセビに対して抱く、警戒心と、その美しさへの魅了という、ある種相反する感情が投影された結果と言えるでしょう。





古典文学に咲く馬酔木



万葉集におけるアセビ:美と情念の象徴


アセビは、日本最古の歌集である『万葉集』に10首もの歌が詠まれており、古くから日本人に親しまれてきた植物です。その存在は奈良時代には既に知られ、庭園などに植えられていた可能性も指摘されています。  


『万葉集』におけるアセビの歌は、その美しさを讃えるものから、人間の深い感情を託したものまで多岐にわたります。


磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに  大伯皇女


馬酔木なす栄えし君が掘りし井の石井の水は飲めど飽かぬかも  作者不明


かはづ鳴く吉野の川の滝の上の馬酔木の花ぞはしに置くなゆめ  作者不明


我が背子に我が恋ふらくは奥山の馬酔木の花の今盛りなり   作者不明


池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を袖に扱き入れな   大伴家持

 

(注:上記は代表的な歌の一部です)  


例えば、大伴家持の歌は、池の水面に影までも映して美しく咲き誇るアセビの花を手折り、袖に入れて持ち帰りたい、という純粋な賞美の心情を詠んでいます。一方、大伯皇女(大来皇女)の歌は、謀反の疑いで非業の死を遂げた弟・大津皇子を悼み、岩の上に咲く美しいアセビの花を手折ろうとしても、それを見せるべき弟はもういないのだ、という深い悲しみを表現しています。


これらの歌からは、万葉時代の人々がアセビの毒性を認識していたかどうかは定かではありませんが、それ以上にその視覚的な美しさに強く心を動かされ、賞美の対象として、あるいは自身の喜びや悲しみ、恋心といった様々な情念を託す存在として、アセビを捉えていたことが窺えます。単なる風景の一部としてではなく、人間の内面世界と深く結びついた植物として受容されていたのです。  



馬酔木よお寺
馬酔木とお寺

枕詞「あしひきの」との関係


和歌において、「山」や「峰」といった語を導き出す枕詞として「あしひきの」という言葉が用いられます。この「あしひきの」の語源については諸説ありますが、その一つに、アセビ(古名:アシビ)が多く生えている山の意である、とする説が存在します。  


しかし、これはあくまで数ある語源説の一つに過ぎません。他にも、山道を足を引きずるように苦労して登る様子からとする説、山の裾が長く引いている様子からとする説、あるいは神話に関連付けて「蘆(あし)を引き抜いて国作りをした」ことからとする説など、様々な解釈が提唱されており、未だ定説は確立されていません。「あしひきの」は「山」だけでなく、「峰(を)」「八峰(やつを)」「岩根(いはね)」など、山に関連する他の語にもかかります。  


枕詞「あしひきの」の語源をアセビに結びつける説の存在は、アセビが古くから山を代表する植物景観の一つとして認識されていた可能性を示唆するものとして興味深いですが、確証はありません。むしろ、言葉の由来を探る難しさを示す一例と言えるでしょう。



平安時代の文学における変化


『万葉集』の時代には盛んに歌に詠まれたアセビですが、平安時代に入ると、その文学的な扱われ方に顕著な変化が見られます。驚くべきことに、『古今和歌集』をはじめとする勅撰和歌集(八代集)には、アセビを詠んだ歌は一首も採られていません。また、『枕草子』や『源氏物語』といった平安時代を代表する物語文学や随筆にも、アセビへの言及は見られないのです。  


平安時代にアセビが詠まれた例は極めて少なく、わずかに源俊頼や藤原信実などの歌が伝えられていますが、それらは『万葉集』のようにアセビの美しさを讃えるものではなく、むしろその毒性に触れ、馬などが誤って食べないように注意を促す内容を含んでいます。  


この平安時代におけるアセビの文学的評価の低下は、いくつかの要因が考えられます。一つには、アセビの持つ「毒性」に対する認識が、万葉時代よりも明確になり、それが不吉なもの、あるいは優雅さに欠けるものとして捉えられた可能性があります。洗練された美や「もののあはれ」といった繊細な感情を重んじる平安貴族の美意識にとって、アセビの持つ毒という側面は、歌や物語の題材として相応しくないと見なされたのかもしれません。これは、万葉時代の素朴で力強い感性とは異なる、平安時代の文化的な価値観の変化を反映していると言えるでしょう。



