top of page

一光齋芳盛が描いた『艸木畫譜』の世界:江戸の自然観と美意識が息づく植物画譜

  • 執筆者の写真:  JBC
    JBC
  • 6月24日
  • 読了時間: 13分
一光齋芳盛『艸木畫譜』
艸木畫譜

日本の四季が織りなす繊細な美、そして一輪の花に宿る生命の神秘に、心を奪われることは少なくありません。古来より、日本人は自然の中に普遍的な美を見出し、それを生活や芸術に取り入れてきました。花卉・園芸文化もまた、その豊かな感性の結晶であり、私たちの生活に彩りを与え続けています。

本記事では、江戸時代末期から明治初期にかけて活躍した浮世絵師、一光齋芳盛(いっこうさい よしもり)が手掛けた植物画譜『艸木畫譜』に光を当てます。この画譜は、単なる植物図鑑の枠を超え、当時の日本人の自然観、美意識、そして知的好奇心がいかに深遠であったかを現代に伝える貴重な「窓」の役割を果たします。



1. 『艸木畫譜』の概要:植物の生命を写し取った芸術と実用の融合


『艸木畫譜』は、一光齋芳盛によって文久3年(1863)に刊行された、植物の描写に特化した画譜です 。この画譜は、序文によって責任表示がなされており、正式な出版物であったことがうかがえます 。全20丁(約40ページ)からなる小冊子形式で、大きさは18.0×12.0cmと、手に取りやすいサイズ感が特徴です 。特に注目すべきは、美しい「色刷り」の挿絵が施されている点です。   


描かれている植物は多岐にわたり、国立国会図書館デジタルコレクションのリストからは、日本の四季を彩る様々な草木が確認できます。具体的には、蘭、竹、梅、菊といった東洋の伝統的な「四君子」をはじめ、椿、福寿草、松、菫、たんぽぽ、菜の花、桜草、八重桜、八重桃、山桜、海棠、山吹、藤、冨貴草、躑躅、映山紅、杜鵑花などが収録されています。   


『艸木畫譜』が18.0×12.0cmという小ぶりなサイズで20丁という構成であることは、単なる鑑賞用にとどまらない、より実用的な目的があったことを示唆します。このサイズは、当時の人々が気軽に持ち運び、庭園や野外で植物を観察する際の「携帯図鑑」や、絵を描く際の「絵手本」として活用することを意図していた可能性が高いと考えられます。また、「色刷り」であることは、植物の色彩を忠実に再現し、視覚的な魅力を高めることで、鑑賞と学習の両面を追求したことを示しています。これは、当時の園芸愛好家や絵師が、単に植物を眺めるだけでなく、その形態や色彩を深く理解し、自らも表現しようとする知的好奇心と実践的なニーズが高まっていたことを物語っています。この画譜の形態は、知識の普及と美の享受が一体となった、江戸時代ならではの文化的な営みを反映していると言えるでしょう。

『艸木畫譜』は、「絵手本」として分類されており 、当時の絵師や学習者にとって、植物の描写技術を学ぶための貴重な手本としての役割を担っていました。同時に、植物の形態、色彩、生態が詳細かつ写実的に描かれており 、植物図鑑的な機能も果たしていたと考えられます。歌川芳盛の作品は「精緻であると資料としても評価されています」 とあり、その描写の正確性が学術的価値も持つことを裏付けています。   


『艸木畫譜』が「絵手本」であるという事実は、単なる「画譜」という言葉が持つ鑑賞的意味合いを超えた、教育的・技術的側面を強調します。江戸時代の浮世絵師たちが中国の画譜を絵手本として利用していたという背景 を考慮すると、芳盛の『艸木畫譜』もまた、伝統的な絵画技法や写生の精神を継承し、それを次世代に伝えるための媒体として制作されたと推測できます。これは、単に美しい絵を描くことに留まらず、植物を正確に捉え、その本質を表現する技術の普及を目指した、実用的な側面が強かったことを示唆しています。この画譜は、当時の日本の花卉・園芸文化が、単なる鑑賞趣味に終わらず、知識の体系化、技術の継承、そして芸術表現の深化へと繋がる、多角的な広がりを持っていたことの証左であり、現代のボタニカルアートや植物画の源流の一つとして位置づけられるでしょう。   