俳句における季語としてのアセビ


平安時代に文学の表舞台から姿を消したかに見えたアセビですが、後の時代、特に俳諧・俳句の世界において、再びその存在感を取り戻します。アセビは、「馬酔木の花」「花馬酔木」などとして、春、特に晩春を表す季語として定着しました。  


多くの俳人がアセビを句に詠んでいます。

例えば、


鈴鳴らし奥津城守る花馬酔木   水原春郎


花馬酔木春日の巫女の袖ふれぬ   高浜虚子


小鈴みな鳴り出しさうな花馬酔木   馬詰敏恵


といった句が挙げられます。これらの句からは、アセビの小さな鈴のような花の形状や、春の神社仏閣の情景と結びついた姿、あるいは春の訪れを告げる可憐な様子が捉えられています。時には、「馬が痺れるほどの毒性を持っている危険な植物でもある」という、その毒性を背景に意識しながら詠まれることもあります。  


俳句という短い詩形の中で、アセビはその特徴的な花の姿と開花時期によって、春の季節感を効果的に表現する素材として再評価されたのです。和歌の世界で一時影を潜めたアセビが、俳句という異なる文学ジャンルの美学の中で、新たな文化的な価値を見出されたことは注目に値します。





近現代文学における馬酔木の影



堀辰雄『浄瑠璃寺の春』に見る象徴性


近現代文学において、アセビが印象的に描かれた作品として、堀辰雄(ほりたつお)のエッセイ『浄瑠璃寺の春』(初出は1943年「婦人公論」掲載の「大和路・信濃路」の一部)が挙げられます。この作品は、戦時下という時代背景の中で書かれながらも、その美しい文章と静謐な雰囲気から、長く国語教科書にも採用され、多くの読者に親しまれてきました。  


作中で、主人公(語り手)は、以前から憧れていたアセビの花に、京都・加茂の浄瑠璃寺で思いがけず出会います。寺の小さな門の傍らに、門とほとんど同じ高さに伸びた一本のアセビが、白い細かな花を豊かに垂らしているのを見出すのです。主人公はその花を妻と共に仔細に眺め、「どこか犯しがたい気品がある、それでいて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ」と感じます。この描写には、アセビの持つ、近寄りがたいほどの気高さと、同時に人の心を惹きつける可憐さという、二つの相反する魅力が見事に捉えられています。  


さらに主人公は、万葉の時代の人々が、単に美しいというだけでなく、もっと深い意味合いを込めてこの花を愛でたのではないか、と思いを馳せます。アセビは、単なる自然物としてだけでなく、歴史や文化、人々の精神性と深く結びついた存在として暗示されているのです。  


物語の終盤、主人公は東大寺裏手の春日原生林で再びアセビを目にしますが、妻は浄瑠璃寺で見た花とは少し違う、あちらはもっと房が大きく、うっすらと紅味を帯びていた、と語ります。主人公自身には同じようにしか見えなくても、その言葉をきっかけに、浄瑠璃寺の門の傍らで妻と二人、アセビの花を手にとって眺めていた情景を鮮やかに思い出し、「何んだかそれがずっと昔の日の自分たちのことででもあるかのような、妙ななつかしさ」に包まれます。  


このように、『浄瑠璃寺の春』におけるアセビは、単なる美しい風景描写の要素に留まりません。それは主人公の内面世界、過ぎ去った時間への郷愁、そして万葉の時代から流れる文化的な連続性を象徴する、重要なモチーフとして機能しています。アセビの持つ「気品」と「いじらしさ」の二面性が、作品全体を覆う繊細な情感、無常観と響き合い、深い余韻を残しているのです。  





文学雑誌『馬酔木』とその周辺


明治から昭和にかけての近代文学の潮流の中で、「馬酔木」の名は、重要な文学雑誌の名称としても用いられました。


一つは、正岡子規門下の歌人、伊藤左千夫が創刊に関わり、後に斎藤茂吉、島木赤彦、古泉千樫、土屋文明といった「アララギ派」の歌人たちが集う拠点となった短歌雑誌『馬酔木』です。写実主義を基調とし、万葉調を理想としたこの派の活動において、『馬酔木』は重要な役割を果たしました。小説家であり歌人でもあった長塚節も、その創刊に関与したとされています。  


もう一つは、俳句の世界における雑誌『馬酔木』です。これは、高浜虚子の『ホトトギス』から離れた水原秋櫻子が主宰し、新興俳句運動の一翼を担った俳句雑誌であり、彼自身がこの名に改題しました。  