2. 歴史と背景:激動の時代に花開いた園芸文化と『艸木畫譜』



2.1. 一光齋芳盛の生涯と活躍時期


一光齋芳盛、本名・歌川芳盛(初代)は、天保元年(1830)に生まれ、明治18年(1885)に56歳で没しました。芳盛は、浮世絵の大家である歌川国芳の門人であり 、武者絵、時局絵、花鳥画など幅広いジャンルを手掛けました。特に、社会情勢を風刺した合戦絵や、横浜を舞台とした外国人描写の「横浜絵」、そして輸出向けの花鳥画でも知られています。   


芳盛が武者絵や時局絵といった時事性の高いジャンルで活躍した一方で、花鳥画や輸出向けの絵も手掛けていたという事実は、彼の画業の多様性を示しています。この多様性は、芳盛が当時の社会のニーズや市場の変化に敏感に対応できる絵師であったことを示唆します。特に「輸出向けの花鳥画」における「過度に華美な色彩」 という特徴は、『艸木畫譜』の「色刷り」 にも通じる、視覚的な魅力を追求する姿勢が背景にあったと考えられます。これは、『艸木畫譜』が単なる記録に留まらず、鑑賞性を強く意識した作品であったことを補強します。芳盛の作品群は、幕末から明治という激動期において、浮世絵師がいかに社会の変化に対応し、新たな表現領域を開拓していったかを示す好例であり、『艸木畫譜』もその一環として、当時の知的好奇心と美意識の融合を体現していると言えます。芳盛の多才な画業は、当時の浮世絵界の活気と、芸術家が社会の様々な需要に応えようとした柔軟性を示唆しています。   



2.2. 『艸木畫譜』が描かれた時代背景:江戸時代後期の園芸ブームと植物図譜の潮流


『艸木畫譜』が刊行された文久3年(1863)は、江戸時代末期にあたります。この時期は、庶民の間で園芸が空前のブームとなり、朝顔、菊、椿などの品種改良が盛んに行われ、専門の園芸書や図譜が数多く出版された時代でした。当時の植物図譜は、中国から伝わった「本草学」の影響を受け、植物学的視点からその姿形を正確に捉え描写する「写生」の精神が重視されました。近衛家凞の『花木真寫』(17世紀後半-18世紀前半)や、飯沼慾斎の『草木図説』(安政3年/1856~文久2年/1862)など、科学的かつ精密な植物図鑑が制作されていました。   


『艸木畫譜』の刊行時期(文久3年/1863)が、飯沼慾斎の『草木図説』(安政3年/1856~文久2年/1862)の刊行とほぼ同時期であることは、単なる偶然ではありません。これは、西洋の植物分類学が導入され、科学的な「写生」が盛んになる中で、浮世絵師のような伝統的な絵師もまた、その精密な描写技術を活かして植物画譜の制作に携わっていたことを示唆します。つまり、『艸木畫譜』は、科学的な探求と伝統的な美意識が交錯する、幕末期の知のダイナミズムを象徴する作品と言えるでしょう。この時代、植物図譜は単なる学術資料に留まらず、園芸愛好家や一般庶民が植物の知識を深め、その美しさを鑑賞するための「教養と娯楽」のツールとしても機能していました。『艸木畫譜』も、その潮流の中で、芳盛独自の芸術性と写生眼をもって、当時の人々の植物への関心に応えた作品であったと考えられます。これは、現代のボタニカルアートが持つ多面性にも通じる、普遍的な価値を示唆しています。



2.3. 表1:一光齋芳盛と『艸木畫譜』の基本情報

項目

データ

作者名

一光齋芳盛(歌川芳盛 初代)

生没年

天保元年(1830年)~明治18年(1885年)10月5日    

別号

一光斎、光斎、酒盛、さくら坊、桜ん坊、三木光斎など    

師事した絵師

歌川国芳    

画譜名

『艸木畫譜』    

刊行年

文久3年(1863年)序    

内容概要

蘭、竹、梅、菊などの「四君子」を含む、日本の四季を彩る様々な草木を精密に描写した画譜。    

特徴

全20丁、18.0×12.0cmの小冊子形式、色刷りの挿絵、絵手本としての機能も持つ。   



3. 文化的意義と哲学:自然への深い眼差しと「写生」の精神



3.1. 自然への敬意と鋭い観察眼


『艸木畫譜』に描かれた植物たちは、単なる記録写真ではなく、芳盛が自然界の植物に対して抱いていた深い敬意と、その生命を細部まで捉えようとする鋭い観察眼の表れです。これは、日本の伝統的な自然観、すなわち自然と共生し、その中に美を見出す思想と深く結びついています。植物の成長、開花、そして枯れていくまでの移ろいを慈しむ心は、古くから日本文化の根底に流れるものです。   