短歌と俳句という、異なるジャンルながらも日本の伝統的な詩形を受け継ぐ二つの有力な文学雑誌が、奇しくも同じ「馬酔木」の名を冠したという事実は、非常に興味深い現象です。この植物が、近代の文学者たちにとって、単なる季語や歌の題材を超えた、某种かの文学的な精神性や、万葉集以来の文学的伝統への回帰、あるいは自然の持つ(毒性をも含めた)ありのままの力強さへの共感といったものを象徴する存在と見なされていた可能性を示唆しています。美しさと共に毒をも内包するアセビの名に、彼らが何らかの文学的理念やアイデンティティを託そうとしたのかもしれません。





伝統文化と馬酔木:茶道、華道、祭り



華道における利用


アセビは、日本の伝統芸術である華道の世界においても、その独特の造形美や季節感から、花材として用いられています。常緑の葉を持つ枝ぶりは、作品に緑の彩りと骨格を与え、早春に咲く白い小花は、季節感を演出するのに適しています。  


様々な流派でアセビを用いた作例が見られます。花材としてアセビを扱う際には、密生した葉を整理して枝ぶりを見せたり、自然な枝の流れを生かしたりすることがポイントとなるようです。庭木としてのイメージが強いアセビですが、華道の世界では、その枝ぶりの面白さや、常緑樹としての清々しさ、そして意外にも洋花とも調和する柔軟性が評価され、重宝されていることが窺えます。毒性については、それを承知の上で、美的な価値が優先されていると考えられます。



茶道(茶花)における利用


茶道において、茶室の床の間を飾る「茶花」としても、アセビが用いられることがあります。茶花は、華道のように技巧を凝らすのではなく、千利休が「花は野にあるように」と説いたように、あたかも野に咲いているかのような自然の姿を尊び、簡素な中に深い趣を見出す「わび・さび」の精神を体現するものです。アセビは、その控えめで可憐な花姿や、自然な枝ぶりが、この茶花の理念に適うものとして、特に早春の季節感を表現する花材として用いられることがあります。





馬酔木の名所:地域と文化の結びつき


日本各地には、アセビが美しい花を咲かせる名所として知られる場所が存在します。それらの場所は、単に自然景観が優れているだけでなく、しばしば歴史や文学、信仰と結びつき、独自の文化的な意味合いを帯びています。



浄瑠璃寺(京都府木津川市):文学と美の舞台


京都府南部の木津川市加茂町にある浄瑠璃寺は、アセビの名所として特に有名です。例年、2月下旬から3月下旬にかけて、境内、特に国宝の本堂裏手から同じく国宝の三重塔へと続く石段の参道脇などに植えられたアセビが、白い清楚な花を咲かせ、訪れる人々を魅了します。  


浄瑠璃寺のアセビが広く知られるようになった背景には、上記でも触れた堀辰雄の随筆『浄瑠璃寺の春』の影響が大きいと言えます。この作品によって、浄瑠璃寺の静謐な雰囲気とアセビの繊細な美しさが結びつけられ、多くの人々の心に刻まれました。浄瑠璃寺自体、平安時代後期に創建された古刹であり、阿弥陀如来坐像を安置する本堂、三重塔、そして池を中心とした浄土式庭園(特別名勝・史跡)など、多くの文化財を有する歴史的な場所です。  


このように、浄瑠璃寺のアセビは、単に美しい自然景観の一部であるだけでなく、堀辰雄の文学作品というフィルターを通して語られることで、特別な文化的な意味を纏っています。歴史ある寺院の醸し出す雰囲気、文学作品が描く繊細な情感、そしてアセビそのものが持つ美しさが一体となり、訪れる人々に深い感銘を与える文化的景観を形成しているのです。


浄瑠璃寺
浄瑠璃寺


霊山(三重県伊賀市・滋賀県甲賀市):天然記念物の群生地


三重県伊賀市と滋賀県甲賀市にまたがる霊山の山頂付近には、アセビとイヌツゲ(モチノキ科の常緑低木)の大規模な群生地が存在し、学術的にも貴重な自然環境として、三重県の天然記念物に指定されています。  


この群生地には、アセビが約300株、イヌツゲが約100株も自生しており、共に白い小さな花を咲かせます。これらの樹木が密生して林を形成し、林床には他の植物がほとんど見られない独特の景観を作り出しています。この貴重な自然が手つかずのまま残されてきた背景には、この地がかつて霊山寺の境内地であり、信仰の対象として保護されてきたという歴史があります。  