『艸木畫譜』に「四君子」(蘭、竹、梅、菊)が描かれていること は、単なる植物の羅列ではない、深い文化的・哲学的な意図を示唆します。四君子は、中国文化に由来し、日本では特に文人画の世界で、逆境に耐え、清らかに生きる君子の高潔な精神性を象徴するモチーフとして重んじられてきました。芳盛がこれらの植物を選んで描いたことは、芳盛が単なる写実を超えて、植物に宿る精神性や、それを通じて表現される普遍的な美徳を捉えようとした証拠です。これは、当時の園芸文化が、単なる鑑賞や栽培に留まらず、精神的な修養や教養の一部として捉えられていたことを示唆します。『艸木畫譜』は、植物の形態を正確に描写しつつも、その背後にある象徴的な意味や、日本人が自然に抱く「もののあわれ」や「わび・さび」といった美意識を視覚的に表現しようとした、芸術と哲学の融合点にある作品と言えるでしょう。   



3.2. 「写生」の精神と美意識の表現


植物をありのままに描く「写生」の精神は、対象の本質を捉え、それを忠実に再現しようとする日本美術の重要な哲学の一つです 。芳盛の『艸木畫譜』もまた、この精神が貫かれており、その精密な描写は資料としても高く評価されています 。しかし、単なる写実にとどまらず、植物の持つ繊細さ、力強さ、季節ごとの移ろいといった美しさを、芳盛独自の感性で表現しています 。特に、彼が輸出向けの花鳥画で「過度に華美な色彩」 を用いたとされることから、『艸木畫譜』においても、単調な写実ではなく、視覚的な魅力と芸術性が追求されていたと推測されます。   


浮世絵師である芳盛の「写生」は、本草学者のそれとは異なる側面を持っていました。本草学の植物図譜が科学的正確性を最優先したのに対し 、浮世絵師は「絵手本」としての機能や鑑賞性を意識し、時にはデフォルメや色彩の強調を行うこともありました 。芳盛の『艸木畫譜』における「写生」は、単なる客観的描写に留まらず、浮世絵特有の装飾性や表現力を加味した、独自の「写生的表現」であったと考えられます。これにより、画譜はより多くの人々に親しまれ、植物への関心を高める役割を果たしました。彼の師である歌川国芳もまた、写生や写実の表現を追求しており 、芳盛の作品はその系譜に連なるものと言えます。これは、江戸時代の日本において、科学的知識と芸術的表現が分断されることなく、互いに影響し合いながら発展していたことを示しています。芳盛の作品は、その時代の「知」と「美」の融合を体現する貴重な事例であり、現代のボタニカルアートが持つ二面性(科学性と芸術性)のルーツを探る上でも示唆に富んでいます。   



3.3. 知識の伝達と普及、そして伝統の継承と革新


『艸木畫譜』は、当時の植物に関する知識を視覚的に分かりやすく伝える役割を果たし、園芸文化の発展に貢献しました 。学術的な側面と芸術的な側面を兼ね備えた、まさに「知」と「美」の融合です。また、この画譜は、既存の植物画の伝統を踏まえつつも、浮世絵師である芳盛独自の表現や技術を取り入れることで、植物画の新たな可能性を切り開いた作品であると評価できます 。   


複数の資料が、江戸時代の植物図譜が「日本の自然観や美意識の本質を再認識させる『窓』の役割を果たす」 と強調しています。『艸木畫譜』もまた、この「窓」としての役割を担っていました。それは、当時の人々が植物を通じて季節の移ろいや生命の循環を感じ取り、自然との調和を重んじる精神を育むための視覚的な手助けとなったからです。特に、庶民の間で園芸が流行した時代において、このような画譜は、専門的な知識を持たない人々にも植物の多様性と美しさを伝え、文化的な豊かさを享受させる上で重要な役割を果たしました。『艸木畫譜』は、単なる過去の遺産ではなく、現代を生きる私たちにとっても、日本の豊かな花卉・園芸文化の歴史を今に伝え、自然への敬意を育むインスピレーションを与え続ける「生きたメッセージ」を宿していると言えるでしょう。それは、時代を超えて人々の心を惹きつけ、自然とのつながりを再認識させる普遍的な力を秘めています。   



3.4. 表2:江戸時代後期の主要な植物図譜と『艸木畫譜』

図譜名

作者

制作年代

主な特徴

文化的意義/役割

『花木真寫』    


近衛家凞

17世紀後半~18世紀前半(1667-1736年活躍期)

日本初の本格的な植物図譜の一つ、125図、正確な描写。

本草学の発展、科学的視点の嚆矢、知的好奇心の表れ。

『梅園草木花譜』    


毛利梅園

文政8年(1825年)序

江戸時代屈指の規模、四季に分類された豊富な植物種。

当時の園芸ブームを反映、広範な植物知識の集積と普及。

『草木図説』    


飯沼慾斎

安政3年(1856年)~文久2年(1862年)刊

西洋の分類体系(リンネ)導入、1200種以上収録、観察に基づいた写生図と解説。

近代植物学の礎、科学的アプローチの深化、学術的知識の体系化。

『新渡花葉図譜』    


渡辺又日菴

天保末年(1840頃)~明治3年(1870年)

日本に新しく渡来した珍しい植物の精緻な描写、色彩豊か、渡来年や導入経路の注記。

幕末期の海外情報流入の具体的な証拠、科学性と芸術性の融合、知的好奇心と写実表現の融合。

『艸木畫譜』    


一光齋芳盛

文久3年(1863年)序

20丁、18.0×12.0cmの小冊子形式、色刷り、四君子を含む多様な植物、絵手本としての機能。

浮世絵師による写生画、鑑賞性と実用性の融合、園芸文化の普及、伝統的な美意識と科学的探求の交錯、植物の生命力と美の表現。

この表は、『艸木畫譜』を同時代の他の主要な植物図譜と比較することで、その独自性や位置づけをより明確に示します。この比較を通じて、『艸木畫譜』が単なる科学的な図鑑とは異なり、浮世絵師の視点から描かれた「絵手本」としての芸術的・教育的価値、そして当時の園芸愛好家の鑑賞ニーズに応えた作品であったことが際立ちます。特に、科学的な分類を重視した『草木図説』と同時期に刊行されたことは、当時の多様なニーズとアプローチを示し、学術と芸術がどのように共存していたかを浮き彫りにします。この表は、江戸時代後期の植物図譜が、本草学の発展、園芸ブーム、そして西洋からの影響といった複数の要因が絡み合いながら多様に発展したことを示し、読者に日本の花卉・園芸文化の多面性を深く理解させる助けとなります。これにより、『艸木畫譜』が単発の作品ではなく、当時の知的・文化的潮流の中で生まれた必然的な存在であったことが伝わります。



結論


一光齋芳盛の『艸木畫譜』は、幕末という激動の時代に、日本の豊かな花卉・園芸文化の中で生まれた、芸術性と実用性、そして深い哲学が融合した稀有な作品です。この画譜は、単に植物の姿を写し取るだけでなく、その生命の息吹、季節の移ろい、そして自然に宿る普遍的な美を表現しようとした、芳盛の鋭い感性と「写生」の精神が凝縮されています。

『艸木畫譜』が示す「生けるもの」への敬意や、自然との調和を重んじる美意識は、現代の私たちにとっても、忙しい日常の中で忘れがちな大切な価値を再認識させてくれます。それは、庭園や一輪の花に込められた無限の宇宙を読み解く、日本文化の奥深さそのものです。『艸木畫譜』の世界に触れることは、単なる歴史の探訪に留まりません。この画譜が示す自然への深い眼差しや美意識を、現代の暮らしの中でどのように活かし、未来へと繋いでいくか。私たち一人ひとりが、日本の花卉・園芸文化の新たな担い手として、その本質と魅力を再発見する旅を続けていくことこそが、この貴重な文化遺産を未来に活かす道となるでしょう。



一光齋芳盛 筆『艸木畫譜』,保永堂,文久3 [1863] 序. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2536872







参考/引用










bottom of page