霊山寺自体も、幹から葉が出る珍しい「オハツキイチョウ」(県指定天然記念物)や、登山道沿いに並ぶ石仏群など、見どころの多い古刹です。周辺は登山コースとしても整備されており、四季折々の自然を楽しむハイカーに親しまれています。  


霊山のアセビ群生地は、自然保護の観点から価値が高いだけでなく、古くからの信仰の場である霊山寺と深く結びつくことで、文化的な意味合いも併せ持っています。信仰が結果として豊かな自然を守り育ててきたという事実は、日本における自然と文化、信仰の密接な関係性を物語る好例と言えるでしょう。




天城山(静岡県伊豆市):文学の舞台と自然景観


静岡県の伊豆半島中央部にそびえる天城山(あまぎさん)もまた、アセビの大群生地として知られています。特に4月頃には、山肌をアセビの白い花が彩ります。  


天城山は、特定のピークを指すのではなく、伊豆半島の最高峰である万三郎岳や万二郎岳などを含む連山の総称です。日本百名山にも選定されており、ブナやヒメシャラなどの原生林が広がる豊かな自然環境を誇ります。また、アセビだけでなく、伊豆半島の固有種であるアマギシャクナゲが美しく咲くことでも有名です。  


そして、天城山は、川端康成の『伊豆の踊子』や井上靖の『しろばんば』など、多くの文学作品の舞台として登場し、日本の文学史と深く結びついています。川端康成が「天城越えこそは伊豆旅情である」と記したように、天城の深い森や峠越えの道は、多くの人々にとって「伊豆」という土地のイメージを象徴するものとなっています。  


天城山のアセビは、この豊かで時に厳しい自然の一部として存在し、同時に、文学作品によって紡ぎ出された「伊豆の旅情」という文化的なイメージを纏っています。アセビの群生が織りなす景観は、天城山の自然の奥深さと、文学が人々の心に描き出す情景の両方を体現していると言えるでしょう。




天城連山
天城連山



さいごに


本稿で考察してきたように、アセビは、その清楚な「美しさ」と内に秘めた「毒性」という、際立った二面性を核として、日本の文化の中で実に多層的で豊かな意味を付与されてきた植物です。


その文化的な重要性は、時代や分野を超えて確認できます。『万葉集』においては、その美しさが賞賛され、人々の喜びや悲しみ、恋心といった情念を託す対象として情熱的に詠まれました。しかし、平安時代に入ると、毒性への意識や美意識の変化からか、文学の表舞台からは一時姿を消します。その後、俳句の世界では春の季語として復活し、近現代文学においては堀辰雄の作品に見られるように、人間の内面や時間、文化を象徴する存在として深く描かれました。さらに、華道や茶道といった伝統芸術の世界では、その造形美や季節感が評価され、生活の中では毒性を利用した民間療法や害虫駆除が行われる一方、常緑性から生命力の象徴と見なされたり、近年では風水的な縁起物として解釈されたりもしています。また、浄瑠璃寺、霊山、天城山といった特定の地域においては、文学や信仰、自然景観と結びつき、単なる植物を超えた文化的なアイコンとしての地位を確立しています。


アセビがこれほどまでに多様な形で受容され、語られてきた根底には、やはりその「毒」と「美」の共存という、強烈な個性が存在します。この対比は、単なる植物の特性に留まらず、自然が内包する畏ろしさと恵み、あるいは人生や世界における光と影、危険と魅力といった、より普遍的で根源的なテーマを人々に想起させる力を持っていたのではないでしょうか。だからこそ、アセビは時代や文化の変遷の中で、常に人々の関心を引きつけ、日本人の自然観や美意識、生活文化を映し出す鏡のような存在として、独自の地位を築いてきたと言えるでしょう。


今後の課題としては、特に美術分野における具体的な作例のさらなる発掘や、各地に残る詳細な伝承・俗信、地域ごとの利用法の収集などが挙げられます。これらの研究が進むことで、アセビが持つ文化的な側面は、さらに豊かに、そして深く解き明かされていくことが期待されます。



馬酔木の花
馬酔木の花




参考






北海道教育大学学術リポジトリ - https://hokkyodai.repo.nii.ac.jp/record/555/files/9-2-A-02.pdf



bottom of page